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【世界遺産】富岡製糸場訪問ログ

1学期第3回の「軽工業の推移と労働者のスキル」の授業で取り扱われた富岡製糸場を訪問してまいりました!
授業では明治政府は製糸業を日本の主力産業と見定めて富岡製糸場を稼働させたことや生糸は多くの若い女性の悲劇の上に生産されつづけたことが紹介されました。
今回はそれらの点などに関して、実際に訪れたからこそ分かることや違う視点で感じたことを書き記したいと思います。私自身自転車で行くことができる範囲に住んでいながら、正規ルートで入場するのは初めてだったので非常に新鮮で勉強になりました!

国宝 西置繭所
国宝 繰糸所
300釜の繰糸器とトラス構造の
大空間が壮観です。

設立の背景

まず、簡単に富岡製糸場設立の背景についてご紹介します。
1859年、修好通商条約に基づいて横浜が開港すると諸外国との貿易が始まりました。当時のヨーロッパで微粒子病という繭を作り出すカイコガの幼虫がかかる病気が蔓延し、養蚕が壊滅状態になった結果、日本の輸出品は蚕糸類に特化していきました。しかし、当時の日本はすべて手作業で生糸を生産していたため、良質な生糸を大量生産出来ず、粗悪品が横行して問題化しました。この問題が改善されないまま明治維新を迎えた日本に、諸外国から強い不満の声があがりました。この問題を解決する目的で政府資本による官営模範器械製糸場の設立が決定されました。

「何故富岡に?」と思った方がいるのではと思います。その理由は大きく以下の5つです。


①富岡周辺は昔から養蚕が盛んで、生糸の原料である繭が確保できる。

②工場施設に必要な広い土地が比較的確保できる。

③製糸に必要な良質な水が既存の用水で確保できる。

④燃料の石炭が周辺から採れる。

⑤外国人指導の工場建設に対して、地元住民の同意が得られた。


建設当時の富岡製糸場周辺地図
(今昔マップ on the webより)

①に関しては今昔マップon the webからも確認することができます。真ん中の工場マークが富岡製糸場です。周辺に桑畑が広がるのが見てとれます。

活躍した工女たち

授業でも工女に関して取り扱われました。また、小中学校でも教えられたのではないでしょうか?
そして、いずれでも工女は教育水準が低く、低廉な賃金で、長時間過酷な環境で労働させられたと教わったのではないでしょうか?(違ったらごめんなさい)
それは半分正解で、半分間違いです。その理由は以下で説明します。

工女募集が始まったのは1872年です。当時、「フランス人(製糸場の指導者ら)が工女の生き血を採って飲む」という噂が流れて思うように進みませんでした。しかし、政府が何度も「告諭書」を何度も布達するとともに、初代場長の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう・授業でも渋沢栄一の従兄弟として紹介)が娘の勇(ゆう)を率先して入場させた結果、工女は32都道府県から集まりました。名家出身の女性も多かったようです。技術習得後は地元で技術者として活躍し、器械製糸技術の伝播に貢献しました。

尾高勇(14歳で入場)
富岡製糸場第一工女
横田英(16歳で入場)

横田英は長野県松代市出身で、富岡製糸場で1873年4月から1年3か月ほど学び、帰郷後は西条村製糸場で指導にあたりました。50歳の頃に書いた回顧録が「富岡日記」と呼ばれ現在に伝わっています。


富岡製糸場に到着した時の驚き

「一同送りの人々に付添われまして
 富岡製糸場の御門前にまいりましたときは、
 実に夢かと思います程驚きました。
 生れまして煉瓦造りの建物など、
 まれに錦絵位で見るばかり、
 それを目前に見ますることでありますから、
 無理もなき事かと存じます。」
               ※富岡日記より

一等工女になったときの涙

「何と申しましても国元に製糸工場が建ちます事になっておりますから、その目的なしにおる人々とは違います。
その中に一等工女になる人があると申し大評判でありまして、西洋人が手帳をもって中廻りの書生や工女と色々話しておりますからなかなか心配でなりません。
そのうちある夜、取締の鈴木さんへ時び出されまして、段々申し付けます。私共は実に心配で立ったり座ったり致していますとその内に呼び出されました。横田英一等工女申付け候事と申されました時は、嬉しさがこみあげまして涙がこぼれました。......」
              ※赤煉瓦物語より

富岡日記(1907 横田英)

簡単に要約すると一つ目は、自分の職場の華やかさへの驚き、二つ目は、工女の中で一番地位の高い一等工女に任命され嬉しい!といった内容でしょうか。
このように官営初期の工女たちは高い志とやる気をもって、生き生きと働いていたことが様々なものから知ることができます。決して多くの方々が想像するように嫌々働いていた訳ではないのです!

労働環境

製糸工場で働く人の約8割が女性でした。当初から部屋数が多く用意されたのは女子寮でした。後になると既婚の男性職員と家族が住む社宅群が整備されました。

給料は高いレベルに設定され、寄宿生活を原則とし、寄宿代、食事代は自己負担なしでした。入浴も毎晩できました。構内には病院が建てられ、フランス人の医師が治療を行い、治療費・薬代・入院費もすべて自己負担なしでした。官営工場として創業した当時の就業時間は1日8時間ほどでした。今の労働基準法と変わりませんね!また、毎週日曜日が休みでした。これは、今よりも厳しいでしょうか笑。しかし、当時の社会からみると非常に厚遇で恵まれた労働環境であったと言えます。これは、工女が質の良い糸を取るためには労働は週6日としたブリュナ(初代首長)の運営方針が反映されています。また、彼が日曜日を安息日とするキリスト教徒であったことも影響していると言われています。

創業当時の労働条件
寄宿舎
殆どの工女が住み込みで働いていた
女工館は工女の娯楽の場だった

官営期から仕事の後や休みの日を利用して工女が基礎的教養や裁縫技術の習得、また、生け花などの習い事ができる機会が設けられていました。これは、製糸場の設立年と同じ年に「学制」が制定されたからです。
1877年に製糸業が盛んな群馬県では女性労働者への補習教育への重要性が認識され、「工女余暇学校」が設置されました。これに則り、1878年からは夜学が設置されました。

官営時代工女のほとんどは各地から集まった10〜20代の女性でした。彼女らは「工女寄宿所規則」という規則と年配の女性の監督のもとに秩序だった集団生活を送っていました。この規則は非常に厳しいものでしたが、彼女らの安全を守るためのものであり、工女は非常に大切に扱われていたということが分かります。

このように、官営時代の工女らが悲劇の歴史というのは全くの間違いなのです。富岡製糸場は非常に恵まれた環境で多くの女性の憧れの職場でありました。また、工女たち全員に教育を受ける機会が与えられ、彼女らの知識水準は高かったそうです。

では、今まで教わってきたことは、私が半分正解と述べた意味は、何だったのでしょうか?

ここで注目して欲しいのは、私が頑なに「官営時代の工女」と限定してきた点です。皆さんが知る悲劇の工女らは、富岡製糸場が民営化して三井、そして後に原の経営になった後の工女です。

民営化後の富岡製糸場

利潤を求める民営下では、徐々に就業時間は長くなり、民営化されると最長で13時間になりました。休日は月3回に。そして遂には2回になりました。三井経営時代の1900年頃の就業時間の平均は11時間25分。原経営時代の1930年頃は12時間でした。工場法が1916年に施行され労働時間は制限される方向へと進みましたが、製糸場の長時間労働を認める内容でした。しかし、これは製糸場に限らず日本社会全体で一般的でした。これが改善されるのは、第二次世界大戦後に片倉の経営に移ってからです。

上記のように、確かに工女の労働環境は悲劇の一途を辿りました。しかし、重要なことはそれが当時の社会において例外的なものではなかったということです。では、何故多くの教科書や授業でクローズアップされるのか。それは、資本主義の黎明期の日本において激動の変化にさらされた工女らが、当時の労働状況の変化の悲惨さを良く表しているからだと私は考えます。そのため、この記事を読んでくださった方には、工女に対しての半ば強制的に幼少期から働かされて可哀想だな、という印象を捨てて頂ければ幸いです。勿論、民営化してから片倉の経営になるまでの工女は長時間働かされていましたが、その中でも官営時代のように教育は行われていました。そのため、多くの授業で習うように教育水準が低いという印象も同時に捨てて頂けると幸いです。

最後に…

私は今回の訪問で富岡製糸場の工女らへの印象が一変しました。今まで教わってきたことと今日得たことが全く相反しているからです。明治維新から1987年に富岡製糸場が操業を停止するまで、いつの時代も変革の渦中にありながら日本の製糸業、産業革命、戦後復興を支えていた富岡製糸場の工女たちは、生き生きと強く生きていたということがお伝え出来たなら嬉しく思います。

最後までお読み頂きありがとうございました。
質問・意見等お待ちしております!


参考文献

谷謙ニ「今昔マップ on the web」(https://ktgis.net/kjmapw/  , 2024年9月5日閲覧)

富岡製糸場キャプション及び展示物(2024年9月5日訪問)

注)全ての写真は私が撮影したものです。
  保存・無断転載等はお控え頂くようお願いし 
  ます。


番外編(^^)

本編には全く関係ありません。

施設の方に無理やり撮られました
お返しにその方をお撮りしました笑
渋沢栄一の妻は尾高惇忠の妹さん
ブリュナエンジン復元機
かっこいいです。

最後までお付き合い頂きありがとうございました!大人1000円、高校生・大学生は250円で入場できるので興味が湧いた方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。

↓公式ホームページ

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