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ひだまりの唄 25

十月十一日

 

『はくしょ、はくしょ、はっくしょーーー!』

次の日の朝、肌寒くなった秋風に襲われて、大きくくしゃみを何度もしていると、Yは『おいおい…。そんなにくしゃみして…。誰かに噂されてんじゃね?』と、ポケットに忍ばせていたティッシュを俺に差し出しながら言った。

ズズッと鼻水をすすり上げると、Yが『おいおい!ティッシュ出してるのにすする奴があるかよ!ホレホレ!』と、差し出してるポケットティッシュを揺らしながら言った。

『…あぁ、ありがとう…』

俺は勢いよくティッシュペーパーに鼻水を当て付ける様、思いきり鼻をかむと、『最近、寒くなってきたよなぁ。ホントに』と、溜息を混じらせながら言った。

が、そんな事より、今は昨日の事で頭が一杯で、Yの話した内容なんて、頭に入る余地などない。

歩弓ちゃん、どうなったのだろうかと、昨晩なんて眠ることも儘ならなかった程だ。

歩弓ちゃんだけじゃない。サップだってどうしているのか気にかかる。

だが、サップは何故単独で帰ってしまったのか。しかも、歩弓ちゃんを一人置いて。

今まで、歩弓ちゃんを一人にさせる事なんて、学校とアルバイト以外無かった筈なのに。

二、三日も一報を入れないまま、時間が過ぎ行く事に、歩弓ちゃんはどれだけの不安を抱いているのだろうかと、心を配ってしまう。

『…おい、おーい!』

Yが隣で大声を上げた。

『…え、あ、何?』

『何だよー。また考え事?』

『う…うん』

Yは深く溜息を交えながら言った。

『昨日の事か?そんなに心配なら連絡すりゃいいじゃん』

それは全うだ。だが、昨日の今日でいきなり連絡をとっても、気を急かせてしまうだけだ。

俺でさえ整理をつけられていないのに。

『もう少し…。歩弓ちゃんの整理がついてから…』

『…でも、その整理がつく迄の時間が悶々としてるんだろ?』

俺はそれに返す言葉が無い。

『…そんな時は、部室だな』

『え?』

『こういう時は、音をガンガン鳴らした方がいいんだよ!ホレ、久々の朝練行こうぜ!』

俺の手を強く掴みながら、Yが俺を引っ張っていく。

『おい、ちょっと…!』

『いいから!』

寒い風を掻き分けて、真っ向にする通学路。

落ち葉が舞い上がっていくかの様に、その道を駆けていった。

学校に着いた昇降口、俺達は下駄箱で靴を履き替える。

『さ、行こうぜ』と、上靴の爪先をトントンと二度叩いて、Yが言った。

『お…おう』

『いいから!早く来いよ!』

Yは俺の腕をがっしりと掴んで、勢いよく俺を引っ張る。

それに任せて、俺は引かれていく。

その引かれていく勢いで、今までの悶々としていた物が淘汰されていく。

その位、悪い気はしなかった。

そんな颯爽と廊下を駆けていくYの背中をまじまじと見つめた。

やはり、二人三脚で早かっただけの事はあるな、と、あの体育祭が奇跡的にも感じる程だ。

部室に辿り着き、そこをソッと開ける。

部室には誰もいない。

それもその筈で、部活の事すら顧慮出来ずにいる。

こんな状況など、マリア先輩には見せられない。

だがYは、そんな俺を邪険にする訳でもなく、袂を分かとうともする訳でもなく、着いてきてくれる。

『よーし、じゃあ、始めるぞ』と、Yはギターケースからベースを一本取り出した。

俺もそれに倣ってギターを取り出す。

『何、弾こうか』と、俺が訊くと間髪入れずに、Yが言った。

『Yesterday』

『あ、懐かしいな。ビートルズの?』

『そう。覚えてる?』

『勿論』

俺とYはアンプにも繋げないで、ただただ、ギターの弦を震わせた。

何度も何度も。

そんな静かにも弦を震わせながらYが訊いた。

『…歩弓ちゃん、居なくなるのかな』

俺も、それに答えた。

『分かんないけど…。でも、ここに残る事は出来ないんじゃないかな?やっぱり、保護者の言う事には、尚更だよ』

『だよなぁ…』

俺とYはひたすらギターを弾いた。

『…でもさ、もし向こうに行っちゃったとしても、俺達もさ、冬休みか夏休み使って、サップと歩弓ちゃんに、コンサート開こう』

『あ、それいいじゃん。俺達らしい、最高のシチュエーション。その時は、なんか新譜じゃなくて、何か一曲、カヴァーでも練習しようぜ。お試しに、何処かで一曲やってさ』

『あ、それいいね』

時間は無情にも、止まることを知らない。

俺とYは、始業のベルが鳴るまで、手を休ませる事なく、ギターを飽きる事なく、弾き続けた。

だが、飽きる事なくギターを弾きすぎたせいか、始業のベルが鳴ってからハッとして、俺とYは顔を見合わせた。

『あれ…?』

『やっべ…!』

そう言って乱暴にも、俺とYは部室を飛び出した。

『おいおい!これはマジで遅刻だって…!』

『そうだよ!ウチの担任、時間には厳しいからこのベルが鳴り終わったら容赦なく遅刻扱いするぞ…!』

『それ、マジでヤベーヤツじゃんっ!急げ…!』

交互に足を素早く交わしあって、階段を駆け上った。

ダガダガと廊下中に足音を喧しく響かせるも、そんなの構っていられない。

階段を上りきろうとする時、俺は内心で『後、少し…!』と、何度も呟いた。

そして、教室の扉に手を掛けたその時、ベルが鳴りやんでしまった。

『うわー…』と、俺はYを見るように振り返ると、Yは『覚悟、決めるぞ』と、腹を括った。

何処か歯がゆい。こう言う時、『あの時、しっかりと時計を見ていれば…』と、タラレバが間断なく出てくるものだ。

そんな事を言っても仕様がない。俺は教室の扉をゆっくりと横にずらしながら、その隙間から、目を凝らした。

すると、先生が此方を見ていた。

そう、バレていたのだ。

身を潜める意味すら無くなったからか、思いきり扉を開けた。

頭を二人で同時に下げようとした、その時だ。

『もう、いつまでトイレに行ってたの?』

『へ…?』と、間の抜けた声を発して先生を見た。

教室を見渡すと、ねむちゃんが席を立っていたのが見えた。

『もう、今回だけは見逃すわ。さっさと席に座って。ねむちゃんも、ありがとう。座って良いわよ』

『あ、ハイ』

『す…すいませんでしたぁ』と、俺とYは何度も頭を下げながら先生の前を横切る。

そしていつもの定位置である、窓際の一番後ろの席に腰を落ち着かせると、俺は直ぐ様ねむちゃんに声を掛けた。

『…もしかして、助けてくれたの?ねむちゃん…』

ねむちゃんは人さし指を真っ直ぐ上に上げながら、口元にあてがい、ゆっくりと頷いた。

俺はそれに、口パクで『ありがとう』と言うと、ねむちゃんは笑いながらも、黙って首を振った。

『それでは朝礼は以上です』と、先生が言うと、学級委員が号令を掛けた。

先生がいなくなるのを見計らって、俺はねむちゃんにまたも声を掛けた。

『…ありがとう。助かったよ』

すると、Yものそのそと頭を掻きながらねむちゃんの元へと歩いてきた。

『いやー、助かったぁー。でも、何で助けてくれたんだ?』

『二人が校舎に入る所を、たまたま窓を覗いていたら見えたの。それで、学校に居る事は分かってたんだけどね?中々来ないから、咄嗟に出たのが…』

『トイレって訳か』

後ろから山木が割って入ってきた。

『山木!居たのか!』

『居たのか!じゃないだろ。…ったく、どんだけ時間の掛かったトイレなんだ…』

『うるせぇな。ウップンって言うクソを沢山出してたんだよ』なんて言いながら、Yは頭の後ろに手を回した。

『…でも、お前らの部は本当仲が良くて羨ましい。普通、庇ってくれないぞ?』

『そうかな…』と、俺は少し嬉しさを露にしながらそう言った。

『そうだよ。俺の部なんかは…』と、山木が話だす。

俺はそんな談笑をしている時でも、スマートフォンを取り出して、着信がきていないかを気にするも、誰からも着信は入っていない。

それは勿論、歩弓ちゃんからもだ。

俺は少し寂しくも、スマートフォンを仕舞った。

窓を覗くと、どんどんと枯れ葉が風に流され舞っている。

どうにも出来ない蟠りが、その流されていく枯れ葉をただまじまじと見つめる事しか、出来ない。

風に逆らうことは、許されないのか。

俺はそれを眺めながら、頭の片隅から歩弓ちゃんの事が、一秒たりとも離れない。

『歩弓ちゃん…』

三人はまだ話している。その隙間を狙って、俺は何度も何度もスマートフォンをチェックしていた。

 

学校が終わって帰路に着こうとした。

正門を抜けて一人で帰ろうとしたその先に、後ろからトンと声を掛けられた。

『よ!麻利央くん!一緒に帰らない?』

『えー…』と、正直、面倒な返事を一つしたが、声を掛けて来た人がどこの誰かも分かっていない。

そう思って、後ろを振り向いた。

すると、どういう事か、歩弓ちゃんが目の前にいた。

俺はそれに驚き戸惑って、後ろに立ち退くも、何歩引き下がったか、わかりゃしない。

『うわ…!歩弓ちゃん…!?』

『麻利央くんのツレは?』と、指先をピンと伸ばして、おでこにつけながらそう言った歩弓ちゃんは、まるで野鳥を探すようにキョロキョロと首を動かしている。

『ツレって…。酷い言いぐさだなぁ』

『え…?あ、ゴメンゴメン』と、歩弓ちゃんは手を後ろに回して、笑いながらにそう言った。

『ねぇってば、そう言えば一緒に帰ってくれるの?』

『あ、うん。良いよ。俺も話したかった事、あったしね』

『…昨日の事?』

俺は黙って頷いた。

歩弓ちゃんが乗り込むバス停に向かって、俺と歩弓ちゃんは肩を並べた。

正直、話を聞く事が少しだけ怖かったが、聞かないと、中々前に進む事が出来ないと、そう思った。

ただ、バス停迄の短話せるだろう。

訊きたい事が沢山あった筈なのに、黙々とただ二人で歩いているだけだった。

別に何から訊こうか、とか、何を話そう、とか。そんか事で悩んでるのではない。

もっと根本たる部分で、口が中々開かないのである。

それでも、バス停まで、あと数歩余りしかない。

『訊きたい事、なんでも訊いていいんだよ?』

歩弓ちゃんからそう切り出してくれた。

『うん…。ありがとう…。…それじゃあ…』

歩弓ちゃんからの助け舟、無駄にはしたくないと質問を投げ掛けようと口を開いてはみたが、俺は何を思ってか、一番深い所から訊いてしまった。  

『歩弓ちゃん…。ここから、いなくなっちゃうの…?』

『そうだよ』

躊躇いもせず、間髪入れずにそう言った歩弓ちゃんを、俺はどのように見れば良いのか、

俺は『そっか…』と、ただ返事をする事だけで、やっとだった。

また沈黙が続く。そうなると、容赦なくバスが姿を見せる。

そして、俺達の目の前でバスは停まり、ドアが開いた。

歩弓ちゃんは、『それじゃあ…』と、ただそれだけ言って、バスに乗り込んだ。

これでいいのか?このままで、本当にいいのか?と、尚も自問自答を繰り返す。

そこで、俺がやっと発した言葉が、『待って…!』だった。

すると、歩弓ちゃんがぴたりと足を止めた。

『…俺も、俺も一緒に、行っていいかな…』

俺は歩弓ちゃんを見られる訳が無いが、徐ながら、歩弓ちゃんに目を配った。

すると、歩弓ちゃんはやっと、俺の顔を見た。

『うん、良いよ』

俺はその言葉にホッと胸を下ろし、バスに乗車をした。

車内は二人きり。それもその筈で、こんな季節に岬に来る人等、微塵もいない。

バスの後部座席、二人の間に鞄を挟めて二人で座る。

俺もこの間で訊けばいいのだが、どこかで、まだ躊躇いを見せている。

自分でも嫌になる程だった

しかし、歩弓ちゃんも頑なに口を開こうとしない。

お互い何も語らないまま、バスはゆっくりと俺達の体を揺動かす。

直に到着。停車ボタンを歩弓ちゃんが押した。

その停車ボタンを押した直後だった。何も喋らなかった歩弓ちゃんが、ゆっくりと口を広げた。

『もうすぐ着くよ』

『…あ、そっか』と、俺は鞄を膝の上に移して、おどろおどろしくも訊いてみた。

『あのー…さ。サップは帰って来た…?』

『…サップ…?』と、歩弓ちゃんは首を傾け、首を振った。

『サップは…帰ってきてない。もう、帰って来ないと思うんだ』

『え…?!それって、どういう…』

すると、バスがゆっくりと停車した。

扉が空いたのを確認すると、歩弓ちゃんは『私の家で、話そう?』と、俺を手招きで呼び立てた。

俺はそれに誘われるかの様に、腰を上げてバスから下車した。

『こっち』と、手招きで誘われるも、俺は昨日も行ったからか、足取りは割りと軽やかだ。

歩弓ちゃんのログハウスから目前にする海岸からの一風景。

そこから見渡す海面が広々と行き渡っている

その広々とした海面に、大きな夕日が顔を沈めようとしている。

夕日の乱光を燦々と纏った海面は、赤く揺らめいて、且、穏やかだ。

それを一望と出来るログハウス前の草原に、深く腰を置いた。

眺めが綺麗、その一言に尽きる。

『よいしょ』と、歩弓ちゃんも膝を畳ながら草原の上に座った。

『綺麗だね』

『そうでしょ。ここね?サップが気に入っていた風景なんだ』

『サップ…か』

秋風が少し強まって、俺と歩弓ちゃんの髪を激しく揺さぶらせた。

そんな中でも、俺は恐る恐る、歩弓ちゃんに訊きにくくも、口を開いた。

『サップ…どこに行ったの…?』

少しだけ、歩弓ちゃんは気持ちを落ち着かせようとしたのか、深呼吸をした。

『サップ、もう戻って来ないよ?』

『え…?』

『クビになっちゃった』

やはりな、と、俺は思ったが、だがやはり納得出来ない。

『クビって…』

『うん。もう戻って来ないの。サップ』

意外にもあっけらかんと話す歩弓ちゃんを見て、俺はまたも聞き返した。

『もう戻って来ない…って、それでいいのかよ!歩弓ちゃんは…!』

歩弓ちゃんは膝の上に顔を置いて、背中を屈しながら、溜息を漏らした。

『良くないよ。私だって、サップには戻って来て欲しい…。でも、もうどうしようも出来ないの。足掻いても、悶えても、サップは戻って来ない。お父さんの会社で正式に人事通知出したんだって…。だから…』

『サップの電話番号は?!』

『…わからないよ』

やるせない気持ちだけが段々と募っていっいく。

しかし、どうしようもない。こんなに早くも人事が成立してしまっては、成す術を失ってしまう。

そう思い込んでしまうと、歩弓ちゃんの言葉が妙に重く感じる。

だが、サップが戻ってくる方法をひたすら探そうと頭を捻る。

それに気がついたのか、歩弓ちゃんはゆっくりと話始めた。

『でもね、サップから手紙が届いてたの』

『え?』

『内容、見せる?』

『…いいの?』

歩弓ちゃんが頷きしな立ち上がると、俺に手を差し伸ばした。

俺は歩弓ちゃんの手を取り、腰を上げると、その取った手を、歩弓ちゃんは引っ張った。

『こっちこっち!』

歩弓ちゃんの言われるがまま、俺は足を早めると、歩弓ちゃんのログハウスに入る。

靴を乱暴に脱ぎ捨てて、シャンデリアの真下、長ソファーに腰を置いた。

『今、持ってくるね』

歩弓ちゃんがリビングから離れる。

その時に辺りを見回したが、ラウスの姿が無い。

むしろ、俺と歩弓ちゃん以外の気配すら感じない。

もしかしたら、サップの部屋にまたいるのかもなと、その時は思った。

『お待たせ』と、歩弓ちゃんはサップの手紙を持って俺に手渡した。

俺はそれを受け取るがてら、歩弓ちゃんに耳打ちをしながら訊いてみた。

『そう言えば、ラウスはサップの部屋にいるの…?』

歩弓ちゃんが首を振った。

『居ないよ?ラウスは一度帰ったの。お父さんの側近の方が優先だからね。それより、手紙読んでみて?』

俺はそれに黙って頷いて、封を開けた。

サップからの手紙、俺はそこに書かれた文章に黙々と目を追った。

 

『拝啓  歩弓様―――

 

この様な不始末な私の粗相をどうかお許し下さい。

 歩弓様とは四つん這いで床を一所懸命に、泣きもせず、匍匐をなさっていらっしゃった時から共にしてきましたね。

旦那様や奥様は、当時から多忙な生活を送られていた為、私めが僭越ながら御側で見守らせて頂きました。

言葉が乏しく感じられるとは存じますが一言で申せば、

 

楽しかった。

 

本当に、本当に毎日が楽しく、歩弓様の成長は目を見張る物がございました。

それは、旦那様と奥様もそう申されております。

私がこの任を務めさせて頂き、一番に功を感じたのが、その御言葉でした。

歩弓様との日々はこれからも遠い先々でも忘れる事は無いでしょう。

しかし、この私、唐突に歩弓様の前から姿を眩ます結果となってしまったのが、私自身に遺憾千万な思いでございます。

その晩、ラウスから電話を預り、真実を申せば、歩弓様をお連れしなければいけなかった。

しかし、それが出来なかった。

それはなにより、歩弓様はもうお一人ではない。

周りを見渡せば、麻利央様を始め沢山の方々が歩弓様にはついておられます。

なのでどうか、歩弓様には最低限、この一年だけでも此方に滞在して頂ける様、私から旦那様に申させて頂きます。

こんなにも沢山のお友達に囲まれている歩弓様を見たのは、初めてな事です。

なので、歩弓様にはこの一年を存分に御過ごし頂く事が、私めの最後の願いであります。

歩弓様のこの先は、前途洋々とされている事でしょう。

ですが、それとは相反して迎えられます、前途多難な道程を、どうかこ無事で乗り越えて行かれます様、心中ながら、御祈り申し上げます。

どうか、お元気で。

末筆ではありますが、これで私めの最後の挨拶と代えさせて頂きます。

 

敬具  』

 

そこまで読み終えて、俺は静かに手紙を畳んだ。

すると、歩弓ちゃんが静かに俺の隣に座った。

そんな歩弓ちゃんは、少し震えていた。

『私のせいなのに…。サップ…ここまで私を考えてくれて…。普通ならね、お父さんの命令は絶対なの。私を強引にでも連れていかないと、サップは職務放棄とみなされて即クビ。でも、それを覚悟でサップはお父さんの所に単身で向かったんだと思うの…』

歩弓ちゃんは天を仰いで、震わせる声を絞りながら、続け様話した。

『でもね、だからクヨクヨなんてしていられない!だって、サップのそんな覚悟が、全て無駄になっちゃうから。そんなの、私自身が許せないよ』

 ソファーの袖を掴んだ歩弓ちゃんを見て、本心は不安で仕方が無い気持ちを汲み取る事が出来た。

『…歩弓ちゃん…』と、そう漏らした俺に目線を合わせて、歩弓ちゃんは話を続けた。

『昨日ね、お父さんに電話したの。サップの事で…。そうしたらね?お父さん、渋々だけどサップの意思を汲み取ってくれたんだよ?嬉しかった…』

『…え?それじゃあ…』

『うん。サップのお陰で、この一年はこっちに居られる!あとちょっとなんだけど、そのほんのちょっとが、本当に嬉しかったな』

『何より、すぐじゃなくて良かったよ…。それだけが救いだね』

歩弓ちゃんは大きく頷いた。

『…まぁ、でもラウスも此方に居るから、遊べ無くなっちゃうけどね…。でも、全く麻利央くんに会えなくなる訳じゃないから、それが本当に救いだな…』

満面に笑みを浮かばせながらそう言った歩弓ちゃんに、少しだけ哀愁があるが、些細に感じる半年間でもコッチに居られる喜びを犇犇と感じる。

サップの計らいは、歩弓ちゃんにとったらとても大きかった。

ただ歩弓ちゃんの笑顔が消えつつあった。

そしてどうした事か、歩弓ちゃんは徐々に俯き始めたのだ。

『…あれ?どうしたの…?』と、俺が歩弓ちゃんの肩に手を置いた。

『…でも、私ね、麻利央くんと一緒にいれたから、そんな気がする…』

『え…?』

『本当に凄く楽しいの…。サップが居なくても強くなれたの、麻利央くんと出会ってからな気がする。最初のデートで、サップが居なくなって、それでも信頼を置けたのは、誰でもない麻利央くんだったからな気がする…。よく分かんないけど…』

俺は目を大きく広げて、歩弓ちゃんを見た。

『私、一緒に初めてデートした時から、麻利央くんの事が、凄く…』

俺は息を呑んだ。

輝かしい夕日の陽と比例して、歩弓ちゃんの瞳にも輝かしい程の光を帯びている。

だが、その夕日も、直に沈もうとしている。

『凄く…』

歩弓ちゃんの唇が震えていた。

俺はその次、歩弓ちゃんの口から出てくるのか、とてもじゃないが気が気じゃない。

そんな俺は、凄く胸が飛び出そうなそんな勢い。

俺はまたもゴクッと生唾を飲み込んで、緊張を露にした。

『凄く…。好きだな、麻利央くんの事…』

飛び出そうな胸が、はち切れんとばかりに俺の胸をたたきつけ始めた。

『…一目惚れだったの…。海で麻利央くんと横室くんを見たときから…ずっと、ずっと…』

俺は辺りを見渡した。

俺は次をどう切り出そうか。そんな事も考えつかない程、俺の頭は外の夕日の様に真っ赤に染まっていた。

しかし、そう思った矢先だった。

夕日が完全に、海面に沈んでいたのだった。

今まで夕日のお陰で照らされていた歩弓ちゃんの顔がじわりじわりと影に薄れていく。

そんな杳々たる歩弓ちゃんの顔を見つめていると、途端にもリビングがパッと明るくなった。

外が暗くなると、自動でリビング内の電気が一斉に付きだすシステムになっていたみたいだ。

歩弓ちゃんの顔がハッキリと見えた。

が、歩弓ちゃんは俺から目線を逸らして、『…なんて、ね!』と、膝をパンと叩いた。

『…え?』と、俺は思わず聞き返してしまった。

『ゴメンね!今の、無し!』なんて言いながら歩弓ちゃんはソファーから立ち上がった。

『…愛弓ちゃん…?』

『…ゴメン!やっぱり私、甘えてるかも。サップが居なくなって、甘えられる相手が居なくなっちゃったから、麻利央くんにサップの代わりをしてほしくて、こんな事言っちゃったのかも。それってどうなんだろうなって、思い返しちゃった。本当、ゴメンね!』

俺はただただ唖然と歩弓ちゃんを見る事しか出来ない。

しかし、歩弓ちゃんは自分の両の頬を二度、強く叩きながら続けざまに言った。

『サップの代わりなんて居ないのに…。しっかりしないと。私!』

歩弓ちゃんが必死に自分の足で立とうとしている。

俺はそれに、出来れば協力したいと、そうも思った。

だけど、分からない。本当に歩弓ちゃんが大好きなのかと、そう訊かれたら、本当に分からないんだ。

確かに楽しい。歩弓ちゃんと共に過ごした時間は本当に楽しかったし、そう言いきっても過言では無い。だけど…。

頭の中を何度も『だけど』と言う同じフレーズがグルグルと回っていた。

そんな事を考えていると、歩弓ちゃんが静かに歩み寄った。

『麻利央くん…。大丈夫、私、一人で立てるから』

『…え?』

『麻利央くんと会えて…嬉しかった。ありがとね』

寂しそうに、僅かに滲ませた瞳を、俺はどのように見つめれば良いのだろう。

でも、今は…。

『歩弓ちゃん…。ゴメンね…』

歩弓ちゃんのその期待に応えられる勇気を、俺はまだ持ち合わせていない。

しかし、歩弓ちゃんは強情にも、瞳を滲ませながらも何度も首を振り、笑った。

『いいの…。良いんだよ…。麻利央くんは悪くないもん。ありがとう。私、頑張るね』

弱々しくも歩弓ちゃんが笑顔を表しながらそう言った。

その傍らで、バタバタとプロペラが回る音が何処からともなくと聞こえてくる。

外の何処かで、ヘリコプターが飛んでいるのだろうと、そう思った。

しかし、歩弓ちゃんはその音に耳を傾けていた。

歩弓ちゃんは慌てて玄関に向かって、扉を開けた。

『え…?!』と、歩弓ちゃんが声をあげた。

どうしたのだろうと、俺も歩弓ちゃんの元へと向かった。

ほんの五十メートル程先だろう、ヘリコプターが着陸体勢を整えている。

それに気がついた歩弓ちゃんは、『え…?!ヤバイよ…!ラウスが帰ってきた…!今日、お父さんの所にいるって言ってたのに…!』と、俺の靴と鞄を慌て様に取り出した。

『え…?ラウス…?』と、歩弓ちゃんとはうってかわって、俺は呑気にもそう聞き返した。

『ヤバイよ…!ラウスにこんな所見つかっちゃったら、麻利央くんもここから居なくなっちゃう…!早く、コッチ!』

強引にも歩弓ちゃんに引っ張られて、ベランダに抜けられる窓を、ガラガラと乱暴に開けた。

『…なんで、ラウスに見つかったら…』と俺が聞き返すと、歩弓ちゃんが早口で捲し立てる様に言った。

『ラウスはね、サップと違って、知人だろうと、友達だろうと、ラウスの居ない間に入ったら不法侵入と看做す程、血も涙もないのよ!もうなんでも強引なの、ラウスは!』

『え…?でも、あの時は…』

『あの時と今では状況が違うじゃない…!さ、早くここから出て…!』

俺は歩弓ちゃんに、強引にも、背中を強く押し出された。

『…あ、歩弓ちゃん…?!また、会えるよね…!』と、そう訊く間もなく、窓をガラガラと閉められた。

そして、歩弓ちゃんは、ニコッと笑顔を一瞬に見せて何やら口パクで、早いながらにこう言った。

『あいあお、うっお、あいうい』

そう言った途端にシャッシャッと、素早くカーテンを閉められた。

途端にも真っ暗な場所に放り出された俺は、靴を履いて、ラウスには見つからないように、抜き足差し足で、敷地内からどうにか出られた。

そして、バス停まで着くと、既に小さくなっているログハウスに目を配った。

『…歩弓ちゃん…。ありがとう…。またね…』

そうポツリと呟いて、俺はバス停の時刻表を見た。

時計を見てみると、既に六時半を回っていた。

次の時間を見てみるも、六時台のバスは、もう既に行っていた。

『あれ、十五分前にもうでちゃってるじゃん…』と、思わずもそう呟いて、七時台、八時台と目を配った。

しかし、下にはもう空欄で埋め尽くされている。

そう、最終便は十五分前に既に出ていたのだ。

と、言うことは。

『…歩き、か。まぁ、仕方ない…。たまには歩いて帰ろう…』

ここから自宅迄、だいたい一時間半はかかる。

しかし、何故か、そこまでの距離を苦とも感じなかった。

寧ろ、その位、歩いていたとも感じていた。

俺は、歩弓ちゃんとの想い出に浸りながら、一時間半はかかるこの道程を、ひたすら、そして、ゆっくりと、歩いたのだった。

 

 

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