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ひだまりの唄 26

十月十二日

 

次の日の朝、いつもの様にカーテンの隙間から覗く太陽の日差しに当たって、俺は身体を持ち上げた。

後頭部を何度も掻いて、俺は目覚まし時計に目を当てる。

何時もの様に七時半には起きる事が出来た。

階段を下りると、母さんが『おはよう。麻利央、朝ごはん出来てるわよ』と、洗面台に向かおうとしている最中なのにも関わらず、言われた。

一応、返事をする。難癖言われるのが面倒だから。

昨日は色々あったからか、帰ってきたらそのままベッドに倒れ込んで、気がつけば寝てしまっていた為に、お風呂に入っていない。

だから、洗面台で頭を洗おうと、端っから蛇口を最大に捻ったお湯を頭に被り、シャンプーを泡立てて、先程掻いていた後頭部を、念入りに洗う。

そして、トリートメント、毛先を一本一本丁寧に、指の股を櫛変わりに見立てて洗う。

それを洗い流すと、近くにあったバスタオルで一滴の水も容赦なく拭き取る様に、くしゃつかせる。

それがなんとも心地よいのだ。

そして、ドライヤー。髪の毛を真っ直ぐに整えながら、ゆっくりと、ドライヤーのつまみを『緩』設定に変えて、何度も行来させる。

それが完全に乾いたら、俺のご自慢であるマッシュルームカットが成り立つのだ。

鏡を見て、『よし』と、含んだ息を全て出して、食卓に向かう。

『今日も遅いの?』と、母さんが伺いを立てる中、俺は食卓テーブルに腰を置いた。

『分かんない。部活するから』と、返事をして俺は今日の朝ごはんを一通り見渡した。

ご飯に味噌汁に秋刀魚。秋刀魚が乗っているお皿には大根おろしが山になって、上からたらりと醤油が垂らされてある。

他にも、ほうれん草のごま和えと、納豆と言う、ごくごく普通の朝食だ。

だが、このごくごく普通が俺からすれば、大好物なのだ。

『いただきます』と、両手を合わせると、ピンポンとベルが鳴った。

『あら、岸弥君じゃない?』と、母さんが更に煮染めの皿を持ってきながら言った。

『え、マジかよ…。いつもより早いなぁ…』と、俺は折角整えた頭を掻きながら思ってしまった。

母さんが『はぁーい』と、余所行きの甲高い声を上げながらドアを開けると、『おはようございまぁす!』と、やはりYの声が聞こえてきた。

『岸弥君、来たわよ』と、母さんが言うと、俺も乱暴に『…分かってるよ』と、ご飯とごま和えと秋刀魚を、素早くひと口ずつかっ込みながら、それらを味噌汁でズズッと飲み込んだ。

俺がパジャマ姿で階段を上ろうとすると、玄関にYの姿が見えた。

『おう!…って、まだ寝間着…?』

『五月蝿いな…。すぐだよ、すぐ』

そう言って、俺は玄関から丸見えの階段を上がって自室へと向かった。

急いで制服と鞄とギターケースを背負って、階段を下りる。

雑ながら、玄関から母さんに『行ってきまーす!』と声を張ると、母さんがスリッパをパタパタと鳴らせて、慌てながらにも、ゆっくりと来た。

『あんた、忘れ物ないかい?』

『大丈夫だよ。行ってきます』

『そんじゃオバサン!行ってきます!』

いつも通りの朝に、いつも通りの通学路。

そして、いつもの様に、Yと他愛ない話で談笑を交わした。

『ふぁ~あ。最近、学校変わり映えしないよなぁ…。退屈だよ…』

『あぁ、そうだな』

すると、Yは頭の後ろに鞄を持っていって、欠伸をしながら言った。

『ふぁ~…。あ、そう言えば、あれから歩弓ちゃんから連絡来たの?』

それに、俺は背筋を伸ばした。

『だって、あれから丸二日になるぜ?メールか何か、来てたっておかしくないよなぁって思ってさ』

『…うん』

そう、いつもと同じ日常に、いつもと違う物はそれだった。

昨日の歩弓ちゃん、どうかしてしまったのではないかと、正直不安だ。

それを一途に辿ろうにも、辿れない。いや、辿りにくいのだ。

今このタイミングでメールを送っても、なんの意味をもたらすのだろうか。…と、まだ頭の中でそれを繰り返していた。

『おーい、マリー。また上の空か?』とYが呼びかけると、俺は慌て様『あ、あぁ。聞いてるよ』と、あたかも最初から聞いているかの様に返したが、『それじゃあ俺、なんて言ってたよ』と、危なっかしい言葉が返ってきた。

『え、えーと…』

『ほーら、全然聞いてないじゃん。マリーは直ぐ何か考え事するからなぁ…。いいか?くよくよ考えたって、成る様にしか成らない!それは変えられ無いんですよ!部長さんっ!』

きっぱりと言い返してきたYに、俺は『う、うん…』と、曖昧な言葉を返した。

『…で?どうなの?』

『…連絡、来てたよ?』

『え…え?!マジかよ?!』と、Yがぐるりと身体を此方に向けて言った。

『…うん』

『…で、で。どうだったんだよ』

『…え?』

『詳細だよ。詳細!教えてくれよ!』

詳細、そう言われると、何処から話せばいいのか。

不要な部分を出来るだけ掻い摘んで、Yに話した。

歩弓ちゃんが誘ってくれた事、サップがクビになった事、そして勿論、愛弓ちゃんから告白をされた事。

それまでの旨を全て話し終えると、Yの表情がだんだんと虚ろんできていた。

『…は?!はぁ~~~?!』

『何だよ』

『何だよ。じゃねーよ!おかしいって!おかしいよ!そんなの…!』

俺には大袈裟にもそう言ってるYの方がおかしく感じる。

『…でも、ラウスのおっさん、本当に乱暴で強引だよな。俺達、友達なのに…』

Yは道端に転がってる石を蹴飛ばして、尚も話し続けた。

『…いや、でもあれか。それが普通なのか。だって、歩弓ちゃんは格式が高いから、普通ならお近づきにもなれないような、お嬢様、だもんな。…サップが自由に遊ばせてくれたから、俺達も自由に遊べたけど、歩弓ちゃんからしたら、それが普通の生活だった訳だもんな…。そう考えると、可哀想だ…』

そっか。と、Yに言われて初めてそれに気がついた。

確かに、歩弓ちゃんはずっと前に、それも、歩弓ちゃんと初めて遊んだ時に言っていた。

自力で生活がしたくて、お父さんには黙ってコッチに来たんだと。

…ん?でも、待てよ?

『…?!なぁ、マリー、俺、嫌な予感するんだけどさ…』

『…あぁ。俺も同じ事、考えてると思うよ』

『歩弓ちゃん…もしかして…!』

その嫌な予感の猜疑心に襲われつつ、俺とYは猛スピードで学校へと走った。

一目散と校内に入ろうと、校門を颯爽と潜ったその先に、ねむちゃんがいた。

俺達に気が付いたのか、『おはよう』と声を掛けてくれた。

俺も急ぎ様振り返りながら、『おはよう!』と、声を出し、また、Yと昇降口へ向かうように走った。

背負っているギターが、何度も肩からズルズルと落ちてきそうになるが、それもお構い無しと、しつこく背負い直す。

そして、その場で靴を履き替える。

Yを筆頭に、俺もYの後ろを追いかけた。

すると、Yは、階段を上るついでに、俺に訊いてきた。

『おい!歩弓ちゃん、何組だっけ!?』

『確か、B!B組だよ!』

俺とYは、猪突猛進にB組の教室を乱暴に開ける。

しかし、歩弓ちゃんの姿がまだない。

俺達も今日に限って早く来すぎたのか、まだ歩弓ちゃんが教室に来ていないだけかと、そう思った。

すると、一人の男子生徒が教室から出ようとしていた。

それを俺は慌てて取り押さえて、『ごめん!渡辺さん、来てる?』と、突発ながらに訊いた。

『あん?渡辺さん?来てないな…。まだ』

すると、Yがそれに続けて『いつもこの時間帯は歩弓ちゃん来てんの?!』と、言った。

『え…?歩弓ちゃん…って、渡辺さんとどういう関係…』

『いいから…!』

するとその男子生徒は、『あ、あぁ。渡辺さん、いつもなら来てる…。彼女、いつも早いから…』と、Yの強張った顔に少し引け腰になりながら言った。

『え…?もう来ててもおかしくないのに来ていない…?』

『…もしかして…』と言う、俺の胸騒ぎが止まらない。

しかし、俺は一度気持ちを落ち着ける様に、深呼吸をした。

『また、後で来よう。昼休み、とかさ』

『え…?』と、Yが此方を向いた。

『いや、もしかしたら何かあって、遅刻してくるかも』

Yは頭を振って、『いや、そしたらさ。もうメールした方がいいんじゃないか?』と、俺のポケットを指しながらに言った。

『…え?』

『だってさ、気になるんだろ?メールしてみぃって!』

俺はポケットからスマートフォンを取り出して、それをまじまじと見つめながらも、やはりそれは出来ないと、首を二度振った。

『どうしたんだよ』

『やっぱり、それは出来ない』

『なんで?』

『振ったんだぜ?俺…。それでのうのうとメール出来るかよ…』

『でも、心配なんじゃねーのかよ…!』

『いや、心配だけどさ…』

『あー…!焦れったいな!貸してみ!』

そう言って、俺の手に納まっていたスマートフォンを、乱暴にも取り上げられた。

Yは手早く画面に文字面を並べていく。

『今、どこ?』と打ち終わったその文面を俺の許可無く直ぐに送った。

『おい…!』

『単刀直入に訊いた方が早いだろ。こう言う時』と、言いながら俺にスマートフォンを投げた。

すると、間もなくもスマートフォンがウォンウォンと鳴り始めた。

歩弓ちゃんかと、逸る気持ちに任せてスマートフォンを広げた。

『おい…!どうだったよ!…?マリー?』

『ダメだ…』

『ダメだ…って、どういう事…』 

『アドレス、変わってる…』

『…は?!』

『やっぱり…。あの後、歩弓ちゃん、連れていかれたのかもしれない…。サップの意見を聞くって言ってた、あの話は辻褄を合わせるただの課程であって、本心じゃ無かったんだ…!』

Yは頭を抱えながら壁に凭れて、そのまま背中を壁に添わせながら、しゃがみ始めた。

『うそ…だろ…?嘘、だよな。マジかよ…』

俺の気持ちを、Yは代弁してくれた。

あんな形で最後の別れになってしまうのが、とても悔しかった。

感謝の意も、何も伝えていないまま、歩弓ちゃんは音沙汰も無く、この地を離れていってしまった事が、何よりも悔しかった。

あの時、どうにかすれば、止められていたのではないかと、自責の念が腹から募りに募って、思わず叫んでしまった。

『…くそ…。くそっ!!』

壁を思いきり叩いて見ても、感情だけが前のめりになってしまって、現状は何も変わらない事は分かっているのだが、引くにも引けないこの気持ちを、何処にぶつけていいのか。

俺は泣きたくても泣けない程、空虚となった胸の内に任せて、思いきり壁を叩いた。

すると、その時だった。隣から声が聞こえた。

『…大丈夫…?』

俺とYはその声の鳴る方へ、徐に顔を向けた。

その振り向いた先に、ねむちゃんと歩弓ちゃんが二人並んで立っていた。

『うお!ねむちゃん…!…に、歩弓ちゃん?』

『あれ?!なんで?!』

俺はうまく状況を掴めていないからか、またスマートフォンを取り出して画面を覗いた。

そんな戸惑っている俺に、歩弓ちゃんは『どうしたの?』と、不思議そうに、鈴を張った目をこちらに向けていた。

『なんで二人でここに居るんだよ』

そう言ったYに、ねむちゃんと歩弓ちゃんは『さっき校門であったんだもん。ねー』と顔を傾けながらに二人でニコリと笑った。

『…いやいや、それよりも、メール送ったのに返ってきたんだ…』

『あ、それ…?』

歩弓ちゃんにそう訊いた突如、顔を曇らせながらゆっくりと口を開いた。

『それね、ラウスに取られちゃったから、アドレス、変わってるのかも』

『ラウスに、取られた…?』

歩弓ちゃんはゆっくりと頷いて『うん、ラウスに取られちゃった…』と少し寂しげな顔を俺に見せた。

それに少しとばかり胸が揺れ動くも、それを必死に堪えた。

『でもね、私、吹っ切れてる。だって、私のすがっていた物が無くなったから。そして、私も一人で立てるんだって気が付いたから。それもこれも皆のお陰だよ?本当にありがと!』

歩弓ちゃんはYとねむちゃんに目配せをしながら言うと、最後に俺の方を虚ろいながらも、徐々に目を向けた。

『…本当に、ありがとう』

そう言って歩弓ちゃんは、この上ない笑顔を見せ、俺に手を伸ばしながら言った。

その手の平は無垢で、まるで真っ白だ。

そんな曇りのない手に、滅相もないと、俺は首を振りながら歩弓ちゃんの差し出した手を優しく包み込む様に、俺の右手で覆った。

『…ううん。こちらこそありがとう』

俺の方が、歩弓ちゃんから沢山貰った気がする。

その貰った物を胸の内に受け止めつつ、俺は歩弓ちゃんの顔をじっと見つめた。

にこりと笑って頷き返した歩弓ちゃんに、展望が明るく兆しているかの様にも伺える程の、輝かしさを、どことなくと感じた。

歩弓ちゃんの手が離れる。すると、校内に響かせるベルが鳴り響く。

『…あ!ベル、鳴っちゃった!それじゃ、皆、またね!』

歩弓ちゃんは俺達を振り向いて、手を振りながら教室へと駆けていった。

『まったなぁー!』

『渡辺さん、またね!』

そう言ってねむちゃんも、Yも、手を振っている傍ら、俺は手を振らなかった。

『俺達も、行こうか』

『おう』

『うん』

俺とYとねむちゃん、三人で教室へと向かう。

その足取りは、とても軽やかだった。

 

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