ひだまりの唄 31
十二月六日
次の日の朝七時、俺は再び公民館の中、受付台の前に立った。
隣には母さんも手伝って、受付台に立ってくれている。
通夜よりも足を運んでくれている人が多い。この辺の人は勿論、じいさんが仕入れている農家や農協組合のお偉い方、漁師や街の同業者等も多数見受けられる。
じいさんの人望の厚さと言うのを、受付しながら初めて知った。
こんなにも沢山の人がじいさんを支えていたのかと思うと、脱帽してしまう。
そんな人達を受付する度に、『この度はご愁傷様です』と、律儀に礼をされると、俺と母さんはどういう顔をして対応をすれば良いのか、戸惑ってしまう。
気が付けば、会館ホールはもう満員で、はみ出してしまう程。
来る人来る人の受付を終わらせると、俺は粉飾ではなく、それを遠い目でそれを眺める事がやっとだった。
受付は落ち着いていても会場が落ち着いていないように『母さん…どう収拾つけるんだよ…これ…』と、あからさま遠い目でそれを見つめた。
『…あらぁ…すごいわね…。後は私がやっておくから、あんたは式に参加しなさいな。直に始まるわよ?』と、母さんは腕時計を確認がてらに言った。
『あ…うん』
俺の足を静かにごった返しているその方向へと向かわせた。
すると、その向かわせた束の間、俺の足がピタッと止まった。
『あ、マリー…おはよう』
葵ちゃんが目の前に立っていた。
『あ、おはよう…』
そう言って、少し目を背けた葵ちゃんの隣には、葵ちゃんのお父さんも立っていた。
『お、麻利央くん!もうじき始まる。私達は前の方だ。案内するよ』
葵ちゃんとはまるで鏡をあてても似つかない程の笑顔で、俺にそう言った。
俺はそんは葵ちゃんのお父さんの言葉に、一つ頷き、一緒に歩を会場へと進めた。
会場に足を運ばせると、会場一帯に椅子がズラリと並べられているが、それでは収まりきれていない。
しかし、俺と葵ちゃん、そして葵ちゃんのお父さんは、一番前の中央部、その空いた三席に腰をかけた。
すると、坊さんが数珠を両手で擦り合わせながら、摺り足で曲禄の前迄進み、一礼をして、そこに腰を掛ける。
坊さんが二人掛りでお経を唱えている葬式など、初めてだ。
だがよく考えれば、葬式自体参加した事が初めてだから、当たり前か。
そんなお経が始まった直時、お焼香台が回って来た。
お通夜では前に出てお焼香をあげていたのだが、告別式では回って来た焼香台にお焼香をあげる。
それを一つ摘まんで、俺の顔の前に持ってきて、『ありがとう、お疲れ様』と念じた。
すると、煙が勢いよく立ちあがり、俺はそれを見送って、ゆっくりと隣に焼香台をながした。
そんな煙を見て、じいさんの言霊が込められてるのではないかと、夢想してしまう。
だが、それを信じた俺は、その煙を見上げたまま、そんな夢想と断然するように、煙が消え行く様を見上げたのだった。
告別式が終わり、火葬場へと連れていく。司会進行を担っている人が、棺の蓋を、じいさんの顔が最後に塞がる様、それをゆっくりと閉めた。
その最後に塞がるじいさんの顔に、俺は小さく手を振った。
すると、じいさんの棺を乗せた滑車が、霊柩車の中へと運ばれる。
その様を、大勢来ている参列者の一番前で、見送った。
霊柩車が、司会の『出発致します』の合図を皮切りに、耳をつんざく程のクラクションを、長く長く空一杯に響かせて、発車をした。
泣いて見送る者、数珠を握りしめながら見送る者、そして、数珠を擦りながら見送る者といたが、俺はそのどれでも無い。
ただ霊柩車の姿が見えなくなるまで、じっと、見送るだけだった。
『それでは参列者様も、火葬場へと参りましょう』と、バスの運転手が言うと、俺たちはバスへと乗り込んだ。
バスが公民館から出発をすると、俺はそれに揺らされた。
バスに乗って揺られている。
体が揺られて、俺はどう耐震すればいいのか、分からなかった。
昨晩の出来ごとで、じいさん亡き今、じいさんの言葉が頭の中に強く、打ち付けられて、何度も何度も響いてくる。
『…葵と、ずっと友達で居てくれないか』
その言葉がずっと気にかかっていた。と、言うか、胸に突っ掛かってしまい、中々離れない。
そんな車中に揺られていたら、火葬場まですぐに着いた。
中へと入ると、じいさんは既に火葬炉の前で横たわっている。
俺はそれに平然とし難く、ゆっくりとじいさんの顔を覗いた。
そんなじいさんは、焼かれる前だと言うのに、まだ幸せそうな顔を此方に向けている。
そんなじいさんを、俺はどういう目で見つめれば良いのか、分からなくなる。
火葬場まで来た人が一通り揃うと、お坊さんがお経を唱え始めた。
それに、手を合わせた。
お経を読み終えると、最後のお別れを一人一人済ませて、じいさんは火葬炉に入れられる。
四十五分で、全て焼き終わるらしい。
それまで、葵ちゃんのお父さんが頼んでくれたお弁当を頬張った。
お弁当を食べて、外のベンチで風にあたる。
ただただ呆然と空を眺める。
ゆっくりと、動いている。
足と背筋をうんと伸ばして、俺はただただ、見上げたままだ。
あの雲の中にじいさんはいるのかな。と、ありもしない事を頭に浮かべて。
すると、どこからともなく、『隣、座っていいかな』と、声をかけられた。
俺は、その方向に目線を預けた。
その方向を見てみると、葵ちゃんのお父さんが、身体を伸ばしている俺の顔の真上に、ひょこりと顔を覗かせた。
そんなだらしのない体勢で『どうも』と、会釈をすると、葵ちゃんのお父さんは徐ながら、俺の隣に座った。
『…葵には沢山の友達がいたんだね』
葵ちゃんのお父さんが、両手にジュースとコーヒーを持っていて、そのジュースの方を一つ、俺に差しだしながら言った。
俺は『…そうですよ。沢山居ます。あ、ジュース、頂きます』と、ガラナの三百五十リットルの缶を受け取った。
『そうか…。嬉しい限りだ』
葵ちゃんのお父さんは、缶コーヒーを両手で優しく包みながらに言った。
『…今、葵は待ち合い室で横室君と霧海さんと話している。そんな姿を見ていたら、葵はこっちの方が、学校生活を充実させてるって、そう思った』
パシュっとタブを開けて、一口、二口と、喉へと流し込む。
『…私と一緒に住んでた時とは、大違いだ…』
『向こうで住んでた時は、どんな感じだったんですか…?』
『…正義感の強い子だった。授業参観の日も、仕事がある時は、休まなくていい。って、そう言うんだ。…本当は来てほしいと、そう思っているのにな』
『そう気がついているのに、どうして行かないんですか…?』
葵ちゃんのお父さんは目を瞑って静かに首を振った。
『行かないんじゃない。本当に行けないんだ。夏の間は出張続きで、時間を割く事が出来ていない。そこが気掛かりで、よく妻と喧嘩をしていたら、言われたよ。それだったら、来なくて良いってね。胸にポッカリと穴が空いたよ。本当に…ショックだった…』
葵ちゃんのお父さんは、缶コーヒーを見つめて、続け様に話した。
『でも、そんな中でも家族で唯一相手をしてくれていたのは、父さんだった。離れていても、葵の夏休みの間は、よく相手をしてくれた。こんな遠くに居ても、葵は一人で会いに行く位だ。…葵にはこの地がよっぽど合っているんだな…』
俺はジュースを見つめて、それを一つ飲んだ後に、続け様に話した。
『それじゃあ、葵ちゃんはどうなるんですか…?』
『それは…』
葵ちゃんのお父さんはコーヒーの缶をくるくると手首で掻き回して、膝に肘を置きながら言った。
『分からない…。正直、ここに居た方が葵の為なのではないか、と、そう思ってしまう…。葵なら一人でここでやっていけそう…』
『そんな事無いですよ』
俺はベンチから立ち上がって、葵ちゃんのお父さんを見下した。
『葵ちゃん、一人で頑張ろうとしてきただけで、一人が寂しいんだと思いますよ?一人で生きていける人なんて、誰もいない。じいさんの事が大好きな葵ちゃんから教えて貰った事ですよ』
『葵…から…?』と、俺を見上げて言った葵ちゃんのお父さんに、俺は頷いて返した。
『だって、じいさんが一人で切り盛りしているお店を、遙々横浜から手伝いに来るなんて、そうそう出来る事じゃありませんよ。しかも、学校を転校してまで。お店の手伝いで友達ともまともに遊べずに…。それでも唯一、葵ちゃんと作れた思い出があるんです。それが、バンドでした』
『…バンド…?演奏…したのか…?葵が…?』
『はい。この街の大きなお祭りで。沢山の人が見ている前で…。俺も葵ちゃんもじいさんから教えて貰った音楽で繋がれたんです。…いや、俺だけじゃない。Yもねむちゃんも、一人では決して出来ない、バンドと言う形で繋がれた。だから、俺、思うんです。一人では何も生まれないって。何をするにも…』
葵ちゃんのお父さんは、下を向いた。
『…だから、出来ることなら、葵ちゃんを一人にさせないで下さいね。ここに残った方が良いって、そう言いますけど、辛そうなじいさんを一人にするお父さんは嫌いだけど、普段のお父さんは大好きだって、葵ちゃん、そう言ってましたから』
俺はそう言って、ジュースを一気にグビっと喉に流して、屑篭に投げた。
『それでは』と、俺がその場を離れようとすると、葵ちゃんのお父さんは、『待って…!』と、俺を呼び止め、それに振り向いた。
『…君…じゃない。麻利央くん!…葬儀が終わったら、少し、時間を貰えないかな』
そんな唐突な葵ちゃんのお父さんのお誘いに、俺は瞬きを何度もしながら、葵ちゃんのお父さんを見た。
葵ちゃんのお父さんと話をしていたら、火葬炉からじいさんが出てくる時間が来た。
火葬炉から出てきたじいさんは、それはもう見るに耐えない程の姿で、俺たちの前に現れた。
参列者に割り箸が配られて、箸渡しで人がら人へと、じいさんの逞しく太い骨が運ばれる。
身体は蝕まれていながらも、生きようと直向きに努力したじいさんの姿が、そこにはあった。
骨壺一杯にじいさんは納まりながら、葵ちゃんに抱かれて、バスに揺られている。
そんなじいさんは多分、死後である今でも、幸せなのではないかと、端から見てもそう受け取れる。
じいさんは最後の最期まで、葵ちゃんに見守られていたのだと、そう思いめぐると、俺は感極まった。
じいさんの骨壺は、バスに揺られながらも、腰を据えたようにそこに座って、ウタナナタウまで帰ったのだった。
じいさんの葬儀が終わって何時間か自宅で私服に着替えた。
もう陽も暮れてしまった。
街灯が照らした雪道は、いつもより歩道を狭くさせていた。
だが、俺はその道の真ん中を歩く。
すれ違う人など、誰もいないのだから。
そんな心身ともに冷えきった身体で、ウタナナタウへと赴くと、お店は『CLOSED』なのにも関わらず、お店の屋根に付いているライトがオレンジに輝いている。
俺はそんなお店を見上げて、一つ、白い息を吐いた。
ライトアップはされているものの、物寂しげに見えるこの『ウタナナタウ』の中に入ろうと、カラコロと音を鳴らしてみた。
すると、葵ちゃんが『…え?あれ?!マリー?!』と、驚いた顔を見せた。
『あ、どうも。…って言うか、何だよ。生き返った人を見るように驚いて…』
『おいおい、他に言い方無いのか?今日に限って言う様な例えじゃ無いだろ』
『あ、日野くん!』
そこにはねむちゃんも、Yもいた。
『皆、どうして…』
『葵ちゃんのお父さんに誘われて、さ』
『私も。日野くんは?』
『…俺もだよ?』
俺はそう言って、葵ちゃんとY、そしてねむちゃんが並んで座ってるカウンターに腰を置いた。
『もう、皆を呼び出して、お父さん何を始めるの?』
そんな厨房に立っているのはYシャツの袖を捲っている葵ちゃんのお父さんだ。
『皆、よく来てくれたね。ようこそ。ウタナナタウへ』
俺たちは惚けた様な顔を向けて、葵ちゃんのお父さんを見た。
すると、シンクに掛かっているエプロンを腰に巻いた。
『…え?お父さん…?』
『今日は少し早めなクリスマスにしよう』
すると、葵ちゃんは恥ずかしそうに『少しも何も、かなり早いわよ。一ヶ月も前よ?やめてよ。…って言うか、お父さん、料理出来るの…?』と、素っ気なく突っ返すも、そんな事もお構い無しに、葵ちゃんのお父さんは言った。
『あぁ、なんの取り柄も無い、父さんの唯一の特技は、料理だ。趣味にはしてないから、やらないんだけどね…』
『…え、私、知らなかった』
『…えー!楽しみだぁ!コースりょーりー!』と、Yは無邪気に手を上げながら言った。
『ハッハッハ。嫌でもそうなるかな。幾つか品を出すつもりだから』と、出刃包丁を片手に、葵ちゃんのお父さんが言った。
『よし、これからがショータイムだ』
『…お父さんが言ったらダサいからやめてよ』
そして、葵ちゃんのお父さんのショータイムとやらが始まった。
業務用の冷凍庫、その蓋を開けて、氷下魚を三尾、取り出した。
その氷下魚は既に板状になっており、氷下魚の皮を一枚一枚、まるで産皮を取るように剥いていく。
そんな氷下魚を凍ったまま、出刃包丁で丁寧にスライスをさせる。
予め大根の細切りと、しその葉っぱを添えてあったお皿に、そのスライスをした氷下魚を出刃包丁で掬って、その上に、包丁をスッと抜くように引いて、氷下魚を乗せた。
俺たち四人の前に、小皿を並べて、醤油を少量、そこに溜めた。
そして、氷下魚が乗ったお皿をコトコトッと並べた。
『先ずは前菜…って所かな?』
葵ちゃんが『…?え?凍ったままだよ…?』と、疑りを掛けながら葵ちゃんのお父さんを見た。
するとYが『おー!カンカイのルイベじゃないッスかー!』と、なんともはしゃぎながらに言った。
『る…いべ…?』と、お箸で氷下魚を持ちながら裏表と、その様を確認するように、葵ちゃんは見て言った。
『そう、ルイベ』と、葵ちゃんの隣で俺は頷いた。
『ルイベはアイヌ語で融けた物。北海道の郷土料理なんだ』と、包丁を拭きながら、葵ちゃんのお父さんが言った。
それをマジマジと見ながら、『ふーん…』と、なんとも府に落ちていなそうだ。
『いっただっきまーす!』と、Yは陽気に氷下魚を醤油をトントンと軽くつけて、口へと運ぶと、『コマーイ、ンマーイ』とシャクシャクと音をたてて食べている。
『おー、良い音を出して食べるな、Y』と、Yの顔を見ながら言うと、『これがカンカイの本来の食べ方…!そうッスよね?おじさん!』となんとも活きが良い。
『ハハハ。そうだね。因みにコマイと言う言葉もアイヌの言葉で、音の出る魚、だからね』と、次のメニューの用意をしながらに、言った。
『おじさん、詳しいッスねぇ』と、Yが感心を露にしている横でねむちゃんは、『冷たい…!』と、口を抑えていた。
それに反応を示した葵ちゃんは『冷たいよねー!』と、隣にいる俺、その隣のYを通り抜けて、ねむちゃんに声を掛けると、ねむちゃんはそれに何度も頷きながら、『うん、冷たい。…けど、美味しい…』と、目を見広げた。
『嘘…!』と、葵ちゃんもそんなねむちゃんを見て、ひと口恐る恐るに頬った。
すると、『ほんとだ…。美味しい』と、葵ちゃんも頬を押えた。
『でしょ?でしょ?』と、Yは興奮様に葵ちゃんに指を差しながらに喜んだ。
『…でかいよ、声…』と、俺はYの隣で耳を押えながら子蝿を払うように手を振った。
『ハハ、賑やかで良いじゃないか。…ただ、氷下魚の旬は一月とか二月だから、その時期にはオオマイがとれる。でも、今の時期は産卵期だから、コマイッコが旬だ。コマイもタラ科だから、たらこ見たいなものだけどね。…さ、出来たよ』
小皿に融けているホタテを置いて、前以てコマイの卵が醤油に漬かっているタッパを取り出して、それをスプーンで掬い、上に乗せていく。
『え?何これ…?』と、俺たちは身を乗り出すと、『ホタテのコマイッコ醤油漬け。オリジナル料理だよ。食べてみて』と、葵ちゃんのお父さんは得意気な顔を浮かべて此方を見た。
『いた…だきます』と、小皿に乗っている割りに、大きなホタテを箸で割った。
ホタテを持ち上げて、こまいっこの香りを扇ぐ。
それを嗅ぐだけでもすごくいい香りだ。
箸で一摘みしているホタテを口に頬ると、口の中で踊らせながら、それを味わった。
醤油の風味が口の中で広がって、さらに細かい粒子がプチプチと食感を楽しませてくれる。
『ウマイ…』と、俺が言葉を溢すと、『良かった…』と、葵ちゃんのお父さんは安堵を示す様に、胸に手をあてた。
Yが『これ、お店に出せますよ!ウマイウマイ!』と驚きを露にして、隠しきれていない。
ねむちゃんも葵ちゃんもひと口ずつ頬張ると、声を揃えて『うん、美味しい!』と更に頷く。
葵ちゃんのお父さんは何かを揚げながら、『そっか!そりゃ良かった』と、満足気だ。
『あれ?それ…』
『お、気がついたかい?流石、葵だ』
葵ちゃんのお父さんは、揚がったカツを丁寧に切っていく。
バターで炒めたライスをお皿に乗せて、ポテトサラダをサイドに添える。
その上に、バターライスの上にカツを乗せて、マッシュルームの入ったデミグラスソースを丁寧に載せた。
更に、パセリをパラパラと散りばめて、それが完成された。
『お父さん、これ…』
『そう、父さんの十八番だよ』
『レシピ、見ないで作れるの…?』
『そうだよ。父さんも小さい頃、お店の手伝いをしていたからね。見なくても作れるようになったさ』
そのウタナのじいさんの十八番を、俺たち四人の前に並べた。
フォークも、それと一緒に添えながら。
『おいしそう…』と、コレを目の当たりにすると往々にして言っているが、正にその通りで、そのデミグラスソースの香りが感性を擽る。
『さ、食べてごらん』と、葵ちゃんのお父さんは腰に手をあてて、自信に満ち満ちた表情で言った。
『いただきます』と、フォークを手に取った。
先ずはとんかつに手を付ける。サックリと、衣が掛かっているのに、滑かにフォークが刺さる。
信じられなかった。今までに無いその手触りならぬ、フォーク触り。
そのまま持ち上げると、そのとんかつをひと口、サクッ。
肉汁がその衣からも溢れてくるのに、必死で口に納めると、サクサクっと噛み締めた。
口当りが、優しい。衣で痛くない。
隣で葵ちゃんが『…え…?』と、何かが引っ掛かったように驚くも、ゆっくりと、味わって、噛みしめる。
『…え、嘘…。こんなの、食べた事無い…』
確かに、じいさんが作ったモノと、違う味がする。
お馴染みなモノなのにも関わらず、その見た目とは想像を絶した。良い意味で、裏切られたのだ。
『お父さん、コレ、本当におじいちゃんのレシピ通りなの…?』
『そうだよ』
『いや、違います。…コレ、じいさんのモノとは全くの別もの…』と、俺も思わずそう言った。
『じいさんとの違いがわかるんだなぁー。マリーも。俺はどっちもウマイけどなぁ』と、俺の隣では何度もトンカツを頬張るY。
しかし、その反対の隣ではフォークが止まっている葵ちゃんがいた。
『そう、父さんのレシピ通りだ。でも、味が違うだろ?』
『…はい。何で…ですか?』
『それが私の個性だからだ』
『個性…?』と、葵ちゃんは首を傾げた。
『先程、父さんの店を手伝ったと言ったろう。その時に、この味で出した事があるんだ。でもね、クレームが来たんだよ。この味を食べに来たのでは無いってね…』
葵ちゃんのお父さんはシンクに腰を凭れて、話続けた。
『父さんは勿論、頭を下げたよ。その時に、私はもう客に作らないと決めたのだけど、父さんはそれがお前の個性だと、励ましてくれた。だから、そのまま作り続けてみなさいと。まるで、父さんの作ったモノが全てではない、と、言わんばかりに…。でも、客に認められない私の料理で、ウタナナタウが潰れるのは、本当に嫌だった。だから、継がなかった…。いや、継げなかったんだ』
葵ちゃんのお父さんはエプロンを取り外して、それを乱雑にも丸めて調理台にそっと置いた。
『でもね、葵。お前は違う。父さんのお店を続けたい一心で、深夜に隠れて父さんのエスカロップを作っている事は知っている。ただ、父さんのエスカロップに拘らず、葵のエスカロップを作る事の方が、父さんは喜ぶと思うんだ。…だから、あまり無理はするな。身体を壊してまで作ってしまっては、葵のエスカロップも壊れてしまうぞ?』
『お父さん…』
葵ちゃんは静かにフォークを置いた。
すると、顔を俯かせて、肩を小刻みに揺らせると、それが次第と大きくなる。
大きくなって、両手で顔を覆うと、葵ちゃんはしゃくり声を上げて、大粒の涙がその両手から溢れ出た。
『あ…葵ちゃん…?!』と、俺もYもねむちゃんも、席を咄嗟に立つと、葵ちゃんは言った。
『なんで…。何でお父さんの口からそんな事聞かなきゃいけないの…?もう、嫌だよ…。いっつも私の身体すら、心配した事なんて、無かったのに…』
『葵…』
葵ちゃんは大粒に流す涙を一滴一滴とこすり上げて、涙を堪えようとしていた。
でも、俺は堪えなくてもいいと、その時に思った。
甘え下手な葵ちゃんが、今、その緊張の糸がプツリと切れた様に、次から次へと大粒が降ってくる。
この時、もう葵ちゃんは一人ではないと、悟った。
『良かったね。葵ちゃん』
肩にそっと手をあてると、涙を流しながらに、葵ちゃんはうんと頷く。
そんな空気をガラッと変えるように、一気にエスカロップをかっこんで、カチャリと雑にもテーブルの上に、平皿を置いた音がした。
『ご馳走さまぁー!』と、隣でYは大きく声を出した。
すると、俺が葵ちゃんからぐるりとYに視線を変えて、『はっ?!もう食ったの?!』と、突っ込んだ。
『あぁ。だって、ウマイんだもん』
『岸弥くん、早い…』
『ってか、こんな状況でよく食い続けていられたな!』
そんなYを見て、葵ちゃんのお父さんが大きく笑いながら、『あっはっはっは!ありがとう。私のエスカロップを完食してくれて、嬉しいよ。おまけと言っては難だが、生牡蠣やデザートもあるよ。今、用意するね』と、大きな袋を取り出した。
『そんなに一杯…?!』
『あぁ、父さんが倒れた時、麻利央君から電話があったろ?その時、恥ずかしくも、魚市場で買いものしてたんだよ。父さんが元気になったら、腕の一本でも振るいたくてね』
『わーい!いっただっきまーす!』
『おい…!Y!』
『あー…。葵ちゃん、大丈夫…?皆、葵ちゃんの心配…』
『ふぇ~~~!』
じいさんが居なくなったのにも関わらず、『ウタナナタウ』は妙に明るい。
でも、じいさんは多分、こっちの方が嬉しいのではないか。
この時初めて、葬儀の通夜振るまいの時に言っていた、葵ちゃんのお父さんの気持ちが通じた。
今夜のウタナナタウは、ご無沙汰に一晩中笑い声が絶え間なく、夜霜を溶かす程、暖かかった。
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