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ひだまりの唄 21

九月十二日

 

じいさんが倒れてから丸四日が経った。

じいさんは運ばれた翌日に検査をしたが、異常はなく、じいさん自身も意識が戻り、弱々しくも意志疎通が出来る程、回復はしている。

検査結果によれば、起因は栄養失調によるものだった。

そのせいか、じいさんは腕に点滴を受けている状態だ。

それを葵ちゃんに報せようと電話を入れたのだが、電話に出ることはおろか、折り返しの電話も無い。

それがどうも気にかかり、胸の隅で支えているそれを取り除きたかったが、取り除こうにも、連絡がつかねばどうしようもない。そこで今日、じいさんのお見舞いが終わったら、そのままウタナナタウに訪ねてみようと決心をした。

最後の授業が終わって、俺は鞄に教材を乱雑に入れているとねむちゃんが隣でじっと見ていた。

それに気がついて、『…どうしたの?』と訊くと、『…日野くん、今日も部活、出れなさそう…なの?』と、様子を伺った。

『あー…。うん…』と濁した返事をすると、ねむちゃんがまたも顔を窺いながら訊いた。

『…おじいちゃん…まだ治りそうも…ない?』

『…うん』

『…そっか』

そんな会話にYが自分の席から立つと、頭を二、三度掻きながら此方に歩いて来た。

『おいおい、ウタナナタウでお仕事するのは土日の休みだけって約束じゃなかったか?』

『そうだけど…』

そう言うと、Yは微笑して俺に言った。

『それじゃあ、俺とねむちゃんもお見舞い、行っていいか?』

Yは肩をガシリと組んだ。

しかし、俺はその情を振り払ってしまった。

『マリー…』

『ごめん…』

俺がそう言うと、Yは悲哀に帯びた瞳を浮かばせながら此方を見る。

だが、俺はそれを背いた。

しかし、哀傷に訴えてくる視線が背中に刺さって、どこか痛い。

俺はその痛みを背負いながら、教室を出ていく。

すると、教室の奥からは悲哀が籠った声で『日野くん…』と、教室内に響いた気がした。

病院へと辿り着いて、真っ先にエレベーターに乗り、じいさんのいる六階のボタンを押す。

上に昇るエレベーターに、俺は足もとがついていなければおかしいのだが、どこか宙に浮いた気分だった。

六階からエレベーターを降りた正面に、お手洗いがある。

二、三部屋隣にあるのがじいさんの部屋になり、その部屋をスライドさせると、じいさんが窓を見ながら上体を起こしていた。

『あ、じいさん。寝てなきゃダメじゃないか』

『あ、あはは。麻利央くん』

以前よりも大分声は絞れていて、いくら一室にじいさんだけでも、ドア付近に居れば聞き取りにくい。

その位、じいさんは体力が大分低下しているのではないかと、懸念した。

『じいさん…。大丈夫?』

『…大丈夫』

『…では無さそうな声してるじゃないか。横になりなよ』

じいさんは笑いながら俺を見た。

『はっは。寝てばかりいたらそれに甘んじてしまいそうでね、怖いんだよ』

そう言ってじいさんが指した方向には、一本のなが足で直立している丸テーブルがある。

その上にバスケットが置かれてあり、沢山のフルーツが入れられてあった。

『フルーツ、食べたいの?』

『…あぁ』

『何が食べたい?』

『…そうだな…』

俺はじいさんの前にバスケットのかごを持っていくと、色とりどりのフルーツに目移りしながら、じいさんは果物を選んでいた。

それが、病院に来て一番元気だと思った姿だ。

『…それじゃあ、葡萄食べる?』

『あぁ、お願いするよ』

俺は葡萄の房から一粒の葡萄をちぎり取ると、じいさんはそのまま食べた。

『皮ごと?!』

じいさんは大きく頷くと同時に、ゴクリの飲み込んだ。

『完熟している葡萄だ。とても美味しい』

ウタナのじいさんは何処か満足そうな表情を浮かばせて言った。

そんなじいさんを見て『…変なの』と、俺はクスリと笑った。

だが、途端にもじいさんは少し辛辣な表情に切り替わって、俺に一つ訊いた。

『そう言えば…葵と連絡取ってるかい?』

俺は驚きを隠せなかった。

あんなにじいさんに一途な葵ちゃんが、見舞いに来ていなかった事に、だ。

『葵ちゃん…じいさんのお見舞い来てないの?!』

『一度は来てくれたんだがね?私が意識を戻した時、傍に葵が椅子に座って私を看てくれていた。…だけどね、私は葵に酷い事を口走ってしまったのかと…気にかかってるんだよ』

『…何を、言ったの…?』

じいさんは再び窓を眺めた。

『葵がね、葵の父、即ち、私の息子に電話を掛けると言ってね?私は言ってしまったんだ。このまま看てくれるのはありがたいけど、もう店も何もかも終わりにさせるから、お父さんの元へと帰りなさい。それが葵の為だよ。と。…そうしたら涙を滲ませて、何も言わず病室を出てしまったんだ…』

俺は袋を被せられた小鳥の様に、言いたいことが沢山と募ったが、うんと我慢して、じいさんの話に耳を傾け続けた。

『…そんな葵の姿を目の当たりにすると、こんな私の為に来てくれた葵の気持ちを踏みにじった様な、そんな気持ちになった…。本心でも、そんな事を口にするものではなかったと、反省しているよ…』

でも、待てよ?

『…なぁ、じいさん…!それ、何時の話?!』

『え?』

『いや、葵ちゃんがこの病院に来たのは、何時の話だったの?!』

『つい、三日前だ』

もしやと、俺は焦りが沸き上がった。

確か俺が電話したのはその一日後、つまり、二日前だ。

それが本当だとしたら、繋がらない理由はたった一つだと、それしかない。

そう思って、俺は慌てて病室をでた。

バカだ。何でもっと早くに気がつかなかったのだろう。

電話に出なかったその時に、俺はウタナナタウへと足を運ばせて、葵ちゃんに一報を入れるべきだったのに。

もし遅ければ、葵ちゃんは…!

間に合ってくれと、万が一の可能性を賭けて、俺はウタナナタウの前に仁王立ち。

そのまま、一歩一歩と歩を進め、ウタナナタウの扉に手を掛けた。

すると、ウタナナタウの扉が、カラコロと聞きたくもない陽気な音をたてながら、ゆっくりと開いた。

『葵ちゃん…?』と囁く様に声を発しても、当然に誰からも返る言葉は無く、店内は森閑としていた。

だが、『CLOSED』の立て札が掛けられた扉が開いたと言うことは、誰かがこの中にいると言うことは紛れもない事実だと疑う余地も無い。

それを頼りにもう一度、声を上げた。

『葵ちゃーん?!いるの?!』

だが、店内の静まり返ったこの空間に木霊するのは俺の発した声だけだと、今更ながらに気がついた。

俺は先ず階段を上った。

葵ちゃんの部屋は半開きになったままなのだが、音沙汰が無い。

ゆっくりとその扉を押してみると、部屋は綺麗に片付いてる。

荷物が纏められている形跡はない。

それに少しばかり胸を撫で下ろした。

しかし、それだったら何処に行ったのか。

じいさんの部屋を開けても、救急で出ていってから変わった所が一つも無い。

階段を下りても、勿論の事、誰かがいる気配はまるでない。

それだけで、殺風景に感じたりもした。

『葵ちゃん、何処に行ったのだろう…』

悲観にも浸ってしまうこの空間に、俺はただただ身を置く様に、椅子に座った。

カウンターテーブルの上に肘を付いて、徐にスマートフォンを取り出すも、葵ちゃんの電話番号だけが、空しく写し出されている。

俺はその画面をひたすらと眺めていた。

そんな事をしても一変もしない状況に魔が差して、電話番号を押そうとも思ったが、それを諦めた。

幾度も電話を掛けた所で、電話に出ないのが関の山な事は手に取る様に分かる。

しつこく電話をかけた所で、癇に障るだけだと、自分に言い聞かせた。

でも、もう葵ちゃんの居場所の手掛りがない。

手詰まりに感じて、ここまでかと、肩を落としたその時に、裏口の扉の開く音が聞こえる。俺は首を長くしてその方向に目を向けた。

すると、葵ちゃんが買い物袋を沢山持って、家の中へと入って来たのだ。

『あ、葵ちゃん!』

俺があまりにも驚いて、すっとんきょうな声を上げると、『…あれ?マリー?』と、驚いたように目を丸くして、此方を見た。

『なんで…?』

『葵ちゃん…話したかった事が…!』と、立ち上がったと同時にカウンターテーブルの膝立に足をぶつけてしまった。

『ハッ…!イッ…!』

俺が苦しみもがいているそれを見て、葵ちゃんはプッと吹き出して、両手に持った買い物袋をドサッと落として、お腹を抱えた。

『…アハ…アハハハ!マリー、なにやってんのさ!』

『あ…。アハハハハ…。何やってるんだろうね。俺』

脛を手で覆いながら、飛びはねている俺を見て、葵ちゃんは奇しくも、笑っていた。

そして、笑い声が止んでは俺を見て、葵ちゃんは何度も何度も笑い声を重ねた。

その姿を見て、俺はホッと一息ついたのだった。

間を作って、俺と葵ちゃんはカウンターテーブルの椅子に座る。

俺は葵ちゃんにコップ一杯の水を差し出すと、ゆっくりと一口、それを含んだ。

またも、ゴクリと喉を動かすと、葵ちゃんはふーと、一息吐いた。

『大丈夫…?』

『うん、大丈夫』

俺がそれを見て頷くと、葵ちゃんは徐にも口を開いた。

『マリー、何でここにいるの?』

俺は顔を膨らませる様に、葵ちゃんに言った。

『…いや、心配したんだよ。もしかしたらさ…』

葵ちゃんは悪戯な顔を浮かばせながら身を乗り出した。

『もしかしたら…?』

それを訊かれて、今度こそ頬を膨らませた。

『…本当に葵ちゃんのお父さんに電話して、向こうに行っちゃったのかと思ったんだよ!』

それを聞いた葵ちゃんは、またもクスッと笑った。

『そっか!ごめんね?電話もくれてたのに…』 

『え?気がついてたの?!』

葵ちゃんは笑顔で頷いた。

『気がついてたよ。でもね、私、どうしても作ってみたい物があるの』

『…作ってみたいもの…?』

葵ちゃんが黙って頷いて、カウンターテーブルから席を立った。

レジ下の引き出しから取り出したのは、一枚の見るに耐えない程ボロボロになった紙切れだった。

そこに書いてあったのはじいさんの看板メニューである、エスカロップの作り方だった。

俺はそれを見て、目を丸く見開いた。

『これって…』

『…私、この四日間、これを作る為に、誰にも邪魔されない様に、学校の時間以外、ここに籠っていたの』

俺は見開いた目を閉ざす事が出来ない。

もしかして、葵ちゃん…。

『…ウタナナタウ…葵ちゃんが…続けるの…?』

『え?!まさか!大体、資格持ってないもん』と葵ちゃんは二度首を振ると、俺は呆気に取られた顔を浮かべずにはいられない。

『それじゃあ、なんで…?』と、俺が訊き返すと葵ちゃんはそのボロボロの紙に目を配った。

『おじいちゃんが、どんな気持ちでこれを作っていたのか…知りたくなったの』

葵ちゃんは、そのボロボロの紙が粉々に切れてしまいそうな程に、真剣な眼差しで向き合っていた。

『私ね…おじいちゃんに…』

そう口を開いた葵ちゃんは、手も震えていた。

『…おじいちゃんに、もうお店を畳むから、お前は帰っていいって、そう言われたの…』

俺もその話を聞いたときは、正直、偉く落胆をした。

だって、小さい頃から通っていた、唯一無二のお店だから。

想い出を綴ったアルバムを、生涯閉じきってしまいそうで、怖かった。

だが、じいさんのお店だ。じいさんの意思に背いてはいけないと言うジレンマが葛藤して、どうしても歯痒い。

俺は脳裏でそう思いながら、黙って葵ちゃんの話に耳を傾けた。

『…私、怖くて、お父さんに電話出来なかった…。ずっと部屋の隅で、怯えてた…。もう、おじいちゃんの料理食べられない…音楽を語り合った、おじいちゃんのこのお店とはもうお別れだなって…』

葵ちゃんの言葉が、そのままそっくり頭の中で巡っていたからか、妙にゆっくりと頷ける。

『…でも、思ったんだ。おじいちゃんが思いを募らせたこのレシピ通り作ったら、私もおじいちゃんの気持ちが分かる気がするの。だから…私、作ってみたい。おじいちゃんの料理、作ってみたいんだよ』

その真っ直ぐな姿勢に心を奪われ、『俺も、作りたい。いいかな』と、葵ちゃんに言った。

葵ちゃんは大きく頷いた。

『ありがとう…マリー』

葵ちゃんは満面な笑みを浮かべてそう言うと、俺は一度、苦手な笑顔を葵ちゃんに見せた。

『あ、マリーも笑った…』

そう言った葵ちゃんの笑顔は、無邪気な仔猫みたいだった。

 

俺達はエプロンを腰にしっかりと巻き付けて、キッチンに立った。

先ずは下拵え、俺はカツを揚げる作業を任され、葵ちゃんは繊細な味付けが要求されるソース作り。

俺は既に衣がしっかりと帯びている豚肉を取り出して、沸々と泡が際立つ油へと投入する。

葵ちゃんはコンロのつまみを軽く捻り、フライパンを置く。

その間に、玉葱と人参を手早くみじん切り。

そして、予め弱火で温めたフライパンにオリーブオイルを敷いた。

軽くパチパチと音が立つと、玉葱を投入してきつね色になるまでじっくりと炒める。

ある程度火が通るとフライパンに人参を入れて、蓋を閉め、猫の手位の大きさのマッシュルームをスライスしていく。

そのスライスする手つきがもう既に手慣れていた。

フライパンの蓋を開けた玉葱は黄金色をして、水分が幾分出てきていた。

そこにスライスマッシュルーム、葡萄酒を一回り半、ケチャップ、醤油麹を入れ、香りを引き立たせる為にローリエとセロリの葉を一振りすると、蓋を閉めた。

フライパンの蓋から溢れ出る匂いを嗅ぐと天にも昇る様な気持ちに、いつもなる。

俺は揚がったカツを取り出して、六等分させる。

『マリー、そっち終わった?』

『え?あ、うん』

『デミグラスソースの火加減、見てて貰ってもいい?』

『いいけど、なにするの?』

『バターライス、作ってみる』

そう言って葵ちゃんは業務用冷蔵庫からライスとペットボトルを取り出した。

そして食器棚からボールを取り出し、そこにライスを入れた。

そこで葵ちゃんは、ペットボトルを手に取って、俺に言った。

『家のエスカロップが何でこんなに有名か、知ってる?』

俺は頭を傾げたが、傾げるだけで何も考えが浮かばないでいると、葵ちゃんが空かさず『バターに秘密があるの』と、ペットボトルを半分に切りながら言った。

『バター…?』

『そう、バター。バターを作る時の生クリーム、普通は油分濃度が高い動物性の物を使うんだけど、家では植物性の生クリームを使うの』

俺はそれに抱いた疑問を投げつけた。

『…あれ?でも植物性の生クリームって…』

そう言った俺に、葵ちゃんは頷いた。

『そう。上手く固まらないの。油分が少ないからね…。でも…』

そう言うとまた冷蔵庫から今度は一リットルの水が入っているペットボトルを取り出した。

『これ、何か分かる?』

『…え?…水?』

葵ちゃんは首を横に振った。

『水は水でも、ただの水じゃないの。海水なんだ』

『か…海水…?』

『そう、海水。家の側にある海水をここに汲んで、深鍋に注いだら、強火でグッツグツに沸騰させるの。そうするとね、塩が出てくるのよ』

俺は『はぁ…』と、それが何を指しているのか察していなかったが、葵ちゃんは話をそのまま続けた。

『海水から出た塩は、市販で売られている塩よりも濃度が高いのよ?その塩を使えば、植物性のクリームでもしっかりと固まってくれる。…おじいちゃんはあくまで、自然に拘った料理を、このエスカロップに込めていたんだよ。私、レシピを見るまでそれに気がつかなかった…。だからお店の名前も『ウタナナタウ』にしたのかなって、この時初めて気がついた』

そう口にしながら、葵ちゃんはボールにご飯を移してバターを絡め、何度も何度も混ぜている。

俺はそんな葵ちゃんの話を聞いて、改めて、店内を見渡した。

青々とした植物が、風も何も吹いていないのにも関わらず、生き生きと動いている様に感じたのは、そんなじいさんが作った店なんだと、俺は改めて感じたからだ。

そんな事を考えている傍ら、葵ちゃんはもう一本のフライパンを取り出して、バターライスを一気に炒めていた。

『マリー!火加減!』と、葵ちゃんはデミグラスソースのフライパンに指を向けた。

『あ!ごめん!』と、つまみを回して火を消した。

葵ちゃんは一気にバターライスに火を通すと、パセリを上から振って香りを付けて、平皿にバターライスを移した。

そしてカツを乗せ、デミグラスソースをかけて、サイドにレタスを敷き、その上にジャガイモとアスパラガスを炒めた物を乗せれば、ウタナナタウのエスカロップは完成となる。

美味しそうに際立たせる湯気が、俺の嗅覚を擽りかけて、思わず、涎を垂らしそうになるのを、必死に堪えた。

『…出来たね…』

『…うん、出来たね』

『…食べてみましょうか』

『…うん』

俺と葵ちゃんはフォークを握る。

綺麗に盛り付けられたエスカロップを崩すのは心惜しいが、恐る恐るもそれにフォークを刺す。

そして、徐に口に運んだ。

ひと口噛めば衣が音をたてて何度も噛み締められる。

うん、やはり美味しい。

今度はフォークでバターライスを掬う。

バターライスから沸き上がる湯気が、俺の食慾をそそらせる。

香りがたったそのバターライスをひと口運んだ。

口あたりはまろやかで、噛み締めたら噛み締めた分、濃厚な甘さが広がっていく。

それでいて、くどく感じられない。

その口の中に、またデミグラスソースが乗っかったカツをひと口放った。

やはりあう。口の中で喧嘩をしない。

俺は頷きながらフォークを置いた。

『葵ちゃん、美味しいよ!』

俺は葵ちゃんに振り向きながらそう言った。

…が、葵ちゃんは目を潤ませながら、フォークを持っている。

それが自然と葵ちゃんの手から離れた。

カランカランとフォークはバタバタと地団駄を踏む子供の様に、地べたを暴れた。

そんなフォークを静かに拾うと、葵ちゃんは肩を小さく揺らして、手を顔に覆っていた。

フォークを静かに置くと、葵ちゃんはポツリと小さな声で言った。

『…何で…何でなのよ…』

俺はソッと葵ちゃんの肩に手を置くが、葵ちゃんは覆っていた手を離さない。

『…どうしたの…?』

『全然…違うんだよ…』

『え?』

葵ちゃんが勢い良く立った。

その勢いに、思わず下がってしまった。

その瞬間カウンターの椅子が思いきり倒れて、もがいている。

カウンターテーブルに両手をつけ、此方を見ながら、声を振り絞った。

『おじいちゃんの味と、全然違うんだよ…!』

俺は唐突なそれにうんともすんとも、返事が出来ない。

ただ呆然と立っているだけだった。

『…おじいちゃんの味、こんなんじゃない…』

葵ちゃんは頭を抱えてそう言った。

俺は葵ちゃんのその崩れた姿を、まじまじと見つめた。

俺にはどうする事も出来ない非力な自分が、またも沸々とやるせなさを駆り立たせる。

いつもこう言った時、気の利いた言葉等、俺には到底掛けられないでいた。

しかし、そんな今までの自分に嫌気がさして、思いきり両手を握りしめた。

『…でも葵ちゃん、大丈夫だよ。葵ちゃんはじいさんのエスカロップをまだ一回しか作ってない。…じいさんが四苦八苦しながら、何度も何度も挑戦して出来た味なんだ。そう簡単には出来ないよ』

葵ちゃんは崩した膝を立て直す事が出来ないままでいたが、俺はそんな葵ちゃんに目線を合わせる様に、膝を曲げた。

『…でも、味より何より、じいさんの作ったエスカロップを葵ちゃんが作ってみて、どう思ったかの方が、俺は大事な気がするんだ…。うん…』

覆っていた手を顔からゆっくりと解いて、目を俺に合わせながら、じっと動かさない。

いや、じっと動かさないと言うよりかは、溢れた涙を流さんとじっと堪えている様に伺えた。

しかし、一度緩んでしまった涙腺を締める事は、全て流し切らないと止まることはない。

葵ちゃんは合わせた目を思いきり閉じた。

すると、涙袋には納まらないのか、累々と流れ落ちていく。

俺はポケットに入っているハンカチを差し出した。

葵ちゃんはそれを手にとって、涙を拭う。

しゃくり声も出さないで、静かに目にハンカチをあてがっている。

しかし、拭い切れない涙がメニュー表の上にしとしとと落ちて、滲み広がっている。

落ち着きを取り戻した葵ちゃんは、肩を少し揺らしながら、小さく、声を漏らした。

『…がうの』

『…え?』と、耳を葵ちゃんに近づけると、葵ちゃんは頭を抱えた。

『違うの…。違うんだよ…。もう、時間を掛けていられない…。だから…』

じいさんが倒れて、葵ちゃんはどこか焦りと闘っていた。

だからか、それとなく、聞いてしまった。

『…葵ちゃん、何で、そんなに…?』

だが、葵ちゃんは何度と首を横に振った。

『…それ以上…言わないで…』

葵ちゃんの体が小刻みに震えていた。

俺は隣で、その震えを止める術を見つけられないまま、寄り添う他なかった。

葵ちゃんに手をさしのばして、椅子へと腰を落ちつかせた。

 

椅子に腰かけてどのくらいの時が経っただろう。

ギターの真上にある時計の針の刻む音だけが聞こえてきて、早々と経過していく事だけは分かっているが、それに目を見張る余地はどこにもない。

それよりかは、葵ちゃんの心の余地を作ってあげたい一心だけが、俺の心中に確固としていた。

だが、葵ちゃんの心には余裕が無さそうだった。

『…マリー、どうすればいいんだろう…』

震えた声を出した葵ちゃんに、俺は直ぐに掛けられる言葉が出てこない。

その夥しい自分自身を戒める言葉は幾度となく出てくるが、深く傷を覆った葵ちゃんに、何も声を掛けられない。

『…ごめんね。変な事、聞いちゃった…』

俺は大きく首を振った。

『そんな事無い…。俺も、ゴメン』

葵ちゃんは目を擦りながら此方を見た。

すると、あの潤んでいた瞳はもう既に赤く腫れ上がっていた。

『マリー…。少し、一人になっていいかな…』

『…え?』と、俺は葵ちゃんの顔を窺った。

『…ううん、大丈夫。マリーが側にいてくれたお陰で、少し楽になったんだから…。ありがとうね』

しかし、俺はその『ありがとう』で何か駆りたたされた。

俺はテーブルの上に乗っている、もう既に冷めきったエスカロップに目を向けた。

すると、体が勝手にフォークを握っていた。

バターライスと平たいカツをデミグラスソースと一緒に頬張る。

ガツガツと食らい続ける俺を見て、葵ちゃんは手を掛けようと、俺に目を向けた。

『…え、マリー、ちょっと…』

傍らにあるコップの水なんて一度も手を着けず、俺はひたすらエスカロップを食らった。

『葵ちゃん、上手い。上手いよ』

もぐつきながらそう言うと、『そんな…無理して食べないで…』と、葵ちゃんは俺の肩を抑えた。

覆っていた顔を全て取っ払って、葵ちゃんは俺に手を掛ける。

『いや、マジで上手いよ。葵ちゃん、御馳走様』

俺は平らげた平皿をテーブルの上に置いて、コップを一気に飲み干した。

ふーと、ひと息吹きながらコップをテーブルの上にガンと置き、財布を徐に取り出した。

千円札をテーブルの上に置くと、葵ちゃんは俺を見た。

『…え?どういう事…?』

俺は口を拭きながら、葵ちゃんに言った。

『ゴメン。葵ちゃんからすれば僅かな違いを感じるかも知れないけど、じいさんのエスカロップを食べ続けた俺からしても、これは歴としたエスカロップだよ。俺ならお金を払ってでも食べたい逸品だった。ありがとう。御馳走様でした』

そう言って席を立った。

『…ねぇ、ちょっと、マリー!』

カラコロと扉を開けて、俺はハッとした。

キーホルダーにいつも忍ばせてある、じいさんから貰った青い御守を葵ちゃんに見せびらかしながら、口を開けてみた。

『葵ちゃん、じいさんはね、いつも葵ちゃんの事を想ってるよ?毎日じいさんのお見舞い行ってるけど、葵ちゃんの事、いつも心配してるんだから。たまには顔、出してね。それじゃあ』

俺はまたもカラコロと音を鳴らせて扉を閉めきった。

これで良かったのかと胸に問いかけながら、閉店しているウタナナタウの前で夜空を見上げた。

星が、暗い中も眩しく輝きを見せながら、俺を見ている様に感じた。

息を吐くと、白いもやが霞めていく。

手を出したままだと悴みそうな両手を、ポケットの中に入れて暖をとる。

『…葵ちゃんに、暗い顔は似合わないな…』

頭上の夜空にそうポツリと呟いた。

外灯は思ったよりも灯火を失っている。

その変わりに、秋夜の寒空に、月光が俺を照らしている。

俺はそれに背中を預けながら、乏し気な足取りで帰路に着いた。

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