ひだまりの唄 28
十二月三日
次の日の朝、俺は、わざわざ四角い座蒲団の上にスマートフォンをのせ、その前で胡座をかき、そいつを睨みつける様に、腕を組む。
どのように切り出そうかと、頭を抱えていた。
すると、ウォンウォンと座蒲団が震えていた。
それに、不格好ながらに飛び付く俺。相手のいないカルタでもやってるのかって程だ。
スマートフォンを見ると相手は、なんだ、Yだった。
『…もしもし?』
『あー、マリー!俺だよ!今日さ、空いてる?』
『今日は無理だよ…』
『えー!?何でだよ!とな…』
『今日はどうしても無理。切るぞ』
そう言って、何か言い欠けたYに耳を傾けずに、乱暴に電源を切った。
そのまま俺は、スマートフォンの画面に穴が開く程、凝視をする。
すると、指が勝手に動く様に電話帳を開いた。
一番上に『あ』行が出てくると、勿論次の言葉も『あ』行の葵ちゃんにカーソルが合っている。
そうなると、不意にもコールのボタンを押してしまうのだ。
コールが三回程鳴った辺りで、やはり後悔してしまう。
そのまま電源を押してキャンセルさせようと思った。その時だ。
葵ちゃんが電話に出たのだ。
『もしもし?あ、マリー?』
『あ…。も、もしもし…!』
『あー、良かったよ。もうマリーから電話来ないかと思ったよー。それより、どうかした?』
思惑の外側、意気揚々としたその声を聞いて、少し安心した。
『あのー…さ。昨日、急に飛び出したりして、ゴメンね』
『え…?あー…いいよぉ!気にしないで。それよりさ。今日は暇?』
俺が誘いたかった事を、掘り起こしてくれた。
『あ、うん。俺もさ、誘いたかったんだ。少し時間いいかな』
『いいよ!お父さん、今日は一日居ないの。だから家においでよ』
『いいの…?』
『当たり前じゃん。それじゃ、待ってるよ!』
そう言って葵ちゃんは電話を切った。
音信が途切れていても、俺と葵ちゃんとの縁が途切れていない事が何より喜ばしい。
俺は胸を撫で下ろした。
さて、と。準備に取り掛かろうと、そう思った矢先だった。
何気なく窓を覗くと、少し雲が濃く渡っていた。
念の為、フード付きの上着を羽織って、必要最低限のスマートフォンと財布をポケットに突っ込む。
そして俺は階段を勢いよく降りていった。
ここでだ。いつも階段を降りると同時に『麻利央ー』と、母さんが呼ぶ。
それに聞く耳を持たない事など、馴れた物だ。
『…あら、あんたまたどっか行くの?』
だが、その母さんの言葉に『あ?うん』と、思わず聞き入れてしまった。
『また横室君かい?』
『違うよ、ウタナナタウ』と、適当に返事をして履いた靴の爪先をトントンと叩いた。
『あら、おじいさん、入院してるんでしょ?何か持っていった方が…』
『大丈夫だよ。行ってきます』
俺はそう言って、玄関を開けた。
俺は黙々と坂道を降りていく。
外は雲が厚く、強風が俺を襲って、少し身体が押されそうだ。
だが、そんな向い風に逆らいながら坂道を下っていく。
下って行くと、電柱の合間から大きくエオンの看板が見えてくる。
そこを目掛けて、尚更歩いた。
エオンの裏通り、ウタナナタウへと辿り着くと、『CLOSED』の看板がドアにおおきく風で叩き付けられながら、ダンダンと音が鳴っている。
そこに俺は丸くした手をドアに打ち付けた。
『葵ちゃーん!』と声を上げても中々返事が返って来ない。
おかしいと言わんばかりに一度首を傾げて、もう一度ドアを叩いた。
『葵ちゃん!葵ちゃーん!』
誰も居ないのか。と、裏口に向かおうと足を上げた時に、そのドアが開いた。
『…あ!マリーかぁ!ゴメンゴメン!』と葵ちゃんが顔をヒョコリと出した。
『なんだぁ。居ないのかと思った』
『風のせいで札の叩く音と紛れちゃってて、分かんなかったんだもん。いいよ!入って』
俺は『お邪魔します』と一礼をして、店内に入った。
いつものカウンター席。そこに座ると、葵ちゃんはいつもの様に水を持ってきてくれる。
『マリーから電話くれると思わなかったな。今日はどうしたの?』と、そう言って水をカウンターテーブルにコトリと置く。
『…あ、あのさ。昨日の話の続き…と言うか、経緯を聞きたくてさ』
『経緯?』
『うん。お父さんっていつ来たの?』
『んー…。いつだっけ…?一昨日とかその位かな?』
割りと最近だ。
『…そっか。それじゃあ、昨日が初めてのお見舞いだったんだ…』
『あ、おじいちゃんの?そうそう。…って、なんでそんな事知りたがるの…?』
そう訊いてきた葵ちゃんに、俺はゴクリと一口水を頂いて、続け様に話をした。
『葵ちゃん…。俺、ウタナのじいさんから言われてるんだ…』
『…なんて?』と、顔色を変えるように眉を萎めながら葵ちゃんが聞き返した。
俺も言いづらい。そう思ったからか、唇が落ち着かなく、震わせながらも、言った。
『…葵ちゃん、俺とずっと友達で居てよ』
その時、ウタナナタウの屋根から、パツンパツンと雨を打ち付ける音が、店内に響き出した。
するとどうした事か。葵ちゃんは少し顔を強張らせて此方を見た。
外では雨が次第に強く打ち付ける音が騒がしくなる一方、店内は会話すら無く、ただただ静かだ。
外の雨の音が聞こえると言う事は、時は止まってはいない。だが、そう勘違いしてしまう程、店内は何も動いていない。
ただただ目を広げたまま、まるで見てはいけない何かを目の当たりにしてしまったかのように黙したまま、動く事が無い。
どうしたものか。微動だにしない彼女に、俺は瞬きをするのも忘れてしまう程だ。
『…どう…したの?』と、俺はその間に恐々と挟めるも、何も返事が無い。
それがどうも落ち着く事が出来ず、思わずもその場から立ってしまった。
『あ…!もし気に障る事を言っちゃったなら、謝るよ!』
そこでやっと、葵ちゃんは黙って首を横に振った。
『…ううん、いいの。ありがとう、マリー』
肩透かしを食らったのか、肩を落としながら厨房の丸椅子にドスッと、全ての体重をそこに掛ける様、座った。
そしてそのまま、顔を俯かせてしまった。
『どうしたの…?葵ちゃん…?』
葵ちゃんは二度首を振り、『ううん…。何でもないよ』と、口を籠らせる。
『何でもないようには…見えないけど』
俺が様子を伺う様に顔を覗き込むと、葵ちゃんの口から『友達…か』と、気のせいかうっすらと聞こえた気がした。
『え…?』
『うん。ずっと、友達でいようね』
そう言って葵ちゃんが面を上げる。
しかし、寂しげに浮かべた表情は、何処か隠しきれていない。
それに『葵…ちゃん?』と、何度も葵ちゃんの顔を見直す様に、瞼をしきりと動かした。
だが、何度動かしていても同じこと。葵ちゃんの顔色は一向に変わる事が無い。
『もう、そんなに見ないでよ。気色悪い!』と、葵ちゃんはそんな俺を一蹴するように言い放った。
『え、きしょ…』
『だって、そんなまじまじと見つめられたら、誰だって気色悪く思うじゃない』
そう言って葵ちゃんは丸い椅子から体を持ち上げた。
そしてそのまま食洗場まで足を運ぶと、食洗機を開けて、その中に入っている食器を丁寧に一枚一枚拭いていく。
そこに、俺はペタペタと、まるで駄々を捏ねる子供の様に、葵ちゃんの隣まで歩み寄った。
『それじゃあ、神奈川には帰らない?』
『それはまだ分からないわよ』
『え…?なんで?』
『あのね、マリー。これは私だけの問題じゃ無いんだから』
『でも、ウタナのじいさんが治ったら誰が面倒を見るんだよ』
俺がそう言うと、葵ちゃんがお皿を落としてしまった。
『あ、大丈夫?!』
床に接触をした瞬間、そのお皿が散々と床に飛び散って行く。
あちらこちらにそのお皿の一片一片が瞬く星の様に少しだけ、輝きを見せていた。
それを、葵ちゃんはしゃがみながらその一片一片丁寧に拾っていく。
拾いながら、葵ちゃんは徐に口を開いた。
『マリー…。知らないの…?』
『…え?』
『おじいちゃんね…』と、口をそう動かした後、葵ちゃんは口をつぐんだ。
『…え?どうしたのさ』
なんだろう。この胸騒ぎ。すごく、落ち着かない。
聞きたいようで、聞きたくないような。そんな相対する物が胸中で交錯しだす。
葵ちゃんは深く息を吸って、そしてそれを吐き出す様に、言った。
『おじいちゃんね、もう長くは無いんだよ…』
『…え?…それって、どういう…』
『おじいちゃん…。長くても、一週間しか…』
『一週間…?!それって…。余命…?』
葵ちゃんは黙って頷いた。
俺はその場から走って、何処かへと逃げ込みたくなる。
直ちに耳を塞ぎたくなった。
『でも、待って?!一週間って、葵ちゃんとお父さんがここから引っ越す時期と…?!』
すると、どうしたことか。
葵ちゃんはまたもゆっくりと口を開けて、続け様に話をした。
『一から説明しよっか』
葵ちゃんは割れたお皿を一片一片、近くにあるフリーパックに丁寧に入れ、更に、近くにある買い物袋にそれを包ませた。
『おじいちゃんが倒れてからもう三ヶ月になるんだけど、その間に一回、検査をしたの…。喉の奥の方に悪性腫瘍が見つかっちゃってね?それが大分進行してるんだって…』
葵ちゃんは蛇口を捻って、要心深くも、何度も何度も手と手を擦り合わせながらう言うと、続け様に話した。
『手術すれば治る事には治るんだけど、声だけじゃなくて、味覚も無くなっちゃう…。その位大きくなっていて、そうなっちゃったら、おじいちゃん、ここに立てなくなっちゃうからって…』
葵ちゃんは厨房の床に、人差し指を向けながら、そう話した。
『そしたらね…おじいちゃん…』
葵ちゃんが俯き初めたと同時に、葵ちゃんの目を覆い隠す様に、前髪がカーテンとなって、葵ちゃんの瞳を覆った。
『「私は、死んだも同然だ…。」って…』
その言葉に、満身の毛も弥立つ程の戦慄が、足の爪先から頭頂部までに伝わって、ピクリとも動く事が出来ない。
『そんな事無いのにね…』
そのカーテンの向う側、葵ちゃんの瞳から、しとしとと優しい雨が降りだす。
俺はそこでふと窓を見たが、その光景と今のこの心情が、どうも結び付いた様に見えてしまう。
でも、そんな雨に負けていられない。
どうにか太陽を迎えようと、めずらしく、俺も頻りと頭を回転させる。
『…でも、手術して助かるのなら、絶対に手術した方が…!』
『私もお父さんも、それはおじいちゃんの耳が痛くなる位、言ったよ!でもね…。おじいちゃん、その話をする度に言うんだよ。「この店が無くなったら、私は何が残るのか。」って』
『そんな…。そしたら残された葵ちゃんのお父さんや葵ちゃん、そして俺の気持ちはどうなるんだよ…!』
『でも、そしたら、おじいちゃんの気持ちはどうなるのよ…!』
間髪と入れずに、葵ちゃんは顔を上げて言った。
『おじいちゃんが家にも施設にも入らないで、お店を続けた理由、それはね、この店を存続させたかったから。それだけなの。この店を続けられなくなった時は死ぬ時だって、ずっと言ってた…。ウタナナタウのエスカロップを食べてきたマリーなら分かるよね…?』
『…でも、そしたら…。その時が来るまで、指くわえて黙ってなきゃいけないのかよ…』
『本当は私だって…!』
そう怒鳴ったと同時に、葵ちゃんはまたも俯いて、声を霞ませながら言った。
『…分かんない…。分かんないよ…。何が良くて何が悪いかなんて、全く…』
お互いの想いが錯乱とし初める。
じいさんの気持ちを尊重させるか、それを止めるか。
それによっては大きい岐路だ。だが、どちらが険しいか。
もしかすると、じいさんが選んだ道の方が楽なのかもしれない。じいさんから『ウタナナタウ』を取るのと、俺から音楽を取るのと、それは一緒だ。
ん?でも待てよ。まだじいさんが見逃している楽しみがある。それは…。
『じいさん、もう音楽も捨てちゃうのかな…』
『え…?』
『だって、じいさんは料理が全てじゃないじゃないか。俺に教えてくれた音楽も、何もかも捨てるって事になっちゃうだろ?音楽をやり続けられたら、人生観が変わるんじゃないかな』
しかし、葵ちゃんはかぶりを振った。
『それも言った。言ったんだけど…。「もう自由にさせて貰った。人生に満足だよ。」って、それしか…』
そんな弱気なじいさんなど、今来、見たことなど無い。
それをわざわざ楽観してしまう程、俺は馬鹿になれなかった。
それほど迄に痛ましいじいさんなど想像するのも嫌になり、俺はそれを原動力に、ウタナナタウを飛び出した。
『マリー…!ちょっと、待ってよ…!』
外には雨が途切れもなく降っている。
それを被りながら、俺はひたすら一本道を走る。
跳ねる水飛沫、それを蹴りつける様に大いに足を上げながら、俺はじいさんの所へと向かう。
何が言いたいのか。そんな事、考えも無しにただひたすら走り続けた。
打ち付ける雨が凝固としているのか、バチバチと頭を打ち付ける。
それが凄く煩わしかった。
だが、それすらも掻き分ける一心で、俺は病院へと辿り着く。
入って直ぐにエレベーターへと駆け付けた。
『△』のボタンを幾度も連打する。連打した所で、エレベーターが直ぐに降りてくる訳など無いのだが。
チンと甲高い音が聞こえたと同時に、扉が開いた。
それに飛び乗る。
『閉』ボタンは一回なのにも関わらず、八階のボタンは連打をしてしまう。
その位、気持ちは逸っていた。
数字が高くなるにつれ、俺はじいさんの顔を浮かべてしまう。
それより何より、じいさんは俺にはその症状の事など、口にもしなかった。
それが何より悔しく、悲しかった。
八階に着くと、また、チンと音がなる。
そこで飛び降りた。
八階の廊下は物音一つと無く、静かだ。
そこで、逸る気持ちを一度落ち着かせる様に、息を吸って、深く吐く。
いつもより少し薄暗い。節電の為なのか、それがどこかおどろおどろしく感じた。
病室の八〇五迄、ウタナのじいさんに伝えるべき事を頭の中で整理しようとするも、あちらこちらに散らばっていて、よもや片を付けられない。
そのまま歩を進ませて、病室の八〇五に辿り着いた。
軽くノックをする。
しかし、前と同様、返事は当然ない。
『入るよ』と、一応示しを見せて入室した。
室内に行くと、ウタナのじいさんはベッドに横たわったまま、動かない。
『じいさん、寝てるの…?』
俺は妙に落ち着いたトーンで声を発するも、返事が無い。
静かに眠っているのだと、そう思った。
ベッドの横にある丸い椅子に腰を置く。そこからじいさんの顔を覗き混む。
じいさんの顔が少し青白いのに、多少の違和感があった。
それに、俺は口もとと鼻に手を翳した。
すると、息がされていない。
首から下に至っては紫色に変色しきって、鬱血しているようにも見えた。
『じいさん…?じいさん…?!』と、何度も声をかけても、目を開ける事が無い。
『うそ、マジかよ…!』
じいさんを揺すっても何も反応がない。俺はそれに焦りを感じた。
ベッドの右上、そこにナースコール用の受話器がある。
それを手に取るとコールが流れ、何コールか鳴った時、俺は慌てて要件を伝えようと、拙い言葉で捲し立てた。
『じいさんが…!じいさんが、動かない…!誰か来て…!早く!』
そう言って乱暴に受話器を戻した。
心臓マッサージをするように胸を何度も押すが、それに呼応しない。
それよりも目を瞑ったまま、中々開かない。
でもこのままではいさせない。まだ伝えたい事も伝えられて居ないのに、目を瞑ったままなど、なんとも歯痒いから。
『じいさん…!じいさん…!』と何度も押している間に、看護師さんが数人、担架を転がしながら入ってきた。
『何してるんですか!!早くそこから離れて…!』
そう怒号が鳴ると、俺は不意にもそこから離れてしまう。
ウタナのじいさんがベッドから担架に移されるが、手と足、そして腰に看護師が一人ずつ身体を担いでいるのにも関わらず、ウタナのじいさんはぐったりと身体がくの字に曲がっている。
意識が無い。そこで俺の知っているじいさんではない事を、沈着になった今知った。
そこで葵ちゃんも周章狼狽したように、病室へと入る。
『マリー…え?おじいちゃん…?!』
葵ちゃんは事態の急変に追い付けていない。それもその筈で、担架に乗せられたじいさんとすれ違うも、それを思わずも、口を両の手で、塞ぎながら立ちすくんでいた。
『葵ちゃん…!行くよ…!』と、俺が葵ちゃんの手を引っ張ると、その大きい瞳から、それに見合った様な大粒の涙が、ポロポロと溢れていた。
じいさんを乗せた担架に追い付くと、俺には当分理解が出来ない内容が、看護師の間で飛び交っている。
『…リンパに癌細胞が進入している…!もう首もとから鬱血しているぞ…!』
『進行が早い…!患者に術の任意を委ねてしまったから…!急いで…!』
そう言って集中治療室へとじいさんは運び込まれてしまった。
『おじい…ちゃん…』
足から崩れ落ちる様に葵ちゃんはペタリとその場にへたりこんだ。
顔を覆って泣きじゃくる葵ちゃんの肩をそっと包み込むと、葵ちゃんは俺の胸に顔を埋めた。
『葵ちゃん…。大丈夫…。じいさん、必ず出て来るよ』
俺は辺りを見渡した。
何か出来る事が無いか。必死に目を配った。
何かが足りない。胸に何かが蟠っているのを敏として感じた。
『葵ちゃん…!そう言えば、葵ちゃんのお父さんは?』
『…え?…確か…魚市場に…』
なんだと?人にどうこう言っている割りに、何を呑気に恣意的に動いているのか。俺は理解に苦しんだ。
だが、そんな事も言っていられない。
俺は震えている葵ちゃんに手を差し出した。
『スマートフォン…貸して』
『え…?』
『お父さんに電話するよ。今のこの状況を知って貰う為に…』
俺は葵ちゃんのスマートフォンを取り上げて、電話帳から葵ちゃんのお父さんに電話を掛ける。
コールが一つ、二つ、三つと回が度重なるにつれて、俺の貧乏揺すりもどんどんと激しくなってくる。
『くそ…。まだ繋がんない…!』
五つ、六つ、七つ。その七コール目でやっと電話を取った。
『葵か?父さんだ』
俺と話した時とは違う、穏やかな声色に、俺は何故か、無償にも腹を立たせながら、葵ちゃんのお父さんに噛み付いてしまった。
『今、何してるんですか?!おじいさんの容態が急変しまして、緊急治療室に運び込まれたのですが…!』
『…ん?君は…?』
『僕の事なんていいから、早く来て下さい…!病院で葵ちゃんもまってますから…!早く!』
俺はそうとだけ言い放った挙げ句、一方的に電話を切った。
『…マリー…?』
『…あ、ありがとう。これ、返すよ』
葵ちゃんはスマートフォンを取ってから、俺の顔を見上げた。
それに気がついて、俺も葵ちゃんを見た。
『ど、どうしたの?』
『…あ、ゴメン…。そんなマリー、初めて見たから…』
いつの間にか無言になって、葵ちゃんの瞳と俺の瞳がぶつかり合っている。
まじまじと見つめていると、肩を抱き抱えている俺の手が小刻みに震え出した。
葵ちゃんが瞬きを大きく、数回している。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
どうした事か、こんな緊急事態だという時なのにも関わらず、動機が、止まらない。
暫く、俺の胸に鼓動が響いた。
すると、葵ちゃんは『あ…!あの…。ごめんなさい!』と、俺の胸を突き飛ばすと、俺は病院の床に腰を強打した。
『だ…!イテ…!』
『あ、だ…大丈夫?!』
『…だ、大丈夫、大丈夫』
『ゴメンね…』
葵ちゃんがそう言って手を差し伸ばすと、俺はそれに甘んじる様に手を借りて、腰をあてがいながら、腰を上げた。
『あの椅子に座ろっか』
集中治療室の隣に、白くて長い椅子が置かれているのを、言われて初めて知った。
そこに深く腰を置くと、今まで激しく打ち付けていた鼓動が穏やかになっていって、今までのそれがまるで虚無だったのかって程、気持ちはとうに落ち着いていた。
俺が腰を置いていると、隣にゆっくりと腰を置く。
葵ちゃんは慌てて店から出てきたのか、店のユニホームである黒いポロシャツとジーパンが少しくたくたになっている。
そのくたくたになったユニホームを表すかの様に、葵ちゃん自身も、ぐったりと項垂れているのが見て取れた。
しかし葵ちゃんは、涙ぐましい瞳を満たせていながらも、優しい笑顔で口を緩ませた。
『…マリー、私、おじいちゃんの事、大好きだな』
俺は無言で一つ、頷いた。
『だって、私がしたい事、沢山応援してくれたんだもん。そして何も言ってないのに、おじいちゃんには、何故か伝わっている気がするの。何でだろう…』
両の手で輪を作りながら、指を弄る葵ちゃんを尻目に見て、俺も気がつけばそれを真似ていた。
『だから、おじいちゃんが倒れて、追い打ちをかける様に「死んだも同然。」って…。そんなおじいちゃん、見たくなかったからお見舞いにも中々行けなくなって…。でもね、私がせめてお店を存続させて、お爺ちゃんの帰ってくる場所を作ってあげたかったんだけど…』
葵ちゃんは指を弄るのをやめて、膝に手を置いて、天井を見上げた。
『その為に沢山エスカロップを作る練習したんだ…。でもやっぱりおじいちゃんの味には追い付けなかったなぁ…。凄く遠いんだよ…。お爺ちゃんの偉大さに改めて気付かされた…』
背と腕と足を伸ばしながら、葵ちゃんがそう言うのを、前傾姿勢になっている俺は、見上げながら聞いていた。
『…でも、でも…!帰ってくる場所も作れないまま…!おじいちゃんが…。私、私…!どうすればいいか分からなくなって…!』
葵ちゃんはじいさんが倒れてから今日までの日々を、虚勢を張りながら強がっていたのを、この時初めて知った。
俺は今まで、何も分かってあげられていなかったのだと。
でも、俺は言葉を振り絞る様に、葵ちゃんの肩にそっと手を置いて、情けなくも震え様に話した。
『大丈夫…!大丈夫だよ!じいさん、きっと助かるから!俺も、じいさんに伝えたい事、伝えられてない!』
『でも…。でも…!』
『…じいさんに見せてやろうよ!葵ちゃんのエスカロップ、凄く美味しいんだって、見せてやろうよ!ね?だって俺、葵ちゃんのエスカロップはじいさんのエスカロップに匹敵する位の美味しさを感じたよ?じいさんのエスカロップを食べてきた俺なら、分かる』
形振り構う事が出来ず、葵ちゃんに俺の心情を、一方的に訴えた。
『マ…マリー…』
すると、葵ちゃんは瞳に浮かべた涙を拭きながら、頷いた。
『あはは…。ゴメン…。マリーがそんなに熱心に言ってくるの、初めて見たよ…。もう、今日は初めて見るマリーばっかりで、驚かされるなぁ』
すると、遥か向こうからチンと鳴る音が聞こえた。
葵ちゃんのお父さんが暴れた足で此方へと向かって来る。
そして、着きしな息切れをしながら葵ちゃんに話始めた。
『葵…、葵…!』
『お父さん…!』
『父さんの容態は…!?』
『まだ、わからない…』
『…そうか。…ん?君は…』
俺はペコリと、会釈をした。
『…どうも、先日は急に飛び出したりして、申し訳ありませんでした』
『そうか…。さっき電話をしてくれたのは君か…。助かったよ、ありがとう』
『あ…!そんな、礼を言われる程の事など、してませんよ!』
葵ちゃんのお父さんは静かに笑みを浮かべながら、かぶりを振った。
『いや、君が電話をしなければ気付かなかった。本当にありがとう』
唐突にもそう言った葵ちゃんのお父さんに、俺はどういう顔をしたらいいのか、とても複雑だった。
『ところで、父さんは…?』
『僕が行った時にはもう既に息もしていない状態で…。首から下が真っ青だったんです…。なのでナースコールから看護師さんを呼んで、今集中治療室に運ばれました…』
『そうか…。君が一番最初に気がついてくれたのかい?』
『…はい』
『一度ならず二度までも、君にお礼を言わなければならないな。本当にありがとう』
そう言って続け様、『…助かるといいな…』とボソリと溢した葵ちゃんのお父さんは、手術中と書かれた赤いランプを見上げた。
この治療中の一分一秒が、本当に長く感じてしまう。
その間、葵ちゃんのお父さんはウロウロと集中治療室の前を行来して、葵ちゃんはただただ静かに椅子に座っている。
俺はと言ったら、葵ちゃんの隣に座りながらもその手術中の赤いランプをただただ見上げていた。
運ばれてからどの位の時間が経ったのだろうか。
俺は時計を見るのも忘れてしまう程、その手術中の赤いランプを見上げる他なかった。
暫く見つめていると、素早く、パッとランプが消えた。
俺と葵ちゃんは素早く椅子から立ち、葵ちゃんのお父さんと集中治療室の扉を凝視した。
だが、そこから中々出てこない。
やはり時間が止まっているのではないだろうかと、『ウタナナタウ』の店内でのあの微動だにしない感覚がここでも類似する。
そんな事を考えた束の間、ガチャリと静かに扉が開いた。
ゴクリと、唾を飲んだ。
そこから薄緑の手術服を纏った先生が、重そうな足取りで、此方へと来た。
その先生は、徐に帽子とマスクを取った。
そして、静かに、首を振った。
『…尽力したのですが、残念ながら…』
そんな言葉を残した看護師さんは、葵ちゃんのお父さんを別室へと連れていく。
聞きたくない言葉をここに残していかれると、はたはた迷惑でしかない。その言葉が中々離れない。
そのせいか、隣では葵ちゃんは顔を手で覆って、幾度も肩を大きく揺らしていた。
言葉が出ないとはこの事か。じいさんに、手も足も、声も出ない。
ただ一つ出たのは、涙だけだった。
俺も、肩を大きく揺らす葵ちゃんの隣で、途切れる事のない涙を流す事がやっとだった。
一頻り涙を流して、気がつけば、八〇五の病室にいた。
森閑としきった病室にいるのは、葵ちゃんと、意識がある時とは変わり果ててしまった姿で眠っているじいさん。
口には酸素マスクをつけて、目は閉じきったまま開く事がなく、腕には点滴が施されていた。
ベッドの横にはモニターが付いていて、一定音でそれは鳴り、割りと穏やかだ。
が、室内はそんな事も無く、寧ろ、何処か重たい空気が肌身で感じられた。
そのせいか、俺も、葵ちゃんも、項垂れていた。
すると、不意にもガラガラと扉が開いて、その重々しい顔を扉に向けた。
『…二人とも、お疲れ様』と、葵ちゃんのお父さんがいうと、それに間髪入れず、葵ちゃんが聞き返した。
『…どうだったの?』
葵ちゃんのお父さんが下を俯いて、二度、首を振った。
『…父さんね…』
そのまま続けた葵ちゃんのお父さんが発した言葉をかいつまむと、こうだ。
喉の奥に出来た悪性腫瘍が、リンパ腺に進入し、心臓までその癌細胞が運び込まれて、血液が固まってしまった、と。
元々が呼吸気管が弱まって、抵抗出来ていなかったのが、進行が早かった原因だった、と。
そう言われれば、度々じいさんは胸をよく抑えていた。
倒れたときだって、胸を抑えながら倒れてしまった。
しかし、そんなじいさんの一命は取り留めたものの、もう意識が戻る事は、無い。
だからこそ、そんなごもっともな先生の意見に、『もっと早く気がつかなかったのか』と、矛先を向けたくなる。
『悔しい…』
そうポツリと呟くと、葵ちゃんのお父さんが此方を見て、感受極まった表情で、こう言った。
『しかし、これも父が求めた最後…。見守るしかない…』
その言葉で、漸く分かった。
じいさんは自らこの様な姿になることを予想していたのか。
じいさんが言っていた『死んだも同然』と言う言葉が胸に何度も刺さっていた。
すると、葵ちゃんのお父さんが続け様にこう言った。
『気がつけば夜も更けている。お父さんお母さんが心配するから、君はもう帰りなさい。ね?』
『…え?』
『私はここに泊まる。父さんには添えてあげる力が今必要だ。…葵はどうする?』
そう訊かれた葵ちゃんは静かに頷いた。
『…だ、そうだ。葵も私もいるから、君は一度家に帰りなさい』
本当は俺も泊まると、息巻いてそう言いたかったが、ここはグッと飲み込んだ。
『…また、明日も来て良いですか…?』
『…勿論だよ』
そう言われて、静かに頷いた。
俺は回れ右を余儀なくされて、葵ちゃんの隣をすれ違い様、葵ちゃんをチラッと見た。
その場で葵ちゃんは無言で頷いて、俺を見送った。
『また、来ます』
俺は扉の前で葵ちゃんのお父さんに一礼をして、扉を開けた。
久々に外に出た。白い息が宙を舞う。
それと同時に、俺も浮き足立っている。
先までの雨が嘘のように、雲一つとない澄みきった夜空を見上げる。
星は綺麗なのだが、それに相反する思いが募りに募っていた。
『じいさん…。話したいよ…』
そして、地面に目を配った。
地面の水溜まりも、霜のせいでラメの乱反射を受けている様に、反射していた。
それを見て、どっちが空かわかりゃしないと、ふと笑みを溢した。
その浮き足立っている足を進ませて、俺は家へと赴いた。
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