見出し画像

ひだまりの唄 11

七月十六日

『おーい!マリー!』

今日も陽気なYの声が、俺の家の外で聞こえた。

家のドアを開けると、母さんが『行ってらっしゃい』と、声をかけた。

『行ってきます』と、俺はそれに答えるように振り向いた。

また再び前を向くとYが腕を組ながら笑顔でこちらを見ている。

何か長いトンネルを抜け出した様な、そんな気分をYを見て感じた。

『なんか清々しい顔つきになってるじゃん!どうしたんだよ』

『え?別に普通だけど』

『普通じゃなかっただろう!どう見ても。ここ二週間、マリーらしくなかったじゃん』

『え?そうかな』

『そうだよ!なんか重たいもんでも持ってる見たいに俯いてた事が多かったからなぁ。何聞いてもピンと来なかったと言うか…なんと言うか…』

『ゴメンゴメン。さ、学校行こう』

Yとの足並みが揃う。二人で楽しく会話しながら歩いていく。

長い間、胸の奥に突っかかった何かがポトリと落ちた心地がした。

それもこれもウタナの爺さんのお蔭かもしれない。

だが、Yもこの二週間、俺をよくここまで付き合ってくれたなと、染々と思う。

だって、そんな俯いていた俺を、毎日の様に迎えに来てくれていたのだから。

そんな想いを抱きながら学期末最後の校門を潜ると、懐かしくもあるような後ろ姿を見つけた。

その時、少しだけ向かい風が俺を包み込んでいた。

Yが『あ、マリア先輩じゃね?』と言うと、俺は一度固唾を飲んだ。

そして俺は思わずもマリア先輩の所まで走っていった。

その時、向かい風が追い風へと変わり、俺はすんなりとマリア先輩のもとへと、軽快に足を進ませた。

『マリア先輩!』

俺がそう言うと、マリア先輩は首もとまでの髪をふわりと靡かせて此方を振り向いた。

『マリア先輩…』

『あ、マリー!久しぶり!』

マリア先輩は相変わらず笑顔で此方を見てくれる。

『どうしたどうした?』と、Yはその隣でマリア先輩と俺の顔をチラチラ見ている。

それに構わず、俺はマリア先輩に言った。

『マリア先輩、東京へ行っても頑張って下さい!応援してますよ』

俺はそう言って手を伸ばした。

するとマリア先輩はとても明るい笑顔を此方に向けた。

そして大きく頷くと、マリア先輩も手を出した。

『え?東京?なんの話?』と、Yはマリア先輩を忖度ない瞳で見た。

するとマリア先輩は笑顔でこう言った。

『Y、ゴメンね?もうねむちゃんには言ってるんだけど、私、東京へ行って音楽の先生になりたいの』

『え…?え?マジッスか!?…てか、なんでねむちゃんには言って、俺には言ってくれなかったんですか?』

『だって、Y。ここ二週間、部室に顔出して無かったじゃない』

『え?Yも?』と、俺は思わずYの顔を覗きこんだ。

『たはは…。ゴメン。マリーが心配で、部活所じゃなかったもんで…』

俺は目を丸くしてYを見た。

『違うでしょ。定期試験の追試を受けてたって、あんた達の担任からそう聞いたよ?』

『あ、バレました?』

なぁんだ。と、俺は肩を落とした。

『その間、私とねむちゃんで一生懸命やってたんだから。あんた達二人がねむちゃんを引っ張らないでどうするの!…ったく、マリーも!どんな事があっても、これからはあんたの部なんだから。しっかりしてね!』

そう言ってマリア先輩は俺の肩にドシンと、手を置いた。

俺はそれに真剣に頷いた。

すると、ねむちゃんが後ろから声を掛けて来た。

『あ、おはようございます!マリア先輩!』

『あ、ねむちゃん、おはよう!』

俺はねむちゃんの方を向くも、堂々と目を合わせる事が出来なかった。

そしてそのまま、頭を下げた。

『ゴメン!ねむちゃん。俺、これからはしっかり部活出るから。無断で休んだりして本当にゴメン』

しかし、ねむちゃんはキョトンとした表情を此方に向けていた。

『あ、でも実は私、試験期間だから休みだと思ってて…。その間だけ、マリア先輩にお願いしようかなって、そう思ってたの』

『…あ?え?そうだったの?』

俺は思わず顔を上げた。

『麻利央くんも横室くんも、ここのところ真剣な顔をしてたから…。部活どうするのかなって思ってても、聞けなかったの…。だから私、マリア先輩に相談したら、マリア先輩、快く練習に付き合ってくれるって…』

『…あ?え?そうだったんですか?』

そう言って今度はマリア先輩を見た。

するとマリア先輩は笑顔で大きく一度頷いた。

『そうだよ?私も勉強があるから、一時間だけって約束してね。本当にねむちゃんの一所懸命な所、好きだな』

『え…?そんな事は…』

そんな中、Yだけ一人浮かない顔を浮かばせて、マリア先輩に歩み寄った。

『え?でも待ってくださいよ、マリア先輩。…この軽音楽部、マリーが部長になるンスか?』

『そうだよ?私、この学祭で引退して学業に専念するから』

『マジッスかぁ?!』

『よろしく!Y!』

『…急に部長の風格表してくるのな…。本当、この二週間が嘘のようだわ…』

Yがそう言うと、四人は思いきり顔を上げて、大きく笑った。

その反動で顔を仰いだ俺は、眩しく照らしている太陽を見つけた。

俺達四人を照らしているその太陽は、いつもよりも更に眩しかった。

まるで、俺達にスポットライトを当てている様に。

その光を全身に浴びた余韻を残し、四人で校舎の中へと入った。

『あんた達に任せて良いものか…。大丈夫かしら』

『勿論ですよ!部長の補佐はいままで通り、僕が務めますからねぇ!』

『あんたが今まで何したって言うのよ』

『あ、酷いなぁ…』

そんなやり取りをしていたらいつの間にか教室の前まで俺達は赴いていた。

『それじゃ!またね!』と、マリア先輩は手を上げて俺に言った。

『ハイ!』と、俺達三人はマリア先輩に一つ返事をうって、教室へと入った。

定期試験のテストは返され、今日の終業式を終えれば、待ちに待った夏休み。

しかし、夏休みなんて、あまりにもノープランだった。

去年はマリア先輩と俺とYで、金刀比羅神社の祭りでライブをやった。

コピーだったから人は少々集まったが、今年は何をしようか。

第一、ドラムが不在で今は間の抜けた演奏になってしまう。

そんな懸念を抱きながら、俺は机に座り込んだ。

『ねぇねぇ。日野くん』

すると、ねむちゃんが俺の肩をトントンと二度叩いた。

『ん?』

『今日、部室に来られるかな。見せたい物があるの』

『見せたい…もの?』

『そう、見せたい物』

俺は頭を傾げながら、『今、見たい!』と言うと、ねむちゃんが慌て様答えた。

『い…今は無理だよ!恥ずかしいし、何より…準備が…』

恥ずかしいし、準備が必要な物なのか、と、俺は尚も頭を傾げた。

すると、先生が大量のプリントを脇に挟めながら教室に入って来た。

そして『はぁーい。これ配ってぇ』と言って、列の先頭の席に乱雑にもプリントの山をバサバサと置いていく。

そのせいか、俺の列は一枚余った。

隣を向くと、ねむちゃんの分が一枚無かった。

『足りなかった?』と俺が訊くと、ねむちゃんは此方を見ながら黙って頷いた。

俺は静かに笑みを溢して、『ハイ』と、プリントを静かに置いた。

『ありがとう』と、ねむちゃんは小声で言った。

『ハイハイハーイ!皆、このプリント、よーく見てぇ!』

先生が高々にプリントを翳しながら大きな声でそう言われると、それを無意識にも見てしまう。

『これに載ってるのは夏休みの宿題です!皆、これを夏休み迄にしっかりとこなす事!以上!』

先生の直截簡明な言い方とは裏腹に、無尽蔵な迄に量があるのが、このプリントだ。

それが片面ならいざ知らず、両面にぎっしりと埋まっている宿題の量に、もはや手を伸ばす気持ちさえ薄れていく。

俺は一つタメ息を漏らした。

そしてまたふと、ねむちゃんを横見した。

だが、ねむちゃんは顔色変えずにそのプリントを凝視していた。

隅から隅まで、裏表を返しながら。

そんなねむちゃんを見て、俺はその姿勢を習おうと言う気持ちさえ働いた。

すると先生が、『はい、次はこれです』と言ってまたプリントの用意を始める。

ほんの少し前のその気持ちが一気にかき消される程、俺は一瞬で辟易とした気持ちが被さった。

―――終業式が終わり、俺とYとねむちゃんは部室に集まっていた。

Yは椅子に股がり、背凭れに 肘を付きながら話した。

『ぶちょー。今年の夏休みどうするんですかぁ?』

なんとも気の抜けた声に俺は『ぶちょーは止めろ。マリーでいいよ、マリーで』と、少しぶっきらぼうに答えた。

『ねぇ。去年は何をしたの?』と、ねむちゃんが立ちながらも、机に腰を預けて訊いた。

Yが答えた。『去年は金刀比羅神社って所で大きな祭りがあるんだけど、そこで一発カマしたよね!』

『カマしたって…隅っこの方でね』

『それ付け足したら凄さが半減するだろぉ』

『そうなんだ。今年も…するの?』

ねむちゃんにそう訊かれた俺は頭を一つ傾げながら、『うーん…。ドラムがなぁ…』と、頭を唸らせた

するとねむちゃんが急にソワソワと落ち着きがなくなった。

『どうしたの?』

そう訊くと、音楽準備室に徐ながら足を運んで行った。

俺とYはキョトンとした顔を浮かばせて、お互いを見あった。

するとねむちゃんが手を背中に回しながら、徐に此方に歩み寄った。

『実はね、私…』

そう言って両手を前に出した。

『あれ?それって』

『ドラムスティック?え?ねむちゃん、それってどういう事?』

『私、マリア先輩が居なくなるって聞いて、この二週間でマリア先輩から教わってたの』

『え?』

『マジ?!』

ねむちゃんは恥じらいを浮かべながら、一つ頷いた。

『でも、二週間しか教わってないし、まだメトロノームが無いとリズムが取れないんだけど…。少しなら、出きると思う…』

『嫌々、十分だよ!な、Y!』

『おう!ってか、スゲーなねむちゃん!』

『で…でもね!まだ、足と手が同時に出ちゃう時もあるし、ハイハットのペダル、離さなきゃいけない時に踏みっぱなしになっちゃう時とかもあるし…』

『いや、その挑戦する気持ちがスゲーなって、単純にそう思ったんだよ』

俺がそう言うと、Yも大きく頷いた。

『そうだよ。ねむちゃん、カッコいいよ』

二人でそう言うと、ねむちゃんが思いきり頬を赤く染めて『ありがとう』と、ポツリと言った。

『それじゃ、始めますか!』

『なんの曲で練習する?』

『あ、私、『mermaid in love』でマリア先輩と練習してたから、それでお願いします!』

『分かったよ!それじゃY!始めようか!』

『よっしゃ!』

『初めて合わせるから…緊張する…』

これでまた再び、スリーピースバンドが生まれた感じが、感無量の思いでいっぱいになった。

陽気な音感をこの部室から弾ませながら、俺達三人の部が始まった。

俺が部長で大丈夫か等の一抹な不安を、音を奏でていく内に、払拭されたような。そんな気分だった。

そして俺達三人は日が暮れるまで、ねむちゃんの練習にとことん付き合う事にした。

感謝の念を胸に秘めながら。

日が暮れようとしている。辺りが暗くなったのにも気が付かない程、俺達三人は練習に更けていた。

ねむちゃんは頻繁にドラムスティックを叩いたせいか、手首をブラブラと大きく振って『こんなに手首を使ったの久し振りかも』と、スティックをスネアの上に置いた。

『これで本来なら歌も入れなきゃいけないんだよ』

『あ、それ難しい…』

するとYが『じゃあさ、今回のお祭り、折角練習してる事だし、『mermaid in love』でいいんじゃない?』

『あ、そうしよっかぁ』

『よし、それじゃあ部長。手配の方宜しくな!』

『えー?!って…。そりゃそうか。部長だもんな。俺』

『マリア先輩が今までやってくれてたんだ。部長になったマリーがやらなきゃ!大丈夫、俺も手伝うからさ!』

『わかったよ…。…ていうか、去年どうやってたっけ…』

『あんなに苦労したのに忘れちゃったのかよぉ…。…確か去年は、エオンの入り口でアンケート取ったよな。そのアンケート用紙を持って、金刀比羅神社の社務所、次に市役所に提出して、許可を貰った。金刀比羅祭りは三日間あるだろ?その内の本祭、つまり、二日目にやらせてくれる許可を得なきゃいけないんだよ。市の全体でやるから、あまり大きくは出来ないけど、俺達は公園の一角を借りて演奏させて貰う様に、マリア先輩が交渉してたよ』

『…あぁ、思い出してきた』

するとねむちゃんは想像を絶しているのか、キョトンとした表情で此方を見ていた。

それに気が付いたYが、両の手を大きく拡げて、続け様話した。

『金刀比羅祭りって、スゲーんだよ!北海道三大祭りの中に入ってるくらいなんだぜ?明治二十一年から伝わってる伝統の『神輿巡幸』ってのがあるんだ!…あ、ねむちゃんに巫女さんの格好して欲しい』

『え…え?!』

『バ…!Y、急に何を言ってるんだよ!』

『だって、みたいんだもん。なぁ、マリー。ねむちゃん、巫女さんなら絶対似合うよ。綺麗な髪、そして綺麗な…』

『…おい。Y、いい加減にしろ』

憤怒を堪えてそう言った俺を察したのか、Yが最初は笑っていたが、急に落胆して『あ、アハハ…。ゴメン…』と、頭を項垂らさせた。

本当にYの急な冗長には困った物だ。しかし、Yの言う通りだ。

毎年の金刀比羅祭りはそれはもう盛大で、市外から来る人も少なくはない。

八月の九日、十日、十一日と三日間に於いて、この祭りは開かれるのだが、Yが言っていた神輿巡幸と言うのも、その十日と十一日の二日間に渡る。

金刀比羅神社から出発をして、駅前の通りだけではなく、国道も一部閉ざして、歩行者天国となり、『神道』は人でごった返す。

その神道を、奴行列を先頭に、先導金棒、獅子、巫女、猿田彦、雅楽寮、稚児、神職総代と、総勢約百二十もの若人達が順を成して、その咆哮とも取れる様な掛け声を出し、神々を乗せた神輿を担ぎながら練り歩き、緑町にある御旅所まで足を赴くと、その巡幸は一度休息を迎える。

次の十一日もまた、御旅所で疲れを癒した神々を神輿に乗せて、金刀比羅神社まで帰還する。

これはこの街に住まう人々の安全や子孫の長久、漁業や殖産、商業の守護神として祀られている大物主神を主神とした事代主神、倉稲魂神の三神に感謝を表する為の祭事なのだと、ウタナのじいさんから聞いた事がある。

更に凄いのが露店の数で、十日の露店と言ったら、二百もの店が列を成して、ずらりと一並とされる。どこの露店に行こうか、迷う程だ。

それだけではない。九日には漁業共同組合が奉納している奉納剣道大会。

十一日には相撲連盟が奉納している奉納相撲大会がある。

因みに山木は毎年どちらかに出場する。

そう、マリア先輩は、こんな一大行事に一角だとしても、俺達の軽音楽部の演奏が出来るなんて夢みたいだと、跳ねて喜んでいた記憶が、一気に蘇った。

そんな記憶を辿っていたら、Yが徐に口を開いた。

『まぁそれはさておき…だな。ドラムをどう持ってくか、だな』

『去年はマリア先輩の親父さんがトラックに積み込んでくれたんだよね…』

『もうマリア先輩いないもんね…』

俺達三人はうーんと頭を撚り、考えた。

俺は頭の中を必死に巡らせた。

運転が出きる人で尚且、出来るだけ大きな車を持っているような、そんな人。

尚も頭を傾けて考えるも、そんな人容易には浮かんでこなかった。

するとYが『あ~あ。家が金持ちだったら、そこまで往復で運搬出きるのに』

その言葉で、俺はハッとした。

金持ちで大きな車を運搬出来そうな人、一人だけいた。

…が、図々しいのも甚だしい程、俺はそこまで付け入ってお願いが出来るだろうか。

だが、万に一つでもの可能性があるのならば、と思い、俺はスマートフォンを手に取った。

『どうしたんだよ』と、Yが言うと俺はそのスマートフォンに願掛けをして、耳にあてた。

コールが三回鳴る。四回目のコールが終わる前に、相手は電話を取った。

『もしもし?麻利央くん?』と、声が聞こえた。

『あ、歩弓ちゃん。久し振りだね!』

『どうしたの?こんな夜に』

『いや、実はね…。軽音部の活動で、来月の金刀比羅祭りでライブやるんだけど…』

『え?!本当に?!行く行く!』

『あ…。うん。ありがとう。それで…なんだけどさ、サップってトラック運転出来たりする?』

『え?サップが?』

『そう、サップが』

『それは分からないけど、チャーターは出来ると思うよ?』

『チャーターなんて大袈裟じゃなくていいんだけど、二トンのトラックをレンタルするから、サップに運転して欲しいんだよ…』

『二トンのトラックでいいのなら、サップは運転出来るよ!普通自動車のライセンス持ってるもん。うん。頼んでおく!』

『本当に?!ありがとう!』

『そのかわりなんだけどさ』

『…そのかわり?』

『明日、私と遊んでくれる?』

唐突なるその交換条件に少々戸惑うも、俺は『…明日…うん。分かった』と小声で言った。

『やったぁー!それじゃ、明日ね!』

『うん。また明日…。ありがとう』

そう言って電話を切った。

『で?で?どうだった?』とYが身を乗り出して聞いてきた。

 『ん?あぁ…。OK。なんとかなりそうだよ』

そう言うと二人は大いに喜んだ。

『やったじゃん!マリー!…って、誰に頼んだんだ?』

俺はどう答えていいのか錯迷してしまったが、『サップって人。俺の知り合い…って所かな』と、大分、端折りを入れて答えた。

『いつの間にそんな知り合い出来てたんだよ!マリー、スゲーな!』

『でもさ、俺、思ったんだけど、二トントラック迄なら普通自動車免許でいけるみたいなんだ。それだったらトラックレンタルして、俺の父さんにでも頼めば…』

Yは手を横に振って、『いいよいいよ。もう頼んじゃったんでしょ?サップって人に頼もうぜ!』と、あっけらかんと答えた。

『これで練習捗りそう!…あ、でも、部活の練習って夏休みの間は何処でするの?』

そうねむちゃんが訊くと俺とYは真下に指を向けて『ココ』と、答えた。

『鍵は?』

『職員室にあるから取りに行って、終わったら戻せばいいんだよ』

『あ…。でも、明日は休みな。ゴメン、俺、明日用事が出来ちゃってさ…』

『え?そうなの?なんか拍子抜けちゃうなぁ…。まぁ、分かったよ。それじゃあ、明後日から練習とアンケート、頑張るぞ!アンケート用紙は明日、俺が用意しとくから』

Yがそう言うと俺達は頷いた。

『それじゃあ、明後日の十時にエオン待合せ!マリア先輩が不在でも、俺達、頑張ろうぜ!』

Yのその号令に俺とねむちゃんは『オー!』と掛け声を合わせて拳を挙げた。

その時、マリア先輩から貰ったミサンガが俺の手首で踊っていたのを見逃さなかった。

七月十七日

朝の日差し、またも遮光カーテンから差し込む光で目を覚ます。

上半身を起こしては頭をポリポリと掻いて大きく欠伸をしたその時だ。枕元にあるスマートフォンが大きく唸った。

スマートフォンを開くと画面上に『歩弓ちゃん』と名前が出ていた。

俺は寝起きの声を誤魔化すように、咳ばらいで喉の調節をし、スマートフォンを耳にあてた。

『もしもし』

『あ、もしもし?麻利央くん?寝てた?』

バレてしまった。

『あ、うん。今起きたとこ』

『ごめんね?こんな朝早くに。今日なんだけどさ、家に来ない?サップも歓迎するって』

『え?いいの?』

『いいのいいの。だってさ、前、約束したじゃない。家に来てって』

『うん。お邪魔しようかな。また駅前で待合せでもいい?』

『いいよ。九時にサップの車で迎えに行くから!それじゃあね!』

歩弓ちゃんがそう言うと電話を直ぐ様切ってしまった。

俺はふと時計を見た。朝の七時半に差し掛かるところだった。

『準備をするのには丁度いい時間帯だ』

俺はベットの上で上半身を思いきり伸ばして、そこから降りた。

そこで気が付いた。部屋の外がなんだか騒がしい。それは小さくもハッキリと『僕の!』『私の!』と、声が漏れていた。

どうしたことだと、俺はその扉を開けた。

部屋から出ると双子の弟と妹が珍しく喧嘩をしていた。

一枚のカードをお互いが持って、引っ張りあいをしている。

『僕の!』『私の!』

『おい、どうしたどうした』

『『このカード、返してくれないの!』』

すると双子の弟と妹がお互いを見合ってまたも『僕の!』『私の!』と引っ張り出した。

『あー!わかったわかった!いいから一度離して』

すると『『やだ!』』と、声を揃えた。

こういう所は気が合うのだから、尚厄介だ。

『いいから、貸しな!』と、二人からそのカードを取り上げた。

そのカードをよく見ると、表がキラキラとラメがかったカードだった。

『『それ、レアカードなんだよ!』』

『レアカード?』

『『うん!手に入りにくいの!』』

そのカードは崖の上からジャンプをしているニムオロ戦隊シマレンジャーのレッドが写っていた。

これが全国区で人気なのだから信じられない。

『これ、どうしたの?』

『『昨日、学校から帰る途中で、二人で拾ったの』』

『即ち、二人の物じゃないんだな?』

二人はそこで黙ってしまった。

『あー。わかったわかった!公平にジャンケンだ!』

『『えー!?またぁー?!』』

『何言ってるんだ。ジャンケンは国技だぞ?国技』

そう言うと二人は思いきりふくれっ面を見せつけながら、手を後ろに回した。

『『ジャーンケーン…』』と、声を揃えると『『ホイ!』』で二人一斉にグーを出した。

『『あーいこーで…』』と再び声を揃えて、『『ホイ!』』で二人はまたもパーであいこになった。

 『『あーいこーで…』』と三度目となる声を揃えて、『『ホイ!』』で二人は更にチョキであいこになった。

俺はすっかり忘れていた。以前も二人が喧嘩をした時、ジャンケンで決着をさせようとしたが、中々勝敗が着かなかったのを。

それを見て、こんな事あるんだなぁ。と、他人事ながら感心をした。

いつまでも続くその国技を見ながら、刻々と約束の時間が迫っていく。

どちらか折れてくれないかと、心中ではそう思っていた。

『『あーいこーで…』』

―――――漸く終わったその国技を眺めて二十分。俺は自室の時計を見て何も用意をしていない事に我に返り、慌て様に階段を下りた。

『『それなら二人の机の間に挟めよう?』』なんて、ジャンケンの意味が皆無になった解決が成されたのに、尚更虚しさが俺を襲う

『あら、麻利央、おはよう。…どうしたの?そんなせかせかして。今日から夏休みでしょ?』と、母さんがお膳の上に朝食を乗せながら綽々と話しかけてきたが、俺はそれに答える余裕が無く、『いや、これから友達と遊んでくる!』と、言い放って洗面台へと直行した。

慌てて歯を研き、顔を洗って、髪を濡らす。

櫛で丁寧にとかしたい所だが、今の俺にはそんなゆとりなど無い。

手で撫でながら、でも、フワッとしたボリュームを醸し出すように。鏡に映った自分の姿を見て、『こんなものか』と妥協を許した。

そして急いで階段を上り部屋へと直行。

パジャマを全て取っ払って、俺は私服へと着替えようと、箪笥から服を乱雑に取った。

上着は紺の八分袖のTシャツ、それに薄みがかったくたくたのジーンズを履いて、腕に時計をはめた。

鏡を見て一応チェックをして、くたくたのそのジーンズを見て、味があるな。と言う錯覚を自分に言い聞かせ、部屋を出た。

『麻利央ー!ご飯は?』と、母さんが俺に言ったが、『ゴメン!時間無いんだ!』と、俺は母さんに両手を合わせた。

母さんは『もう…。折角作ったのに…』と、腰に手を当てた。

 『行ってきます!』と、慌ただしく家を出た。

そして、駅まで全速力。俺は闇雲に走った。

駅に着いて、膝に両手をつけ、息を整える。

辺りを見回してみると、まだ歩弓ちゃんは来ていなかった。

『良かった。セーフだ…』

その時、ふと腕時計に目を配ったが、約束の十五分前。なんとかなったと、安堵の息を吐いたその時だ。

リムジンが駅前に止まった。

歩弓ちゃんが大きく手を振って『麻利央くーん!こっちだよー!』と、笑顔で迎えてくれた。

俺も無意識ながら笑顔で返し、そのリムジンに向かった。もうリムジンだろうとなんだろうと、臆する気持ちは何処かへと行っていた。

『麻利央様、お久しぶりでございます』

『麻利央くん!元気だった?』

二人は屈託のない笑顔で俺にそう言った。

『うん。なんとか、元気でやってるよ』

広々としたシートながらゆったりと座席に座ると、サップが『それでは出発致します』と、徐に車を走らせる。

『それより麻利央くん、夏休み何処か行くの?』

『多分、部活で夏休み潰れちゃうかな?』

『いつも思うけど、練習熱心だよね!金刀比羅祭りに参加する為の練習?』

俺はコクリと一つ、頷いた。

『前までマリア先輩がいたからね。でも、マリア先輩不在でも俺達、やらなきゃなって思ってさ』

『え?マリア先輩、いなくなるの?』

『うん。マリア先輩、居なくなる。音楽の教師になる為に、東京に行くんだ』

俺がそう言うと、歩弓ちゃんはまるで自分の事のように顔を俯かせ、話した。

『そっか…。それは大変だね…。マリア先輩って部長さん…だったんだよね?』

『そう』と、頷くと歩弓ちゃんはまた笑顔を露にして、こう言った。

『それじゃあ、麻利央くんが次期部長?』

『うん。俺でいいのかなって、そんな気がするけど』

『なんで?麻利央くんが部長だったら、喜んで付いていくな!私』

笑顔でそう言った歩弓ちゃんの後ろには、光の乱反射を受け止めたきらびやかな水面が、俺の視界に写ってきた。

そう、歩弓ちゃんの笑顔は、それにしっかりと溶け込んでいる程、輝いて見えたのだ。

それに下心は本当に無いのだが、少し自身に恥を知り、歩弓ちゃんから目を逸らした。

その時、『もうすぐでございます』と、サップが言った。

この海岸沿いの道を進むと納沙布岬へと通ずるのだが、その道中に歩弓ちゃんの家があると以前聞いたことがある。

どんな家なのかと、俺は少し胸を踊らせた。

白いログハウスが段々と姿を表し、海の見晴らしがいい場所にその家はあった。

『あそこがそうなの?』と、俺が言うと愛弓ちゃんが、『うん!そうだよ?』と、陽気な声を俺に向ける。

リムジンがガタガタと砂利道に入っていき、ガレージの前に車を停めると、サップは後部座席のドアを自動で開けた。

『ありがとう』と、歩弓ちゃんはリムジンから降りて一つ体を思いきり伸ばした。

俺もリムジンから降りて、潮風に押されながらもゆっくり、海へと近づいた。

『風、気持ち良いね』

『うん』

歩弓ちゃんは風に靡く髪を押えながら言った。

俺はその後も、黙した口を尖らせながら海が自然と行き来する小波を目にした。

幼少期、海をこんなにじっくりと見たことがあまりない。

海に着いては直ぐ様、砂で遊んだり海水に飛び込んだ記憶の方が鮮明に残っている。

だからか分からないが、いつも見ている海なのにも関わらず、歩弓ちゃんのログハウス前で見ているこの海は、何処か新鮮に感じた。

サップがガレージに車を納めると、そのシャッターをリモコンで閉めて、ログハウスの階段を上り、鍵を開けた。

そのままドアを開けて、歩弓ちゃんに『さ、どうぞ麻利央様、お越しくださいました』と、一礼をした。

『それじゃあ、入ろう?』と、俺をログハウスまで誘った。

俺は一つ頷いて、歩弓ちゃんの後を追った。

そうだ、と、不意に思い出した俺が、サップの前を横切るついでに、サップに声を掛けた。

『あのさ、サップ。俺には敬語、いらないよ?』

そう言うとサップは、ハッとした表情を浮かべた後に、二度素早く首を振った。

『いえ、そんな訳には参りません。麻利央様。お嬢様の親友たる御方にして、その様な態度は全うとは、とても思えないので』

『でも、会長の娘さんが歩弓ちゃんなだけで、俺は別に偉くもなんともないよ?』

『とんでもございません、麻利央様。お嬢様のお友だちであるからして、それはもう大事な御方で有る事は、変わらないのですから』

そこまでの仰々しいサップを見ていると、こっちまで落ち着かない。

俺は思わず、『ハァ…』と、気の抜けた返事を一つして、ログハウスの中へと入った。

玄関があり、その真向いにはリビングへと繋がるドアと、その隣には二階へと続く階段がある。

靴を脱いでスリッパに履き替えると、扉を開けて中へと入る。

すると二階に続く階段が剥き出しで、二階も吹き出しで下から見上げても見える程。

俺の真上には小さいながらもシャンデリアが釣り下がっている。

そのせいか、柱は太くて丈夫な管柱が幾本も十字に組み交わしてあった。

段々と目線を下に向けると、両開きになっている引き違いの扉が、俺よりも遥かに高く、東陽の日差しが、気持ちよくリビングに差し込んでいる。

左には大きなソファーと百二十インチにも及ぶデレビが、壁に立て掛かっている。

そして右を向けば吹き抜けのキッチンが、置いてあった。

しかし、よく見ればキッチンにはエレベーターが付いていた。

『あれ、エレベーター?』と、俺は何の気無しに聞いた。

『そう、ガレージとサップの部屋を繋ぐエレベーターだよ?サップとお休みの挨拶をしたらそこから降りるの』

『へぇー…』と、俺は何度も頷いた。

『上着をお預かり致します』と、律儀にも一礼をしてサップが俺の上着を取った。

それに少し不馴れな俺は、『あ、あぁ。ゴメン』と、何故か一つ謝って上着を取った。

『自由にしていいからね!』と、歩弓ちゃんはソファーに腰を置いて言ったが、こんなだだっ広いと落ち着かなく、自由にすることに不自由さを感じる。

俺はそう思って、取り敢えずソファーに座っている歩弓ちゃんの隣に腰を置いた。

『あ、そうだ!お茶にする?冷たいの?温かいの?』と、此方を見ながら歩弓ちゃんが聞いた。

それにも俺は取り敢えず『冷たいお茶、貰おうかな』と言った。

『分かったよ!』と、歩弓ちゃんが腰を上げると、サップが『良いですから。私が…』と言った。

それに歩弓ちゃんは少しふくれっ面を見せて『良いから、サップは座っててよ。私がやる!』と、息巻いて言った。

『…分かりました、それではお手伝い致しましょう』

サップが心配そうに歩弓ちゃんの隣に付いている。

歩弓ちゃんはサップに確認を取りながら、お茶の準備を初めていた。

そんな中、俺は一人ソワソワとして、落ち着けなかった。

それはそうだ。こんな絵に書いたような家なんて、初めてなのだから。

辺りを見回しても埃一つ無い部屋で、俺は自分の無作法と言う埃が出ないか、心配になった。

すると歩弓ちゃんがトレイにお茶を乗せ、カタカタと持ってきた。

『お待たせ』と、歩弓ちゃんもゆっくりと俺の前にお茶を置いた。

湯飲みに浮き上がる茶柱が一本、立っていた。

『あ、茶柱』

『そう、お茶を入れた時、思ったの。ラッキーだね!麻利央くん!』

しかし、俺は無駄にも肩に力が入り、湯飲み受けを持ち上げるとカタカタと湯飲みが急にも震えだした。

冷たいのにも関わらず、俺は無駄に『ふーふー』と冷ます素振りを思わずしてしまった。

それを見た歩弓ちゃんは急に笑いだして『あはは!麻利央くん、それ、冷たいよ?』

『あ、ゴメン。と俺は一つ謝った』

そして、吸わない様にゆっくりと喉を鳴らして、テーブルの上に湯飲み受けを置いた。

『お、おいしうございます』

すると歩弓ちゃんはプッと笑いだした。

『やだよー。麻利央くん!いつも通りで良いのに!』

『え、だって少しでも粗相が無いように努めてみたんだけど…。ダメだったかな…』

『ここにはサップだけだし、粗相なんて気にしないよ!普通にして?普通に』

そう言って歩弓ちゃんはお茶を一つ飲んだ。

『歩弓ちゃんも冷たいお茶?』

歩弓ちゃんは首を振った。

『暑いからと言って冷たいものを飲むと身体を急激に冷まそうと身体が頑張っちゃうから、ぬるいお茶を飲んでるの。そう、担当医に言われてるんだ』

それを聞いた俺は、摂生に確りと養生をする歩弓ちゃんに感心を抱いた。

『気持ち、解れた?』

歩弓ちゃんが首を傾けて俺に言った。

『うん…。少し』

『良かった…。普通にしてる麻利央くんを見ていると私、安心するの。そんな麻利央くんが好きなんだ』

歩弓ちゃんが静かにそう言うと、後ろから異様な空気を感じた。

『…』と、沈黙を続けながらも、固まってるサップが立っていた。

俺は、その様を見て思わず無言になった。

『…』

すると歩弓ちゃんが俺とサップを交互に見ながら、変な笑みを浮かばせて、『…あれ?どうしたの?二人とも』と訊いた。

少し挙動を取りながら、サップが続けて、恐る恐ると口を開いた。

『どうか麻利央様…耳をお塞ぎ下さい』

その異様な空気に圧されながらも、俺はじっとソファーの上で耳を塞ぎながら微動だにしないように努めた。

サップが何やら歩弓ちゃんに聞いているが、耳を思いきり押し付けている俺には、それが入ってこない。

サップは歩弓ちゃんの瞳を見るように、光らせたサングラスを歩弓ちゃんに向けていた。

しかし、歩弓ちゃんはそれに動じていないのか、お茶を一つ啜って、徐に口を開いた。

『好きだよ?』

歩弓ちゃんがそう言った瞬間、塞いでいた筈の耳を取ってしまい、思わず『え?』という言葉を漏らしてしまった。

『お嬢様…!』

『あくまでも普段通りの麻利央くんが好きって、そう言ったんだよ?』

俺はそれがどういう事か分からず、そのまま首を傾げた。

『普段通りの麻利央くん、とてもフレンドリーだから、親しみやすいんだ。分け隔てが無いから、好き。あ、友達として、だよ?』

俺はその言葉に安堵したのか、残念なのかは自身でも分からないが、『ふぅー』と、一つ息を吐いた。サップも多分気持ちは同じなのだろう。『そうですか…』と、一言漏らして、息を一つ吐いた。

『でも、いつか本当に好きになっちゃったり…して…』

『お嬢様…!』

『嘘だよ嘘!…もう、サップは何でも本気に受け止めるんだから…』

しかし、サップは歩弓ちゃんに向けていたサングラスを逸らし、俺に向けた。

『お嬢様…。物事には言って良い事と、悪い事があります。麻利央様、お気持ちを害する思いをさせてしまいましたら、私で大変恐縮ですが、陳謝させて頂きます。申し訳ありません』

深々と頭を下げるサップを見て、俺は思わず立ち上がり、『え…!いや、そんな謝る事じゃないよ!大丈夫だよ、サップ!』と、どうにか頭を上げて欲しい一心でそう言った。

『そうだよサップ!恥ずかしいから、顔上げてよ!もう…!サップは何でも大袈裟なんだから…』と、歩弓ちゃんもサップのその行動に少し恥を知って欲しそうに、そう言った。

すると、『それでは許して下さるのですか?』と、サップは頭も上げずに言った。

『許すも何も、気持ちも害してないし、むしろ少し嬉しかった気持ちもあるし…!』と、思わず言ってしまった。

そう言ってしまったからか、歩弓ちゃんは『本当に?!』と、笑顔で此方を見た。

『いや、友達として好きって言ってくれた事、本当に嬉しかった。ありがとう』

俺がそう言うと、サップも顔を上げて『…ありがとうございます…。麻利央様…!貴方様の様なご親友がいて、歩弓様はさぞやうれしうございましょう』

俺は漸くサップが面を上げた事に、一つ息を吐いた。

そこで、俺は一つ思い出したようにサップに質問をした。

『ねぇサップ。八月の十日なんだけど…』と、俺が言葉を漏らすと、『お祭りの件ですか?』と、直ぐに答えた。

『昨日、それとなく頼んでみたの』と言った歩弓ちゃんの迅速な対応に、サップよりも俺の方が頭が上がらなかった気分になった。

『了承しております。ただ、トラックは本当にレンタルでよろしいのですか?』

『うん』と、俺が頷くと、サップは首を振った。

『いいえ。レンタルと言えど、ライセンスの提示は絶対になりますので、私が用意致します』

『え?免許証の提示、必要なの?』

『左様でございます。大丈夫。そのドラムセットのみならず、麻利央様のご友人様共々、私がお送り致しましょう』

『ありがとうございます!』

『やったね!』と、歩弓ちゃんは俺に一つ笑顔を送った。

俺は貰った笑顔を笑顔で返しながら、それに大きく頷いた。

そして歩弓ちゃんは、『それじゃ、そろそろ…』とソファーから腰を上げた。

『え?何するの?』

『お昼ご飯!私が用意するね!』

『お嬢様…。私がご用意致しますので、お座り下さい』と、サップの落ち着きが乱れた。

『何でよ』

『へぇー。歩弓ちゃん、料理するんだ』

『ううん、全く』

それに耳を疑った俺は『へ?』と、瞳を広げて聞き返した。

『私がやるって言っても、サップはいつもこんな調子で私を止めるのよ』

『それは…困ったね』

しかし、俺はサップの判断が全うだと、その時は思った。

『お嬢様…。姿勢は立派なのですが、もしお怪我をされたら、旦那様や奥様にどんな顔をしてお逢いすればいいのか、分からなくなってしまいます』

『大丈夫!』と、歩弓ちゃんは頑としてサップの意見は譲らずに腕を組んでいた。

『シチューよ!シチュー!』と、躍起になっている歩弓ちゃんが台所へと向かう。

『ジャガイモ、ニンジン、鶏肉…。あ、作れますね』

『それじゃシチュー作る!サップは側に居てね。麻利央くん!待ってて!直ぐに用意するから』

確かに最高なおもてなしだが、気が気じゃない俺は『何か手伝う事、ない?』と、俺も台所へと向かおうとすると、『いいの!麻利央くん、座ってて!』と、半ば強情に俺を座らせた。

心配で落着きがない。

すると、台所で何やら戦争が起きているような、そんな感じにも受け取れた。

『歩弓様、猫の手…。包み込むようにして、ジャガイモを抑えて…』

『いいから!手をださないで。いいから』

そんなやり取りが目の前で繰り広げられている。

『本当に…大丈夫なんだろうか…』

刻々と時が過ぎていく時計を見ると、十四時を回ろうとしていた。

だがサップと歩弓ちゃんは、キッチンから中々離れない。

俺はそんな時間の経過に落着きを取り戻せず、台所を見たり時計を見たりと、あちらこちらに目を配らせた。

そこで、ふと目に写ったのは歩弓ちゃんが真剣な眼差しを大きなお鍋に向けている所だ。

灰汁を取って、ルーを入れる。その行程にサップはじっと遠くから見つめて、何度も頷いている。

最初は甲論乙駁と聞こえていた台所だったが、今は何も聞こえない。

ただただサップは、歩弓ちゃんを遠くから見つめているように見えた。

『…出来た』と、小声で呟いたのが聞こえた。

するとサップはゆっくりと、トレイと深皿を用意した。

ゆっくりと頷いた歩弓ちゃんは、その深皿にシチューを盛り付ける。

平皿を手にとって、角食のパンを一枚丁寧に切り、それに乗せて木製のスプーンもトレイの上に乗せる

クリーミーな優しい香りが、ソファーの上に座っている俺にも、しっかりと届いていた。

トレイを持って慎重な面持で此方まで運んでくる。

『お待たせ。麻利央くん』と、一言まで添えて、俺の座っているソファーの前のテーブルに静かに置いた。

『ありがとう』と、俺は今まで長い時間待っていたのが露と消えた。

そんな事より何より、長い時間を掛けて作ってくれた事の方が、俺には万倍も嬉しかった。

俺は『頂きます』と、手を合わせると、歩弓ちゃんのゴクリと固唾を飲んだ音が、此方まで届いたように感じた。

スプーンを手にとって、クリーム色が静かに揺れている中、俺はゆっくりとそこに入れて一掬い。

綺麗なまでに揺れているそのシチューを、俺はまじまじと見つめてから、口の中へと運んだ。

目を瞑りながらそれを頬張ると、口の中に広大な平野が一杯に広がる。

その平野に、牛達が牧草を食べている風景さえも過ってくる程だ。

俺は独りで納得をした。この香りと同様、とても優しい味が、俺をそれ程までにも錯覚させた。

『どう?』と、歩弓ちゃんが俺に訊いた。

『…』と、どのように言い表せればいいか、俺は少し考えた。

しかし、歩弓ちゃんはその間も身を乗り出して俺の顔をじっと見た。

『美味しい…美味しいよ。本当に、美味しい…』

膨大に思っていた先の言葉が、俺にはどうも口に出来ず、『美味しい』としか、言えなかったが、俺は文字通り、広大な平野を思い出させる程、美しい味だと、そう思った。

『本当に…?』

『うん、本当に』

『やったー!』と、飛んだように喜んだ歩弓ちゃんを見て、此方まで嬉しくなってきた。

『良かったですね、お嬢様』と、サップもサングラスをかけた向う側は、優しい瞳で歩弓ちゃんを見ている事など、容易に予想がついた。

 俺はそれにも喜ばしく、苦手だったパンのみみも、その勢いでシチューと一緒に平らげてしまう程、この食事はとても楽しかった。

―――楽しい時間は束の間に過ぎていった。

俺達がログハウスから出ると、辺りはもうすでに真っ暗になっていた。

『楽しかった。ありがとう、麻利央くん!』

『俺も!本当にありがとう』

『まさか、麻利央様がお嬢様の初めて作った料理を食す相手になろうとは、誰が予想出来たでしょうね』

サップはそんな事を言いながら、シャッターを開けた。

『私も送るよ?駅前まででいい?』

『うん。ありがとう。お言葉に甘えるよ』

ガレージからリムジンを出して、サップは俺達を後部座席へと誘った。

『ありがとう』と、俺も一礼をして、サップは『それでは出発致します』と、走らせ始めた。

ライトを点灯させ、街灯もない道路をひたすら真っ直ぐに進む。

『ここ、街灯無いから道が真っ暗だね。そういえば学校やアルバイトもサップが送り迎えをしているの?』

『うん、そう。同じ街でも、遠いし、暗いからサップが車を出してくれるの』

『へぇー、優しいんだね。サップは』

するとサップは、満更でもないように『これが仕事ですから』と、少しサングラスを輝かせたのを、暗いながらに見逃さなかった。

『明日から夏休みかぁ…。麻利央くん、暇な日あったら連絡頂戴ね?』

『うん、また遊ぼう』と、俺は二つ返事で言った。

駅前まで行くと、街灯が照らされていた。

『それじゃあ、またね』と、歩弓ちゃんが俺に言うと、俺もそれに頷いた。

『今日は、誠にありがとうございました。私めも、お恥ずかしい話ですが、楽しませて頂きました』

堅くもサップなりのお礼の言葉なのだろう。

『またね。今日は本当にご馳走様』と言葉をかけると『また、頑張って作っちゃおっかな』と、歩弓ちゃんは陽気な振る舞いで俺にそう言った。

俺はそれに少しだけ嬉しくなり、大きく一つ頷いた。

俺は二人が見えなくなるまで『またね!』と、何度も声をかけた。

二人はそれに笑顔で見送ってくれた。

今日は丸く光った月が隠れているが、そんな事、気にも留めず、大きく息を吸って、深く吐いた。

『今日は本当に楽しかった…。明日から、頑張ろう…』

そう言って、空を見上げた。

すると、俺の静かな決心を、暗い月夜は雲の隙間から覗いていたのを、俺は見逃さなかった。

七月十八日

次の日の朝、暗雲が空一杯に敷き詰められていた。

準備を終わらせると、Yは玄関の前で仁王立ちをしながら腕を組んで、俺が来るのを待っていた。

『おそーい!』と、少し張らせた声が、俺を出迎えた。

『ゴメンゴメン。あれ?今日はギター無し?』

『勿論!今日はアンケート一辺倒!』と、百近いアンケート用紙をばたつかせてそう言った。

『あ、マジで?』

『当たり前だろ?七月も後二週間切っちゃってるんだ。この一週間でこのアンケート用紙に全てサインしてもらって、社務所の許可が必要だ。許可が下りる迄も時間がかかるから、急を要するんだよ』

『え?それって…厳密に言えば…練習きつくないか?だって、ねむちゃんもドラムやったばかりだし…』

『そうなんだよ!キツいんだよ!…去年はマリア先輩がいたから良かったものの、今年はいないんだぜ?何事も、先手、先手で動かないと、後が支えちゃうだろ?急いでんの!俺達は!』

Yがいつも以上の熱気を俺にぶつけながらそう言うと、俺も『分かった、分かったよ。それじゃあ、エオン行こう。ねむちゃん、待ってるかもしれないから』と自転車に跨がった。

『おう!』と言ったYも自転車に跨がって、ペダルをその勢いに任せてこぎ始めた。

少しじめじめとしたその空気が執拗に、俺達の体の汗を増幅させる。

暑くもなく、涼しくもなく、生暖かい空気を体で感じる様な向い風を浴びながら自転車を漕いでいると、Yが参ったように言った。

『なんだか蒸すよなぁ…。なぁ、マリー!今日の天気って雨だっけ?』

『天気予報、確認してないや』

『嘘だろぉ…。普通確認するだろ』

それはお互い様だと、内心で思った。

エオン前、ブレーキを握り、自転車から下りると、そこから辺りを見回す。

すると、ねむちゃんがエオンの自動ドアすぐの壁に寄りかかりながら、此方を向いて手を振っていた。

『オーイ!』とYが言うと、ねむちゃんも左右に手を振って此方を見た。

『ごめん!待たせた?』

『ううん、来たばっかりだよ?』

『良かった…』

Yがホッと安堵を溢したその時だ。

ポツリポツリと静かに小雨が一粒一粒落ちて来るのを、頬が感じた。

『…雨?』と俺が言うと、『やっぱり雨かよ…』と、肩を落とすYが目の前にいた。

『仕様がない…。入り口の中に入って、アンケート用紙、配ろう』

Yとねむちゃんは落胆を隠しきれずに頷いた。

入り口のすぐ近くに、広々とした踊り場があるのだが、そこで俺とYは二人肩を並べて自動ドアの方に目を向けた。

ねむちゃんはそれに背を向けて、スーパーのレジがズラリと並べられている方向へと目を向ける。

さぁ、準備は出来た。後はお客さんが来たらアンケート用紙を配るだけ…なのだが、中々、来客数が著しくない。

数名ちょこちょこと来店はするのだが、『アンケートにご協力下さい』の言葉に耳を貸そうともしてくれない。

こんな状況に、歯痒い気持ちで一杯になった。

『おい、どうするよ。これ。ヤバイじゃん』と、Yは早くもしゃがみこんでしまった。

『いや、どうすると言っても…。外が雨だから仕様がないんじゃないか?』

『根気よく、今は待つことに徹した方がいいみたい…』

すると、見たことのあるリムジンがエオンの前に停まった。

Yもそんな状況に思わず立ちあがり、『…あれ?ここの近くで、こんなお金持ち、いたっけ?』と、まるで表情を困惑させたように見ていた。

俺は、『…一人、いるんだな…』と、誰にも聞こえない様な声をボソリと溢した。

自動ドアが開く。

カツカツと白いパンプスを響かせて、淡白いロングスカートを小波の様に揺らし、黒いタンクトップをベルトで締めたスカートに入れながら、ストレートに長い髪を左右に静かながら揺らして、ショルダーバックを下げて、此方へと向かってくる。

ゴクリと、Yとねむちゃんはそれを見つめるも、俺は昨日も会っているからか、『またかよ…』なんて言葉を、頭に過らせて、彼女を見た。

『あ、麻利央くん!』

Yとねむちゃんは勢いよく此方を見た。

『あ…歩弓ちゃん…。おはよう。今日、早いね』

『十一時からバイトだからね。あ!昨日はどうもありがとう!サップもとても喜んでたよ!『また遊びにいらして下さるよう、お伝え下さい』なんて、言いながらね!』

『あはは、サップの物真似、やっぱり似てる…。あ』

そう言った時、二人の視線が俺にぶつかっていた

『そう言えば、どうしたの?こんな早い時間に』

『これを見て欲しいんだ』

俺は一枚のアンケート用紙を歩弓ちゃんに渡した。

『なになに?『今年の金刀比羅祭りに、日ノ出学園軽音部、演奏させて頂きます。その為には、皆様のご協力が必要です。アンケート用紙に○を付けて、…』なにこれ?』

『演奏させてもらうには、百人の声が必要で、それを金刀比羅神社の社務所に受理してもらう必要があるんだ…』

『そうなの?勝手に出来ないんだ』

『そう、だから今、ここでお客さん来るのを待って、アンケート用紙の協力を要請している所で…』

『これ、何枚か頂戴?』

俺とYとねむちゃんは目を丸くさせた。

『私も店長に言って、これ、協力してもらうように言ってみるね。お客さん来たら、一人一人に渡せばいいんでしょ?』

『ほ…。本当に…?いいの?』

歩弓ちゃんは優しく頷いた。

『私と麻利央くんの仲じゃん!まっかせてよ!』

そう言って胸を叩いた歩弓ちゃんが、凄く大きく見えた。

俺はそれに『うん、ありがとう』と言うと歩弓ちゃんは『私、バイトあるから、またね』と、小さく俺に手を降った。

俺もそれに小さく手を振り返した。

すると、 Yが『何鼻の下伸ばしてんだよ』と、俺の顔を覗きこんだ。

『いや、別に伸ばしてねぇよ』

『しかも、『私と麻利央くんの仲』って、お前いつの間にそんな仲になってんだよ!』

『お…おい!誤解するなよ!別にそんなんじゃない!』

『俺が血眼になりながらこのアンケート用紙を作ってたのに…!本当に目、充血したんだからな!…そんな中、お前は女の子と遊んでいたなんて…』

『だから、誤解だよ!そんな仲じゃ…!』

『それじゃあ!どんな仲だよ!』

Yがじりじりと俺に詰めよりながらそう聞くと、俺もしどろもどろながら答えた。

『…サップって言ったろ?…サップって言うのは歩弓ちゃんに仕えている人なんだ。…だからサップにお願いするがてら、歩弓ちゃんとも遊ぶ事になったんだよ』

『ふーーーん』と、怪しい目つきでYが見てくるが、ねむちゃんは『ま…まぁまぁ、横室くん。そこまで詰め寄らなくても…』と、Yを宥めた。

『でも、サップ。トラックもチャーターしてくれる事になってさ。現場までドラムだけじゃなくて、俺達も送ってくれるんだって』

そう言うと、Yの態度が先程とは掌を返したように『本当に!?いいの?!』と、喜びを露にした。

『あぁ!いいんだ』

『やったぁー!』

俺もYもねむちゃんも、大いに喜びを露にした。

『よし、そうなったら、アンケート配り終えて、必ずライブ、実現しような!』

『『おう!』』と、俺とねむちゃんは声を高くあげる。

外は雨がしとしとと降り続く中、俺達三人だけは、太陽が差し込んで来たみたいに、俄然やる気を露にして、アンケート配りに精を出した。

―――――それから何時間が経過した事だろう。エオンの自動ドアから外を見ると、雨足が更に強くなり、雨がアスファルトを叩きつける音がエオンの中迄響いて来る。

そうなると当然、お客さんの来店する数はあまりにも少なくなる。

その現状に嫌気がさしたのか、Yはまたも地べたに尻もちを着き、タメ息を混じらせながら『あー、やっぱり今日ダメじゃないか?』と、漏らした。

『…Y、何回座ってるんだよ。その態勢になるの早すぎるぞ』

『だってさぁ、客が来ないんじゃ、もともこもねーじゃん』

すると、ねむちゃんがタメ息をほんの少し混じらせてポツリと溢した。

『…うん…。話をかけても、無視されちゃうし…』

俺はこの現状を打破したい一心で、どうすればいいのか、頭を捻らせた。

『…もう…これだったら部活行ってた方がずっとマシだったんじゃないか?』

『…それを言うなよ…』

『もう明日に懸けるか?…明日の天気、どうだったっけ?』

俺は徐にスマートフォンを取りだし、明日の天気予報を確認した。

『…明日も雨だ…』

『マジかよぉー。二日も潰したようなもんじゃん。最悪だよ…』

そんな投げ槍になっているYを見て、打開策の一つや二つ考えなければ今日がこの惰性で終わってしまうと感じた俺は、尚も頭を捻り、考えた。

そう、歩弓ちゃんがさっきは協力してくれた。それは人が集まりやすい歩弓ちゃんのテナントだからこそ、だ。

他にもそんな場所があれば。俺はそんな場所が他にも無いかと、頭を巡らせた。

他にも…そうだ。一つだけあった。一つだけ、しかもこの近くに。

『…Y、今日も明日も潰してしまうと更に出遅れてしまう。それなら、だ』

『…ん?どこか…有るのかよ』

『うん、こっちだ』と、俺が自動ドアの外へと出向こうとしていた、その時だ。

そんな俺の姿にねむちゃんが慌て様『…あれ?日野くん!傘、差さないの?』と、俺を呼び止めようとした。

するとYが『あいつ、傘を差すの嫌いなんだよ。だから、一度外へと出る』

俺は雨の日はいつも雨足の確認をする。今回も、自動ドアを一度抜けて、雨足が本当に強いか肌身で感じて、いけると判断できればそのまま行く。

…が、今回は流石に雨足が強すぎた。

俺はまたも自動ドアを潜り、Yの元へと歩み寄った。

『満足したか?』

『…うん。今回は、流石に傘を差すよ』

『じゃあまず、傘を買うところからだな』

すると、ねむちゃんが一本の傘を取り出して『私は、持ってるよ?』と、言った。

そんな用意周到なねむちゃんに、『流石だな、ねむちゃん。今度から俺達も天気予報、チェックしような』と俺にだけ聞こえるようにポツリと言ったYの言葉に、俺は静かに頷いた。

無事に安価な傘を二本買い、俺達は外へと出た。

『よし、準備は出来たね!』

『…で、これからどこ行くんだ?』

『私達が知ってる所?』

俺は『ねむちゃんは知らないけど…Yは知ってるよ』と仄めかすと、Yが食いぎみになりながら『え、何処?!何処だよ』と、俺にまたも詰め寄ってきた。

『あーあー。分かったよ。着いて来れば分かるから』

 エオンの自動ドアを潜り、外をひたすら歩く。

エオンから歩いて五分程、路地裏を歩けば、古い家々が並んでいる。

その並んでいる奥に、三角屋根の木造建築が一軒だけ離れて建っている。

一見すると、それはまるでバンガローみたいな。そこまで大きくなく、片隅に置かれている様な、そんな印象を受けるのだが、他の家々と比べると、外観はとてもお洒落なせいか、目を引く物が、それにはある。

『あれ、この道って…』

Yが気が付いたように辺りを見回す。

すると、ねむちゃんが『…日野くん、これ、大丈夫?』と、心配そうに俺に訊いてきた

『大丈夫、心配ないよ。さぁ、着いた』

俺が立ち止まってみたその扉には『OPEN』と掛札がぶら下がっている。

カランコロンと扉を開けるとそこにはコップを丁寧に拭いている葵ちゃんが、カウンター越しに立っていた。

『あ!マリー。いらっしゃい!今日はバイトの日じゃないけど…あれ?お友だち?』

『うん、Yにねむちゃん。俺の部活仲間で、同級生』

『ども』と、Yは会釈をした。

『あ、Yってキミかぁ!よろしく!』

『え?俺を知ってる…?』

『よくマリーから話聞くよ?』

『どんな話してんだよ…』と俺を睨むように見たが、そんなYに目を合わそうとはしなかった。

『今日は何しに来たの?』

『お、話が早いね。葵ちゃん、これ』

俺は一枚のアンケート用紙を取り出した。

『これ、出来たらでいいんだけどさ。お客さんに配って欲しいんだ』

『…これ、お祭りのアンケート…?』

『そう。ここに丸を付けて貰うだけでいいんだ。百枚集まるとお祭りで俺達演奏できるかもしれないから』

『そうなの?!やったじゃん』

するとYが身を乗り出して話した。

『だけど、逆に言えばそれが百枚集まらないと出来ないんだ。どうにか、頼む!俺達に力を貸してくれ』

手を合わせてお願いしたYを見て、葵ちゃんはニコッと笑みを浮かべて『いいよ!』と、快諾した。

それに俺達はまたも『ヨッシャ!』と、ガッツポーズを決めた。

『でも、交換条件!』

え?と、不意に来たさの交換条件に俺とYはお互いをみあった。

『家でなんか食べてって!』

『食べるって…。何を?』

『なんでもいいよ!ほら、マリー!エプロン付けて!おもてなしおもてなし!』

そう葵ちゃんに言われてエプロンを急いでつけると、葵ちゃんが『三人とも何食べたい?』と訊いた。

『エスカロップ!』と、俺とYが言うと、ねむちゃんもそれに合わせて、『え…と、それじゃあ…。私も』と、言った。

『エスカロップ三つね!…おじいちゃーん!』と、葵ちゃんがウタナのじいさんを呼ぶと、裏口からじいさんが入って来て、『あら、いらっしゃい』と、俺達に笑顔を向けた。

そんなウタナのじいさんを見て、少し安心した。

そして下拵えが終わっている銀トレイを冷蔵庫から取り出して、じいさんが調理を始めた。

まず、葵ちゃんがバターライスを炒める。

その間に、じいさんが衣をたっぷり付けた豚肉をジュワジュワと丁寧に揚げる。

揚げ終わった豚肉をキッチンペーパーの上に乗せて油分を落とす。

そして、炒め終わったバターライスを平皿の上に盛り付けてサイドのサラダを盛り付けていく。

バターライスの上にトンカツを乗せて、ここからが真骨頂。ウタナのじいさんの秘伝とも言えるデミグラスソースをたらりと丁寧に上にかけると、エスカロップが完成するのだ。

その完成したエスカロップを木製のトレイに乗せて、フォークと一緒に二人の前に置いた。

『はい、エスカロップ』

置いた瞬間、Yが『いっただきまーす!』と、勢いよくフォークを持つ。

『いい香り…。頂きます』と、ねむちゃんは丁寧にフォークを取る。

二人がそれぞれ口に運ぶと、口を押えながら『美味しい…!』と歓喜な声がここまで届いだ。

俺達はそれに嬉しくなった。

『やっぱりウタナのじいさんのエスカロップは最高に美味い!…あれ?そう言えば、これって金は?』

Yがそう言うと、葵ちゃんが『タダじゃないよ?ちゃんとお金貰うから』

俺は思わず『え?』と言う言葉を漏らしながら葵ちゃんを見た。

『それじゃ、マリーの奢りな!』

『え?え?』

『次のお給料から天引きね!』

『え?え?え?』

『日野くん、ごちそうさま』

『え?ねむちゃんまで?!そりゃないよー』

俺達はエスカロップを囲みながら高々と笑い合った。

その時、雨が降る音が突如ながら止まったように、俺は感じた。

ご馳走様とウタナナタウに響かせて、Yとねむちゃんはフォークを置いた。

『いやー、美味しかった』と、Yはいつもは出さない丸々としたお腹を擦りながら息を吐いた。

『当たり前だろ。誰が作ってると思ってるんだよ』

俺は二人の平皿をトレイに乗せてキッチンまで運ぶ。

二人は見事なまでにデミグラスソースをこさげてくれせいか、平皿に綺麗に弧の字が描かれていた。

それに俺は少しニヤついてしまった。

『本当に美味しかった…。ご馳走様です』と、ウタナのじいさんにお辞儀をすると、ウタナのじいさんは被っているニット帽を少し直しながら言った。

『いいんだよ。お腹が空いたり、ゆっくりとしたい時、またここにおいで。落ち着く時間帯は昼や夜の食事時以外だったらゆっくり出来ると思うから』

親切ながらウタナのじいさんがそう言うと、ねむちゃんはにこりと頬を染めながら『ありがとうございます。また、来ます』と、再び、お辞儀をした。

『そう言えば、君も軽音楽部?』

『私…?うん、そうだけど…』

葵ちゃんが『ふぅーん』と言いながらねむちゃんの右手をグッと掴んだ。

そんな唐突にも掴み上げたせいか、俺達は少し驚いて止めに入ろうとした。が、葵ちゃんはその右手首をジッと見つめて、『君、ドラムやってるの?』と訊いた。

『…え?…なんで…ですか?』と、ねむちゃんも恐る恐るにそれを訊き返すと、『…手首、大分痛めてるんじゃない?しかも、始めたばかりでしょ?』と、ねむちゃんの手首をじっと見つめて離さないでいる。

すると、ねむちゃんは『…あ、すいません…』と、手首を引っ込めてしまった。

『なんか心配だなぁ…。ちょっと待ってて』と、葵ちゃんが階段を上っていった。

俺もYもねむちゃんも、その葵ちゃんの姿をキョトンと見た。

暫く経つと、葵ちゃんが階段を降りてきた。すると、葵ちゃんは湿布を一枚持ってきた。

湿布の片側だけカバーを取って、ねむちゃんの座っている椅子の側まで歩み寄ってはその場でしゃがみ、ねむちゃんの手首を優しく持った。

『…冷たいかもしれないけど…』

優しく包み込んだ葵ちゃんの湿布は、それとはうってかわり、温かささえこちらからも見て感じた。

『これで大丈夫』

『…ありがとう』

しゃがんでいた葵ちゃんはすっくと立ち上り様、『もう、なんで二人とも気が付かないのよ』と、俺達二人に言った。

『…なんかあったの?』

『手首、少し赤みが出てきてた。ドラムやり始めの人が手首を酷使すると、腱鞘炎を起こしやすいの』

するとYは『なんか葵ちゃん。ドラムの事詳しいね。やってたの?』と、訊いた。

『うん。こっちに来る前にやってたの。私もその時、よく腱鞘炎起こしてたから、気持ち分かるんだ』

そう言って葵ちゃんがカウンターの奥に入って、食洗を始めた。

すると、Yは俺に何か言いたげな瞳で此方を見ている。

『…葵ちゃん、ドラム出来るって…』

その時のYが何が言いたいか、目を見ればすぐ察する事が出来た俺は、『それは無理だよ』と、Yに率直に言った。

『えー。なんでだよー』

 『葵ちゃんが此方に引っ越して来た理由はウタナのじいさんの負担を減らす為。バンドをする為じゃないって、俺が誘った時にそう言われたんだ。でも、そりゃそうだよ。その為に遥々神奈川から来たんだから』

『…そっかぁ。…そりゃそうだよなぁ…』と、Yは少し残念そうに俺を見た。

『それじゃあ、ご馳走様!』と俺がウタナのじいさんに手を上げて挨拶をした。

『もう帰るのかい?』と、じいさんは俺に歩み寄った。

『おじいさん、本当にご馳走様でした。葵ちゃん、手首、ありがとう』

すると、葵ちゃんも丁度食洗を終え、タオルで手を拭きながら、『ううん、酷くなったらまた来て?湿布、いくらでもあげるよ』と、笑顔で言った。

『ありがとう』とねむちゃんは手を振った。

『そうだ。これ』俺に歩み寄ったじいさんが手を差し出しながら言った。

『あ、なつかしい』

 オランダせんべいを三枚、俺に渡した。

『ありがとうじいさん、大切に食べるよ』

じいさんはにこりとした表情を俺に向けて言った。

『よし、それじゃあ、Y、ねむちゃん、行こっか』

そう言うと三人は一つ、一斉に頷いた。

カランコロンと外へと出ると雨足が大分弱まっていた。

『あ、雨弱くなってる』

『本当だね』

『折角だ、俺達ももう一踏ん張り、頑張りますかぁー!』

そう言うと、ねむちゃんとYは『オー!』と、一つ拳をかかげた。

雲から晴れ間が、顔を覗かせていたのをその時、見えた気がした。

Yが片手に持ったビラが残り数十となった所で、夕焼けの空が住宅街に潜もうとしていた。

『この位にしておこう。大分配り終えられたし』

Yが片手に持ったビラの半分は丸が既に埋まっている物ばかりだ。

この初日、雨での幸先悪しの中、これだけの成果を上げられたのは上々だと、俺は自分に言い聞かせた。

エオンから出て自転車を押しながら、二人と肩を並べて帰路に着く事にした。

『あ~!良かった。イベント、なんとかなりそうだなぁ』と、Yは想像以上の結果にご満悦としていた。

『うん。最初は声を掛けても聞いてもらえなかったけど、だんだんと聞いて貰える様になって、嬉しかったな』

そう言ったねむちゃんの陽気な声を聞いて、俺までも嬉しくなったのか、『俺も!』と、思わず反応してしまった。

そんな俺を見てYは、『あはは。マリー、ねむちゃんの言った事に、思わずも反応しちゃった。…って所だろ』と俺の心の内を射抜くように言った。

それに俺はオホンと咳ばらいを一つかまして『…でも、最後まで気が抜けないからな。市役所に通して、初めて出来るイベントだ。気を引き締めよう』

そう言うと、Yが悪戯ながらに笑いながら『はいよ。部長』と、おぼろげに言った。

『あ、そう言えば…』

じいさんから貰ったオランダせんべいを三枚取り出して、『これ、食べよう』と、二人に一枚ずつ渡した。

『あ、ウタナのじいさんから貰ったオランダせんべい。懐かしいなぁ』

『あれ?せんべいだけど固くない』

『そう、食感はどちらかと言うとワッフルみたいな。ふわっと、しなっとするんだ。食べてみてよ』

ねむちゃんは上の部分だけを開けて、一つ噛み締めると、こぼさないように優しく吸いながら口へと運んだ。

『どう?美味しい?』

『うん。美味しい』

ねむちゃんは気に入ってくれたのか、何度も何度も口に運んだ。

『うん。凄く美味しい』

そう言ったねむちゃんに、俺は何故か笑顔が溢れた。

そんな自身にハッとした俺も、袋を開けてオランダせんべいを一つ、口に運んだ。

するとどうだろう。とてもしなやかなそれは、俺の脳裏に仕舞っていた懐かしささえも彷彿とさせた。

よく、母さんがおやつといえばこのオランダせんべいを出してくれた。

それはYが家に来れば尚の事、これをおもてなしとして部屋に出してくれていた程だ。

二人で美味しいと言いながら、片手にはおもちゃのギターを抱えて、二人で音楽の話に花を咲かせていた程だ。

暫くそんな思い出に耽っていた俺は、オランダせんべいと過去のその思い出を脳内でしたためていた。

『何ボーッとしてるの?』と、ねむちゃんが俺の顔を覗き込んだ時、我に返った。

『あ、ごめん。何でもないよ』

俺はその食べ掛けのオランダせんべいをまた一つ、また一つと口に運ぶ。

『ねむちゃん、そう言えば葵ちゃんが言っていたその手首…大丈夫?』

Yが心配をするようにねむちゃんの手首に指をさしながら言った。

『ん?これ?大丈夫。でも確かにちょっとだけ痛かった…。でも、違和感程度だったんだ。それをすぐ見抜けるって、葵さんってスゴイなって、そう思った』

『うん、たしかに葵ちゃんはスゴイ…』

それに倣う様に俺は口を滑らせた。

『葵ちゃん、ベースもドラムもギターも…オールラウンドにこなすって言うか…。一度ウタナのじいさんと交えてセッションした事有るんだけど、その時も器用だなって、そう思ったんだ』

するとYは少し惜しそうに『あー…マジかぁ』とタメ息をも混じらせて言った。

それはそうだろう。そんなにオールラウンドにこなせる人物等、何処を探してもそうはいないのだから。

そう、あの時セッションした彼女をポールマッカートニーと言ったが、彼女こそオールラウンドにこなせる分、ポールマッカートニーみたいな存在だったのかもしれない。

そう思うと、尚の事、葵ちゃんにもこの軽音楽部に入部して欲しいと思ってしまう。

…が、今はねむちゃんが手首を痛めながらもドラムを修得しようとしているのだから、そんな事を傍らでも考えているのは失礼に値すると、俺は自分自身に言い聞かせた。

『今はねむちゃんがドラムを修得しようとしているから、大丈夫。…でも、無理しないでね?』

俺がねむちゃんにそう言うと、『うん、大丈夫だよ日野くん。ありがとう』と、ねむちゃんは手首を庇いながらそう言った。

するとYは『よし、マリー、ねむちゃん。明日も雨だけど、三人で頑張ろうぜ!』と、Yの押している自転車を横に向けた。

『おう、それじゃあ。ここで』

『日野くん、横室くん。今日、凄く楽しかった。また、明日ね』

Yとねむちゃんと俺、別れの挨拶をそこで交わすと、それぞれ帰路に着く様に手を振りながら三叉になって歩いていった。


















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?