![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/88097792/rectangle_large_type_2_9116d223a8296f0a0bc9bbec26bb2a99.jpeg?width=800)
ひだまりの唄 17
八月十一日
例大祭二日目の朝、外は早々に始まりの合図を上げている。
俺は今日の準備に抜かりは無い。
法被、汗を拭うタオルと魔法瓶の水筒、手の平サイズのピックケースを鞄に詰めこみ、一息ついた。
『ふぅー。後は学校にあるギターとドラムセットを持っていくだけだ』
ベッドに放っていたスマートフォンを取って、俺はある名前を画面上で探した。
渡邊 歩弓その人だ。
『あ、もしもし?歩弓ちゃん?』
『あ、麻利央くん?今日ってどうすればいい?』
『んーと、五時からライヴ開始だから、お昼の二時迄に学校前に来てくれれば大丈夫』
『分かったよ!…でもサップ、凄い大きい車をチャーターしたみたい…』
『え?』
『楽しみにしててね!それじゃあ一時にね!』
『あ、ちょっ…!』
そう言って電話をすぐに切られてしまった。
『どういう事だよ…。あ、そうだ』
俺が時計を見ると十時を回っていた。
そう言えば、今日から巡幸がある。ちょっと外に出てみようと、俺はバッグを手に取って階段を下りると、母さんと双子の姉弟もまた、外へと出ようとしていた。
『あら、麻利央。あんたも行く?』
『『巡幸!』』
『あぁ、今行こうとしてたんだ。ついでだから皆で行こう。父さんは?』
『父さんは昨日のお祭りで疲れてるから、居間でテレビ見てるって』
『そっか…』
そう言って玄関から外へと出る。
坂道の公道が封鎖されていて、警備員がずらりと並んでいる。
道路の真ん中を練り歩けるのに、少し憧れを持っていた。
母さんと双子の姉弟も、歩を進めていく。
でも、ちょっと待てよ?巡幸は確か昼の十二時半から。
この時間に出るのが凄く早く感じた俺は、母さんに一つ訊いてみた。
『あれ?そう言えば母さん、巡幸って何時からだっけ?』
すると、母さんは振り向き様、腕時計を見て答えた。
『お昼の十二時半からよ?』
『それじゃあ、まだやってないんじゃない?』
『何言ってるの。この子達も出るから、早く行かなきゃならないのよ』
そんな事、初めて知った。
『それで付いてきてるのかと思った。そうではないの?』
『いや、初めて知った』と、ボソリと呟いて、頭を掻いた。
金刀比羅神社に着くと、境内は個々の催しに着替えている人でごった返していた。
軽トラックには子供の担ぎ御輿が乗っていた。
それは、純金箔で覆われていて、屋根の縁切りは赤色に染まっている。
それはとても神々しく、端から見ても子供がこれを担げる様には到底思えなかった。
『これ、担ぐの?』
『そう。さぁ、着替えるわよ。上脱いで、これ羽織って』
『『うん』』
『子供御輿も大変だ…』
『覚えてる?あんたも御輿、担いだ事あるのよ?…あ、ここ引っ掛かってる』
『何もここで着替えなくても…』
『いちいち帰る方が大変よ』
『荷物はどうするんだよ』
『途中でお父さんに頼むわよ。さ、出来た』
そう言って姉弟に股越しと腹掛をこさえて、その上に法被を羽織っている。
懐かしくもその姿に、二人が大きくなった事を少しだけ実感した。
そう思ってる矢先だった。
『あれ?!マリーじゃん!おはよう』
巫女装束に身を包んだマリア先輩が俺の前に現れた。
『あれ、マリア先輩!?巡幸、出るんですか?』
『うん、私だけじゃないけどね。あ、そうだ!マリーだけ特別だよ?着いてきて!』
そう言ってマリア先輩は俺の手を握った。
『何処に向かうんですか?!』
『いいから!』
カラコロと、マリア先輩の下駄履きが陽気に音を鳴らせて、俺を境内奥まで誘った。
『見て、これ』
俺は目を丸くした。
そこには、ねむちゃんが巫女装束に身を纏わせて、後ろを向いていた。
蒼く透き通った髮に鈴の付いた髪飾りを結わせて、白衣と紅の緋袴が、単色なのにも関わらず、とても映え映えしく、俺の瞳に写っていた。
『ねむちゃん、こっち向いてみて』
すると、徐に此方を振り向いたねむちゃんは、ピンク色のチークを頬に塗って、透明なリップグロスを唇につけていた。
そんな顔で、ねむちゃんはハッとした表情を俺に浮かべ、手を口にあてがった。
『ひ…日野くん!』
『ね…ねむちゃん!』
すると、マリア先輩はいたずらな笑顔を浮かべて、俺に言った。
『どう?似合うでしょ?』
『…あ、はい…。似合いますけど、でも何でねむちゃんが…?』と、しどろもどろになりながらマリア先輩を向いた。
『後一人だけ足りなくて、私も出る条件付きでねむちゃんに強引に誘っちゃったのよ』
『あ、でも、折角の機会だったから…。日野くん、似合う…かな?』
俺は唐突なるその御姿に、何も言葉が出ず、ただただ頷いた。
『ありがとう…』と、ねむちゃんも照れているのだろうか。俯きながらそう言った。
『まだあたし達が出る事、誰にも言ってないのよ?マリーが偶然此処に居合わせたから、特別なんだから』
『…あ、ありがとうございます…』
『あ!それよりコンサート、今日でしょ?頑張ってね!』
『…あ、はい。頑張ります…』
『ねむちゃん、行こ?』
『はい』
そう言ってマリア先輩はねむちゃんの手を引っ張っていった。
その時、ねむちゃんが振り向いて『今日、頑張ろうね』と、いいながら弱い笑顔で、俺に、小さく手を振った。
俺もそれに小さく頷くと、ねむちゃんとマリア先輩は社殿の方へとカラコロと立ち去って行った
その後ろ姿を、俺は二人が消えいくまで、思わずも見送っていた。
正午、この街を一望できる緑町の坂道は、あっと言う間に人でごった返していた。
黒く塗られたスチールの街頭の柱同士が、幅の小さい紅白幕で繋がって、街の賑わいを一層引き立てている。
俺はマリア先輩とねむちゃんを見送った後にYと山木に電話をした。
『今日の行列、見逃したら絶対後悔するぞ!』
そう言うと、二人はすぐに飛び付いた。
その勢いで、葵ちゃんにも電話を掛けた。
だが、何コールと電話をしても中々出ない。
俺は首を傾げて、Yと山木と合流を図る事にした。
俺とYと山木の飛び付いた先は、歩道の列の一番前。スマートフォンのカメラ機能を向けて、待機をしていた。
いつでもマリア先輩とねむちゃん、ついでに双子の姉弟も撮る準備は整っていた。
いつでも来いと言わんばかりに、俺もYも山木も、スマートフォンのレンズを一途に向けていた。
『てか、後何分だ?』とYは時計と道路を交互に見た
『後三十分。なぁー…ここに来るの早すぎやしないか?』と、山木は欠伸を大きくかまして言った。
『いや、このくらい早くなきゃ、一番前なんて取れないよ』
『そうだぞ山木!我慢しろ!我慢!』
山木は『ってか、スマートフォンって言うのがショボい』と、その持ち前の高い身長から俺達を見下すように言った。
『あん?これ以外、無いだろ。何も』
すると腰に付けているポーチからデジタルカメラを一機、取り出した。
『有るんだな』と、得意気になって俺に見せびらかした。
『は?!山木!ずるいぞ!ってか、早く出せよ!勿体振りやがってぇ!』
そんなもの用意していると言う事は、一番楽しみにしていたのは山木なのでは無いかと、そう思った。
『そいやー!』と、遠くから咆哮が上がっている。それに向けて俺達は自然と目を移した。
竹傘を頭に被り、『金』と言う字が、大きく丸に囲まれて、印旗を靡かせながら、先頭の奴さんが、身体を大きくうねらせて、此方へと向かってくる。
その前に倣って、後方の奴さんも同じように身体をうねらせながら、公道の全体を大きく使い、前進する。
その『そいやー!』と、大きな掛け声の後ろに続くのは、金つき先導だ。
白い装束を身に纏った先導達が、金色の錫杖を上下にゆっくりと揺らせて、リンリンと鳴らし、俺達の前を通り過ぎる。
足袋の着足は、いかにもゆっくりで、足音など一切出さずに歩く。
それは、その音だけを頼りにさせて、遣い手を誘っている様にも見えた。
その鈴の音に誘われて続くのは、巫女さんの列。
その先頭にマリア先輩がいた。
『おい!あれ!』
俺はその声と同時に、Yが指す方向へと目を傾けた。
そこにはマリア先輩と、その後ろにはねむちゃんが、凛とした表情を浮かべながら、神楽鈴をリン、リン、と鳴らし、ゆっくりと歩を進めている。
その姿に、俺達は圧倒された。
『おい!カメラ!』
『任しとけ!』
そう言って山木はデジタルカメラを向けたのだが…。
『あれ、おかしいな』
『何してるんだよ!』
『充電、切れたみたいだ!』
『おいー!マジで?!ふざけるなよぉ!』
そんなやり取りを横目にもやらず、俺は徐にスマートフォンを取り出して、カメラ機能を起動させた。
そのスマートフォンを横に向けて、パシャリとシャッターが鳴った。
ねむちゃんは俯いたまま顔を上げず、そのままリン、リン、と神楽鈴を鳴らしている。
『…撮った?』と、Yが訊いた。
俺は黙って頷いた。
緑町の御宿所にて、その行列は止まるのだが、マリア先輩のお陰でねむちゃんだけ一人、此方まで引っ張り出してくれた。
『お疲れ様!ねむちゃん!可愛かったぁー!』
Yがそう言うと、ねむちゃんは緊張が解けたように笑顔を浮かべた。
『き…緊張したよ』
俺が時計を見ると既に一時半、ここから学校迄に三十分かかる。
『あ!うわ、やべ!急いで学校戻らないと!』
『え?』
『サップのトラック!二時に学校に着くように言ってあるんだ!』
『え?!それまずいじゃん!』
俺が地団駄を踏みながらそう言うと、Yも慌てて時計を見た。
『時間ねぇーじゃん!ヤバイ!どうするよ!』
『心配ねぇよ?』
ふてぶてしくそう言った山木に、俺は伝わっていないこの臨場感を味わわせたい一心で、『何が心配無いんだよ…!この状況分かってねぇな?!』と、言った。
すると、山木は後ろに人差指を向けた。
『何だよ。手品かよ。そんな事して、一瞬で学校行けるのかよ!』と、Yも声を大きくして言った。
『いや、ここ俺んち』
『え?』
『親父に頼んで軽トラ乗せてってやるよ。なぁに、今日は祭りだ。荷台に人を乗せてたって、バレないだろう』
そんな有り難い話がすぐに出てくるとは、まるで手品でも見ている様だった。
『え、あ、ありがとう。それじゃあ、頼む』
『おう』と、山木は家に入っていった。
『なんか、ラッキーだな』
『棚からぼた餅って、有るんだな』
俺は山木の親父さんに頼んで、軽トラックの荷台に甘えるように、寄りかかった。
山木が家から出てくると『乗れよ』と、軽トラックの煽りを下げて俺とねむちゃんとYはそれに飛び乗った。
このトラックから降りたら早くも本番に差し掛かる。
トラックのエンジンがかかると、細やかに早い振動が俺の身体を伝って、小刻みに武者震いをさせた。
『いよいよだな』と、Yが言うと、巫女の姿をしたままのねむちゃんが黙って頷いた。
俺はスマートフォンを取り出して葵ちゃんに電話をした。
ニコール目で、すぐに出た。
『もしも…』と、言った直後だった。
『おそーい!!』
『…え?』
『もう二時間も部室で待ってるんだけど!』
『あれ…?部室にいたの…?』
『そうだよ!遅いなぁと思って、練習してたんだから!』
『今から迎えに行こうと思ってたんだけど…。そっか。葵ちゃん、流石だ…。今から急いで行くから、待ってて!』
『早くしてよね!』
ぷりぷりとしていた葵ちゃんは、言われずとも練習に励んでいたのに、俺は嬉しかったのか、自然と笑みが溢れた。
『…葵ちゃん。今どこにいるって?』と、Yが訊いた。
『部室だって。二時間位一人で練習してたって…』
『え?!急いで行かないと…』
山木がトラックのパワーウィンドを下げて、『それじゃあ、出発するぞ』と、此方を振り向きながら言ったのに、俺達は手を上げて合図を送った。
砂利が敷き詰められた道を上下に大きくボディーを揺らし、トラックは動き出した。
それに任せて俺達も大きく身体を揺らす。
だが、その躍動感は、ライヴをやる前の俺達には丁度良い心地だった。
学校に着くと、時間は十三時四十五分。歩弓ちゃんとの約束の十五分前に到着する事が出来た。
『それじゃあ、俺はここで』と、山木は大きな手を俺達に向けた。
『おう。それじゃあ、ありがとうな』
『うん』
軽トラックはガタガタと大きく揺らせて、帰っていく。
『それじゃあ、行こう』
俺のその一声に、二人とも頷いた。
学校の下駄箱の前で無造作に外靴を放って、部室へと足を早める。
部室の方から重低音がひしひしと俺の身体を伝ってくる。
部室の前、俺は一息置いて部室の扉を開けた。
『お待たせ!』
部室の扉を開けると、そこには俺達に背中を向けて椅子に座っている葵ちゃんが、バスドラム、ハイハットの音を止めた。
『葵ちゃん!遅くなって…』
すると、椅子に座ったまま、葵ちゃんは呟いた。
『何時間…』
『え?』
『何時間待たせるのよー!』
此方を振り向き様立ち上り、葵ちゃんはズカズカと俺に詰め寄った。
『ご…ごめん!電話しても、出なかったから…!』
『電話?!』
そう言って葵ちゃんはスマートフォンをチラリと見た。
その時にやっと気がついたのだろう。咳ばらいをして、葵ちゃんが呟いた。
『ゴホン…!…うん。練習してたから、気が付かなかったけど、今度からは、気を付けてよね…』
俺はそれに一つ胸を撫で下ろした。
すると、Yが俺に耳元でポツリと囁いた。
『…ひえー。本気になっている葵ちゃん、マリア先輩と似てる怖さ持ってんな…。マリア先輩に怒られた時の事、思い出した…』
そうだった。確か春の部局紹介の時だ。
その時も本番前の練習を怠ってしまって、マリア先輩に激怒をされた。
その事を思い出したのか、やると決めたら一途に奮闘する姿が、どことなくマリア先輩に似ている様な、そんな気さえした。
『葵ちゃん、ゴメンね』
そう思った俺は、葵ちゃんにまた一つ、謝って、
『そして、ありがとう』
一つお礼をした。
葵ちゃんは俺のその意図に気が付かないでいるのだろう。『ん?お礼なんかいいよ。それより、本番、絶対成功しようね』と、左手に握ったドラムスティックを肩に乗せて、窓から差し込む太陽を背負いながら、そう言った。
俺はそれに固く、頷いた。
そんな時、外から大きくエンジンの音が響いていた。
それに気が付いたねむちゃんは、恐る恐ると窓辺から顔を出しながら、それを指した。
『…日野くん、あれ』
ねむちゃんの声に誘われて俺は窓を覗いた。
大きく真っ黒なトレーラーが、堂々たる佇まいで学校の前に停まる。
俺とねむちゃんはそれに固唾を飲んだ。
そこの助手席から降りたのは、紛れもない歩弓ちゃんだった。
『おーい!』と、トレーラーを背景に、此方まで向かって来る彼女が、何処かの芸能人が来たかの様な、そんな錯覚をもさせた。
『ちょっと待って!歩弓ちゃん』と、彼女を呼び止めた。
『なぁに?』と、何食わぬ顔で此方を見るのだから、やはりただ者ではない。
『これ、こんなに大きい…の?』
『そう、サップがライヴをやるんなら、それ用の大きいトレーラーが必要だって言ってたから』
俺はそれに目を丸くした。
『トレーラーのこの両扉、上に開くんだけど、このまま開いたらステージになるの。スピーカーやライトは付属で付いてるんだけど、アンプやコードは付いてないから、独自で持ってきてね』
そんな言葉、耳にも入らない。
その位に、このトラックには驚愕した。
俺が驚いている最中に、Yがひょこりと顔をだして、『スゲー…これ、青空でやる必要、無くなったなぁ…』と、驚きを露にして、目を剥いたようにそれを見ていた。
歩弓ちゃんは無邪気にもニコリと笑みを溢しながら『さ!荷物、早い所積み込んじゃお!』と、笑顔で言った。
俺達は驚き過ぎてそれ所ではない。
心から笑顔を返す事が、この時は出来なかった。
荷物を一通り積み込んで、俺達が向かう先、それは公園と言えど、隅でやる予定。…ではあったのだが、ここまで大きいトレーラーだと、そんなこじんまりとする所か、目立ってしまい落ち着かない。
目的地の公園にはたどり着いたものの、どう準備をするかまだシミュレーションを出来ないでいた。
サップは運転席から飛び降りて、いつもの黒いスーツの上を脱ぎ、半袖のYシャツとこれまた黒のゴム手袋をはめて、リモコンの『開』ボタンを押した。
トレーラーのオープンドアがゆっくりと縦に開かれる。
荷物を積み込む時、暗くてあまりよく見えていなかったからか、この時がステージと初のご対面、と言う気分だ。
ゆっくりと開ききったステージを目の当たりにすると、俺とYはお互いの顔を見合わせて、口を開けてしまった。
『スゲェー…』と心で思っているものの、中々その言葉が口から出ようとはしない。
黒い縁台の上に重々しく乗っている大きなスピーカーが両端に二台置かていて、その頭上に小さいながらに眩しいライトが何個も二列になって並べられている。
サップがライト調整を試みると、信号機の三点色を強弱出来るように施されている。
そしてサップは、中央に一本のケースを持っていって、マイクスタンドを設置している。
これは、下手なハコでやるよりもかなり設備はしっかりとしている。
『うわー!これ、凄いよ!かなり凄いよ!』
『ね!早く歌いたいな!』と、ねむちゃんと葵ちゃんはそんなステージにキャッキャと、騒いでいた。
俺はステージの準備を進めているサップに歩み寄った。
『…これ、どうしたの…?』
サップは相変わらずのサングラスに、笑顔を乗せた様な顔で俺に言った。
『これですか?全て麻利央さまと、その御友人の晴れ舞台。私の最善の力がこれ程の事になってしまいますが、尽力させて頂きました』
『いや…。十分だよ…。広すぎて、どうしたらいいか分からない位だ』と、俺はまたもステージを見回した。
『お気に召して頂いて、とても光栄で御座います』
サップは一度手を止め、俺に向かって一礼をした。
『よし、俺達も準備に入ろうぜ!サップさんだけに任せてたら、誰の為のライヴなのか、わからなくなる!』と、YはTシャツなのにも関わらず、腕を捲った。
『そうだね!やろう!』と、盛大に意気込んだ葵ちゃんはステージまで駆けていった。
『待って!私も!』とそれに続き、ねむちゃんも外用のシップを貼っている右腕を大きく振って、ステージまで駆けていった。
『巫女さんの格好してて、走りにくくないのか?…まぁいいや。マリーも、行くぞ!』と、Yは笑いながら走った。
俺も一つ頷いて、それに続いて腕を振った。
そう、今回ライヴが出きるのは市からも許可された大きな公園。
三基に囲まれたサイロの真中で、俺達は披露する。
ここで誓った、もう一人の演奏者の夢を後押しする為に。
準備も一通り整って、俺とYとねむちゃん、そして葵ちゃんも準備を進めていた。
今回は『mermaid in love』と、一応のアンコールの為、『校歌独唱』をリハーサルと言う名の練習を重ねた。
スピーカーの音量を抑えながら練習をしていても、そこから響く音響は、俺達の心髄までに届いて、とても心地がいい。
こんなに立派なステージだ。もう何曲かやりたい気持ちは山々なのだが、そこまで人が集まって来るのか、正直不安になったのは本番一時間前と、寸前の出来ごとだ。
そんな事が少しでも脳裏を掠めた時、上空は先程まで晴々としていたのにも関わらず、急に黒い雲で覆われて、俺達の晴れ舞台にも幕を閉ざされた気分が、急に襲った。
『うわー…。雨雲が出てきたよ』
Yがそう呟いた時、俺の頬にポツリと雨が一滴落ちてきた。
『…雨だ』と、俺は手の平を天に向けた。
『あれ?今日一日晴れ予報だったのに…』と、葵ちゃんは肩を落とした。
一時間前なのにも関わらず、人は誰も来ていない。
そして、ここからは二キロ程遠くで祭りのメインである、祭典区ごとの演し物が執り行われている。
そこに時間を被せた上に、そこからまた遠い位置にセッティングをしてしまったのが裏目に出てしまった。
学校では上手く行っていて、遥かに自信をつけられた筈だったが、やはり、マリア先輩から俺に変わっての一番最初の大舞台。失敗に終わりそうなのが目に見えていた。
『うーん。去年みたいに、小さい公園でやるべきだったな』と、Yがそこで言った言葉が胸に刺さった。
全て計算の上で、マリア先輩はそこを選んだのかもしれない、と。
俺の甘さが露呈された、と、言うわけだ。
そう思ったその時、遠くから歩弓ちゃんとサップがクーラーボックスを肩から下げて、走って来た。
『こんなに急に降るものかな。嫌になるよね!本当に!』と、愚痴を溢した。
『どうしたの?』と、俺が聞くと、歩弓ちゃんは不思議と訳ありげに頬笑み出した。
『ふっふっふっ。見よ!』
そう言ってサップに手を伸ばすと、サップはステージに上って、クーラーボックスを下ろした
クーラーボックスを開けると、その中からキンキンに冷えたラムネジュースのビンが氷の中に埋まっている。
『おー!』と、俺達四人は声を揃えた。
『屋台で買い占めたの。喉渇くといけないから、コンサート終わった後でも飲めるように、いっぱいあるから。いつでも飲んでいいからね!』と、歩弓ちゃんは手を伸ばして言った。
『何本あるの?』とYが訊いた。
『ざっと百本は』と、サップが言うと『いや、有りすぎだし!』と、Yは思わず突っ込んだ。
『でも、ジメジメっとしてるこんな日には、シュワシュワっとしたもの飲みたいよねぇ!いただきまーす』と、葵ちゃんは早速クーラーボックスに手を突っ込んだ。
『分かる!私も、頂きます』と、ねむちゃんも冷えたクーラーボックスに手をいれた。
『いやー、流石、分かってくれるねぇ!私も飲もう』と、歩弓ちゃんも手をいれた。
そうなったら俺も手を伸ばす他ない。
俺が手を伸ばすと、Yも、『皆飲むなら、仕方ないよな。うん』と、一つ頷きながら手を伸ばした
それに皆、クスリと笑った。
そこで一通り身体は休まったのだが、天気は次第に崩れ始める。
雨が強く振りだして、歩弓ちゃんは思わず、『うわー!こんな天気で大丈夫かな?』と、不安を漏らした。
『うん。何とか…したいね』
俺達は不安を胸に、雨が通りすぎるのをひたすら待つことにしたのだった。
雨は止まずに三十分が過ぎようとしている。
矢継早にトレーラーを打ち付ける雨音を聞いて、俺は萎えた表情を浮かべていると、隣にいたYが肩を叩いて言った。
『…ダメだ。法被を着よう』
そう言ってバッグから股引きと腹掛を取り出して、準備を整えているYに、葵ちゃんが乗じた。
『そうだね。格好だけでも晴れやかにしないと、気持ちで負けそう』
葵ちゃんもバッグから法被を取り出した。
俺もそれに続いた。
『私も…』と、ねむちゃんがバッグを取ろうとした時、『ねむちゃんはそのままでもいいんじゃないかな』と、冗談めかして言った。
ねむちゃんは驚いたようにこちらを見た。
『うん。折角だもん!そのままで行こうよ』
Yがそう言うと、葵ちゃんも大きく頷いた。
『そ…。そうかな』
『そうだよ!巫女さんの格好したボーカルなんて、斬新でカッコいいじゃん!』
『法被を纏った三人集を背中に?凄いな。なんの祭りだって、大騒ぎだよ!』
冗談でも言ってみる物だと、Yも葵ちゃんまでも賛同をしたせいか、ねむちゃんはそれに押されて、渋りながらも一つ頷いた。
『それなら、お化粧直したいな…』
そう言ったねむちゃんに『呼んだ?』と、歩弓ちゃんが前に出た。
『サップ』と、呼ばれたサップはトラックから一個のトランクケースを取り出して、それを素早く開けた。
その中には化粧ポーチなるものがズラリ。
俺達は目を丸く広げた。
『…これ、こんなに、何が入ってるの…?』
『内緒。ほら、男の子はあっちに行った行った』
歩弓ちゃんに遠ざけられ、俺とYはつまらない足取りでステージの隅に座った。
『歩弓ちゃんって何者だよ』と、Yは首を傾げながら言った。
『さぁ…。でも、俺に分かるのは凄くお金持ちって事位かな』
『それは、見たら分かるよ。…なぁ、マリー』
『何?』
『お前と歩弓ちゃんって…どういう関係なんだ?』
Yがまじまじと見つめながら、俺にそう問いかけた。
『うーん…。友達…かな』
『ふぅーん』
『なんだよ。そんな歯切れの悪い返事をして』
Yは『…そしたら、葵ちゃんは?』と、俺の顔を覗く様に訊いた。
『…Yが思ってるような関係じゃないよ』
そう言うとまたも『ふぅーん』と、歯切れの悪い返事をした。
『出来たぁ』と、歩弓ちゃんが声を出した。
お色直しが終わったねむちゃんがこちらを見た。
先程のガッチリとしたしろぬりから、ナチュラルな仕上がりとなったねむちゃんは、先程とはやはり違う。バンドをするイメージにぴったりだった。
『かわいい!凄くかわいいよ!』と、葵ちゃんは両手を合わせた。
『本当に…?ありがとう、葵ちゃん』とねむちゃんは照れたように下を向いた。
『歩弓ちゃんも…』とねむちゃんが言うと、歩弓ちゃんは少し頬を赤らめていた。
『あ、あはは。…自分でお色直ししておいて難だけど…すごく綺麗』と、ねむちゃんに向かってそう言った。
そう言われたねむちゃんも、照れたようにまた下を向いた。
そうこうしていたらもう本番まで十五分を切っていた。
するとYが立上がり『よぉし!準備は整った!後は、本番まで待つだけだ!一応、トラックの扉、閉めておこう』と、Yは準備を進めた。
サップが扉を静かに閉める。時間になるまで、ここで待機をしていた。
暗くなったステージに居るのは、俺とYとねむちゃんと葵ちゃん。
サップと歩弓ちゃんは運転席と助手席にいる。
暗くなったステージの屋根に、強く雨は打ち付ける。
そんな中、Yが口を開いた。
『…なぁ、もし、客が誰もいなかったら…。どうする?』
そんな怖い事を言ったYに、俺は『…それでも、やるしかないだろ』と言うと、葵ちゃんが少しキツい口調で言った。
『やめてよ。縁起でもない事言うの。…まぁそれでも私はやるよ?ねぇ、ねむちゃん』
ねむちゃんも暗いながらに、黙って頷いたのが分かった。
Yは、『やっぱ、やるっきゃねえか。チラシに載せてもらった位だ。零って訳でもないだろ』と、みんな気持ちを強く持とうと、必死だ。
『時間になりましたので、扉、開きますね』
そうサップが言うと、自動で開いた。
扉が徐に開くと同時に、俺達四人も深く深呼吸をしながら固唾を飲んだ。
小さい隙間がドンドンと広がっていく。
明かりが目の前に灯された。
湿度が高くてジメジメしていたこのトラックの中に風と、雨が俺の顔を打ち付け始めた。
『さて、いよいよだ』と、扉が開ききって、目を広げた。
誰も、居なかった。
マイクスタンドのにはねむちゃん。量端の大きいスピーカーの前には俺とY。ねむちゃんの後ろには葵ちゃんがいる。
『…マジ?』と、Yは目の前の現実を受け止められないでいた。
『誰も居ない中で演奏するの、初めて』と、流石の葵ちゃんも落胆していた。
ねむちゃんも、思わずマイクスタンドから手を離した。
皆が下を俯いている時、俺はこれを覚悟していたのか、そこまで落ち込まなかった。
『やっぱり…』と、何処かで思っていたのかもしれない。
俺はそのままステージを下りて、サップのいる運転席にノックをした。
『音量上げて』という口パクをすると、サップは静かに頷いた。
そして、俺は一振り流した。
『音、おっきくなってね?』と、Yは耳を塞ぎながら言った。
『来てもらえないなら、遠くで祭りを楽しんでいる人にも届くような音量で、やるしかないだろ』
そう言った俺に、Yは『うわー…。近所迷惑なヤツ』と言いながら、すこしニヤついた。
『そうだね!もしヤジきたらやめりゃいいし』と、葵ちゃんもあっけらかんと、実にさっぱりとした口調でいった。
『いい?ねむちゃん』
俺がそう訊くと、ねむちゃんも笑顔で頷いた。
『今宵は雨だ。楽しんで行くぞ!』
俺のその言葉を合図に、一気に弾けた。
雨でモヤついた目の前を振り払うように、大きく弾いて、大きく歌ってやろうと、心に誓った。
そうして、部長である俺、日野麻利央の初めてのステージが始まった。
青い御守に付いている鈴が鳴った。
それを合図に、俺は目を瞑った。
風に乗った雨の雫が俺の指に止まった。
するとその雫が震えだし、弾けると、それを合図に、次々と弾けていく。
そして遂には目の前が霧となって、俺達の肩の合間を通り抜けていく。
それはまるで山間から流れ込む霧の波が密集していくような情景が醸し出される。
細やかな海にも見えるそれは、穏やかで、力強い海面が、目の前に馳せて行く。
それに呼応して、俺も激しくギターを鳴らす。
汗を振り払って、その雫が雨の雫とぶつかり合う。
その汗と雨が交錯する中で、ねむちゃんが歌う。
その両隣で、俺とYがスピーカーに激しく震感させる。
葵ちゃんは笑顔でハモりながらドラムを叩く。
客がいなくとも、広いステージでたった四人の演奏が、俺達四人だけに、しっかりと響いていた。
それを無意識に楽しんでいるのか、ハーモニーを奏でている葵ちゃんを振り向いて、ねむちゃんは声を上げる。
そこで、薄く目を開けた。
ステージの三点色のライトがランダムに点灯すると、降り頻る雨の一滴一滴にそれが反射して、目に写る全てがライトアップされている。
その高揚する気持ちが伝わったのか、サップも、歩弓ちゃんも、何処から出したのか分からないペンライトを持って、トラックから下りてきた。
雨に打たれながらそのペンライトを振り回す姿を見て、俺達四人は笑顔で迎えた。
お客さんの第一号だと、言わんばかりに。
次第に雨は強くなっていく。
だが、雨が強くなればなるほど、俺もYも、更に、ギターとベースを唸らせる。
いつの間にか二人でテンションを上げていると、静かにノリながら、葵ちゃんも頭でリズムを取っていた。
ねむちゃんもそれに釣られて大きく、綺麗な声を曇った空一杯に響き渡らせる。
それがすごく心地がよく、またも目を瞑りながら天を仰いだ。
すると、瞼の向う側、天井のライトが見えた。
顔はずぶ濡れになりながらでも、それがものすごく快感で、いつまでもこうしていられる。
傘などいらない。
雨の日が、俺は大好きだ。
自然とノリに乗っていると、四人で円を作りながら弾き始めた。
四人の顔を見渡すと、自然と笑みが溢れていた。
俺達のその気持ちは、それぞれに出してる音から漏れているせいで、この街全体に響き渡り、隠しきる事が出来ない
そして、ねむちゃんのラストのソロ。綺麗にビブラートを添えて、フィニッシュを迎えた。
全てを出し切った、その時だ。
前を向くと、目の前を覆っていた霧が、いつの間にか祭り人で覆われていたのだ。
『あれ…。どうして…?』と、ねむちゃんはキョトンとした顔を浮かべて、その大衆に目を向けた。
『これが、ねむちゃんの力…って事だよ』
俺が肩を大きく揺らせてそう言うと、ねむちゃんが浮かべたその顔を、俺に向けた。
『ほら、挨拶』
Yがそう言って、俺達は真正面を向いた。
マイクを通したか細い『ありがとうございました』が、すぐに歓声でかき消される。
俺は観客の一人一人に目を向けると、そこには、傘を差しながら腕を組み、小さく体を揺らせている、マリア先輩。
そして俺は、その隣を見て思わず目を丸く見開いた。
そこには、ウタナのじいさんまでもが、俺達の演奏をパイプ椅子に座って、聞いてくれていた。
それに感涙するも、顔に打ち付けらる強い雨に、流されていく。
『まだ、堪えろって事か…』と、俺は一つ涙を飲んだ。
『それじゃあ、もう一曲、歌います。『mermaid in love』です。聴いてください』と、ねむちゃんが曲紹介をすると、一斉に観客は雨をも沸騰させる勢いで、湧きだした。
これが、ねむちゃんの底力だと、俺は深々と納得をした。
去年買った法被が、俺の体を締め付ける。
そのお陰で、もう一曲の演奏に備える胸の内も引き締まった。
コンサートが終わって、舞台の裏に捌けると、俺達四人はガッツポーズを、空に見せびらかした。
『やったーーーー!』と、声を張り上げるその時には、雨雲がどんどんと流れていった。
雨が、止んだ。
『あれ?止んだね』と、葵ちゃんはそんな空を見上げながら言った。
『長い通り雨だったな』と、Yは俯いて、笑いながらに言った。
『お客さん、まだいるかな』と、Yはひょこりと顔を出す。
会場には、サップと歩弓ちゃんがラムネのジュースをご自由にどうぞと、列を作らせて配っていた。
『あれ、全部配り終えるかな。配り終えたら百人はいるって事になるぞ?』と、Yは胸を踊らせながらそれを見ていた。
『もしそうだったら、目が眩むよ。…でも、それもこれも全部ねむちゃんのお陰って事になるか』
そう言って、俺はねむちゃんに顔を向けると、ねむちゃんは『…え?』と、顔を此方に向た。
『そうだよ。だってさ、ねむちゃんの声を聞きつけて皆ここまで来たんだから』
そう言ったYに、ねむちゃんは振り袖をぐっと掴んで、唇を噛み締めながら言った。
『そんな事無いよ…。私、何もしてないし、皆の演奏が、街の皆に届いたから…』
『…でも、ねむちゃんも本当に頑張ったよ』
マリア先輩が、舞台裏まで出迎えて、ねむちゃんの前に立っていた。
『マリア先輩!』と、Yは声を上げた。
『ねむちゃんの力強い声を聞いてたら、こっちまで嬉しくなっちゃった。…皆とまたやりたいって思ったよ』
マリア先輩は顔を斜めに傾けて、今までに見たことのない優しい瞳で、ねむちゃんにそう言った。
『あ…。ありがとうございます…。マリア先輩…。でも…!』
ねむちゃんの言葉に、マリア先輩は首を振った。
『…これは紛れも無いねむちゃんの力だよ。だから、胸張って!』
笑顔でマリア先輩がそう言った、その時だ。『…そうだよ』と、弱々しくも優しい声が、マリア先輩の後ろから聞こえた。
『…!おじいちゃん!』
ウタナのじいさんが、ニットの帽子を被って、ゆっくり、一歩一歩前に出ながら、言った。
『凄く、良かった』と何度も頷いて、続けて、言った。
『一人一人が実に胸を張っても良いような。そんな演奏だったよ。私も凄く若返った気分さ』
そう言うと、ウタナのじいさんはマリア先輩を見た。
『どうも、ありがとう』
ウタナのじいさんは、マリア先輩に深々と礼をした。
マリア先輩は慌てて手を横に振りながら、『いえいえ!そんな、やめて下さい!』と、両手を左右に振りながら言う。
それを見て、俺は疑問が過った。
『マリア先輩が…じいさんをここまで連れてきてくれたの…?』
そう言うと、ウタナのじいさんは黙って頷いた。
『私が無理矢理…ね?ほら、昨日チラシ配ってたじゃない。その時にエオンの前をたまたま通って…』
『私の家まで訪ねて来てくれたのさ』
俺達はマリア先輩を見た。
『私にライヴをここで開くから、見に来てくれ。迎えに行くから。と、そう言ってくれたんだ。…嬉しかったね。まさか、麻利央くんと孫の晴れ姿をこの目で見ることが出来たのだから』
ウタナのじいさんは感極まったのか、目頭を少し擦った。
俺達もそれにつられて、目を擦った。
葵ちゃんがそれを見て、じいさんの肩を優しく抱いた。
『…私、おじいちゃんと帰るね』
俺達はそれに一つ、頷いた。
葵ちゃんに優しく肩を抱いて帰るウタナのじいさんの背中を見て、俺は思わず声を掛けてしまった。
『じいさん!』
じいさんはゆっくり振り向いた。
『…これ、しっかりと成就したよ!ありがとう!』
ねむちゃんは赤い御守、Yは黄色い御守、俺は青い御守をじいちゃんに、それぞれ見せた。
そして、じいさんの横で葵ちゃんも緑の御守を取り出した。
じいさんはそれにゆっくり頷いて、弱々しくも明るい笑顔を此方に向けた。
そして、葵ちゃんとじいさんは『ウタナナタウ』へと、ゆっくり足取りを進めていった。
『…行ったな。感謝を伝えても伝え切れない位、最高の舞台だったよ』
Yがそう言うと、俺も黙って頷いた。
その時、俺の御守の鈴が、リンリンと、静かに鳴いていた。
いつの間にか星が散らばっていた夜空に、俺達はうーんと背筋を伸ばした。
『終わったーーー!長かった様な、短かった様な…』
そう言ったYに俺は、後片付けが終わって、初めて終わりだぞ』と、トレーラーを指すと、歩弓ちゃんが近寄った。
『全部配り終えちゃった。流石だねぇ、諸君』と、何処か俺達のプロデューサーになっているかのような口振りで、俺に言った。
『何処の偉い人だよ』と、俺達は笑いながら言った。
するとサップは、『トレーラー、もうそろそろ撤去した方が宜しいかと。道具はどうなさいましょう』と、俺に言った。
『お祭り終わるまで、トレーラー借りられる?』
『明日まで、ですか?返却の引き取りに来るのは明後日なので大丈夫ですが』
『そしたら、道具はそのままトレーラーの中に入れておいて欲しいんだけど、いいかな』
『了解しました』
サップが運転席へと向かうと、『歩弓様、帰りましょう』と誘うも、歩弓ちゃんは首を振った。
『えー!今日はお祭りなんだよ?今日だけ!良いじゃん!ね?』
歩弓ちゃんが手の平を合わせながらサップに請うと、サングラスの向う側を少々渋らせて、言った。
『…畏まりました。今日だけですよ?終わったらお迎えに預かりますので、一報、お願い致します』
そう言ってトレーラーに乗って帰って行くサップに、歩弓ちゃんは笑顔で手を振った。
『やったー!』と、弾んで喜ぶ歩弓ちゃんは、何処か無邪気にも見えた。
すると、遥か遠くから『いたいたー!』と、野太い声が木霊した。
山木だった。
『げっ!なんでお前がここに!』なんて、驚き様に言うと、山木は笑って答えた。
『なんだよ、その言い種。お前達のライヴ、後で見てたよ。ってか、思ってたより凄い客数に驚いた』
Yは『だろ?』と、言わんばかりに鼻の下を撫でた。
『それじゃあ、始めます?露店巡り』
そう言うと、マリア先輩は静かに首を振った。
『私は、まだやることあるから』
『えー?!一緒に回らないんですか?』
『明日、回れるから連絡頂戴?…でも今日は、ごめんね?』
そう言ってマリア先輩は手を合わせた。
マリア先輩がそう言うと、俺はYに目を合わせた。
すると、静かに頷いた。
『…あの、マリア先輩、明日十時に金刀比羅神社、来てくれますか?』
そう言うとマリア先輩は首を傾げて俺達を見た。
すると、山木は『お願いします』と、頭を下げた。
『何よ。山木くんからお願いされるの初めて。どうして?』
俺も前に出て、『山木の為にも、お願いしたいんです』と言った。
すると、マリア先輩はうんと一つ首を傾げて、『…明日の十時って、奉納相撲大会…だよね?』
と訊いた。
『そうです。山木を応援したいんですよ。どうか、お願いします』
すると、マリア先輩は俺達の顔を一つ一つ確認して、ゆっくりと頷いた。
『…わかったわ。いいわよ』
『ありがとうございます』
山木はホッと胸を撫で下ろしてながら、マリア先輩にも頭を下げた。
『…それじゃあ、明日、十時に境内ね』
そう言ってマリア先輩は手を振った。
それにYも『ありがとうございます!マリア先輩!』と、大きく手を振った。
『良かったな、山木』
『…うん』
『本当に、良かったのか…?これで』と、Yは釈然としていない。
『なんとかする。安心しろ、横室』と、山木は腰を据えた。
『…さ、それじゃあ、露店巡り!行きますか!』と、Yは声を上げた。
『それじゃあ、私は麻利央くんと!』と、歩弓ちゃんは俺の隣にズイッと来た。
『なんでだよ!皆で回ろう!皆で!』
歩弓ちゃんに引っ張られそうになっている所を、Yと山木はやれやれとした顔を浮かべて、『ねむちゃん、俺達も行こう』と、誘っていた。
ねむちゃんも静かに頷いて、駆け足で此方にきた。
町中の露店巡り。法被を着ていた俺達は、このままでは回れまいと、私服に着替えた。
露店は相変わらず人でごった返している中、鼓笛や祭太鼓の祭囃子が街じゅうを賑わせている。
歩弓ちゃんはその犇めいている人波に押されて、俺の腕に必死にしがみついている。
それに俺は少し身体を離した。
『あれ!』と、指した先にはワタアメが沢山釣り下がってる。
『これ、一つ』
俺は五百円玉を渡してワタアメを貰うと、歩弓ちゃんは異様にはしゃいだ。
『そんなに嬉しいの?』と訊くと大きく頷いた。
『だって、こういう所来るの初めてだから。なんでも嬉しくなっちゃうよ』
ワタアメのワタを一口はむると、うーんと声を出して喜んだ。
それを見て、何故か少し照れた。
暫くそれを食べながら歩いていると、歩弓ちゃんは『これ、ちょっぴり多いよ。そうだ!』と、隣で一人でぶつぶつ呟いていた。
『反対側、麻利央くん!食べて!』
『え?!』
『こうやって、ワタアメを真ん中にして…はい!』
『はい!…じゃないよ!』
そんな俺達を何処かはしゃぎ過ぎにも見えたのか、Yが後ろからワタアメをかぶりついた。
『お前ら、くっつきすぎ!…あ、ウマ』
『ね?美味しいよね!一緒に食べよう!』
そう言ってYと歩弓ちゃんが楽しそうにワタアメを食べ出した。
その隙に俺は数歩下がって、山木とねむちゃんに肩を並べた。
『ふぅー』
『歩弓ちゃん、凄いな。誰とでもあぁなの?』と、山木が言った。
『いや、あれが極自然なんだよ。歩弓ちゃんの。普段俺達が楽しんでるような事、したことないから、何しても楽しいんだよな』
俺がそう言うと、山木は深く頷いて、『さっき、Yから聞いたけど、凄い金持ちなんだろ?彼女。それもそれで大変なんだな…』と、腕を組みながら感慨深い様に頷いた。
その時だ。
『いや、だって彼女…』と、隣で話出した山木より先に、『あ…!待って…!』と言う声が微かに聞こえた。
俺は思わず振り向いた。
その振り向いた先には、ねむちゃんが人波に押されてドンドンと遠くなっていく。
俺は、遠くなっていくねむちゃんに思わず腕を伸ばした。
だが、届く筈もなく、更に遠くなっていく。
『ねむちゃん…!』と、俺は人波を掻き分けると、ねむちゃんも必死にその人並みの隙間から顔を出して、不安そうな顔を此方に向けていた。
俺はそれに必死に手を伸ばした。
『日野君…!』小さくも助け舟を求める声が、賑わっている声を割いて此方に届いてくる。
それを伝に、俺はねむちゃんの腕を目掛けて腕を伸ばす。
すると、ねむちゃんの細い手首を漸く掴めた。
ホッとした。その時だ。
ドンドンと後ろから行列が押し寄せる。
俺達はその流れに逆らう事が出来ず、その波に従うしかない。
どうにかねむちゃんを引き寄せると、ねむちゃんも俺の身体に身を預けた。
だが、押し寄せる人波の力には、逆らえなかった。
『ねむちゃん…!離さないでね…!』
ねむちゃんは不安そうに目を瞑りながらも、一つ頷いた。
その波に身を任せていたら、漸くその波は治まった。
『大丈夫?ねむちゃん…』
俺の身体に寄せたねむちゃんの顔を、見下ろしてそう訊くと、ねむちゃんは『うん、大丈夫…。ありがとう…』と、俺を見上げた。
すると、二人の会話の間が重なった時、俺とねむちゃんのこの距離感にやっと違和感を感じた。
『ご…ごめんなさい!』とねむちゃんは驚いて、身体から離れた。
俺もそれに気が付いて、『あ!ごめん!』と、ねむちゃんの身体を離した。
その時、近くから大きな和太鼓の音が、二人の耳に入った。
『なんだろう…』
ねむちゃんの身長はそれを見るのに明らかに足りず、背伸びをしながら見ようとするも、中々目に入れる事が出来そうにない。
『前、行ってみる?』
すると、ねむちゃんは少し笑顔を見せて、静かに頷いた。
俺とねむちゃんは人混みをまた掻き分けて、前へと出ようとした。
その人混みの最前列、そこまで足を運ぶと、ねむちゃんは、思わずも声を溢した。
『…うわー、凄い…』
『…うん、凄くカッコいい…』
俺とねむちゃんが目前にしたのは、太鼓を抱えて大きく叩く太鼓奏者が両脇に二人、そして、それに向かう様に、獅子も二匹、舞っている。
まるで、お互いが威を争っている様に、それは見える。
大きく鳴る和太鼓が獅子を追い込む。
それに翻し、獅子が激しく揺れると、和太鼓が小さく鳴る。
それをお客さんが円を為している真ん中で、ぶつかり合っていた。
『凄い迫力…』と、ポツリと言ったねむちゃんは目を丸く見開いたままだった。
そして、二匹の獅子が激しく身体を揺らせながら此方へ押し寄せてくる。
それにねむちゃんは笑いながら、身を竦めていた。
『ビックリした…』と、少し驚いたようにこちらを見た。
それに俺が笑うと、ねむちゃんも照れた様に笑った。
すると、演者が後退って、今度は獅子同士の啀み合いが始まった。
太鼓奏者が今度は先程よりも大きく叩くと、それに合わせて、獅子二匹も身体を大きく舞って、まるで獅子と獅子のぶつかり合い。
カチカチと歯が鳴るそれをぶつけ合わせて、奮闘しているその姿に、円を作っているお客さんが歓喜もそれにぶつけていた。
『凄い!凄いよ!』と、ねむちゃんの熱量が上がっていくのが、隣にいながらも伝わってくる。
だって、隣で手を叩いてはしゃいでいるのだから。
すると、太鼓奏者がその獅子の間に仲介する様に、割って入った。
そして、演奏が今までに無い程迄、大きく音を奏でている。
それに凄く興奮していたのは、演奏者よりも観客の方だった。
その今までに無い程の和太鼓の音で、大きく獅子もうねり出す。
そして最後は、太鼓が終止符の合図を短く、タタン、と何度も打ち始めた。
それに呼応して、獅子が和太鼓奏者にひれ伏す様に縮み込む。
太鼓奏者は仁王立ちしたまま、また、タタン、タン、と、打って、『ありがとうございました』と、礼をした。
それに興奮して、ねむちゃんも、俺も拍手喝采だ。
『凄かったね!』と、ねむちゃんは興奮やまずに俺を見た。
『う…。うん、そうだね』と、俺も一つ頷いた。
それが終わると、観客はバラバラと散っていったのを見て、先の押し寄せた行列はこれを観る為なのかと、一人で納得をした。
俺とねむちゃんは肩を並べて二人で露店通りへと、足を向けていた。
『面白かったなぁ』と、足の歩幅を小さく、ゆっくりと出しながら、ねむちゃんは言った。
『うん、凄かったね。あんなに人を感動させられる演奏が出来たら、どれだけ最高か…』
ねむちゃんはそれに少し俯きながら、言った。
『本当、だね…』
そう言ったねむちゃんは、少し寂しそうだった。
『…どうしたの?』
『え?』
『…あ、いや、なんか寂しそうな感じだったからさ。その、大丈夫かなって』
『ううん…。大丈夫だよ…』
ねむちゃんは俯いた顔を上げようとはしない。
どうしたんだろう、ねむちゃん。
それが気掛りでどうにも集中出来ない。
すると、気が付けば屋台の通りに足を踏み入った。
あちらこちらの屋台からなんとも香ばしい匂いが俺の嗅覚を擽ってくる。
『はぁー…。いい匂い…』
『え?』
『凄くいい匂いが…。あっちこっちに…。あ!あっちには焼きとり…!…あ!こっちには焼そば…!はぁ~、いい匂い…』
『くすっ…』
食べ物の匂いに釣られてしまった俺は、ねむちゃんの事を一瞬でも、そっちのけにしてしまった。
『…あ!いや…』と、瞬時に言い訳をしようと口ごもっていた、その時だ。
ねむちゃんが、笑っていた。
『あはは、日野君、面白い』
俺は恥ずかしさの余り、顔を赤らめてしまったが、それをねむちゃんにはバレたくはない。
『あ、面白かった…?は、ははは』
ねむちゃんは俺の顔を見る度、何度も笑顔を此方に見せて、笑っていた。
俺も、笑った。
すると、俺の顔を見てねむちゃんが言った。
『…日野君…お願いがあるん…だけど…』
『え?何?』
『明日、私と一緒に…。二人で、お祭り、回って欲しいんだけど…。いいかな』
俺は何も言えず、ただただ一つ頷いた。
『…ありがとう』
俺は顔を赤らめていたのが分かった。
バレたくはない赤い顔は、もうバレているだろう。
だって、物凄く熱かったから。
『あー!いたいた!おーい。二人で何処行ってたんだよ!』
Yと山木と歩弓ちゃんが走って此方まで来てくれた。
『あ…。Y、山木、歩弓ちゃん。ごめん、はぐれちゃってさ』
『ビックリしたぞ、本当に。話してる最中にどっかいっちまうんだから』
『抜け駆けはダメだよ!』と、歩弓ちゃんが顔を膨らませて行った。
『抜け駆けはしてないよ。ただ、迷子になっただけだから』
『もうー。はぐれんなよ!…さ!そろそろいい時間だから帰ろうぜ』と、Yは俺の肩を叩きながら言った。
『うん。…あ、ねむちゃん』
俺がそう言うと、ねむちゃんはふと顔を上げた。
『帰ろっか』
ねむちゃんは黙って頷いた。
『え?何々?やっぱり二人でイチャついてたのかこらー!』と、Yが囃し立てる中、俺は『んな訳ねーだろ!』と、帰路に着いた道中、ずっと弄られっぱなしだった。
祭り囃子の聞こえる方を、背に向けて。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?