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ひだまりの唄 4

五月八日
 
ゴールデンウィークもいつの間にか終わってしまった。そんな休み明けの学校初日の朝を迎えるが、中々身体を起こすことが出来ない。所謂五月病だ。そう自覚をした俺は、無理矢理にも身体を起こして、髪をセットし、朝食を済ませて、鞄を玄関まで持っていき、靴紐をきつく縛った。

『いってきまぁす』の声と同時に、扉の取手に手を掛け、外に出た。

暖かい日差しと、涼しい風が折り合い、心地がよく、一つ思いきり身体を伸ばした。

『んー!今日も気持ちがいいな』

暫く歩くと、通学路の途中の十字路で、Yは立っている。

『おはよう!』

『おう、おはよう!…なぁそう言えば、新譜、完成した?』

『曲だけなら、なんとか。取り敢えず、今日の部活で皆で考えようぜ。それより昨日さ、お袋と言い合いになったんだけどさぁ。聞いてくんない?』

『言い合い?どしたの?』

『カレーラーメンってあるじゃん。あれさ…』なんて、他愛ない話をしていた。

あー。なんて、平和な朝だ。

しかし、そう思っていた矢先、『バン!』と、何かが俺の肩に凄い勢いでぶつかって来た。

『イテッ!』

俺は思わず肩を庇った。

ぶつかった相手らしき人がそれに構わず走り去ろうとした。

すると、Yが『おい!ごめんなさいの一言あってもいいんじゃないか?!』と、その子に叫んだ。

するとその子は、肩まであるウェーブがかった髪を靡かせ、振り向いた。

その表情は、少し睨んでいるようにも見えた。

そして、そのまま何事もなく走って行った。

『なんなんだよ。…あの制服、ウチの学校だよな』

Yがそう言ったのを聞いてはいたが、俺は何も言わず、黙っていた。

『おい、マリー!どうしたよ?』

『…いや、何でもないよ。悪いな、心配かけて』

『マリーも優しすぎだよ。ああいう時は、怒っていいんだぞ?』

『…あの子も急いでたみたいだし…。わざとじゃなさそうだから、仕様がないよ』

『マリー…。まぁ、そう言うとこ、嫌いじゃないんだけどな』

Yは、パンと俺のぶつかった方の肩を優しく叩いた。そして再び、二人で足並を揃え、学校へと向かった。

校舎の昇降口で靴を脱ぐと、野太い声が後ろから聞こえた。

『おはよう!』

『おう!山木じゃん!おはよう!』と、Yは陽気に答えた。

『そう言えば日野、さっき先生が探してたぞ?』

『え?先生?』

『あぁ、職員室で待ってるって』

内心、面倒臭さが俺の脳裏にはちらついたが、先生が呼び立てられる事があまり無い俺にとって、その理由の方が気になった。

『俺、何かしたっけ…?』なんて、微々たる不安を胸に、いざ職員室の扉を二度、ノックした。

『失礼します』

そう言うと先生が直ぐ様此方に気付き『あ、日野君。ちょっと』と、手招きをした。

なんだ?嫌に先生の掛けている眼鏡が光って見える。

しかも、七三に分けた髪に、後ろに一つ束ねているそれが、叱咤しそうなオーラをさらに増長させているように感じた。

俺は生唾をゴクリと呑み込み、先生の前に足を止めた。

『何でしょう…?』

『聞いたわよ?三年生の駒場君達ともめたんだってね』

なんだ、その話か。と、少し安堵の息を漏らした。

『別に揉めたって訳じゃないですよ』

『そう?怪我は無かったの?駒場君の担任の先生に、私から注意するように伝えたから。もし、もう一度同じことがあったら、直接先生に言ってね?』

『大丈夫ですよ。怪我もありませんし、大した事じゃないですよ』

『そう。良かったわ。…霧海さん、凄く心配していたから、貴方に怪我が無いか聞いて欲しいって、頼まれたのよ。無事で何よりね』

『…席、隣なんだから直接聞けばいいのに…』

『思いやりなのよ。転校してきて間もないのだから、仲良くしてね。後、授業中居眠りしないでね?先生からは以上です』

余計な物を語尾に含まれた事が多少気になったが、『はい。失礼します』と、職員室を後にした。
そして、そこから教室に向かう途中、背後から廊下を駆け足で来る音には気がついていた物の、それを気にしないで歩いていると、いきなり『バン!』と、またもや肩に強い衝撃が身体を伝った。

『いた!』と、言うと、そのぶつかった子が此方を振り向いた。

『あ…。君…』

その振り向いた子は、確かに今朝ぶつかったその子に間違いは無かったが、またも、ジッと睨みを効かせているように、俺には見えた。

『君、見ない顔だけど…転校生?』と聞いた瞬間、また走り出してその場を去ってしまった。

『なんだろう?』と、少し気になりかけたが、それを無視し、教室へと急ぎ足で向かった。

教室の引き違い扉をガラガラと開けると、窓ぎわで山木と話をしているYが、真っ先に目に付いた。

俺の存在に気が付いたYは『おう!』と、手を上げて俺を呼んでいる。

それに招かれる様に、俺も徐にYに近付いた。

山木が心配そうに『そう言えば、先生の呼び出し、何だった?』と、伺いを立ててきた。

俺は手を横に振りながら、『いや、大した事じゃなかったよ』と、笑って見せた。

『大した事じゃないって言ってる日野は、大抵怪しいんだよな』と、更に煽るように山木が言った。

『え?そうかな…』

『なになに?これは事件の予感?』と、Yは身をのりだし更に聞こうと俺を真っ直ぐと見てくる。
説明するのが面倒だったが、そこまでされたら仕様がない。俺は詳しく、だけども、大雑把に説明を施した。

『…いや、実は、先生に呼ばれたのは、前に先輩達に絡まれた事あるだろ?』

『あぁ~…。松ヶ枝に常盤に駒場。あの時でしょ?』

『あぁ、あの三年の柄の悪い三人組ね。絡まれたの?』

俺は一つ頷いて、説明を続けた。

『あぁ、その時、マリア先輩に助けられたけど、そう言う事あったら先生にも伝えて欲しいって。そんな話だよ』

『…え?俺もその場にいたのになぁ。俺は先生に呼ばれなかった…。何でだろ』

すると、山木が急に笑いながら『横室は説教したって聞かなそうだからなぁ』と、からかったように言うと、『えー?なんでだよー』と、Yも笑った。

俺も笑った。

だけど、なんだか胸のざわつきが取れずにいる。そう、朝に二度もぶつかった彼女の事だ。

別に話す必要も無いとも思ったが、胸の支えを取っ払う為に、口を開けた。

『…でも…さ。その後、今朝ぶつかった子とまたぶつかったんだよ。そっちの方がなんだか気掛かりで…』

Yは驚いたように『今朝ぶつかったって…。え?!またあの子と?!』と、言うと、俺は黙って頷いた。

『一日に同じ子にぶつかられる事って、そんな無くね?』

『あぁ、無い。日野、相当その子に気に入られてるんじゃない?狙ってやらないとそんな事、滅多に無いぞ?』

『ほんとだよな!そいつ、ちゃんと謝って来た?』

Yが目頭を吊り上げて言うと、俺は黙って首を横に二度振った。

『なんだよそれー!ほんっとにあったまくんなー!』

Yは腕を組み、ふくれっ面でそう言った。

『…でもさぁ、そいつ日野の事好きなんじゃないか?』

そんな野太い声で、色恋な話は似合わない、なんて思った。

『何でよ?』と、Yはふくれっ面をやめて、またも身を乗り出した。

『だってさ、二度ぶつかるって事は、日野を追いかけていないと出来ない事だろ?…てことはだ…』

『今でも何処かで…マリーを…!』

『馬鹿馬鹿しい』と、俺は即座にその話題を一蹴させた。

あーあ。やっぱりこの二人に言っても、支えどころか、おちょくられて終わってしまう。

そんな事は目に見えて分かる事なのに、なんで言ってしまったんだ。と、自分を責めずにはいられない。

そんな自責の念を抱きながら、鳴り響いたベルの合図で学級委員長が号令をかけた。

窓ぎわの一番後ろに腰を掛けると、横には、ねむちゃんがいた。

教科書を開いて、ジッと、真剣な眼差しでそれを読んでいる。

俺は手に持ったシャープペンシルを親指でクルクルと遊びながら、教科書を読んでいる。…振りをした。

少し気になって、チラチラと横に、無意識ながら目を向ける。

しかし、そんな自分に気が付き、嫌気がさして、机の上に顔を置き、窓を眺めた。

あくまで、気にしていない自分を装いながら。

『それじゃあ、この文、読んでくれる人いますか?』

あー。先生に呼ばれた時、『隣なんだから直接言ってくれればいいのに』なんて言ったけど、正直、話掛けられたらなんて話せばいいか分からなくなるのは、多分、俺の方。

『誰も手が上がらないの?それじゃあ…』

何故あの時、軽音楽部に入ってくれないか。と、誘えたのか。不思議で堪らない程だ。

『日野君。お願いできる?』

でも、不思議と言えば、廊下でぶつかったあの子。何故何も言わず、無表情で此方を見て走って行ったのか…。もしかして本当に俺の事…。いや、あり得ない。初対面で俺の事を気に掛けてわざとぶつかるなんて、そんな事あるか?いや、ない。でも、ちょっとあのふんわりとした外観ながら、睨まれたけど、奥ゆかしい瞳をしたあの子、スゴく可愛かったな。

『日野君、聞いてますか?』

そう言えば、昨日は昨日で、海岸で遊んでいたあの子も気になる…!なんだ、俺の脳内。少し落ち着けよ。落ち着け…。落ち着け!

『日野君?!聞いてますか??』

先生のその言葉で、俺はハッと身体を起こした。
俺は『ハイ!』と、声を上擦らせ、立ち上がった。

『この文、読んでくれる?』

『この文…?』

『…先生の話、聞いて無かったの?』

『あははは…。えーと…』

と、俺は教科書を持ち上げ、分かりもしないその文を目で探しているその時だった。

隣の席でねむちゃんが、然り気なく、その読み初めの段落を、指をさして俺に合図をくれた。

俺は頷いて、その段落を一通り読んだ。

俺は読み終えて胸を一つ撫で下ろすと、『はい。よく読めました。霧海さんに感謝しなさいよー』と、先生にはバレていた。

俺は着席をして、ねむちゃんに小声で『ありがとう』と、言うと、ねむちゃんはニコッと微笑み掛けてくれた。

俺はそれに少し、微笑んだ。

すると唐突に、窓から見えるその光景が、風と共に少しざわつき出した。
 
窓越しのざわついた揺ら木を眺めて、火照った身体を涼ませようと、授業の終わりを告げるベルが学校中に鳴り響いたと同時に、その窓を開けた。風を浴びると、うんと身体を伸ばし、俺は窓の冊子に身体を預ける様に、『はぁ~…』と、タメ息を漏らしながらもたれ掛かった。少し、やっぱり胸の奥がむず痒い。

『ありがとう』と、一言彼女に言うだけで、これだけ身体を暖める事ができるのなら、冬の極寒も凌げる程だ。

しかし、そのざわついた胸の奥と、それを表しているかの様に、木々も揺れ動いている。

それをボーッと眺めていたら、淡い霧がゆっくりともやがかり、その風に乗りながら動いてる様に見えた。

季節の変り目、気温が急激に低くなると霧などよく目にする物だ。と、少々達観的にそれを見ていた。

しかし、その直後だった。その淡い霧がだんだんと形を整えて、人の形に形成されていく。

身体をだらんと窓から垂したまま、その様をじっと見ていた。

やはり風の影響もあるのか?など、ありもしない事を考えながらそれを眺めていた。

両目を手で擦っても、それは崩れていない。俺は『なんだ?この霧、少しおかしい』と、やっと疑問の念を抱いた。

するとその霧は、窓からすぐ見える木々をも薄くさせて、小さい人の形だけがくっきりとくり貫かれ、そこからしか、窓からの景色を見ることが出来ない。

俺は『え?何?』と、怪しげなその霧に声を掛ながら、やっと身体を起こした。

『僕だよ』と、頭の中で声がした。

『え?!』と、声を出した。

『しー。声は出さないで』

その霧は微動だにしない。そのまま俺に語りかけた。

『君はこれから、様々な出会いがある。でも、君にはまだ勇気が足りない』

なんだ…こいつ。と、俺は思った。

『なんだ…こいつ。って?…僕は、いつも君の鞄に付いているよ?』

鞄?そう思って、俺の鞄がかけられている机に目を配った。俺の鞄に付いているのは、黒い紐でキーホルダー代わりに付けている、掌で包み込める程の、小さな貝がらだった。

小さい時、Yとある誓いを交わした、大事な貝がらだ。

だから、俺は自分の身から離さないように、それを鞄に付けている。

これが、お前?と、目をその霧に向けた。

『そうだよ。君には気になる人がいるけど、それを育ませる事が、君一人ではまだ出来ないでしょ?だから、僕が背中を押してあげるよ』

大きなお世話だ。と、俺は思った。

『…そんな拒んでばかりじゃ、何一つ変わりはしないよ?君みたいな人の言葉を待っている人だっているんだから。君が変わらなきゃ、回りだって変わりはしないんだよ』

…なんか、失礼な奴だな。

『何かあったら僕を呼んで。ね?必ず力になるから。…必ず』

そう言ってその淡い霧は、目の前から左右に散っていった。

もう呼ばねぇよ。…てか、呼んでねぇよ。と、冊子に片肘を付けて舌を出した。

『おいおい、こんな寒いのに窓なんか開けるなよ。閉めろ閉めろ』

隣からYが窓を閉めた。

『熱かったのか?日野。分かるぞ、俺も気持ちは常に熱いからな』

山木がそう言いながら肩に手を掛けて来た。

『暑苦しいよ…。てか、山木はいいよな授業中に目を瞑ったって、先生に当てられないんだから』
俺がそう言うと、山木が言った。

『日野は本当に寝てるからな。まぁ、俺も瞑想していながら、本当に寝てる時もある』

すると、Yは驚いたように言った。

『え?!寝てる時もあるの?!あんなに姿勢伸ばして目を瞑ってるのに?すげぇな!あれで先生に当てられたって返事一つしないんだから、なんかお前、カッコいいよ!』

『カッコいい…かな?』と、俺は首を傾げたにも関わらず、山木は『カッコいいかなぁ~。ありがとう横室。自信付いてきた』と、根も葉もない自信を付けていた。

『あぁ!なんか、柔道一筋って感じ!柔道部、今年こそ全道大会行けたらいいな!』

Yは山木の背中をバシバシと二度叩いて、エールを送っていた。

俺はそれを呆れながら、横目で見る事しか出来なかった。

全ての授業が終わり、部室に行く準備を済ませて俺は鞄を手にした。

その時にふと、小さい貝がらのキーホルダーが目に入った。

…やめよう。気にしていたら、いつどこで霧の中のあいつが出てくるかわからない。

するとYが、『部室行こうぜ!』と、いつも意気揚々と俺を誘う。

俺はそれに一つ頷いて、教室を出た。教室は二階。そこを降りるとすぐに昇降口がある。

そこから日がくれる方角へ曲がり、その突き当たりに部室はある。

因みに逆に曲がると体育館へと繋がるんだけど、端から端は本当に遠い。

部局紹介の時みたいに、イベントが体育館で行われると、そこまで準備をするのがいつも大変なんだ。

だけど、それを苦とも思わないのがマリア先輩。やりたい事は全てやり抜くタイプで、本当に情熱がある。

その熱い魂は、校内一と言っても過言ではない。
ほらほら、部室へ近付くと早速ドラムを叩いて練習している。

そんなカッコいいマリア先輩に、俺だけじゃない。Yだって、尊敬して止まない程だ。

ガラガラと部室に入ると、俺達二人に気が付いていない位、練習に没頭している。

そんなマリア先輩のスネアやハット、シンバルの叩く音が本当に心地いい。

しかし、それを邪魔するのはいつもYだ。

ソーッと背後に忍び寄り、マリア先輩の背中に手を当てて、『ワッ!』と、大きく声をあげる。

『うわー!ビックリした!も~う!岸弥!それやめてって言ってるでしょ?!』

『アハハ!すいませぇん。でも、どうしてもやりたくなっちゃうんですよねぇ~』

俺はそれを見て、この三人でバンドをやれる幸せを常に噛み締めているんだ。

『あ、二人とも!新譜、何か出た?』

Yは含み笑いを浮かべて、『ふっふっふ…。ジャーン!』と、紙を一枚、机の上に置いた。

『メロディーはまだですが、歌詞とタイトルだけでも。こんなのどうッスか?!』

俺とマリア先輩はそれを見る為に紙を取ろうとしたが、Yがそれを取り上げた。

『あー!ずるいッス!マリーもマリア先輩も、見せて下さいよ!』

『えー…。いいじゃん。見せてよ』

『分かったよ。それなら皆で、せーの。で出そう?』

すると、三人で『せーの…』と、声を揃えて、紙を出しあった。

Yはタイトルと歌詞。俺はメロディーだけ、マリア先輩はそのどちらも作りあげてきた。

『え?!マリア先輩!どっちも作ってるじゃないッスか!天才ッスね…』

『スゴい…。才能ある…』

すると、マリア先輩は恥ずかしそうに顔を俯かせながら、『いや、実はずっと前から新譜やりたいって思ってて…。いつか、これを三人で出来たらな。って。…どれどれ?あんたたちは?』と、そう言ってマリア先輩は俺とYのを一枚ずつ手に取った。

『…』

黙々とその紙を見ているマリア先輩を見て、何故か、アルバイト先に履歴書を見られているような、そんな感覚が俺達二人を襲った。

そのせいか、俺とYは同時に唾を飲んだ。

『…これって…二人で作ったの?』

『いや、作ってないッスよ?』

『俺は俺で、YはYですね』

また食い入るように、俺とYの用紙を、順番に見ていた。

『これ、岸弥の歌詞とマリーの譜、合わせても多分いけると思うよ』

そんな偶然があるのか?と、思いながら『ウソ!?』と、声を揃えた。

『そんな事、あります?』

『…こんな偶然起こる?…もう、どれだけ仲がいいのよ…。仕方がないなぁ…』

そう言ってマリア先輩は、Yと俺の譜を高く上げて『今回の学祭、これにします!』と、言った。
またも俺達二人は声を揃えて『えー?!』と言った。

『いいンスか?!だって、マリア先輩はずっと前から三人でやりたい新譜、用意してたじゃないですか!』

『そうですよ!マリア先輩、今回でラストなんですから!』そうYが言うと、マリア先輩は腰に手を当てて『部長命令です!』と、言った。

『それに…。三人でやるのは…最後じゃないでしょ?』

そう言ったマリア先輩は少し恥ずかしそうにしていた。

俺達二人も、そんなマリア先輩を見て、少し照れたように言った。

『…そうッスよね!…最後じゃないッスもんね!やりましょうよ!マリア先輩!これも、マリア先輩の新譜も、必ずやりましょう!』

『Yが張り切り出したよ。ね、マリア先輩!』

すると、マリア先輩はまたも恥ずかしそうに笑いながら、一つ頷いた。

俺達二人は、マリア先輩がもし卒業しても三人でバンドを続けていられる喜びをわかち合ったように、跳び跳ねて喜んだ。

『…でも岸弥。これ、なんで英語なのよ?』

『えー?その方がカッコいいじゃないですか』

俺はマリア先輩が持っている用紙に書かれた、Yの作ったタイトルを読み上げた。

『…mermaid  in  love…?どういう意味?』

『なんか、カッコいくないっすか?!』

『それだけ!?』

『もう!自分が意味を分かってないでどうするのよ!』

マリア先輩も俺もYも、本当に楽しく、笑いあった。

『…本当に、この三人でいるのが、すごく楽しい』

俺は小声で、ポロッと、そう溢してしまった。
 
早速練習に励んでいる中、俺のギターの五弦が急に『ヴァン!』と、嫌な音を出しながら、切れてしまった。

『アァァァァーーーーーー!!!』

『あれ?どうしたよ?マリー…。アー!』

Yも俺のギターを見て、激しく驚いていた。

『あ~あ…。これはもう弦を変えるしかないわね』

立ち直る事が出来ない。エレキギターの弦は、太ければ太い程、高く付いてしまう。

生憎、今の俺の財布には、日本銀行劵など、一枚も持ち合わせてはいない。

『メンバーが気分上場のこんな時に、なんて不吉な事が起こるんだよ…』と、俺は思わず声を漏らしてしまった。

『起こってしまった事は仕様がないわよ。今日はこの辺にしときましょう。替えの弦、三人で探しに行こう』

すると、Yが何か閃いた。

『あ!そう言えば、聞いて下さいよー。マリア先輩!ギターで思い出したんですけど、昨日の夜、家の母さんと揉めちゃったんですよ…。カレーラーメンってあるじゃないですか』

俺はあきれ様、Yに言った。

『なんでこんな時にそんな話出来るんだよ…。てか、ギターでなんでカレーラーメンを思い出すんだよ』

『似てんじゃん。ギターとカレー』

『カタカナで尻に長音符が付いている位しか、似てないよ』

『ついでに、三文字って所もな』

すると、パンパンパンと三度手を鳴らし、マリア先輩が近付いた。

『ハイハイハイ!続きはエオンの道中聞きますから、今はマリーの弦を探しに行くわよ!』

その号令にYは『はーい!』と、気持ちのよい返事をうっているにも関わらず、それとは逆に、俺は『えー…』と、怠惰な返事をした。

『何?何か問題でもあるの?』と、マリア先輩はそんな俺に渇を入れるように問い詰めた。

『弦なら、俺一人でも買いに行けますよ。それに俺、今、持ち合せが無いですし…』

『私が立て替えてあげるわよ』

『うわ~!マリア先輩、カックイイ♪』

Yが他人事のように呑気な事を言っている横で、俺は大きく首を振った。

『いやいやいや!借りれませんよ!いつ返せるか分からないですし、それに五弦なら高く付いてしまいますし…』

『あれ?弦っていくらするの?』

すると、Yが流暢に口を滑らせた。

『バラ弦で六本入りセットであれば、いい奴でも千円位するんじゃないッスかねぇ~。ピンきりですけど』

『なんだ。それなら貸してあげるよ』

『いや!絶対しませんよ!そんな事!一円でも、俺は借りられません!』

頑なに首を横に振っている俺を見て、マリア先輩は困った顔を浮かべている。

それはそうだ。俺はこのギターだけ、小さい頃からお小遣いを貯金して、自分の力で買ったのだ。

お金は、あればあるだけ使ってしまう。そんな俺が、頑張って積み上げてきたこのギターを、他力で良くしようと考える程、俺の頭は柔では無い。
その位、このギターに対する思い入れが強かった。

すると、Yが提案をした。

『…ま、こうしてても埒があかないので、先ずは下見と行きませんか?最近、楽器屋自体ご無沙汰ですし!』

『…それもそうね』

『こうなったマリーは、どんな状況でも意志は曲げませんから。でも、どうせ練習は出来ない。それなら、こんな所で駄弁っていたって仕様がないですよ。それだったら暇潰し、と、言う名目で、いっちょエオンに顔出すだけでも出しましょうよ』

そう言ってYは俺の肩を組ながら、『な?それならいいだろ?』と、言った。

俺はYのその提案に屈して、『まぁ、それなら…』と漏らした。

『それじゃあ決定!早く行きましょう!』

俺はその提案に、釈然とはしていなかったが、従う事にした。

『…で、俺はカレーはドロドロした奴が好きなんですけど、母さんったら出汁にカレーのルーを溶かした方が美味しいって…』

『えー。私も出汁にルー派だなぁ』

『え?!マリア先輩、まさかのそっち派?!』なんて二人は会話の花を咲かせているその傍ら、俺は一人、考え事をしていた。

すると急に、『マリーはどっち?』と、Yが訊いてきた。が、俺はそれに気がつく事さえ出来なかった。

『おい!マリー!』

『あ…はい?』

『聞いて無かったのかよー』

『ごめん…』

すると、マリア先輩の隣からわざわざ俺の方へと、Yが駆けて来た。

『ギターの弦切れたって、また替えりゃいい話だろ。そんな落ち込むなって!』

『まぁ…。そうなんだけど…』

するとYが、そっと耳打ちをした。

『俺には、分かるぞ?』

『え?』

『鞄に付けているキーホルダー。お前は小さいので俺は大きいの。その時、二人で誓ったもんな』
俺は驚いてYを見た。

『俺だって、少ない小遣い叩いてやっと手に入れたこのベース。もし弦が切れたとしても、マリア先輩からはお金を借りない。最後まで、自分で手入れしたいもん』

『Y…』

『だから俺は、マリーの気持ちとマリア先輩の気持ち、どっちも汲み取りたかったんだよ。だからさ…許してくれ。な?』

そんな事を言われると、一人でただただ悄気ていた自分が少しバカらしくなった。

俺は『こっちこそ…独り善がりでただただ落ち込んで、ごめん』と、頭を下げた。

『なんでマリーが謝るんだよ。何年の仲だと思ってんだ。俺達』

そう言ってYは、爽やかにはにかみながら、俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。

『ハハ。止めろよ…』

『二人ともぉー!何してるのよー!早く来なさぁーい!』

『なんでもないッスーーー!…マリア先輩の隣、行こうぜ!』

俺は一つ頷いて、マリア先輩の所迄、駆けていった。

でも、Y。それも少しあるけど、本当は違う。本当はそんな事より、Yのそんな男前な器量に、少し嫉妬していただけなんだ。

俺は情けない気持ちと同時に、Yのモテる所はそこにあるのかなと、改めて確認が出来たような、そんな気さえ、その時したのだった。

エオン迄たどり着いた俺達は、エオンの自動ドアの前まで歩み寄り、それが開くと聞き慣れたその店内の有線が相も変わらず鳴り響いている。

辺りを見回すと、何時もと同じその店内の様子に、この町の平静が取られて居るような、そんな感じをいつも受ける。

それが何故かは分からないが、少し安心するのだ。

入って直進すると、エスカレーターがある。そのエスカレーターに足を乗せると、マリア先輩がくるりと振り返った。

『そうだ!そう言えば、二人に聞きたい事あったんだ』

その唐突さに、俺とYはキョトンとした顔を浮かべた。

『今回の役員選、二人は何か入らない?』

そしてお互い、顔を見あわせた。

『私達三年も八月で終わりだし、何か委員長になるなら今から考えて欲しいなって。因みに、ウチの生徒会長が、生徒会に入るなら、マリーを推していたわよ?』

『え?!あの山田会長?!』

Yがホッとした表情で俺に『良かったじゃねーかぁー!マリー!』と、半ば押し付けがましくも俺に言った。

『えー?!やだよ』

『大丈夫だよ!週に三~四回は私と山田会長が様子見に行って、アドバイスできる所はするから!やってみない?』

そんな藪から棒に言われても、即断即決出来るわけがなく、『まぁ、考えてみます…』とだけ言ってみた。

マリア先輩がそんな曖昧な返事をしたのにもかかわらず、既にその気になっているのか、『もし立候補するなら、必ずマリーに票を入れるからね?』と、またしても眩しい笑顔を見せながら言った。
それにYは『俺も、必ずマリーに入れるぜ!』と、何とも調子が良さそうだ。

つい先程のアレを撤回したくなる程、嫌らしいその姿に、『俺が立候補したら、Yも何か立候補しろよ』と、無茶に振った。

するとマリア先輩と揚々とした表情を浮かべながら、『あ!それがいいね!』と賛同してくれた。

『…え?あ?…何で俺も入ってるんだよ!』

『勿論だよ!ねぇ?マリア先輩!』

そう俺が言うと、マリア先輩は何度も頷き、『これで生徒会、二人決まったような物ね!』と何とも嬉しそうに言った。

『えー!そりゃないですよ!俺、苦手です…』

『Y、絶対逃がさねぇぞ!』

『あはは!…そう言えば、マリーは岸弥の事、いつの間にYって呼んでるよね?』

『そうですよ』

『なんで?』

俺は眉間に皺を寄せ集め、マリア先輩に言った。

『廊下歩く度、コイツ、女子に話かけられまくりでハリウッドスターみたいなんですよ。なので、名字の頭文字だけ取って呼んでるんです』

『…Y…か。なんか呼びやすいし、それいいね。私もこれからそう呼ぼうかな』

『えー?!マリア先輩まで…』

『あはは!決定な!』

『Y!』

『…なんですか…』

『Y…。なんで頬を赤く染めてるんだ?』

なんて下らない話をしていたら、目的である音楽ショップへと辿り着いた。

三人でそのテナントへと足を一歩踏み入れると、元気よく『いらっしゃいませ』と、声が聞こえた。思わず、その方向へと顔を向ける。

身長はそこまで高くはない俺より、少し小さかった。

ストレートに伸ばしたその黒い髪は、光に反射し、黒いニットの服、茶色いロングスカートに赤いショートブーツがよく似合う。

商品をフックに掛けるその両手が凄く繊細な手付きにも見えた。何故その子を見て一瞬で釘つけになったのか。

そんなの簡単だ。昨日、Yとマリア先輩と海岸へ遊びに行った時、確かに居たのは彼女だ。

そう核心しながらも、声を掛けるその一声を出す勇気など、俺には当然ない。

確かにこちらを見て、一瞬、はにかんで見えたのも、全てが気のせいだと、この時感じた。

するとYが『あ!こっちに弦があるじゃん!』と、大きな声で、その女の子が商品を出してる横へと飛び付いて行った。

おいおい。邪魔になるからやめなさいと、そう思った矢先だった。

その子はYを見て『いらっしゃいませ』と言うと、辺りを見回し始めた。

その時だ。後ろを振り返り俺とまたもや目があった。

『あ』と、思わず声が出てしまった。 

『あ』と、彼女も声が出てしまったのだろう。

彼女が静かに此方に歩み寄って来たが、俺はその時、体を微動だにする所か、心臓の鼓動だけしか、動かす事が出来ないでいた。

『昨日、海で遊んでた方…ですか?』

俺は言葉を呑み込んでしまったせいか、長く間を開けてから、『はい?』と、聞き返してしまった。

『やっぱりそうだ!』

まだ、俺からは何も言っていないが、彼女は凄く嬉しそうな表情を浮かべていた。

『あ、急に話し掛けて、ごめんなさい。私、渡辺 歩弓といいます』

『あ、どうも』

『あなたは?』

『へ?』

『あなたは何て言うお名前なんですか?』

グイグイ来るなぁ。と、内心思いながら、『日野 麻利央です…』と、一応、名乗った。

『あ、やっぱり!』

やっぱり?俺ってそんな有名なのか?

『私、部局紹介の時、ずっと見ていました!楽器、お好きなんですか?』

『…あ。あぁ、人並みに好きだけど…』

なんだこの展開、初めてすぎるのだが。

『でしたら是非、考えて見てください!』

そう言われ一枚のチラシを渡された。

『へ?』

『音楽に興味があれば、誰でも働けます!もし良ければ、これ、考えて見てください!私、二年B組に居ますので、もし働く気になりましたら、私にいつでも声を掛けてください!あなたも、どうですか?!』と、その子はマリア先輩に話を振ると、『え、え?あたし?私は、間に合ってます!』と、狼狽しながらも、そう答えた。

『そうですか…。何にせよ、麻利央君!よろしくお願いしますね!』

そう言って、その子は一つペコリとお辞儀をし、去っていった。

なんなんだこの展開、開いた口が塞がらない。

初対面の子に、バイトの勧誘をされるなんて、初めてすぎてついていけない。

俺は、そのチラシに目を通した。

『…時給、八百円…。これまた…』

『どうするのよ?』とマリア先輩はツンとした口調で俺に聞いた。

『まぁ…。考えますよ。金も無いし…』

『生徒会を取るか、金を取るか。だな』

Yと俺とマリア先輩は、そのチラシを手にして、本来の目的を忘れてしまい、その音楽店を後にしたのだった。

エオンを出ると、夕暮れの日射しが住宅街に落ちようとしている。

辺りが暗くなったのに気がつき、腕時計を見ると、なんと十八時を遠に過ぎていた。

『うわー…。もうこんな時間?』

『やっちゃいましたね…』

Yが頭を掻きながらそう言った。

『弦なんて、お金さえあれば何時でも買えますよ』

そう言うとYが、『どっかの大富豪が言うセリフだぜ?それ』と、笑いながら言うと、『あはは。でも買う物が買う物だけに…ね』と、俺も苦笑いをした。

『それじゃあ、帰りましょうか』

『そうですね!じゃあな!マリー!先輩!』

『おう、また明日な』

そう言って三人は散って帰路に着くと、俺は、ふと、足を留めた。

『そう言えば、ウタナのじいさん。元気かな…』

頭の片隅でその想いが強くなり、俺はウタナのじいさんのいる方向へと、歩を進めた。

ウタナのじいさんのお店は、エオンから歩いて五分程、路地裏を歩けば、古い家々が並んでいる。その並んでいる奥に、三角屋根の木造建築が一軒だけ離れて建っている。

一見すると、それはまるでバンガローみたいな。そこまで大きくなく、片隅に置かれている様な、そんな印象を受けるのだが、他の家々と比べると、外観はとてもお洒落なせいか、目を引く物が、それにはある。

そしてここのお店、二〇時閉店なので、まだやっている。

カラコロカラン。『ウタナナタウ』の扉を開くと、ウタナのじいさんがコップを拭きながら『いらっしゃい』と迎えた。

『あ、ウタナのじいさん。体調はどうだい?』

肩に掛けている長いギターバッグを、入り口横にそっと置いた。

『あぁ、すこぶる調子がいいよ。昨日から孫娘がこの店を手伝ってくれているせいか、身体が軽くなった気がするんだ』

『そっか、良かった。体調そぐわなそうだったから、心配していたんだよ』

ウタナのじいさんは心配いらない、と言わんばかりに首を横に振って、『エスカロップ、食べるかい?』と、俺に伺った。

俺は首を横に振った。

『今日はいらないよ。ウタナのじいさんと喋りたくて来たんだから』

ウタナのじいさんはニコリと笑い、『ありがたい…。そう言ってくれる事が、とても幸せでならないよ』と、そう言いながら、キャンディーボックスをテーブルの上に置いた。

そして、ゆっくりとウタナのじいさんはそれを開けた。

『あ、ラスクマンだ』

『麻利央君にあげよう。私はあまり食べないから』

俺はそれを手にとって一口噛み締めた。

しっとりとした歯触り、噛めば噛んだ分、甘さがじわりと滲み出てくるような、そんな感覚。

俺の大好きな逸品で、本当にやめられない。

すると、ウタナのじいさんはくるりと振り向き、カウンター横の扉を開けて、『葵ー』と呼んでいた。

『ラスクマンあるけど食べるかい?』

そう言った時、タンタンタンと階段を下りる音が聞こえた。

『折角の機会だ。孫娘を紹介させてくれないかな?』

俺はラスクマンを食べながら、キョトンとしていた。

階段を下りる音が止むと、その扉から一人の女の子が顔を出した。

『お腹空いたから小腹を埋めるのにちょうどいい…』

『…』

『…』

あれ?この子、何処かで見たような。と、思った瞬間、俺の脳裏のあらゆる情報が、高速で処理されていった。

『あ!君!』と、俺が指を指して言うと、『あ!廊下でぶつかってきた君!』と、彼女も大きな声で言った。

『え?俺からぶつかった…。と、言うか!君からぶつかってきたんでしょ!』

そう、今朝、俺にぶつかっあの子が、俺の前に現れた。

『なんだ、二人とも、知りあいかい?』と、ウタナのじいさんは何か喜ばしそうに言った。

『知りあい…では、無いけど…』と、俺は口をまごつかせて言うと、ウタナのじいさんは『ほれ、葵。麻利央君の横に座って食べなさい』と、その子の背中を押して、俺の席の横まで連れてきた。

その子が渋々そこに座ると、ウタナのじいさんが喋り出した。

『家の孫娘の歌名 葵 。凄く気立てが良く、いい子だ。仲良くしてやってくれないか』

『ちょ…止めてよ!』と、葵ちゃんは少し照れたように言った。

『ハハハ。照れてるのか』と、ウタナのじいさんは笑った。

その時だった。ウタナのじいさんが身体を激しく揺らしながらゴホゴホと咳を大きくして、その場で倒れこんだ。

『ちょっと、大丈夫?!』と、葵ちゃんは席を立つ。

それを見て、俺もいても立ってもいられなくなり、カウンターの中に入った。

葵ちゃんが身体を支えている反対側を、俺は支えた。

『ゴホゴホ…済まない…。すぐ治まる…』そう言ってウタナのじいさんは俺の手を優しく触れながら言った。が、葵ちゃんは『いや、おじいちゃん。無理しないでよ。後は閉店まで私やるから。何かやっておく事はない?』と、言葉を掛けた。

『大丈夫だ…。もうほとんど葵が済ませてくれたじゃないか。…後は閉店準備だけだよ』

『だったら、早く寝て体調を整えよう。ね?』

ウタナのじいさんはそれにかぶりを振ったが、『良いから、ほら、行くよ!』と、身体を二人で持ち上げ、階段をゆっくりと一段一段上った。

階段を上ると、部屋が左右の二手にある。その左側の扉を開けた。

『ちょっと支えてて』と葵ちゃんはじいさんから手を離し、素早く布団を敷いた。

そこにウタナのじいさんを寝かせると、申し訳無さそうにウタナのじいさんはこちらを見ていた。

それに気がついたのか、葵ちゃんは『気にしないで。ゆっくり寝ててね』と、じいさんを身体を労った。

俺は、どこか胸を締め付けられるような、そんな感覚さえ芽生えた。

扉をゆっくりと閉めて、階段を下りながら、俺は聞いてみた。

『じいさん、身体やっぱり良くないんだ…』

葵ちゃんは少し寂しそうな声で答えた。

『うん…。去年の冬位から余り体調が良くないみたい』

階段を下りると、ウタナのじいさんが机の上に置いてくれたキャンディーボックスの前に、二人で腰を掛けた。

『病院には行ってないの。…と言うか、行きたがらないの。私、元々神奈川にいたんだけど、おじいちゃんの体調が悪いってお父さんから聞いて、慌ててこっちへ来ちゃった。だって、勉強ならどこでだって出来るでしょ?環境が変わったって、出来る事はあるもの。それより、おじいちゃんの身体の方が心配。だから、病院に行ってほしいんだけど…』

『なんで行きたがらないんだろう…。え?ちょっと待って?神奈川に居て、わざわざこっちへ?凄いね…。俺だったら、そこまで出来ないよ』

葵ちゃんはラスクマンを一枚、取り出して言った。

『でも、親には猛反対されたんだけどね。なにせ、進学校だったから…。でも、体調悪いのに、お父さんとお母さんも、何も行動しようとしないのが嫌だったの。ここのおいしい食材を沢山、たっくさん貰ったから。何かお礼がしたかったんだ』

俺はそれを聞いて、『葵ちゃん、カッコいいな』と、心底思った言葉が、思わず溢れた。

『え?そんなこと無い。だって、私のやりたいこと、模索中でさ。だからこうしてここまで出向いた訳だし』

葵ちゃんがラスクマンを一口噛み締めると、再び口を開いた。

『でも、おじいちゃんも凄いなって…。本当に思った。お昼や夕方、こんな所でも結構混むんだよ?そのくらい、おじいちゃんのエスカロップは美味しいの。それを一人で切り盛りしていたと考えたら…。想像を絶して、身の毛もよだつよ』

俺はそれに黙って耳を傾けた。

喋っている間に、葵ちゃんはラスクマンを食べ終えて、それを飲み込んだ。

すると、辺りを見回した。

『あれ?麻利央君のギター?』と、入り口横に立て掛けてあるギターを指して言った。

『そうだよ。でも、五弦が切れちゃって…』

『え?!五弦が切れる事って、そんな滅多に無いよね!』

それに俺は頷いた。流石ウタナのじいさんのお孫さん。ウタナのじいさんも、あの窓ぎわに飾ってあるアコースティックギターを暇があればポロポロと弾いていた。

『葵ちゃんもギターやるの?』

親指とひとさし指を少し曲げて隙間を作り、『ちょっと、ね』と言った。

『おじいちゃんから、十歳の頃かなぁ…。習ったんだ。私はドラムの方が大好きだけどね』

『え?!ドラムも出来るの?!』

それに葵ちゃんは頷いた。

『スゲー!俺も学校の同好会だけど…。やってるよ?』

『知ってるよ。部局紹介の時、校歌のロックテイストやってた』

『見てくれたんだ』

『うん。あれ、すごくかっこ良かったよ!』

『本当に!?うれしい』

なんだろう。会話が弾む。こんなに波長が合う会話が出来る異性は、マリア先輩以外いなかった。

『あのボーカルの女の人、凄くかっこ良かった』

『あぁ、それが部長で、本当に人としてもかっこ良いんだ。校歌のロックテイストを考えたのもその人で、マリア先輩って言うんだ』

『へぇー!凄い!』

やっぱり葵ちゃん、最初は不思議な印象を受けたけど、本当は凄く気さくで話しやすい。

葵ちゃんに対しての印象がガラリと変わった。

『あ、そうだ。ちょっと待ってて』

椅子から腰を降ろした葵ちゃんが階段を上って行く。

どうしたんだろう。と、疑問を抱いたが、葵ちゃんが二階に行ってる間に目の前のラスクマンを一枚、平らげた。

そこで、葵ちゃんが階段を下りて、『ハイ!』と、袋を俺に差し出した。

『何?これ?』

『開けてみて!』

袋を開けると、替えの弦が入っていた。

『五弦でしょ?まだまだ沢山あるから、それ、あげるよ』

『え?!いいの?!』

『大袈裟だよぉ。そんな高価な物でもないし、ネットだと数百円で買えるもん』

え?そうだったんだ。と、その時初めて知った。

『ありがとう!本当に困ってたんだ。感謝するよ!』

『全然!気にしないで!』

『…そう言えば、ここバイト募集しないの?』

葵ちゃんは、『うーん…』と、悩ましく頭を傾げていた。

『もし募集するんだったら、俺も何か手伝える事あれば協力するよ』

葵ちゃんの顔が、パァーっと明るくなった。

俺はそれを見て決めた。生徒会でもなく、音楽店のバイトでもなく、昔からお世話になっているウタナナタウで働かせて貰おうと。

そう、だって困ってる時は…。

『お互い様、だよね!』

すると、葵ちゃんは『うん!ありがとう!』と、満面の笑みを俺に浮かべていた。

『それじゃ、俺、そろそろ帰るよ』と、入り口横のギターを背負った。

『本当にありがとうね。麻利央君!』

『マリーでいいよ』

『マリー…?』

『俺が学校で呼ばれてるあだ名。それじゃあね』

俺が扉を開けて葵ちゃんに手を振ると、葵ちゃんもニコリと微笑んで、それに応えてくれた。

そして、これが俺が初めて他人に『マリー』と呼んで貰う事を許した時だった。
 
長らく歩いて家に着くと、俺は早々に自室へと駆け足で入った。

一階から母さんが『麻利央ー!ご飯は?』と言う声が俺の部屋へと上ってきた。

俺も負けじと『後で食べるよ!』と言う声を一階へ下ろした。

それよりも、折角葵ちゃんから貰った五弦。張り替えない訳にはいかない。

ペグを緩めて弦を外す。ボディ裏のブリッジから弦を取り出して行く。ネックなのはここからだ。弦をブリッジに通してペグポストに丁寧に通す。
ペンチでペグに二、三回、弦を巻き付けて張りをチェック。

少し甘かったからか、もう一周巻くといい感じに張った、そこでペグから出ている余分な弦をニッパーで切る。

そして、ペグを回してチューニング。

よし。いい感じに弦が張ったのを確認した。

ついでにギターも拭こうと、ウェスを取り出し、ボディから弦を一本一本、拭いた。

よし、完成。『おー。痛かったろう…。ごめんよー』と言いながら、気が付けばギターに顔をすりよせた。

『『お兄ちゃん、何してるの??』』

双子の妹と弟に見られていた。

『いつの間にいたんだ…』

『『お兄ちゃん、変だねー。ねー』』

俺は咳ばらいを一つして、『何しに来たんだ。お前たち』と、逆に質問し返してやった。

『『お母さんが下で呼んでるよ?』』

『あー…分かった。すぐ行くから』

そう言うと、二人は部屋を出て、『『お兄ちゃん、変だねー。ねー』』と言う言葉を置いていった。

『…ほっとけよ』

でも、やっとギターが俺の手元に戻ってきた事が何より喜ばしく、葵ちゃんに感謝の念を胸中に仕舞い切れずに、鼻唄を口ずさみながら階段を下りた。

そして、一階に下りて食卓テーブルに目を配ると、俺の大好物な焼そばが、ソースの香ばしい匂いを、湯気があがっているそれと一緒に俺の嗅覚をも擽らせた。

ソースのお陰で茶色がかった麺に、かつお節がその上に乗っていて、更にその上に青海苔が乗っている。

かつお節が左右に踊っていて、お陰でその上に乗っている青海苔も、踊っていた。

まるで、俺の気持ちを表しているみたいだった。





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