見出し画像

ひだまりの唄 7

五月二十三日

 

またも、スマートフォンから『ピピピ』と、音がなった。

遮光カーテンなのにも関わらず、隙間から日差しが差し込んで、俺の目を覚まさせた。

しかし、俺はこの感覚が嫌いじゃない。

目を擦りながら身体を起こす朝の八時。ちょうどいい時間帯に目を覚ます事が出来た。

俺は急いで服に着替える。

インナーにジャケット、ジーンズにおまけに靴下。

いつもの外出スタイル。初めて女の子と遊ぶのだが、変に格好を付けても、尚更変になってしまうのは目に見えて分かる。

だから、余り気取らない事にした。

そして、髪をセッティング。いつもよりもフワッとさせることに意識を傾けながら。よし。完璧。

朝食を簡単に済ませて、家を出たのが九時三十分。

俺の理想的な外出時間に、気持ちよさも感じる程。

遊ぶ前の小さな幸せを噛み締めながら家を出た。

家から駅まで五分とかからないのだが、早く出て待つこと等、苦にはならない。

むしろ、待っている時間をも楽しめる程、俺の胸は高鳴っていたのだ。

そして、駅前のベンチで足を遊ばせながら音楽を聴いていた。

ロックと言うよりも、ボサノバ。今日はそんな気分だった。

その音楽を耳にするだけで、気分は少しだけお花が咲くような、そんな感じ。

ぱたぱたと足を遊ばせること十五分。

歩弓ちゃんからメールが届いた。

『後十分で着くよ!今どこ?』

俺はそのボサノバを鼻唄で奏でながらメールを返した。

『今駅だよぉ~♪』なんて、柄にも無く、音符を付けて返信をした。

フワフワとしたこの待ち時間で、どう遊ぶか、俺の頭も浮わつかせる。

駅の近くだから、電車に乗って街に行こう。

そして一緒に買いものや、美味しいものを食べるのも有りだな。

でも、歩弓ちゃんはお洒落だから、博物館や美術館。どこかでジャズのコンクールとかやっていたら、そこに行くのも面白そうだ。

そんな事をグルグルと考えていたらあっという間に十分が経過した。

すると、黒いリムジンが駅前に止まった。

歩弓ちゃん遅いなぁ。どこかで迷っているのかもしれない。

後五分待ってみて、来なかったらメールを一通入れてみよう。

するとスマートフォンから着信音が響いた。

『着いたよー!』

え?着いた?

辺りを見回してみるが、歩弓ちゃんらしき人はどこにも見受けられない。

『え?着いた?今どこ?』

そうメールをした束の間、歩弓ちゃんから直ぐ様返事が来た。

『駅前だよ!麻利央くん、見つけた!』

その文面を見て、尚更辺りを見回した。

すると、『麻利央くーーーん!』と声が聞こえた。

どこからともなく歩弓ちゃんの声が聞こえる。

そしてそれは、紛れもなくリムジンの方からだ。

運転席とは反対側の後部座席、リムジンの窓が開いていた。

『麻利央くーん!』と大きな声で呼びながら、大きく手を降っている。

俺はそんな光景に、目を丸くした。

どうしよう。歩弓ちゃんって、まさか。どこかのお金持ちの令嬢、なのか?

恐る恐るとその真っ黒いリムジンに近づくと、歩弓ちゃんは『早く早く』と言わんばかりに手を上下に仰がせていた。

そして窓からひょこりと顔を出している歩弓ちゃんに向かって『本当に…の…乗っていいの?』と念を押すように聞くと、『うん、いいよ!あ、私こっち行くね』と、運転席側の後部座席に移動をしてくれた。

すると直ぐ様、ドアが自然と開いた。

細心の注意を払い、履いている靴の裏に付いている小石や砂を両足でぶつけ合わせながら払った。

その仮にも綺麗にさせた足を、リムジンの中に収める。

すると、ドアが自然と閉まった。

そのドアの音に畏怖してしまい、俺の心の扉も少し閉ざしてしまう程、無意識にも緊張感を醸し出していた。

それに気がついたのか、緊張感を解す様に歩弓ちゃんは『おはよう!麻利央くん!』と、満面の笑みで俺に挨拶をした。

でも、俺は『う…。うん、おはよう』としか言えない。

そりゃそうだ。なんたってリムジンに乗るのなんて初めてだから。

『それでは出発致しますが、よろしいですか?』

運転席に座っている漆黒のスーツを纏っているその人が言った。

『あ、お願い』と歩弓ちゃんは運転席に向かって言った。

運転席の漆黒のその人を一目見ようとするも、運転席までがかなり遠く感じる。

俺と歩弓ちゃんの座っている座席の間にも、二人掛けのシートが挟まれて、そのまた奥に運転席と助手席が並べられている。

バックミラーで顔を拝もうとするも、サングラスをかけていてよく見えない。

『本当は私一人で行きたかったのに…。サップまでついてきちゃって…』

『サップ…?』

『あ、そうそう。サップって言うのは、あの運転席に座っている彼の事なの。サーフィンが趣味だから、サップ。休みの日は家の海の近くでサーフィンをしてるんだよ?』

『…ハァ』

俺はその説明を受けて、またもバックミラーを見た。すると、その漆黒の彼は、ミラー越しに会釈をした。

俺はそれに一つ、会釈を返した。

『…失礼だけど…本名は?』

歩弓ちゃんは見上げながら顎に指を起きながら話した。

『本名は…お父さんにしか分からないの。だから私はサップって呼んでる』

『…あ、そ、そうなんだ』

驚愕した情報が湯水のように出てくるからか、これが俺の精一杯の相づちだった。

『所でこれから隣街に行くんだけど、麻利央くんは何処に行きたい?』

『…え?俺は…楽器屋さん』

先程迄考えていた事が真っ白になって、唐突に出た一言がそれだった。

『あ!私も!楽器屋さんに行きたい!私の働いてるお店以外でどんな並びになっているのか、気になる!』 

歩弓ちゃんの事を何も考えないで出てしまった一言だったが、そっか。歩弓ちゃんはエオンの楽器屋さんで働いているんだった。

しかし俺はそこで、何かが少し胸に突っ掛かった。

『…リムジン乗っているのに、なんでバイトしてるの…って?』

それだ。と思い、俺はゆっくりと頷いた。

『…私、出身地は札幌なんだ。でも、自分の力で生活してみたくて家を出たんだけど、お父さんは『お前にはまだ早い!』って…』

俺は俯き様に話す歩弓ちゃんを見ながら、耳を傾けた。

『…でも。どうしても…どーーーーしても一人で生活をしたくて、この学校を志望したの。しかも、親に黙って!』

『え…!でも、受験する時…』

歩弓ちゃんは一つ頷いた。

『そう、バレちゃった。その時はこっぴどく怒られたんだけどね?でも、本気だって事が分かって貰えてある条件を出してくれたの。それがサップを連れて、街から外れた場所に住むことだった。私が遊ばないように。それで、手を打ってくれたんだ』

『街から外れた…。って、家何処に住んでるの?』

『ほら、ここって東に岬があるじゃない?その近く』

『ん?でも、あそこらへん家が無かったような…』

『そう、だから、お父さんが小さく土地を買ってそこに小さな家を建ててくれたの。所謂、別荘って事になるのかな』

『え?!わざわざ?!すごいね…』

『でも、そこまでして欲しくはなかった…。私、寮でも良かったんだけど、遊んじゃうからって…。だから私、少しでも自分の力で生活しているって実感をしたくて、バイトを初めてみたんだ』

『そっか…歩弓ちゃんも大変だったんだね…。こっちの生活は慣れた?』

『うん。ここは雄大で、伸び伸び出きるし、色々な人が話をしてくれるから、寂しくない。皆、気兼ね無く友達になってくれるから、すぐ居心地がよくなっちゃった!』

明るく元気な笑顔でそう言う歩弓ちゃんを見て、俺も元気を貰った。そんな気さえ起きた。

そう、ここはそんな場所だ。

人を人として、余所余所しい所が無いのがここの良いところだと、俺は思っている。

そして、なんと言っても、それが俺達は楽しいと、感じているんだ。

その気持ちを大事にしようと胸に秘めた。

『お嬢様、着きましたよ』

いつの間にか山陰を抜けて、その山道の下り道からみるその街は、やはり俺達の住んでいる場所でも見受けられないほど、大きな建物がズラリと並べられている。

ここは大きな港町。港には大きな客船、夜になると駅前の飲み屋街もイルミネーションの一環として見られる程。

『着いたー!楽しみだね!麻利央くん!』

『うん…。うん!』

俺もやっと、このリムジンの空間に慣れて来たのか、緊張という束縛を振り解き、開放感に満たされた。

やっぱり楽しみだ。

…ん?でも、待てよ?二人きりで遊べるのか?このサップと言う男もついてくるのではないか。

そんは疑問に心を揺らされた俺は、街に向かって走るリムジンにも、身体を揺らされていた。

『うわーーー!!綺麗!!』

そう言いながら窓から顔を出す歩弓ちゃんに『お嬢様、危ないですよ?』と、サップが言うと、『大丈夫だよ。気持ちいいよ!麻利央くん!君もやってみてよ!』 

そう言われて、俺もパワーウィンドウを下げて顔を出した。

『本当だ!気持ちいい!』

『もう少しで着くよ!』

『そうだね!何処で車を降りるの?!』

『幣舞橋!』

『え?!』

『ぬ・さ・ま・い・ば・し!』

二人の顔が出ているリムジンを走らせてそのまま直滑降。

大きな都心に向かって車輪を回した。

走ること二時間。漸く下車をした俺は、腰を思いきり伸ばした。

『長いこと車に乗っていたから疲れちゃうよね』

歩弓ちゃんが身体を伸ばした真上に、全く同じポーズを取っている像があったからか、少しだけ面白く、フフッと笑ってしまった。

『あれ?なんで笑ってるの?』

『いや、歩弓ちゃんとその上にある像のポージング、似ていたからさ』

『あれ?本当だ』

『あ、そのままにしてて』

俺は急いでスマートフォンを取り出した。

その像と同じポーズをした歩弓ちゃんをパシャリと撮影した。

『いいのが撮れた』

『どれどれ?…ちょっと変だよー』

『変じゃないと思うんだけどなぁ』

そんなやり取りをしている横でサップはずっと直立をしている。

それは当に不動明王の如く、仁王立ちをしていて動かない。

それを見た歩弓ちゃんは『あ、サップ。ここからは二人で遊びたいの。いいでしょ?』

『いけません、お嬢様。お嬢様にもしもの事があったら…』

『大丈夫だよ!麻利央くがいるから。ね?』

そう言って歩弓ちゃんは俺の方を見た。

『え?…うん。そうですよ。大丈夫…ですよ』と、その場しのぎの返事をした。

しかし、サップは頑なにその場を動かない。

『いいえ。寧ろ、お友達様にももしもの事がおありになりますと、私のプライドが傷つきますし、双方のご両親様になんと…』

すると歩弓ちゃんが言った。

『大丈夫だよサップ。それにサップも私の付き添い、疲れてるでしょ?たまには少し休憩も必要だよ?綺麗な空気を吸って、気分転換して欲しいな。夕方にはここの橋で待ち合わせして、三人で帰ろう?いい?』

『しかし、それでは職務放棄になってしまいます』

『お父さんには内緒にしておくから。ね?お願い』

『…』

サップはサングラスをかけているお陰で、どんな表情をしているかなど分からないが、歩弓ちゃんの説得に、少し考えている様子なのが分かる。

『お嬢様…。分かりました。それでは夕方の四時に…』

『本当?!やったー!』

『でも、時間厳守ですからね!』

そう言ってサップはリムジンを動かした。

『よし!』

俺はそれに一つ顔を伺った。

『本当に大丈夫…?』

『うん。麻利央くん居るし、大丈夫だよ』

『いや、そうじゃなくて…』

『あぁ、サップの事?大丈夫だよ。サップもずっと私に付きっきりだし、凄く大変だもん。たまには一人で伸び伸びさせたいのも本音だし、友達と遊ぶ時はやっぱりサップ無しで遊びたいし。本当は私一人で来たかったんだよ?でも、サップが心配だって言うから、無理に付いてきちゃって…。麻利央くんに申し訳ないよ』

『そ…そんな事、ないよ!』

すると歩弓ちゃんはニコリと笑い、此方を見ながら言った。

『ねぇねぇ!時間、すぐ無くなっちゃうよ!早く行こう?』

そう言いながら首を傾けた歩弓ちゃんに、俺は『うん』と頷き、歩弓ちゃんと一緒に肩を並べた。

暫く歩くと、音楽店に着いた。

ここは、個人店なのか、外観は凄く凝っていて、店内はどこかモダンな雰囲気。手前の中央の島には沢山のCDが置いてあり、店内はクラシックジャズが流れている。

『知ってる…所?』と俺が言うと、『ううん。全然。でも、音楽店には変わらないから』とあっけらかんとした表情で歩弓ちゃんはそう言った。

恐る恐ると店内に入ってみると、左側にはギターの部材やドラム、スタンドや楽譜、オルゴールなんかも置いてある。

俺はそれに意表を突かれた。

『珍しいものばかり…。輸入の賞品も沢山あるね』

すると、歩弓ちゃんはしゃがんでガラス張りに置かれてあるピックを目に通した。

『…そう言えば、ウチの店に君のお友達が来てたよ?』

『え?友達って…?』

『ほら、麻利央くんと一番最初に会った時、隣にいた男の子だよ』

『あー、Yか』

『…Y?』

『そう、そいつのあだ名だよ。…で、Yがどうしたの?』 

『ピック買っていった。友達にあげるためって言ってたんだよね』

『あー…。俺、昨日誕生日だったからね』

『え?昨日、誕生日…?』

『そう。誕生日』

俺もしゃがみながらピックの横に置いてあるオルゴールをまじまじと見つめながら言った。

そんな俺に躙り寄って、歩弓ちゃんが言った。

『…なんでもっと早く教えてくれなかったの?何も用意してないよ?』

『…いや。いいのいいの。そんなつもりで言ってないんだから』

俺はそのまますっくと立ち、『さて、これから何処へ行こう』と、歩弓ちゃんに聞いた。

すると、歩弓ちゃんのお腹がグー…と鳴った。

『お腹…空いた』

しゃがみながらそう言って、お腹を押さえた。

『アハハ。それじゃ、何処かで食べよう』

すると、歩弓ちゃんもスクッと素早く立ちあがり、『コンビニのお弁当、食べてみたい!』と、真っ直ぐな目で此方を見てきた。そんな純粋無垢な瞳で見られると敵わない。

しかし俺は、『…え?コンビニ弁当なんかでいいの?』と聞き返した。

『うん。コンビニのお弁当が食べたい』

俺はまさかコンビニ弁当と言われるとは思わなく、何度も聞き返そうと思ったが、歩弓ちゃんの話を思い返すと、『そりゃ、そうなのかもしれない』と、自己解決を下した。

それ以上聞き返さずに、俺は頷いた。

『うん。コンビニ弁当、食べよう?』

『やったーーー!』

跳び跳ねて喜ぶ彼女を見て、俺は少しだけ口角を緩めた。

コンビニでお弁当を二つ程買って店を出た。

俺は幕の内弁当とお茶、歩弓ちゃんはラーメンサラダと抹茶ラテ。

こんな庶民的な物を買っても、歩弓ちゃんが買うものはなんでもお洒落に感じてしまう。

近くの公園のベンチに腰を掛けて、二人で手を合わせながら『いただきます』と目を瞑った。

『コンビニって凄いね!ラーメンもレンジでチンで出来ちゃうのもあるんだ』

『まぁ、名前の通り、だよね。そう言えば歩弓ちゃんはコンビニ弁当って食べないの?』

『…うん。全然食べない。帰ってきたらご飯出来てるから』

『サップが作るの?』

『うん。私の身の回りは殆どサップがやってくれる。でも、私だって、手伝うんだよ?でもサップは『それよりも、お嬢様はお勉強を』なんて、固いことばかり。少しは自分でやりたいのに…』

『アハハ。サップの物真似、似てる』

『え?本当に?ちょっと嬉しい』

俺達は広げたお弁当を半分位食べながら、歩弓ちゃんとサップの話で暫く会話が盛り上がった。

そんな話を飽くなく続けていると、とっくにお昼の一時を回っていた。

街中は風が心地よく、仄かに香る塩の臭いが、もうすでに慣れてしまった。

しかし、慣れてしまったこの心地がいつまでも続いて欲しいと願いながらも、俺は歩弓ちゃんと足並を揃える。

学校の話、部活の話、そして俺の家族の話なんかをしていたら、あっという間に夕刻も四時。

日がこれから沈む準備を始める頃、俺と歩弓ちゃんは幣舞橋に着いた。

サップが車の中で待っていた。

俺達が後部座席に腰をかけると、サップは『少しだけ、ここで待ちましょう』と言った。

『どうしたの?』と、歩弓ちゃんが聞くと、サップが指をさした。

その方向には橋の向こうで落ちる夕陽が水面に付くように、顔を沈めている。

その水面に反映された赤い波が、すごく鮮やかだった。

『すごく、キレイ…』

『うん』

『これをお二人に見せたかったのです』

サップも粋なことをしてくれる。と、その時思った。

『それでは参りましょう』

そう言ってサップは車をゆっくりと走らせた。 

 

駅前に着いた時には夜も既に六時。リムジンを静かに止めてサップがドアを開けてくれた。

俺が両の足を車から下ろすと、『お疲れ様でございました』と、バカが付くほど丁寧な言葉で俺を労った。

『疲れてないし、寧ろありがとうございます。こんなにも遠くに行けた事が何より嬉しかったです』

サップは不器用な笑顔を見せながら、俺に近づいた。

『いえ、此方こそ私がいない間、お嬢様を見ていただきありがとうございます』

そう言うと、歩弓ちゃんがサップを小突いた。

『やめてよぉ。私の面倒を見てもらう為に遊んで貰ったんじゃないんだから』

俺もサップも、皆で笑い合った。

『でも、久しぶりにすっごく楽しかったな。本当にありがとう。今度はいつ遊んでくれるかな?』

俺は一つ頭を傾げながら、『明日はバイトあるし…。いつになるか分からないけど…。あ、そうだ。今度は俺から誘ってもいいかな?』

歩弓ちゃんは両の手をパチンと音を立てて、『本当に?!うん!待ってる!凄く嬉しいよ!』と、喜んでくれた。

『いいですか?サップさん』

するとサップは『はい。麻利央様なら喜んで、いつでも遊べるよう、準備をしておきます』と、いつでも遊べる体制を整えてくれるようだった。

『今度は家においでよ。サップも私も、いつでも歓迎するよ!ね、サップ』

『勿論、麻利央様ならいつでも歓迎致します』

『ありがとう。歩弓ちゃん。サップ』

そう言うと、二人は大きく手を振った。

俺もそれに応えるように、大きく手を振った。

 

 

  五月二十四日

 

次の日の朝、小鳥が朝日に向かって羽ばたかせる。その羽音に耳を刺激され、目を覚ました。遮光カーテンの隙間から朝日が俺の顔を照らしていた。

今日は葵ちゃんから、バイトに誘われた日だ。

バイトは初めてだし、ウタナナタウには食べに行くばかりで何をどうしていいのか、勝手など分からない。

少し不安だっただけに少し早めに家を出る決意を固めた。

『家を十時に出よう』と、そこから逆算してバイトの支度に取りかかろうとするも、どうしよう。何から手をつけていいのか分からない。

『飲食店…。どんな格好でもいいのかな…』

取り敢えず、赤いロングTシャツとストレートジーンズを着て、一階のリビングへと降りた。

『『あ、お兄ちゃん!おはよう!』』と、双子の妹と弟がわざわざリビングの扉を開けて言った。

『おはよう。兄ちゃんちょっと急いでるから、ちょっとどいてくれないか?』

『『はい、僕たちからの誕生日プレゼント!』』

それは俺が大好きなハッカの飴を一つずつ、俺に差し出しながら言った。

『ありがとう。バイトの合間に食べさせて貰うよ』

すると母さんが『え?バイトなんかしてるの?いつの間に…』と、驚いたように俺を見た。

『正確に言えば今日からだよ』

俺は食卓テーブルの椅子に腰を掛けて言った。

コトンと優しく置かれたオニオンスープが、透き通って尚更美味しそうな香りを醸し出している。

『今日から?何処で?』

『ウタナナタウ。あのお爺ちゃんの所だよ』

『あら、お母さん行こうかな』

『やめてよ。本当に、ただの手伝いなんだ。ウタナのじいさん、体調が芳しくないって言ってたからさ。少しでも手伝えたらなって思えて』

『へー。あんたが、バイトをね。へー』

肝心なのか、意外なのか。

そんなよく分からないような相槌を打たれて、俺は幾度も『…何だよ』と、聞き返した。

それでも尚、『…いや、あんたがねー…へー』とよく分からない相槌を繰り返されるから、困った物だ。

『ご馳走さま』と、食器を片付けて顔を洗って頭も洗う。

そして、髪を乾かすがてら、いつもの髪形にセッティングをし、靴を履こうとしたら、急に母さんが『ちょっと麻利央、待ちなさい』と声を掛けてきた。

『何?』と、無愛想ながら振り向くと、母さんが小さな包を俺に差し出した。

『これ、持っていきなさい』

『何これ?』

『お弁当。あんたが人生で初めて社会貢献するんだから、ちゃんと応援しなくちゃ』

『…いや、賄いが出るかもしれないから、別にいいよ…』

『何言ってるの!賄いじゃ賄い切れない食べ盛りなんだから、これ持っていきなさい』

無理強いしてくる母さんの弁当を仕方無しと受けとり、『まぁ…。食べれたらね』と、一言添えた。

『それじゃ…頑張ってね』

『『いってらっしゃい!!』』

なんだか大袈裟にも感じるその見送りに、俺は少し笑って『うん…。それじゃ、行ってきます』と、扉を開けた。

自転車に跨がって、思いきり漕ぎ出した。

小さい時からお世話になっていたウタナナタウの店員になるなんて、夢にも思っていなかった。

今までお世話になっていた分、今度は非力ながら、俺が恩返しをする番だ。と、意気込みを胸に秘め、ペダルを漕いだ。

ウタナナタウ。看板が『CLOSED』となっているのにも関わらず、扉を開けようとした。…が、正面入り口から入れないのは当たり前の事。

裏口から入ろうとするも、何処が裏口か、そう言えば分からないのにその時気がついた。

早速葵ちゃんにメールをした。

『着いたよ。何処から入ればいいの?』

そう送ると、何処からともなくガチャリと扉が開く音がした。

砂利を踏みしめる音が段々と近づいてくる。その音の鳴る方に、俺は顔を覗かせた。

『あー!マリー、おはよう!』

『おはよう。葵ちゃん』

葵ちゃんは三角巾を頭に覆い、黒い服にジーンズを履いていて、そのジーンズの上から腰丈のエプロンを巻いていた。

『ごめんね。何処から入るのか、教えて無かった』

『何処が裏口?』

『こっちだよ』

手招きをした葵ちゃんの後を追う。

砂利が広げられている裏通りを建物沿いに歩くと、表口よりも遥かに小さい扉があった。

そこを開けると、ウタナのじいさんが下ごしらえをしているのか、スープを掻き回していた。

『おはよう。麻利央くん』

『じいさん!体調は大丈夫なの?』

すると葵ちゃんは心配そうな顔を見せながら言った。

『もう…。お爺ちゃん、休んでていいよ。って言ったのに、今日はマリーが来るからって張り切っちゃって…』

『そうともさ。麻利央くんが手伝ってくれるのに寝てなどいられる筈がない』

『…じいさん。無理しないでよ?また倒れてしまったら、元も子も無いんだからさ』

『ありがとう、麻利央くん。大丈夫さ』

そう言うと、葵ちゃんが俺に手招きをした。

それに気がついて付いていくと、納戸に招かれた。

すると葵ちゃんは何やらガサゴソと、辺りを漁っている。

『確かまだあった筈…。あった』

すると、透明のビニールの袋に入っている腰丈のエプロンが一着。

それを俺に差し出した。

『これ、お揃いだよ!』

『ありがとう』

俺はそれを受けとり、腰丈のエプロンを巻くと、『いいね。完璧にウェイター』と、何処か納得したように何度も頷いていた。

そして、それに着替えてホールへと向かった。

葵ちゃんがレジの前で立っていた。

俺もそのレジに向かった。

『今日は受注とレジと配膳。私と同じ仕事なんだけど、お願い出来るかな』

そう言われて、俺は一つ頷いた。

『うん。私がレジの指南をしてあげる!ここでレジを打って、メニュー表は机にも貼ってあるから、金額忘れたらこれを見ながら打ってくれれば有りがたいな』

説明をされて、俺はメモを取り出してそれを纏めた。

葵ちゃんの説明がとても分りやすい。

そして、開店前の準備。各テーブルと椅子を拭いて、店内の掃き掃除、トイレ掃除、そして空いた時間でレジの練習に勤しんだ。その間、葵ちゃんはウタナのじいさんの下ごしらえも最終段階なのか、準備を手伝っている。

『それじゃ、そろそろ…』とウタナのじいさんが言うと、俺と葵ちゃんは頷いた。

『それじゃ『OPEN』するよ』と俺が言うと、葵ちゃんが『お願い』と一言。

それを合図に、俺は看板を『OPEN』に切り替えた。

オープンするのは十一時。そのオープンしたてに早速お客さんが一人、来店した。

『いらっしゃいませ。一名様ですか?』

その客が頷き、カウンター席に座ると、俺はぎこちなくも水が一杯に入っているボトルから、水をコップに注ぎ込む。

そして水をトレイに乗せて、カウンター席に置いた。

『ご注文をお伺いします』

そういって受注票が挟まれている、小さなバインダーを取り出した。

『ハンバーグ定食一つ』と、その客が言うと、『そこはエスカロップだろ』と、突っ込みそうになるも、言葉を飲み込んだ。

『かしこまりました』と、畏まってると言うよりも、固くなっている俺は棒読みでそれを言った。

『ハンバーグ定食一つ』とカウンターに言うと、既に葵ちゃんはハンバーグの種を手の平で交互に叩きながら、『ありがとうございます』と言った。

その間にウタナのじいさんはフライパンを温めている。

なんともコンビネーションが抜群だ。

まだこっちに来て間もないのに、葵ちゃんは手慣れた様子で注文の準備を進める。

そして叩き終わったハンバーグの種をウタナのじいさんに渡すと、じいさんはそれを焼く。

なんとも、ジューと聞こえる音も香ばしく感じる程。

その焼いている間、葵ちゃんはサイドに付くサラダを冷蔵庫から取り出し、お皿に綺麗に盛っていく。

そして、盛り付け終わると、ウタナのじいさんの様子をじっと見つめている。

片面が焼き終わると、引っくり返してもう片面、綺麗な焦げ目が付くまで丁寧に焼いている。

いい感じに焼いたのを確認した葵ちゃんは、先ずご飯を平皿に盛り付けた。

ウタナのじいさんがサラダが盛られてる大きな平皿にハンバーグを盛り付けると、葵ちゃんがスープをよそう。

そうしてハンバーグ定食は完成するのだ。

それを俺はトレイに乗せて『お待たせしました』と、その客の前にハンバーグ定食を置いた。

その客は、ハンバーグ定食を置くやいなや箸を直ぐ様持ち、貪るように食べている。

『相当お腹が空いていたんだな』と、俺は思った。

葵ちゃんの方をチラッと見ると、小さくグーサインを出していた。

俺はそれに親指を立てて返事をした。

その時だった。 怒濤の様にお客さんが次から次へと来店してきたのだ。

繁盛も大繁盛。それはお昼の二時半迄、絶え間なく、しかもわざわざ待って貰える程、お客さんが入ってくる。

その忙しない感じがとても大好きだ。

 

―――そんな忙しない仕事に身体を預けていると、あっという間に昼休憩…と、言っても三時を過ぎていた。

葵ちゃんは三角巾を取って『夜に向けての下ごしらえ、やっと終わったね』と、俺にひと言労いをかけ、俺にコーヒーを淹れてくれた。

『ありがとう…』と、俺がカウンターに身体を預けて凭れかかっていると、ウタナのじいさんが『どうだい?麻利央君、疲れたろう』と、笑っていっていた。

『うん、でも、心地がいい疲れだよ』と、何処か清々しさも、俺は感じていたのは嘘じゃない。

そこで、俺は母さんから持たされたお弁当箱を広げた。

なんだかんだ言っても、やはり母さんから持たされたお弁当に有り難みを犇犇と感じるのだ。

『あ、お弁当?いいなぁ』

葵ちゃんはそんな母さんのお弁当を覗きこんだ。

『葵ちゃんも食べる?』

『いいの?!』

『勿論!爺さんのより、味は落ちてしまうかもしれないけど…』

すると、ウタナの爺さんが言った。

『作ってもらえる物に味の優越等ないさ。だって麻利央君を想って作っているのだから』

『いただきまーす!』

『コラコラ、葵。意地汚いよ』

一口食べると、葵ちゃんは目を丸くした。

『美味しい!スゴく美味しい!』

『本当に?』と、疑いをかけると、葵ちゃんは『本当だよ!マリーも食べてみなよ!』と、お箸で玉子焼きを持って、俺の口に近づけた。

俺はふと、口を開けるのを躊躇してしまい、顔を退いたが、葵ちゃんはそれでも俺の口に玉子焼きを近づける。

根負けしてしまい、そのまま口を開いた。

『…?!ほんとだ、美味しい!』

『ハッハッハ。それが愛情の味、と言う物だ』と、ウタナのじいさんが笑いながら言った。

いつも食べているお袋の味が尚更美味しく感じた。

それは葵ちゃんに食べさせて貰ったからなのかもしれないが。

俺は母さんに感謝の念を抱きつつ、先の疲れを忘れさせる程、葵ちゃんとお弁当を平らげた。

 

―――そして夜の八時、閉店時間があっという間に訪れた。

『ふぅー。怒涛だったね…。いつもこんなに忙しいの?』

『ハッハ。土日だけだよ。今日は麻利央くんのお陰で本当に助かったよ』

『後片付けももう終わったし、すごいよ。マリーは接客完璧なんだもん。卒なくこなせるとか、凄いね!』

べた褒めされた俺は少し照れてしまったが、『ま…まぁね』と、鼻を擦った。

『でも働いていると、時間が経つのが凄く早いよ』

『そうだよね…。あっという間』

『そんな頑張った二人に取って置きをあげよう』

後片付けがてら、空いた時間で作っていたであろうエスカロップが二つ、そこには並べられていた。

『やったー!エスカロップだ!』

『え?いいの?お爺ちゃん!』

『いいとも。二人とも本当によく頑張ってくれた』

ウタナのじいさんはフォークとスプーンを俺達二人の前に置いてくれた。

『いただきまーす!』と、俺と葵ちゃんは手を合わせる。

仕事終わりのエスカロップが格別に感じる程、それはとても美味しい。

働くってこう言う事か。と、俺は仕事の後の余韻を噛み締めながら、エスカロップもしっかりと、噛み締めた。

『御馳走様』と、フォークとスプーンをお皿の上に置くと、葵ちゃんが、『うん。美味しかった。御馳走様でした』と、手を合わせた。

『お粗末様』と、ウタナのじいさんは平皿を下げると、葵ちゃんは頭に付けている三角巾を外した。

『ふー。暑かった』と、額の汗を拭いながら葵ちゃんは楽しそうに笑っていた。

その様子を見て『葵ちゃんは仕事楽しそうだよね』と、聞くと葵ちゃんは大きく頷いた。

『楽しいよ。だって、私のしたい事だからさ。それが出来るのって凄く楽しい。マリーも、音楽している時、凄く楽しいでしょ?それとおんなじだよ』

不思議だ。彼女と話していると活力がたぎる。

何をやるにも、『えー』と文句を言っている自分が、空虚の彼方へと行ってしまっているかのように、俺は彼女の話に耳を傾けていた。

すると、ウタナのじいさんが俺達が食べ終わった平皿を洗いながら、咳き込んだ。

それに葵ちゃんは席を立って、『あー!お爺ちゃん、いいよ!私やるから、もう休んでて!』

そう言って葵ちゃんはウタナのじいさんに歩み寄り、優しく肩を抱いた。

『済まない、葵。ゴホッゴホッ』と、胸を抑えたじいさんは、カウンターの席に座った。

それを見て黙っていられる筈がない。俺も席を立って水を一杯、ウタナのじいさんの前に置いた。

『悪いな、麻利央くん』

コップを静かに持って、それを一気に飲み干した。

『落ち着いた?』

『あぁ…。麻利央くんが手伝ってくれて、本当に感謝をしている。ありがとう』

『いいんだ…。今はゆっくりと休んでくれ。じいさんが居ないと、俺も困ってしまう』

『ハッハ。何を困ると言うんだ』

『じいさんが居ないと、ウタナナタウが無くなってしまうじゃないか』

そう言うと、じいさんは目を丸くした。

『じいさんのこの味、この店の佇まい、内装の造り。全てがじいさんの拘りなんだろ?この店の『味』は、じいさんにしか出せない。そんなじいさんが居なくなるのは、俺の居場所が無くなるのと同じなんだ。だから…。だから、今は休んでくれ』

『麻利央くん…』

ウタナのじいさんは下を俯いて、俺に哀願するように、こう切り出した。

『麻利央くん…。休日の出られる日だけで構わない。これからも手伝って貰うことは出来ないか』

『じいさん…』

『頼む…。麻利央くんと葵。二人が居てやっと私らしく体を動かせるんだ。どうか、よろしく頼む』

俺は呆気に取られ、鼻で笑い返した。

『当たり前じゃん。忙しい日だけでいいのなら、俺も手伝うさ。でもじいさん、無理は禁物だよ』

『ああ…。分かっている。ありがとう…。それじゃ、私は先に寝るとするよ』

俺は『うん。お大事に。暖かくして、しっかりと寝てね』と、ウタナのじいさんの身を案じた。

じいさんが二階へと上がる丁度その頃、葵ちゃんもお皿洗いを終えて、カウンター席に着いた。

『ふぅー。今日のお仕事は終了!…どうだった?』

俺は髪の毛を弄りながら、『どうもこうもあっという間。息つく暇も無いって感じ』と率直な想いを露にした。

『休日はいつもこんな感じだよ』

『昔はこんなんじゃなかったのに…。ウタナのじいさんの店、本当は地元だけで有名な喫茶店って感じだったんだけど…。最近になって、なんだか観光客まで来てさ…。それからじいさん、一人で切り盛りするの大変そうだなって…。そう思った』

すると、葵ちゃんが顔を渋らせながら言った。

『…正直、有名になってからなんだ。お爺ちゃんが体調悪くなったの』

ふぅー。と、鼻から大きく息を吐いて、また切り出した。

『それでお爺ちゃんからお父さんに連絡が行ったんだけどね?お父さん、仕事があるからって…。でも、お爺ちゃんが大変な時に、それを無視するのが私は嫌で、ここに来た』

『葵ちゃんは…お父さん嫌いなの?』

『ううん。普段は気さくで、話しやすくて、優しいお父さん。寧ろ、大好きなんだけど、お爺ちゃんの事になると、お店を継がなかったのが後ろめたいのか、非協力的になるんだ。お母さんもお父さんも働いてるから、行くなら私しかいないって。そう思って来たの』

『…で、それをも楽しめてるんだ。葵ちゃんって凄いね』

『そうかな。お節介なだけだよ』

すると、葵ちゃんは急にカウンターテーブルに体を預けるように、うつ伏せになりながら俺を見上げた。

『そう言えば、なんでここが『ウタナナタウ』か、知ってる?』

俺は当然と言わんばかりに腕を組ながら言った。

『ウタナナタウ。ウタナはじいさんの名字でナタウはポルトガル語のナタール。じいさんの憧れの国だと聞いたけど』

『そうなの。でも、逆から読んでも『ウタナナタウ』だから、多分語呂がいいのもあるんだろうけど、お爺ちゃん、ナタールのあのゆったりとした環境が好きなんだろうね』

俺はボトルから水を入れて、それを一口飲んだ。

『それで店内はこんなに青々しいんだ…』 

『ナタールは自然が沢山あるから…。それを再現したかったんじゃないかな』

その青々しい観葉植物たちは、唯々凛として動かない。

水を静かに啜り飲んで、コップを置くと、水紋が静かに拡がっている。

夜の静かな喫茶店というのも、これまた居心地が良いものだ。

そう思った俺は、一つ身体を伸ばした。

『疲れたんでしょ!』と、いたずらな笑顔で俺に小突いた。

『…え?そんな事ないよ』

『…本当に?』

『…ウタナナタウ。じいさんの想いが一つに纏まった…いいお店だよ…』

水を一口啜ると、どこか潮っぽい感じが、俺の口の中に広がった。

木々の間にハンモックを吊るして、揺れているそれに身体を任せて、ジュースなんかをストローから啜っている。

まるでリゾート気分。木陰に隠れながら風に当たると、凄く心地がいい。

『ねぇ、マリー。寝るんだったら自分の家で寝てよね』

葵ちゃんが隣でユサユサと身体を揺すっていた。

おっと、いつの間にか目を瞑ってしまっていたようだ。

『そうだな…。そろそろ行こうかな』

『…また、手伝ってくれるかな?』

『勿論、当たり前じゃん。毎週土曜日と日曜日だけでいいの?』

『でも、マリーは忙しそうだから、来れる時だけでいいよ。…ウチは日給制ですので、よろしくお願いします』

そう言って葵ちゃんは、俺の手に封筒を握らせた。

『有り難く頂戴致します。…もし行けない日があったら、事前に連絡するから。それじゃ、またね』

『うん。バイバイ』

そう言ってウタナナタウの表ドアから外へと出た。

封筒を目にすると、思わずもそれを握りしめた。

くしゃくしゃっと握りしめられている封筒は、俺の手の中で折れるまでになっていた。

だが、わざわざそれを引き延ばして、俺は封筒の中身を覗いた。

『…こ、こんなに?!』

俺は何度も首を振って、『…じいさん、無理しないでくれよ』と、ボソリと呟いた。

その時の俺と言ったら、どこか不甲斐ない気持ちで一杯になった。

 

夜も更け、家に着くと母さんが出迎えてくれた。

『お帰りなさい。お弁当、食べられた?』

俺は昼の休憩に平らげたお弁当を手渡した。

『初めてのお仕事、どうだった?』

『うん、楽しかった。また行くよ』

母さんはしつこく俺の後ろを付きまとう。

『楽しかった?どんな風に?あんた、茶碗とか、コップとか割らなかったかい?メニュー、間違えなかった?お金の受け渡し、間違ったりしてなかったかい?大丈夫?』

まるでスーツのネクタイを緩めながら、近況報告をする旦那のような、そんな気分を味わいながら、幾つも質問を投げてくる母に、少し嫌気が差した。

『大丈夫だよ、心配ないから。疲れたから、もう寝るね』

『麻利央、ご飯は?』

『食べてきた』

そのまま自室へと辿り着くと、倒れた様にベッドの上へと身を投じた。

『はぁ…。今日は疲れたな…』

倒れたその目線の先に、鞄が置かれてあった。そのファスナーに付いている貝殻をじっと見つめた。

『勇気…か』

気がつけば、そのまま瞳を閉じて、俺は眠りについたのであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?