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ひだまりの唄 20
九月八日
『ねぇ、起きてよ!』
耳もとからさんざめくその声に起こされて、ベッドで寝ている俺の鼓膜が破れそうな位だ。
その声は俺の心情に狂おしく話しかけて、折角仕舞った胸騒ぎを駆り立ててくる。
目を開けると、真っ白い靄が目の前に広がっている
風は無い。
ただ浮き足だった様に不安定な物が、ここ一体に広がっていた。
『起きてってば!』
起きてる。寧ろその声鳴る方へと目を向けたい位だが、辺りを見渡してもその姿を現そうとしないのが、かなり居心地が悪い。
『起きてるよ!』と、声を弾まそうとしても何も声が出ない。
喉を触っても特に異常な程、痛くも痒くも無いのにだ。
『ほら、こっちこっち!』
俺は辺りを見渡した。
靄が段々と消えていくと、そこにはまたもヤツの姿がくっきりと見えていた。
またお前か。と胸で言ったのが聞こえたのか、ヤツは俺の方を見て話続けた。
『マリー…マリーなんだね?』
何だとばかりにそいつを睨み付けるも、そいつはそれを見えてるのか否か、全く動じる事がない。
『あの時の約束、忘れてないよね!』
あの時の約束?なんの事だ。と、俺は疑問を投げ掛けるように胸に念じたが届いているかが、疑問だった。
『ほら、僕達が浜辺でした約束だよ!』
浜辺でした約束。それだと幼少期にした事しか覚えていない。
『あ!覚えていたんだ!』
それだったのか。だったら忘れる訳が無いと、またそいつを睨み返した。
『早速だけど、君の前に現れる時間は僅かしかない。僕の秘密を君に聞いて欲しいんだ』
そもそも目の前で相対しているヤツが誰かも分からないまま、俺は一方的なその話に耳を傾ける事にした。
『僕は君の事をその時からマリーと呼ぶようになったね。でも君はその名が嫌だった事も僕は知っていた。でも、これだけは知って欲しいんだ…』
段々と淡く薄らいでいくその靄を、俺はジッと目で追うことしか出来ない。
『この広大な海はマリーン、偉大な魔法使いはマーリン。カイガラの音を聞いて、その広大な海の波の音に気がついた君は、正に魔法使いなんじゃないかって…そう思ったんだ。それから僕は麻利央くんの奏でる音や言葉が魔法の様に聞こえた…。だからマリー。君は僕の魔法使いだと、そう思ったから』
意気揚々と喋るその言葉は、何処か子供じみていた。
もしかして、今俺が向き合っているこいつは、と、確信に迫ろうとした時、ヤツが一言、漏らした。
『ありがとう。僕の魔法使い…。君に僕のあの人への想いが伝わって、嬉しかった』
声が出ないのを百も承知の上で、俺は『待って!』と叫びたかったが、伝わらない。
そして、靄はどんどんと薄れていき、ついには消えていった。
俺はそれにすがる様に腕を伸ばすも、掴める筈もなく、その勢いでベッドから起き上がる。
『―――待て!』と、漸く声が出た。
だがその時にはもう既に、ヤツの面影も、強いて言えば靄すら晴れていた。
自分の部屋にポツンと起き上がった俺が一人、そこからどうする事も出来ないでいた。
『…なんだったんだろう。あの夢は…』
そして、ベッドから机の上のカレンダーに目を配らせた。
今日は休日、ウタナのじいさんのお店を手伝う日だ。
『ありがとうございました』と、ドアベルが遊んだと同時にドアが閉まると、『OPEN』の札が『CLOSED』に変わった。
『あー!休憩休憩!』と、葵ちゃんが背を伸ばすと、じいさんがゆっくりと椅子に座った。
『じいさん、大丈夫…?』と、声を掛けるも、じいさんは蒼白い顔を浮かばせていた。
『…おじいちゃん、部屋で休んでて。私が後やるからね』と、椅子に座ったじいさんの身体を支えているのを見て、俺もそれに加担した。
部屋に敷かれてある煎餅布団にじいさんを横にすると、じいさんは『すまんね…』と、静かに目を瞑った。
『…最近、じいさんの具合い良くないね』と、葵ちゃんに声を配らせると、葵ちゃんはうんと、頭を抱えた。
俺はその横で白い皿を一枚一枚、捲りながら皿を手で軽く撫でて食洗機に入れる。
ザーっと凄い音を際立たせてから、葵ちゃんを見た。
『どうしたの?』
『ん?ううん。ゴメンね』と、何かを隠している事を隠しきれていない様子だ。
『大丈夫じゃ無さそうだけど』と、俺が聞くと、『何でも無いってば』と、突っ返される。
釈然としないまま、俺は食洗機を開けると、ピンポンと音が鳴った。
葵ちゃんがドアを開けると、郵便物を受け取っていたのが、俺の食洗場からでも、見受けられた。
『手紙?』と、なんの気無しに聞いてみると、葵ちゃんは『え?…ううん。これは、何でもないの』と、封筒が納まっている手を後ろに回した。
『…言えない事?』
『…別に…』
『なんだよー。水臭いなぁ』と、俺は陽気に気取った調子で葵ちゃんを見ても中々その手中の封を開けようとしてくれない。
だが、それを見て少し嫌な予感がした。
『…実家…から?』
葵ちゃんの丸い目が少し大きくなって、一つ頷いた。
『…最近、お父さんから手紙が来るの。仕事落ち着いたから、来年はこっちに帰っておいでって』
『…え?』
『…でも、帰ったら誰がおじいちゃんの面倒を見るのよ。向こうに帰っても特にやりたい事なんて見つけられないまま、学校に行ったって、意味ないもん。こっちでお手伝いしながら学校に行ってた方がよっぽどマシ。有意義だもん』
そう言いながら葵ちゃんは、顔をゆっくりと下に向ける。
『…お父さん、嫌いなの?』
『…昔は…大好きだったけど、今のお父さんは好きに…なれない』
『…そうなんだ』
俺は冷めた食器を取り出して、水気を取っていると葵ちゃんが『…そうなんだ。って、何よ!』と、無作為にも身体を乗り出して言った。
『…それを思うなら、俺、お父さんに葵ちゃんの頑張ってる姿、見てもらった方が早い気がするんだ』
『…え?』
『だってそうだろ?葵ちゃんの頑張ってる姿を見てないからそう言うんだよ。大変さを知ってもらった方が納得してもらえる』
『…来てくれないよ』
『何で?』
『だって…。仕事忙しいから…。おじいちゃんの所に来なかったのも、それが理由なの…』
俺は頭を再び捻りながら、俺はペットボトルの容器をゴミ箱に入れようとしたら、葵ちゃんが突如と大きな声を上げた。
『あ!ダメ!捨てないで!空のペットボトルの容器は取っておいてるんだから』
驚いて、俺はペットボトルの容器を静かに置いた。
『…取り敢えず…それ、読んでみたら?』
『…え?』
『お父さんが何が言いたいかだけでも、分かると思うよ?』
『でも…怖い』
『封筒を開けないと何も始まらないよ』
葵ちゃんは心なしに頷いて、封筒に手を掛けるも、『やっぱりダメ』と、拒んだ。
『それなら、俺が開けようか?』
『…それも…ダメ』
『だったら、自分で開ける他ないだろ?』
葵ちゃんは唇を尖らせながらも静かに頷いた。
そして、ゆっくりと、ピリピリ小さい音をたてて、その封筒がやっと開く。
手紙が二枚、重なったものがそこには入っていた。
それを、葵ちゃんは徐ながら、静かに開いた。
手紙にはこう書かれていた。
『葵、父さんの体調はどうだ?それを見舞う事が出来ないでいる私を許して欲しい。
葵が父さんの体調を気にかけて家を飛び出すと言って、一年の半分がとっくに過ぎようとしている。
正直、音を上げて帰ってくるのかと思えばそうではない事に、私は驚きと戸惑いがある。
葵、こっちに戻っておいで。葵が父さんの体調を心配しているのと同じくらいに、私は葵の先も心配している。
繁忙期も終わって、仕事は落ち着きを見せている。父さんの体調は私が看るから、葵は帰っておいで。来年から、こっちで住もう。だから、私に元気の報せをくれないか。母さんと共に、待っています』
葵ちゃんはその手紙を半分に畳んで、封に仕舞いながら、『…だって』と、気を沈めたように言った。
『…お父さん、返事が欲しいって、そう書いてるね』
『…上げないよ』
『…え?』
『今まで知らんぷりで、急に心配してるって?おかしいよ、そんなの…』
目を滲ませながら、机の上にポンと封筒を投げ捨てた。
『なんで…?』と、俺が言う。
『…何が?』
『…いや、何で言い切れるのかなって…。お父さんだって、自分の父親なんだから、心配で仕様が無かったんじゃないかな』
『…それだったら…何で一度も来てくれないのよ』
葵ちゃんは滲ませた目をこちらに向けた。
『…だって、そうでしょ?お父さんだよ?実のお父さんなのに、心配だったら身を投げ捨ててでも来るはずじゃない!なのに、何で来ないのよ!おかしいよ!そんなの!』
声を上ずらせながら発したその言葉を、俺は受け止めきれずに、ただただ聞き入った。
そのまま葵ちゃんは階段を上って行ってしまった。
過言してしまった後悔が、ズッシリとのしかかったように、肩を落としてしまう。
俺はレジのお金を合わせる為に、エンゲルスを手に取った。
お金をそこに入れて集計をする。
レジ横にあるペン立てからボールペンを引き抜いた。
お金の枚数を記入しようと、紙にボールペンをあてがう。
だが、ボールペンをいくら紙にこすりつけても、そのインクは出ない。
こすりつけた紙はくしゃくしゃになってしまい、原型を取り戻すことが出来ず、もはや反故となってしまった。
それをただただじっとみつめて、俺は肩をすくめた。
ウタナのじいさんに、声を掛けようと、俺は軋む階段を一段ずつ上って、様子を伺った。
扉を開けると、じいさんは瞳を閉じたままジッと開けない。
じきに午後の開店時間が来る。
だが、じいさんの寝ている姿を見ていると、折角の休養を取っている所に水を差してしまいそうで、起こそうにも起こせない。
と、言うよりも起こしたくない思いが先行して、思わず扉を閉めてしまった。
じいさんの部屋の向かい側には葵ちゃんの部屋がある。
その扉を一度ノックした。
扉を閉めきっている向こう側から、『何よ』と、無愛想な声が聞こえた。
『…俺だよ』
すると葵ちゃんは少しだけ扉を開けた。
『…知ってる』
『…さっきは言い過ぎたよ。…そこまで言いたかった訳じゃ無かったんだ』
『だったら何だって言うのよ』
膨らました風船を縛ってしまうと、割らずに戻す事が容易では無い事など、百も承知。
それでも俺はどうにか事なきを得ようと、謝り倒す他が無い。
『…ごめん、ゴメンね?本当に…』と、何度も口にすると、やっとのこと葵ちゃんは『…分かった!分かったから、もういいわよ』と、折れてくれた。
『…それだけ?』
『…あ!それだけじゃないんだ。もうすぐ開店の時間だろ?店内準備は整ったんだけど、ウタナのじいさんが気持ち良さそうに寝てるんだ。起こすのも綽だなぁ…。と、思ってさ』
葵ちゃんは暫く頭を抱えた。
『…私はおじいちゃんみたいに作れないから…。それに、いくらなんでも、勝手に開店させたら怒られそう…』
『それじゃあ、どうしよう…』
『ちょっと、聞いてみる』
葵ちゃんは自室から出て、ウタナのじいさんの元へと向かった。
葵ちゃんはじいさんの隣に膝を置いて、優しくじいさんの身体を揺らした。
『おじいちゃん、お店、もうすぐ開店の時間だけど、どうしよう。ねぇ、おじいちゃん』
ピクリとも瞼を開けようとしない。
『…おじいちゃん…。おじいちゃん…?』
ウタナのじいさんは気持ち良さそうに眠っている。
そんな表情に、俺はやはり抵抗を覚えて、『やっぱりやめようよ。可哀相…』と葵ちゃんの肩に手を置いた。
その時だった。
葵ちゃんの肩が震え出していた。
『…葵ちゃん…?』
『ウソ…。やだ…。おじいちゃん、おじいちゃん…!』
ウタナのじいさんを激しく揺らしても瞳を隠したまま、それを開けようとはしない。
『…ねぇ、おじいちゃんが起きないよ…!どうしよう…!』
俺はそれに『え…?眠ってる訳じゃないの?!』と、動転した。
『…違う…!意識が…無いのよ…!』
『何だって?!それじゃあ、救急車…!』
俺はあわてふためきながら階段を下りて、受話器を耳にあてがうも、ボタンを押したい所に押せない。
動揺を隠しきれないそれは、俺の手元を狂わせていた。
そして、狂いながらも押したそのボタンが、やっとの事繋がった。
『…もしもし…!もしもし…!あ、救急です!すいません…!じいさんが…。じいさんが眠ったまま、目を開けないんです…!お願いします、助けてください…!』
その束の間、早急に店の前に救急車が停まった。
タンカにじいさんを乗せて、そのまま救急車に運びこまれる。
俺と葵ちゃんも救急車に乗り込んだ。
葵ちゃんはじいさんの手を強く握って離さず、見守っている。
俺はじいさんの顔をじっと見つめた。
じいさんは相も変わらず、気持ち良さそうに目を瞑っているだけだった。
担架で運ばれた先は広々とした病室で、その中央にベッドが一台、置かれている。
集中治療室に運ばれなかった所を伺うと、急を要する様な事態は免れたと、そんな不幸中の幸いに胸を撫で下ろした。
ウタナのじいさんは、中央のベッドに移されて、点滴を腕に打っている。
先生が聴診器を所々にあてがうが、首を振って俺達の方を見た。
『君達…家族の人かい?』
先生がそう訊いて、葵ちゃんは頷いた。
『…今から原因を調べさせてもらいたいんだが、君達は済まないが、この病室の外にある椅子で待っていて欲しい。なに、数十分でわかるから、心配する事はないよ』
そう言われて、俺達二人は泣く泣く病室の外に出て椅子に座る。
その時、担架で運ばれていくじいさんを、ただただ追随するだけの無力さが、俺の胸中に涵養としてきた。
情けない。仕様がない事だと片付けられず、そんな自分にえらく落胆をしたその時、葵ちゃんがポツリと隣で呟いた。
『おじいちゃん…』
葵ちゃんは藁にもすがるような思いを募らせて、手を合わせている。
それを隣で見守る事しか出来ないでいた。
すると、葵ちゃんが何度も深呼吸を重ねて、意識をしっかりと整える様に努めているのが見て分かる。
俺もそれに便乗して、深呼吸を重ねた。
ふぅーと、深く息を吐き出すと、葵ちゃんは目を瞑って静かに口を開いた。
『おじいちゃん…。私、大好きなんだ』
葵ちゃんの目をジッと見つめた。
『私が小さかった時から、店内にあるあの立て掛けたギターは飾ってたの。それを何の気無しにポロンと音を立てたら、おじいちゃん、怒らないで、私に言ったのよ。葵、お前も弾いてみるかい?って』
じいさんだったら本当にそう言うだろうと、俺は心底疑わずに、そのまま葵ちゃんの話に耳を傾けた。
『私には大きすぎて弾くのが大変だったけど、適当に弾いてるのにおじいちゃん、葵はうまいね、って。褒められて、私は有頂天になってジャガジャガ音を適当に出してた』
葵ちゃんは昔をふっと思い出したのか、笑いながらに言った。
『でもね、おじいちゃん。そんな私に手を差し伸ばしながら弦の押さえ方を一つ一つ丁寧に教えてくれて…。それが嬉しかった』
だが、段々と肩を震わせながら、葵ちゃんは話続けた。
『でもね、お父さんはそれが悪影響になるって、そう言った…。それが凄く悲しかった…』
そこで俺は一つ訪ねた。
『でも、お父さんの事嫌いじゃなかったんだよね?』
葵ちゃんは一つ頷いた。
『…うん、寧ろ、大好きだった。昔はね…。お父さん、よく遊んでくれたの。向こうに居た時も沢山コッチに来て遊ばせてもらったし、でも、おじいちゃんが音楽を教えてくれた頃から、あまり遊ばなくなったな…。それが、何となく少し寂しい…』
『それで、ウタナのじいさんの体調が悪い報せを受けて此方に来たんだ』
葵ちゃんは一つ頷いた。
『でも、お父さんも、お母さんも、大好きなんだけど…』
葵ちゃんは肘を膝の上におきながら頭を抱えた。
『…お父さん、おじいちゃんが大変なんだよ…』
そして俺は葵ちゃんの肩に手を置いた。
『兎に角、今のウタナのじいさんの事、メールで教えて上げないと、分かって貰えないままだよ。ね?』
葵ちゃんは、すんとも言わずそのまま頭を傾げた。
すると、先生が病室から扉を開けて出てきた。
『終わりましたよ。さ、此方へどうぞ』
葵ちゃんは頭を抱えたまま立ち上がれない。
『葵ちゃん、話だけでも聞こうよ。ね?』と、俺が葵ちゃんの肩をソッと抱えると、葵ちゃんも下を俯いたままながら立ち上がった。
『おじいさんなんだけど、少し貧血気味だね。安静にして、栄養を補給すれば、幾分かは良くなります。今は安静に休ませれば、また回復しますよ』
先生がそう話続けても、葵ちゃんは顔を上げない。と、言うか、上げられないでいた。
変わりに俺が先生の話に耳を傾けた。
『…て事は、このまま入院すれば治るんですね?』
『詳しい検査は起きた時にします。今は体力が酷く低下しているから、このまま寝かせてあげることが賢明だね。でも、大事には至って無いから、大丈夫』
発端の歓喜だ。そう言われて、『良かったね!葵ちゃん。大事には至って無いって』と、言ってはみたが、葵ちゃんは顔も上げられない程、まだ落胆していた。
『それでは、お大事に』と、先生は病室を後にした。
俺はじいさんに『良かった…。今はゆっくり休んで。起きたら、またお見舞いに来るから』と言うと、気持ち良さそうに眠っているじいさんの目尻が、少しだけ動いた。
だが、今一番元気が無いのは葵ちゃんの方だ。
『葵ちゃん…。今は葵ちゃんも帰って、休んだ方が良いよ。帰ろう?』
俺は葵ちゃんの肩を抱えたまま、病室を後にした。
『CLOSED』の立て札が風に押されてカタカタと扉を叩きつけていた。
葵ちゃんは帰って来ては真っ直ぐに自分の部屋へ入り、少しばかり養生している。
俺はカウンターのテーブルで一人、コップに水を淹れて座っていた。
誰一人としていないこの店内で、俺だけになるのは生まれて初めてだった。
俺は椅子から腰を上げて、カウンターの中に足を向けた。
カウンター内は小さいながら、コンロと業務用の冷蔵庫が隣合わせになっている。
冷蔵庫を開けてみると五百ミリリットルのペットボトルが沢山並べられ、白黄とした物が中には入れられてある。
それはバターだった。
沢山のバターが並べられているそれを見て、俺は思わず頷いてしまった。
そうか、バターを作る為にペットボトルを取っておいていたのか、と。
冷蔵庫を閉じて、今度は食洗機を見た。
いつも休憩時と閉店の時は、葵ちゃんと俺でここに立っている。
それがいつものルーティンとなってる。今ではもう慣れた物だ。
そしてカウンター前のテーブルに目を向ける。
カウンター内からはお客さんの顔を見られるようになっている。
いや、カウンター前だけじゃない。ここから店内を一望と出来るのは、お客さんのおいしいと言っている顔を見られるのも、一つの魅力だ。
だが、今はお客さんの顔すら、調理するじいさんすらいない。
そんなポッカリとした店内を、カウンターからゆっくりと見渡していると、店の隅に立て掛けてあるギターに目が止まった。
近付いて、改めて眺めてみると、木目はまだ綺麗で、今でもしっかりとニスがついているせいか、光沢がかかっているようで真新しくも感じる。
手入れに怠りがないそれを、俺は一度抱き抱えて、弾いてみた。
弦の弾きも狂いはない。最近でも暇があれば弾いていたのかな。
そう思える程、その弾みのいい弦を少しばかり振るわせていた。
手を止めようにも、後もう少しだけ、と、欲に駆られて弾いていた。
すると、階段を一段一段と下りる音が聞こえてきた。
その方向に目を配らせると、葵ちゃんが静粛として立っていた。
『あ、葵ちゃん!…大丈夫?』
『…なんだ、マリーか』
ギターの音色に誘われて階段を下りてきたのだろう。
それがウタナのじいさんではなく、俺だった事に、少し肩を落としていた。
葵ちゃんはゆっくりとした足取りで、俺の隣の椅子に腰かけた。
『少し、休まった?』
『…うん』
俺は抱えたギターを持ち変えて、また音を鳴らすと、葵ちゃんが俺の方をまじまじと見た。
『少し、弾きたい』と、哀願してきたのを見て、思わずギターを渡した。
『…ゆっくり、弾くね』
弦がポロポロと波打った。
それに、耳をジッと傾ける。
俺が『ギターってさ、なんでこんなにいい音色が響くんだろう』と、芳しく聞くと、葵ちゃんは弾きながらに答えた。
『…波打つから、かな』
『…波?』
無表情だった葵ちゃんが少しだけ笑って、答えた。
『…ほら、海だって、波が打つとさんざめくじゃない?それと一緒で、弦が波打つと、自然と耳を傾けてしまう』
俺はそれに黙って頷いた。
暫く、葵ちゃんの弾いているギターに耳を貸していた。
すると、途端にも葵ちゃんがギターの弦を留めてしまった。
『…あれ?どうしたの?』と、俺は葵ちゃんに聞くと、葵ちゃんは素朴と言った。
『…私、明日お父さんに電話してみる』
俺はそう決断した葵ちゃんの背中を押した。
『…うん、頑張って。応援してるよ』
すると、再び葵ちゃんはギターを弾き始めた。
寧静とした胸に、葵ちゃんのギターの音色が響く。
その胸中は、この青々とした店内と、どこか似ていた。
『一人で、大丈夫?明日も来るよ?』
『大丈夫。明日は一日お店休むから。…何かあったら連絡するから…その時は…来てくれる?』
俺はそれに一つ頷いて『勿論だよ』と、答えた。
葵ちゃんは弱々しくもニコリと笑って扉を開けてくれた。
『…それじゃあ、またね』
『うん、またね』
ゆっくりと足を刻ませて俺は夜空を見上げた。
とにもかくにも、ウタナのじいさんが大事に至っていなかっただけ、俺は安堵についた。
暫くお店は休みだが、明日はウタナのじいさんのお見舞いに行こうと、もう決めている。
ウタナのじいさん、多分直ぐに退院できる。俺は胸の内でそう信じて疑わない事を胸に決めた。
それを頭に過らせると、星も一つ、頭上を過っていった。
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