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ひだまりの唄 39

十二月二十九日

 

次の日、ウタナナタウを目前にして、俺は直立不動として、その看板に目を向ける。

『…よし』と、一呼吸。その時に白い靄も口から出てきた。

インターホンを軽く触れる。それだけでピンポンと音が鳴った。

『…マリー?どうぞ』

その言葉が聞こえて俺はウタナナタウのドアをカラコロと開けた。

この季節には似つかわしくない程の青々とした店内はまだ健在で、ここだけが常夏のバカンスをも楽しめるような、そんな気分にさせてくれる。

お店はあれから閉めきっているのだろうが、カウンターテーブルにはホコリが一切無く、整理、整頓、清潔、清掃が行き届いている。

その清々しさたるや、エスカロップに次いでここでしか味わえない心地よさを作り出している。

久々に来ると、お客さんの身になってここに来た気分だ。

しかし、『いらっしゃい』と階段から降りて来た葵ちゃんは俺を歓迎は決してしていないようだ。

『椅子、座って』

そう言われて、俺はカウンター椅子に腰を置いた。

『…ご注文は?』と葵ちゃんが水をカウンターテーブルに置きしなに訊いてきたが、『冗談はよしてくれよ』と、俺は言った。

『俺は謝りに来たんだから』

葵ちゃんはそう言った俺に、曇った笑顔で頷きながら『知ってるよ?』と言った。

『霧海さんと付き合ってるんでしょ?』

『…』

『電話に出たマリーの第一声で分かった。…でも、もっとその前から分かってたよ?クリスマス前になっても連絡来なかったから、脈なしって、直ぐに勘づいた。…電話に出た時はショックだったけど、覚悟は出来てたんだから…』

カウンターテーブルのむこう側。俺に背中を見せながらテーブルに寄りかかっている葵ちゃんは何処か落ち着いていた。

ある意味、葵ちゃんよりも、覚悟が調っていないのは、俺の方だ。

『だから…謝らないでよ。言った筈でしょ?ずっと友達で居てね?って。横浜にも遊びに来てねって』

俺はまさかと耳を疑った。

それなら、何故葵ちゃんは俺を呼びだしたのだろうと。

『それじゃあ、何故俺を…ここに…?』

『…私の気持ちも落ち着いたから、ここで皆で私の思い出、作って欲しいの』

『…思い出…?』

そう聞き返すと、葵ちゃんなくるりと此方を振り向きながら、カウンターテーブルを叩いて、言った。

『いいじゃない!どれだけ泣きべそ食らったクリスマスを過ごしたと思ってるのよ!悲壮に満ちて、全然セイントして無かったんだからね!だから、もう皆誘って、一時期遅れたクリスマスよ!クリスマス!私はこう見えて強引なの!分かってるでしょ…?!』

そうだったっけ?と、共に汗を流した仕事仲間である葵ちゃんに疑問はあったが、葵ちゃんは続けて口を沈めながら、言った。

『たまには…私の我儘も、聞いてよ…』

俯き様に言った葵ちゃんに、俺は何度も見直した。

『…葵ちゃん…?』

そうなると、流石は葵ちゃん。切り換えが早い。先の表情がまるで嘘のようにくんと変えて、『さーてと!そうと決まれば買い出しよ!私のお手製を沢山振る舞うんだから!マリー、手伝って貰うよ!いいね!』と、なんとも強引だ。

そうか、少し自惚れていた。

葵ちゃんは俺を気にしていたのかと思っていたが、そうではなかった。

ただ、料理を手伝って欲しい為に俺を呼んだのだと、この時やっと気がついた。

ウタナナタウから出てバスに乗る。エオンとは反対に、駅方面へとバスは走り出す。

その遥か向こう。簡単な田舎道を越えると、魚市場があるのだが、そこは既に年末年始に向けての売り出しが始まっている。

が、昼下がりになると、早々に店じまいになる。

そうなる前に、葵ちゃんはエコバッグを拵えて、買い漁る戦法に出ていた。

まんまと、俺はその網に引っ掛かったのだ。

そのバスの中、葵ちゃんと会話をする。

『お父さん、まだいるの?』

『お父さん?うん、いるよ?部屋で本読んでたな』

『あ、そうだったんだ…。そう言えば、何人呼ぶ予定なの?』

『マリーのお友だち、呼べるだけ呼んでよ!…って言うのも、ウチ閉店するじゃない?その為に食材使いきりたいの。だから、横室くんも山木くんも、マリア先輩とか、もちろん、ねむちゃんも』

『凄いなぁ…。俄然、やる気だね』

『勿論じゃない!久々に腕が鳴るなぁ~』

バスが止まって、そこを降りる。

葵ちゃんと談笑をしながら、魚市場へとやって来たのだが、そこに人集りが出来ていた。

『…あれ?あそこのお店だけ凄く繁盛してる…』

俺と葵ちゃんはその繁盛している市場へと足を運ぶ。

『ようこそいらっしゃいました。ささ、皆様、拝見するだけでは無く、是非ともお手にとって見て頂きたくございますよ!この時期、新鮮で旬なる魚が数多とございます!ささ、奥さま!』

何処かで聞いたことがあるような声だ。

俺と葵ちゃんはお互い顔を合わせて、首を傾けた。そして、その人集りを掻き分けて前に出る。

すると、俺はその人に向けて、『あー!』と声を上げると、その人は俺を見て笑顔で話掛けてくれた。

『…あ!麻利央さま、ご無沙汰しております!』

俺はその気さくに話掛けてくる魚屋と目が合うと、ねじり鉢巻と黒ゴムの前掛け、黒長靴に身を包めていたせいか、その場に馴染んでいて気がつかなかったが、よくよくみると、その人を何処かで見たことがある。

『…あれ?…サップ…!?』

俺がしどろもどろと辿々しくしていると、サップが周りに集っている客など構いもしないで俺の目の前まで歩み寄り、『お久しぶりでございます…!ご機嫌はいかがでしょうか?』と、その爽やかな風貌で俺に訊いた。

『あぁ、なんとか…ね。それよりサップ、サングラス…』

『え?あぁ…。あれは正装みたいなものでしたから。今は此方が私めの正装にございますよ』

サップの瞳は意外とつぶらだ。

『なんでサップがこんな所にいるんだよ』

俺が容赦なくそう訊くと、サップは声色を絞らせて、俺に耳打ちをした。

『私、こう見えて海が好きなのでございます』

そんな事は聞いていない。俺は『近いよ』と、サップの顔を押し退けて、二度、訊いた。

『そうじゃなくて、サップがなんでこんな魚市場で働いてるんだよ』

『私はサーフィンが大好きでしてね。こんな冬の海でも、戯れる事を欠かさないのですよ。…そんな時に、あちらにいらっしゃる漁師様に雇って頂いたのでございます』と、サップは目尻に皺を作ってそう言うと、漁師が大きな魚を持って、会釈をした。

そして、サップはその目尻の皺を段々と緩ませながらに、小声で言った。

『それに…。私はこの街から、まだ離れる訳には参りません…』

小さいながらに、しっかりと俺の耳まで届いていた。

『それって…どういう…』と、俺が更に聞き込もうと、体を前のめりにさせるが、それを見た葵ちゃんは、『人には色々な事情があるのよ。マリー』と言って、俺を肘で小突いた後に、サップの前へと歩み寄った。

『あ、はたはたじゃない。これ大きいわね。十尾頂戴』

『畏まりました。天麩羅にして塩を振ると、尚おいしうございますよ』

『いいわねー!そうしようかな。後ね…』なんて、目の前では葵ちゃんとサップの話し声。

だが、そんな会話が耳を通りすぎて行くように、俺の脳が思考を錯誤させる。  

サップが姿を眩ませたのは秋頃だ。そこから歩弓ちゃんとは会ってもいない。それ所か、連絡すら取れない。

なぜなら、ラウスが歩弓ちゃんの動向を、すべて管理しているからだ。

だが、それからと言うもの、歩弓ちゃんを学校で見てもいない。

俺は、それが少し気掛かりでいた

その事だけを確かめるべく、俺はサップの前へと躍り出た。

『あ…あのさ!サップ…!』

サップが葵ちゃんの会話を区切って、此方を見た。

『歩弓ちゃんと…連絡…取ってる…?』

サップは顔を引き締めて、俺に言った。

『歩弓様の携帯番号は、既に私にはわかりません。ラウスがスマートフォンの番号を変えております故に…』

『…そっか…そうだよな…』

『ただ…』

俺は顔を上げた。

『番号を知る術なら、持っております』

『…本当…?』と俺がサップに近付こうとした、その時だ。

後ろから客の波が俺達を襲った

その波は容赦なくも、『氷下魚だ!』『秋刀魚だ!』『帆立だ!』と、轟々と声を張り上げながら詰め寄ってくる。

俺と葵ちゃんはそれに押された。

すると、サップは手を高々と上げて『はぁーい!順番でございますよー!値段は控えめに、在庫は大胆に、取り揃えてございます!さぁさ、お手に取ったお客様から順番にレジへとお並びください!』

流石はサップだった。

海水の波だけには留まらず、人波までも上手く乗りこなしている。

サップはどんな波でも、上手く乗りこなす、真のサーファーだったんだな。

 

魚市場の買いものも終わらせて、俺と葵ちゃんはエオン前のバス停で下車をすると、『あ、丁度野菜欲しかったんだ。寄っていい?』と、俺に訊いた。

『無いと料理出来ないんだろ?いいよ』

俺がそう言うと、『やったー!』と、跳ねながらに言った。

『一緒に行こう!』と葵ちゃんに誘導される。されるがまま、俺は後ろをついていった。

あ、そうだ。と、俺はここである事が頭を過った。

多分、いないであろう。だが、少し気になる。

『葵ちゃん』

『何?』

『俺さ、ちょっと寄りたい所あるんだけど、いいかな』

『何?音楽雑貨でも見たいの?』

流石は葵ちゃん。鋭い。

『ダメ…?』

『もう…分かったよ。私が先に終わったら、そっち向かうから。マリーが先に終わったら、ここで待ってて?』と、ロビーを指差しながらに葵ちゃんは言った。

『分かったよ。ありがとう』

俺はエスカレーターに足をトントンとふたつ乗せて、左側に寄る。

ゆっくりと上がっていくエスカレーターが、段々と二階の売り場を覗かせる。

真正面には家電量販店があるが、その隅にあるのは音楽雑貨屋さん。

ここのお店の見出し売り場にピックや弦等がフックに掛けられて、売られている。

そうだ。ここで俺は歩弓ちゃんに声を掛けられたんだ。バイトの勧誘だったが。

しかし、今はそんな姿すらない。

それだけで、この店がすっかりと人の影すら無くなったように、ガランとして見える。

カウンターに目を配ると、そこには淡い水色のYシャツに、青と白のストライプが入ったネクタイを身につけた男性が、PP袋に商品を閉じている。

恐らく、店長だろう。

俺はその人に、一歩一歩、ゆっくりと近付いた。

そうすると、いくら作業をしているとはいえ、俺に気が付いて、『いらっしゃいませ』と声を掛けてきた。

それを好機とみなし、俺も声を掛けた。

『あ…あのー。すいません、探してる者が…』

『わかりました。どのような商品でしょうか?』

『…あ、商品ではなく…人、なんですけど…』

『…はぁ…』

『渡辺 歩弓さんって方、此方で働いてますか…?』

すると、その店長らしき人は『申し訳ございません。以前いた従業員でも、今いる従業員でも、そういった類いの質問には返答出来ないんですよ』と、少し見下しながらに俺に言った。

それに負けじと、俺は『あ…!今いるかいないかだけでも…!』と、カウンターに手を掛けながらに言うと、『…もう、おりません』とだけ言って、俺から離れていった。

やはりそうか、と、俺は肩を落として、その場から離れて、エスカレーターへと向かう。

とぼとぼと歩いていたら、エスカレーターを上りきった葵ちゃんが『マリー!お待たせ!』と俺の肩を叩くも、俺はそれに相応しい返事をする事が出来ないでいた。

『…マリー?どうしたの…?あ、電気屋さん!ちょっと見てみよう!』

『…あぁ、見てきていいよ…。俺、待ってるから…』

『…?マリー?』

これは余計な心配なのか、俺は今見つめるべき相手はもう決まっている筈なのに。

俺はぐったりとした身体を、家電量販店の前に並べられている長いすに、ドスッと大きな音を立てながら、腰を置いてしまった。

俺はその家電量販店の前に並べられている長いすに腰を置いていると、葵ちゃんも、俺から離れて腰を置いた。

『…マリー、さっきから元気無いね』

『…あぁ、ちょっと…ね…』

『…歩弓ちゃんの事…?』

俺は何も言えないまま、ただ、それもゆっくりと、頷いた。

『…なんで…そんなに歩弓ちゃんが気掛かりなの…?』

改めて葵ちゃんにそう言われたが、何故かは分からない。

だが、多分『…友達だから…かな』と、これが俺の率直な答えなのだろう。思わずも、そう口走った。

『心配なのは分かるけど…でも、マリーには霧海さんがいるじゃない』

確かにそうだと、頭では分かってはいるもののどうしても頭の片隅では歩弓ちゃんがちらついて、離れない。

『…でも、マリーは心配なんだよね…?』

葵ちゃんは椅子から立ち上がって、俺の前に立って、言った。

『マリーは優しいから、心配しちゃうんだろうけど…霧海さんの気持ちはどうなるんだろうって。今の貴方は誰かに優しくすればする程、違う誰かが傷ついてしまう。私が霧海さんだったら…辛いよ…』

『…好きなのは、ねむちゃんだよ。それは紛れもない事実だ。…でもさ、無事かどうかだけでも気になるんだよ…。サップが歩弓ちゃんの側近から離れてからまともに連絡も無いし、学校でも見かけなくなったのが凄く心配なんだよ…。これって、余計なお世話なのかな…』

『余計なお世話って言うより、お節介って言うんじゃない?なんでそんなに人にばかり気に掛けちゃうんだろうね、マリーって…。もっと自分を大事にしたら?』

『悪かったな…性分なんだよ…』

すると、葵ちゃんが俺に手を差し出して、こう言った。

『それじゃあ、サップの所、もう一回行ってみよう?サップは連絡を知る術を知ってるって言ってた。それ、確かめてこよう?』

それに、俺は一つ頷いて、葵ちゃんの手を取った。

先程迄の重くのし掛かった物が、淘汰されたように、身軽となった。

葵ちゃんに引かれて、エスカレーターを今度は右側に立って、急いで下りる。

駆け足で向かった先は、エオン前のバス停。

丁度いいタイミングで、バスは扉を開いていた。

『待ってーーー!』と、葵ちゃんはバスに叫ぶと、それが通じたのか、バスは扉を開けたまま、待ってくれた。

急いで駆けこみ、整理券を取った俺は、大きく息を切らせた。

バスが発車をする合図を出すように、パシューと音を鳴らせて、ドアを閉めた。

また、バスに身体を揺らせる。バスに乗って向かう先は、サップの元だ。

バスはまたも魚市場の前に停まる。

もう昼も過ぎて、市場は閉める準備を初めていたのか、サップは売り出しものの片付けをしていた。

そこに、俺と葵ちゃんは駆け寄って、声を上げた。

『サップー!』

サップは此方を振り返り、『…麻利央様に、葵様』と、その片付けの手を止めた。

『…ハァハァ…間に合った』

『どうか…なさいましたか?』

『ごめん、サップ。俺、やっぱり諦められないんだ。さっき、歩弓ちゃんと連絡する術なら有るって言ってたろ?それ、教えて欲しいんだ』

『…え?』

『頼むよ…!サップが居なくなってから、歩弓ちゃんの姿すら、学校で見ていない。すごく、心配なんだ…!…ラウスが何かしていないか不安で…』

すると、サップはそのつぶらな瞳を静かに閉じて、首を振った。

『申し訳ございません…麻利央様…。それは出来ません』

『なんで?!』

『私のクビを切られた一因は、歩弓様の『遊び』に加担したからでございます。トラックをチャーターしてまで演奏をしたり、祭り事に現を抜かさせ、教育を疎かにしてしまったバツが下ったのです。…その主となる原因は私にございますが、間違いなく…』

サップはゆっくりと、俺にひとさし指を向けて、言った。

『あなた方も、その原因の一つであると、みなされているのです』

俺は目を大きく広げて、その突きつけられたひとさし指を、凝視した。

『その原因たる物に近付けさせないよう、ラウスが命を下ったのでしょう。…恐らくですが、学校には来ず、先生の方から歩弓様の別荘に赴いて、学に励んでいる。テストの時だけ学校にいらしているのだと、私はふんでおります』

『…俺達のせいで…歩弓ちゃんは、家に閉じ込められてるって…そう言いたいのか…?』

しかし、サップは静かに首を振った。

『いえ、元に戻った、とでもいいましょうか。この街に来る前は、学校には行かずに、教諭がご自宅まで足を運んでいたのでございます。…それが心苦しかったのでしょう…。歩弓様はお父様やお母様の反対を押しきって、この街の別荘に越したのでございます。…ただ、ご両親様に渡った成績表が芳しくは無かったのでしょう…。幼子の時から面倒を見ている私の信頼は無くなり、あの厳粛なラウスに歩弓様を託す位ですから…』

『サップは…もう戻れないのかよ…。だって十年以上も歩弓ちゃんの面倒を見てたんだろ…?それをたった一学期分の成績で左右されるなんて、俺だって腑に落ちないよ』

『辞令が下ったのであれば、それに従わざるを得ないのが、組織でございますよ。私は任を全う出来なかったと、評されてもおかしくはありません。…ただ…』

『ただ…?』

『…抗う事は可能でございます。もし、ラウスが過ぎたる指導を行った場合は、私も黙ってはおりません』

そう言ったサップの瞳は、まだ死んではいなかった。

その生きた瞳に賭けて、俺は一つ、サップに訊いた。

『なぁ、サップ。やっぱり歩弓ちゃんと連絡を取りたい。元気かそうでないかだけでいいんだ。頼むよ…』

すると、サップは笑いながらに言った。

『…畏まりました。しかし、もしかしたら麻利央様には悲しい結末を迎えてしまうかも知れませんが、その覚悟も持って頂きたいのです』

『…え?…それって、どういう…』

『…絶交、でございます』

俺はそれを聞いて、拳を強く握りしめた。いや、寧ろなんだっていい。

『絶交でも、なんでもいいよ。歩弓ちゃんの無事が確認出来れば、俺はそれで大満足さ』

『…畏まりました』

するとサップは、ポケットからPHSらしき、小さな電話器のような物を取り出した。

『…歩弓様、本当に善きお友だちをお持ちになられた…』

そう言ってサップは、それを静かに耳にあてがった。

サップはどこの誰かは分からないが、卒の無い口ぶりで、交渉を打って出ていた。

しかし、その話し方は、俺の知っているサップのそれとはまるで違う。

『もしもし、私です。元ワタナベコーポレーションのサップです。…ご無沙汰しております。…えぇ、今は静かに隠居させて頂いておりますよ。…旦那様はお元気ですか?…左様でございますか。…あの…大変申し上げ憎いのですが、ラウスの様子は如何でございましょう。…そうですか。それでは今、ラウスは旦那様のお側にいらっしゃるのですね?…畏まりました。今から歩弓様の様子を伺ってもよろしいですか?…分かっております。たった数時間…いや、数分で宜しいので…お願い致します。…ありがとうございます。それでは、また家を出る際に、私から電話致しますので、よろしくお願い致します。…ハイ、失礼致します』

そう言って、サップはPHSを切った。

『…誰に電話してたの…?』と、俺は恐る恐るとサップに訊くと、サップは口元を緩めながら、俺に優しく教えてくれた。

『…奥さまです』

『…え?歩弓ちゃんの?』

『…左様でございます。私も、実は任を解かれてからお会いするのが初めてなもので、歩弓様がどのような顔をなさるか、全く予想がつかないのですが…』

少し、たじたじとしながら、サップは言った。

『でも、よく歩弓ちゃんのお母さん、了承してくれたね』

『…私がワタナベコーポレーションから去る時に、歩弓様を想ってラウスにバレない程度なら、お会いしても良いと、奥さまだけは了承してくれたのでございます。何せ、歩弓様が生れた時から、日々を共に過ごさせて頂きましたので…』

サップは手に持っているPHSを軽く握りしめながら、話を続けた。

『歩弓様がまだ幼い時、歩弓様の一日を奥さまとだけ連絡が出来るよう、このPHSを持たせて頂きました…。しかし、そのPHSを返そうとした時、奥さまは仰られたのです。今まで面倒を見てもらって、急に会えなくなるのは、歩弓様が可哀相だ、と。だから、歩弓様に会いたくなったその時、奥さまに一報を入れさえすれば、ラウスの目を盗みながらでも、会っても良い、と。その時私は、感極まって、涙を流してしまいました…』

その握りしめたPHSをまたポケットに仕舞って、サップは言った。

『…しかし、長居はできません。ラウスは二度目は無い男…。もし、これで会った事がバレた場合、絶交はもう揺るぎ無いでしょう。今ならお会い出来る筈です。行ってみましょう』

語尾を強めてサップが言うと、俺はそれに同調して、強く頷いた。

サップは魚市場の隣に置かれてある軽トラックを、俺と葵ちゃんの前に、わざわざタイヤを擦りつけるように停めた。

『ささ、どうぞ』

『…お店のなのに、いいのかよ…』

『今はそんな事言ってられないじゃない!乗るわよ!』

葵ちゃんに後ろ首を捕まれながらその軽トラックの助手席に放り投げられる。

『だぁー!ちょっと…!痛い…!』

『さぁ…!飛ばしますよ…!』

俺達はそのまま、サップの乱暴ながらに振り回される運転に、身体を大きく揺らせながら、歩弓ちゃんの別荘へと向かう。

 

軽トラックだとあっという間だ。いや、サップの運転なら、と言った方がいいだろう。

早くも歩弓ちゃんの別荘の前に着いた。

その一戸の回りにある草原は、雪が降り敷かれていて、白銀を表しているようで、とても輝かしい。

だが別荘の回りは、玄関へと続く一本道以外、除雪はなされていない。

その風変わりな景色に、俺の心配は煽られるばかりだ。

サップはその一本道を急ぎ足で歩を進めると、一度、インターホンを鳴らす。

だが、歩弓ちゃんからの返答が一切無い。

もう一度、インターホンを鳴らす。

まただ。

『…あれ?ラウスは家に居ないから…この家に居るのは、歩弓ちゃんだけ…なんだよね…?』

『…その筈…なんですが…』

『ちょっとどいて』

葵ちゃんが、俺とサップを払いのけて、ずいっと前に出て、乱暴にも、その木質のドアがしなる程の勢いでドンドンと叩いた。

『ねぇ!ちょっと、いるんでしょ?!私よ!歌名 葵!いるんなら出てきて!』

しかし、ドアのむこう側は明らかに静かだ。

『おかしいわね…』

『インターホンで出ないんだから、ドアを叩いたって出ないでしょう…』 

『な…なによ…!マリーが会いたいって言ったからここまで来たんじゃない!それなら、マリーがなんとなしなさいよ!』

『そんな怒らなくても…』

『…しっ!ちょっと静かにしてもらっても宜しいでしょうか…』

サップはドアに耳を澄ますと、まるでそのまま氷ついたように動かなくなった。

『…ねぇ、何か、聞こえるの…?』

『…外線ですね…』

『外線って…電話の音よね…?』

サップは静かに頷いて、『…電話の着信音って言うよりかは、話し声が聞こえてます…』と、ドアにピタリと耳を付けながらに言った。

それに便乗をするように、俺もドアに耳を付ける。

するとどうだろう、歩弓ちゃんの声が聞こえてきた。

『…うん、分かってる…。うん。ちゃんと言う通りにしてる。大丈夫だから…。ラウスの言う通り、家からは一歩も出てないし、誰か来ても出ないよ。…カーテンも閉めきってるし、外部の人とは関わりを持たないようにしてるから、安心して…』

家の人か、はたまたラウスか。よくは分からないが、歩弓ちゃんは誰かと話続けている。

『…一体、誰と話しているんだろう…』

『…この話振りですと、恐らく旦那様ですね』

『親父さん…?歩弓ちゃんの…?』

サップは黙って頷いた。

『やはり…戻っているのですね…』

ドアから静かに離れて、サップは項垂れてしまった。

『サップ…?』

『…いえ、此方の話でございます故に、お気に留めず…』

『何だよ、気になるよ』

『…ちょっと、マリー…』

葵ちゃんに肩を押えられ、首を振られた。

だが、サップは『…いえ、麻利央様にはお話しましょう…』と、俺に不乱な目差しを向けて言った。

『…実は、お二人が察するように、ラウスは旦那様の側近も勤めております。しかし、私は奥さまと歩弓様、お二人の側近でもありました』

サップはドアに背中を預け、ズリズリと擦りながらしゃがんだ。

『歩弓様が小さな時、それはそれは可愛らしく、奥さまはとても愛でていらっしゃいました。…しかし、幼稚園、小学校と年を重ねて行くにつれて、旦那様は奥さまの育て方があまりにも甘いと怒鳴り散らした事がありまして…。それからと言うもの、歩弓様を外へは出させないようにされました』

『…何でそこまで…』

『全てはワタナベコーポレーションの為。それに恥じない育みをしなければ、外に顔向けも出来ないと、旦那様のご判断でございます』

『ひっでぇ…』

『それが続いて十三年…。そんな生活にうんざりとした歩弓様は私に言ったのです。『一人で生活がしたい』と。勿論、私は反対しました。しかし、その後押しをしたのは、実は…』 

『お母さん…って事?』

サップは、静かに頷いた。

『旦那様の了承を待たずに、奥さまはこの地に別荘を建てたのです。一人で生活したい歩弓様を住まわせてみようと試みたのですが、旦那様は猛反対。旦那様と奥さまの育て方が合致しないまま、亀裂が入っていったのです。…しかし、私は奥さまの育て方に賛同しております。ですが、ラウスも同じく、旦那様に賛同をしている。双方の天秤に行き来をしながら、歩弓様は今尚、旦那様の指示に従わざるを得なくなった…。と、言う事になります…』

何だよ、それ。と、俺は呆れて何も言えないでいた。それをみかねたのか、葵ちゃんが代弁を図るように、サップに言った。

『何よ、それ…。会社とか、組織とか、関係ないじゃない…。歩弓ちゃんの意志はどうなるのよ…』

その問いに、サップは黙りを決めて、口を開かない。すると続け様、葵ちゃんは言った。

『それ、歩弓ちゃんが可哀相…!』

『そうだよ…』と、俺も思わず口を開いた。

『…歩弓ちゃんがどうしたいか、だろ?二人の意志なんて関係ないじゃん。長く面倒を見たサップまでクビにしてさ…。勝手過ぎるだろ…』

俺は平原に敷かれた雪を蹴り払い、その別荘の裏手、ベランダまで向かおうとすると、サップが声をあげた。

『…麻利央様…?!どちらへ?!』

『ベランダから顔、出してみる』

『今は駄目です…!歩弓様が電話をしている相手が旦那様かも知れないのですよ?!それが旦那様に知られたら、一番害を被るのは歩弓様…!どうか、心を鎮めて…!』

『…大丈夫だよ。俺、そこまでバカじゃないって』

『麻利央様…?』

俺はひたすら雪を漕いで、ベランダまで足を赴けた。

ベランダはカーテンで閉ざされてはいるが、そこには俺の瞳一つ分の隙間はどうやら開いている。

そこから覗くと、スマートフォンではなく、受話器を持った歩弓ちゃんが辛うじて見える。

『…うん。分かった。それじゃあ、今晩はラウス、帰って来ないんだ』

ラウスが帰って来ない?これは良いことを聞いた。

どうやら歩弓ちゃんの親父さんは壁に耳あり、障子に目あり、と言う言葉を知らないらしい。

『分かったよ。それじゃあね』と、歩弓ちゃんが受話器を置いた。その時が俺の合図になった。

俺の等身大程あるベランダの窓を、ダンダンと激しく叩く。すると、歩弓ちゃんが此方に気付くかと思いきや、辺りを見回して、少し怖そうにしている。

それに構わず、俺はまたベランダの窓をダンダンと叩いた。

すると、歩弓ちゃんが此方に気がついて、徐にカーテンを少し、開けた。

『歩弓ちゃん…。久しぶり…』と、喋ってもそれは聞こえてはいないだろう。

だが、歩弓ちゃんは顔を赤らめて、笑顔で俺を出迎えてくれた。

そんな歩弓ちゃんに手を差し延べるかのように、俺はベランダの窓にそっと手を翳す。

それに合わせるように、歩弓ちゃんも手を翳した。

歩弓ちゃんの笑顔を見られて、取り敢えず、ホッと胸を撫で下ろした。

ベランダ越しから『…どうして?』と、微かな声が漏れて、俺はそれに『…久しぶりに…』と、言いかけると、歩弓ちゃんはハッとしたようにベランダの窓の鍵をカチャリと開けて、その等身大の窓を、カラカラと横にスライドさせた。

『なに?何て言ったの?』

あ、そうか。この窓、開かない訳では無いのか。と、この時漸く気がついた。

『え?あ…うーんと、さ…。久しぶりに遊びたくなって…。来ちゃった』

『そうだったんだ…。嬉しいよ…。もう会えないかと思ってたよ?』と、歩弓ちゃんは声を弾ませながらにそう言った。

『…って、外、こんなに寒いんだ…。凍えそう…』と、歩弓ちゃんは身震いをしているが、それもその筈で、冬のこの街を歩弓ちゃんは知らない。

『ねぇ、寒いでしょ…?家、入ってよ』

『え…?いいの…?』

『大丈夫!』

歩弓ちゃんは俺の手を引っ張ってベランダから入れようとする。

『ちょっと待って』と、俺はその窓枠に腰を掛けて、靴を脱いだ。

『ようこそ!いらっしゃい!久しぶりだね』

『あー…。うん。…それと、さ。もう二人位、久しぶりに会わせたい人が居るんだけど、いいかな?』

『え?誰だろう』

『実は、玄関の前にもう居るんだ。ちょっと来てよ』

俺は意気揚々と歩弓ちゃんに手招きをして玄関まで誘うと、『え、なになに…?』と、俺に誘われるがまま、歩弓ちゃんは俺の後ろを付いてきた。

『開けるよ?』と、俺は玄関まで靴を持っていき、それを身につけ、ドアノブに手を翳す。

歩弓ちゃんが『うん』と頷くと、俺はガチャリとも言わさず、静かにドアを開けた。

『あ、マリー』と、最初に出たのは葵ちゃん。

『あ…。あなた…確かお祭りの時…』

『葵…よ。歩弓ちゃん、久しぶり』

『来てくれたの?』

『あー…。私だけじゃないけどね。ほら!』

『あ…いえ、私は…』

『何言ってるのよ!ここまで来たんだから、挨拶位するのが礼儀でしょ!ほら!』

そう言って、葵ちゃんはサップを歩弓ちゃんの前に立たせた。

すると、二人は見つめあって、静かに、ゆっくりと、深く息を吸ったのが分かった。

『え…?さ…サップ…?』

『あ…歩弓様…お久しぶりでございます…』

二人が面と向かって会うのは、何ヵ月振りだろうか。

俺と葵ちゃんは、静かに笑みを浮かべながら、頷き合うと、歩弓ちゃんは予想外にも、ぷっと吹き出していた。

俺はそれを疑うように歩弓ちゃんに目を配らせると、歩弓ちゃんはお腹を抱えて笑った。

『あはは…!何よその格好…!おっかしー!』

『…え?あ、これは、私の新たな正装と言いますか…』

『似合ってないよー!サングラスもしてないから、誰かと思った!』

それは俺も思った。

『あ…あの…歩弓様…』

唐突だったからなのか、サップが狼狽をしながらも、歩弓ちゃんに声を掛ける。

『本当…。突然いなくなるんだもん。心配したじゃない…』

するとサップは、タオルでねじり込んだハチマキを取って、深々とその頭を下げた。

『申し訳…ございませんでした…』

すると、歩弓ちゃんは静かにサップに歩み寄って、ゆっくりと話始めた。

『…サップ、面を上げて。貴方に伝えたい事があるの』

しかし、サップは顔を上げようとはせず、しっかりと下げた頭を微動だにさせない。

すると、歩弓ちゃんはそんなサップの肩に手を置いて、話始めた。

『…この十七年の間、貴方はワタナベコーポレーションの為…いえ、私の為に尽力してくれた事、心から感謝します。貴方は両親以上に、私の親と言っても過言ではない程、貴方と共に過ごした日々が、とても尊い思い出です…』

サップはそれでも頭を上げないで、ただ黙して、頭頂を歩弓ちゃんに見せているだけだ。

『サップ、貴方はもう自由の身になったのだから、これからの行く道を謳歌して…。貴方のやりたいように、これからは生きていける…』

『…歩弓様…』

サップは顔を上げて、続けて言った。

『…私は…出来うる事なら、歩弓様と一緒に歩みを進めたかった…。それがもう叶わないのが、残念でなりません…』

『サップ…』

歩弓ちゃんはサップを見上げて、サップは歩弓ちゃんを見下ろしながらも、二人見つめあって、動かない。

それを察して、葵ちゃんが間に割って入って、一つの提案を施した。

『…じゃあさ二人とも。今日のクリスマス会に、ウタナナタウに来てよ』

『え?』と、歩弓ちゃんとサップは声を合わせて葵ちゃんを見た。

『私、色々あって、今年のクリスマスしそびれちゃって…。今日やろうと思ってたの。そこで買い出しに行ったら、サップに偶然会ったんだ』

『そう…だったのですか…』

俺もそれに乗じて、話続けた。

『そうだよ、そうしよう!サップの軽トラックがあるから、送り迎えは大丈夫だし!』

『で…でも、ちょっと待ってください!ラウスがその間に帰ってきたらどうするのですか…?!』

『大丈夫だよ。ねぇ、歩弓ちゃん』

歩弓ちゃんは頷いて、『今晩、ラウス、来ないの』とサップに言うと、『歩弓様…。歩弓様がよろしければ、これ以上に無いとは思うのですが…。もしバレてしまったら…』と、サップはいつにも増して、心配性だ。

歩弓ちゃんも暫く頭を、うんと捻りながら、今度は力強く、うん、と頷いた。

『…今日しかない…。皆と遊べるの、今日しか無い!…ねぇ、サップ、私の最後のお願い…!私をウタナナタウに連れてって!』

『…歩弓様…』

『いいだろう?サップ。』

『麻利央様…』

『それじゃあ、決定ね!』と葵ちゃんはいち早くトラックに乗り込むと、俺もそれに続いて軽トラック迄、駆けて行った。

『サップ、早く行こう!』

そう俺が大きな声をサップに掛けると、サップは歩弓ちゃんに、『それじゃあ、参りましょうか。歩弓様…』と、歩弓ちゃんの手を握った。

それに歩弓ちゃんは、静かに頷いていた。

『サップー!早く運転してくれよー!』

『今、参ります!…ささ、歩弓様、お足元に気を付けて…』

『あはは、いいよー。サップはもうワタナベコーポレーションじゃないんだから、今日からは普通の友達だよ?』 

『あ…歩弓様…』

すると、サップのつぶらな瞳から、涙が混み上がっていたのを俺は見逃さなかった。

それに俺はからかって、『泣いて、事故るなよー』と、サップを小突いた。

歩弓ちゃんはそれに反応して、『え?サップ、泣いてるの?!初めて見る!見せて見せて!』と、興奮しながら、軽トラックのバックミラーをサップに合わせた。

『な…泣いてなんかおりませんよ!さ、行きますよ!』

『レッツゴー!』

こんなに大勢を乗せた軽トラック、せせこましい車内だが、賑やかだ。

お祭り以来のこの感覚を犇々と身に染み込ませながら、俺達はウタナナタウへと、向かったのだった。

 

ウタナナタウに着いて、店内へと皆で急ぎ足。

まだなんの準備もしていない。クリスマスにしてはただただ殺風景な店内に、葵ちゃんは『なんか、寂しいわね』と、呟いた。

『クリスマスにしては…ね』と、俺が言うと、歩弓ちゃんがサップの腕をグイッと掴んで、『私たちで催しもの、買ってこよっか』と、気を利かせたのかもしれない。

『いいの?!…それじゃあ、任せてもいい?』

『任せてよ!サップ、行こう?』

『か…畏まりました』

なんだか車に乗る前から、サップの様子が少しおかしいが、そこは敢えて触れないように、遠くから見守ろうとするも、少し心配だ。

だが、それに気を逸らすように、『よし、歩弓ちゃんとサップが買い出しに行っている間、俺達は下拵えをやっておこうよ』と提案をしてみる。

それに葵ちゃんが、『そうだね!…でも、先ずはマリーの下拵えからかな』と、なんとも含んだその言い方に、俺はこの上ない違和感が走った。

『なんだよ、俺の下拵えって』

『電話だよ!電話!』

『電話…?』

『そう!…しなきゃいけない相手、いるでしょ?』

そう言われて、俺はハッとスマートフォンを見た。

『今から、呼んでもいいの…?』

『うん。横室くんも、マリア先輩も、山木くんだって、呼べる人、沢山呼んで欲しい!』

『分かったよ。それじゃあ…』 

俺はスマートフォンのメモリーから、ねむちゃんにカーソルを合わせて緑色の受話器マークを一つ押す。

コールが一つ、二つ、三つと重なる度、やはりねむちゃんに電話をするのは、今でも些か緊張するのは何故なのだろう。

そして、五つ目にコールが鳴った直後に、その電話は取られた。

『もしもし…日野くん?』

ねむちゃんの声が小さなスマートフォンから聞こえる。

そうなると、俺は少し慌てふためきながら、ねむちゃんに伝えて、返す。

『あ…!ねむちゃん…!?あ…あのさ、急なんだけど、皆でクリスマスパーティー…しない?ウタナナタウでさ、勿論、皆いるよ?』

『…え?クリスマスパーティー…?うん!行きたい!…でも私、何も用意が…』

『用意なんていいよ。実際、こっちの用意も何も整っていないんだ。これから始める所なんだけど…』

『うん!行く!』

『よっしゃ!そしたら、エオンに着いたら連絡してよ。俺、迎えに行くから!』

『分かった!』と、ねむちゃんがそう言って電話を切ると、少し顔が綻んでしまう。

すると、葵ちゃんはわざわざ腕を組んでこちらまで歩み寄り、『…随分楽しそうに話するね…』と、目を細めながらに言った。

『うっさいなぁ…。えーと、次はY…と。

俺は再びスマートフォンを手にして、次は『横室岸弥』にカーソルを合わせる。

また受話器マークを一つ押して、Yが出るのをひたすら待つ。

…が、Yは三コールもしない内に電話に出る。

『…おー!マリー!』

『あ、Y?今からウタナナタウでパーティーするんだけど、来る?』

『え?!行く!丁度家族サービスも終わって、暇してた所!』

『じゃあ、ウタナナタウに今から来てよ。それじゃあ』

そう言って、俺は電話を切った。

次は山木、Yの上にあるからカーソルを合わせ易い。と、そう思った矢先、背後に誰かいる気配をすぐに察して、後ろを振り向くと、なんだ。葵ちゃんだった。

『何でそんなにまじまじと見るんだよ…』

『ううん。横室くんを誘う時は素っ気ないんだなぁ~…って思ってさ』

葵ちゃんの前での電話は、どうもやりにくい。

そう思って、葵ちゃんから数歩離れてみると、葵ちゃんはからかったように、『冗談だから~!ちょっとからかっただけだよぉ…』と、笑いながらに俺の腕を掴んで離さない。

だが、俺から言わせれば、その、ちょっとからかっただけ、が、気になってしまい、後退ってしまったのだが。

さぁ、気を取り直して、今度は山木。山木はすんなりと、二つ返事で了承を得られた。

そして、その次は、マリア先輩。だが、そこで、俺の手が止まった。

マリア先輩、今、受験勉強で大変だろう。血眼を浮かべながら、参考書に目を通している事は容易に想像がついて、カーソルに合わせてはみるものの、受話器マークのボタンを押す事が、中々出来ない。

そこで、メールで送る事に決めて、『もし暇でしたら、皆でクリスマスパーティーしませんか?』とだけ、送ってみる。

センター試験を目前にしているマリア先輩に、『暇でしたら』ってのは、ちょっと可笑しいが、もし余裕があるのなら、返事が来るかもしれない。

しかし、来ないかもしれない。だが、マリア先輩に至っては、それでも構わないと、俺は思っていた。

『もしかしたらマリア先輩、来ないかも』

俺がスマートフォンを見つめながら言うと、葵ちゃんも頷きながら、『…受験シーズンだもんね。仕方ないよ…』と、理解を示してくれて、少し安心した。

そんな話をした束の間、マリア先輩から電話が掛かってきた。

『あ、もしもし…!』と、俺はアレ以来、マリア先輩と言葉を交わすのは実に久しぶりの事だった。

『あ、マリー!久しぶりじゃん!』と、依然とした話ぶりだ。

やはり、マリア先輩の後腐れがないその性格に、俺は憧れすら抱いてしまう。

『あ…あの、メール見てくれました?』

『見たけど、ゴメンね?ちょっと行けそうに無いんだ』

『…やっぱり受験勉強、忙しいですよね。分かってはいたんですけど…』

『分かってるのに誘ってくれたの?凄く嬉しいなぁ。それが嬉しくて、思わず電話しちゃった』

『…そうだったんですか』と言った俺も、マリア先輩のそんな言葉に、胸が踊った。

『それでね?代わりと言っては難なんだけど…』

『何ですか?』

『私が受験シーズンで忙しいって時に、何回も何回も電話して来たヤツが居るのよ。…まぁ、ヤマダなんだけど…』

『…え?あの、元生徒会長…?』

『そう、その元生徒会長を混ぜてやって欲しいんだよね。アイツ構って欲しくて仕方ないみたいなの』

『…あ、はい!喜んで。遊んで見たいとは思ってましたから…』

『うわ!ヤマダの前ではソレ、言わないでね?有頂天になっちゃうから』

アハハと笑い声を挟んで、俺は『それじゃあ、山田先輩に宜しく伝えて下さい。待ってますよ!…って』と、マリア先輩に言うと、『分かった!呼ばれたら何処でも来るヤツだから、大丈夫だよ!』なんて、マリア先輩も声を弾ませながらに言った。

『それじゃあ。受験、頑張って下さい』

『うん、マリーの声、久々に聞けて嬉しかったよ。それじゃあ』

そう言ってマリア先輩との電話を切った。

『…マリア先輩はなんて?』と、様子を伺ってきた葵ちゃんに、俺は『…やっぱり来れないって…』と、返す。

『そっか…』と、肩を落としていた葵ちゃんに、『…代わりに元生徒会長、来てくれる事になったから』と伝えると、『…え?!話した事、無い!』と、葵ちゃんは目を剥き返して、そう言った。

『大丈夫だよ。気さくで楽しい人だから。直ぐに仲良くなると思うよ?』

『本当に…?』と、訊いてきた葵ちゃんに、俺は笑顔を浮かべて、力強く頷いた。

『うわー…。でも、こんな大勢でやるクリスマスパーティー、久しぶりだな…。小学生の時以来かも!』

葵ちゃんは、目の輝きを俺に向けて放ちながら、声を弾ませてそう話す。

それを見て、今年度限りでこの街から離れてしまう葵ちゃんには、うんと楽しんで貰える様な、そんなクリスマスパーティーにしたいと、心からそう思えた。

『それじゃあ、始めますか』

『始めますかっ!』

『それじゃあ、はい!』

『…あ、エプロン…』

『これないと、お料理出来ないでしょ?』

『そうだね…。おかしいな、これを着けてたの、そんなに前でもないのに、懐かしく思えるよ』

俺はその久しく身に付けていなかった『ウタナナタウ』のエプロンを腰に巻く。

そうすると、葵ちゃんとウタナのじいさんと共に仕事をしていた事が鮮明にフラッシュバックする。

俺はそんな中で、だだっ広くなったキッチンの中に立った。

すると葵ちゃんは、魚市場から調達をした食材の一式を、キッチンカウンターに並べていく。

はたはた、氷下魚、帆立に秋刀魚、牡蠣とおまけに蟹と、大盤振る舞いどんと来いだ。

次にはエオンで買ったのだろう、大量の生クリームと薄力粉や卵、イチゴやグレープフルーツ、野菜も忘れずに白菜やキャベツやジャガイモ、人参と、兎に角、沢山の野菜がそのエコバッグの中に詰まっていた。

『凄い買ったね』

『そりゃ、パーティーだからね!張り切って買っちゃった!…さ!先ずは下処理からだよ!』

隣で腕を捲って出刃包丁を握りしめる葵ちゃんから、覇気が俺に伝う。

それに武者震いかは分からないが、全身に鳥肌が立つ。

そこでやる気を注ぎ込んだ。その時だ。

なんとも間が悪い。スマートフォンから着信音が響いた。

しかし、スマートフォンの画面を開くも、宛名などない相手からの着信だった。

『もしもし、僕…山田だけど…。日野くんかい?』

『…あ、山田会長…ですか?』

『アハハ、もう生徒会長じゃないよ』なんて、山田会長は笑いながらに言うが、俺はこの呼び方がもう定着して、離れない。

だから、『俺の中では、山田会長はずっと山田会長ですよ』と何の気無しにも心持ちをした言葉を放つと、『…ほう、それならば、君の胸の中で、山田生徒会長は生き続けているんだね?なんだか、嬉しいよ』と、満更でも無さそうだ。

『ところで、何の用ですか?』

『何の用も何も、陽田ちゃんから電話来てさ。その…ウタナナタウに僕も行ってもいいのかい?』

『勿論ですよ!』

『それじゃあ向かわせて貰うよ。ウタナナタウって店はエオンの裏通りだと聞いたが、それで間違いは無いかい?』

『あ、ハイ。もし分からないのであれば迎えに行きますが…』

『問題ない』と、そう言うと、途端にも電話は切れてしまった。

『…本当かな…?』

俺がスマートフォンの電源キーを押すと、カランカランと扉が開く音が聞こえた。

『ただいまー!』と、歩弓ちゃんとサップが帰ってきた。

『おかえりなさい!いい催し物、見つかった?』

『じゃん!』と、それもクリスマスらしく、フラッグガーランドやペナントレース、ペーパーフラワーに、杖や星のオーナメントがポツポツと垣間見える。

『わー…。凄くお洒落だ…』

すると、サップがドアを開けたまま、外と店内を、交互に見ている。

『あのー…。道中、エオンでばったりと会った方がいるのですが…』

『あ!誰が来たんだろう』と、俺が誘った内の一人だと、直ぐに勘が働いた。

そう思って、ドアを覗きこむ。

『じゃーん!』

先ず始めにYが来た。

『あー!横室くん、いらっしゃい!』

『葵ちゃん、久しぶりじゃん!』と、Yが手に大きな箱を抱えて店にやってきた。

『何持ってきたんだよ』

『何って…クリスマスプレゼントだろ?クリスマスならプレゼント交換が主流だろ』

俺もそれを言われてハッとしたその時だ。

またも俺のスマートフォンがブーブーと早く取って欲しそうに、暴れだした。

それをポケットから取り出して、画面を覗くと、そこにはねむちゃんの名前が浮かんでいた。

『もしもし』と、俺が出ると、『誰からだ?』『シッ』と後ろから聞こえてくるが、気にしない。

『…つ、着きました!』

なんとも慌ただしくもそう言ったねむちゃんに、『分かった。すぐ行くよ』と、一つ頷いて電話を切った。

『誰からだよ?』と、Yが訊いてきたのに、『ねむちゃんからだよ。エオンに着いたって言ってたから、ちょっと迎えに行ってくる』と、俺は上着を羽織りながらに言った。

『…そっか、そうだよな』

『…え?なんか言った?』

『いや、最近実感沸いてなかっただけだよ…』

『…?まぁいいや、行ってくる』

俺はカラコロと踊るドアを開けて、数段しか無い階段をひょいと下りて、エオンへと向かう。

いつも避けて通る路面に張られた氷の上も、滑らかに靴を滑らせて、歩く。

歩いて五分から十分は掛かってしまうエオンも、あっという間に着いた。

そうすると、いつもの街路樹に凭れながら、イヤホンを耳に付けて、音楽を聴いていた。

『おーい、ねむちゃん!』と、俺が手を振っても、ねむちゃんは俺に気がついていない。

少しねむちゃんに近付いてみる。しかし、ねむちゃんは此方を見ない。

それほど迄に集中する音楽、一体どのような音楽を聴いているのか気になって、俺はねむちゃんに一歩一歩と、近付いてみる。

その歩幅は無意識にも、大きかった。

しかし、ねむちゃんが気が付く気配が全く無い。

俺がその調子でねむちゃんの間隣に立っても、ねむちゃんは気が付かない。

俺は、そっと、そのイヤホンを片方の耳だけ、取った。

すると、ビクッと飛びあがりしな、『ひ、日野くん!あ…ゴメンね、気がつかなくて…!』

俺は、そのねむちゃんのイヤホンから溢れる音楽に、静かに耳を傾けるように、イヤホンのコードをつまんだまま、佇んでしまった。

『驚いた…?』と、俺が訊ねると、ねむちゃんは静かに頷いた。

『あ…ゴ…ゴメンね…』と、謝辞を入れる。するとねむちゃんはゆっくりと姿勢を正して、深く息を吸った。

『ううん。もう、大丈夫』

俺はそのイヤホンのスピーカーから溢れた音楽が微かながらに耳に入った。

『あれ?これ…』

『うん。ジャズだよ?』

『これ…前も聴いてたよね』

前もそうだった。夏の練習に明け暮れるその時にも、確かここで待ち合わせをした。

その時にも、この曲と同じ物を聴いていた気がする。

『ジャズ…だね』

『そう』

『この曲、好きなの?』

ねむちゃんは黙って頷いて、そのまま顔を上げない。

俺はそれに、少し悪戯心が芽生えて、ちょっと訊いてみた

『何で好きなの?』

『日野くんと同じ名字の…ジャズパフォーマーだから…』

少し、トクッと胸が動いた。が、俺と同じ名字と言われて、余りピンとは来ていない自らを恥じた。

『先生がね?この街ではジャズが有名って言ってて、この曲をオススメしてくれたの。この街のジャズの喫茶店が有名で、そこで流れていたんだって』

『なんて…曲名?』

『リュウヒョウ』

そう言われて、俺はねむちゃんの片方のイヤホンを付けてみる。

そこで俺は目を瞑る。

ウタナナタウからここまでの道程で、浮き足だっていたその足が地についてしまうほど、落ちついて、身に染み入る。

ゆっくりと流れるそのメロディーラインは、まるで太平洋の海の氷が、ゆっくりと流れるそれと同じだ。

瞳を閉じているその目先に映った風景には、丹頂鶴やウミネコ、冬の衣替えをしたエトピリカさえも見えてくる。

それがなんとも美景で、自然と脳裏に焼きついてしまった。

端から見れば少し異様だったのかもしれない。『日野くん…?』とねむちゃんは顔を覗きこんでいた。

『…あ、あ!ご…ゴメン!少し、ボーッとしてた』

すると、ねむちゃんは首を横に振った。

『日野くん、うっとりとしてた。…そう言う所、素敵だなって…』

まただよ。胸がトクッと動きだした胸が少しばかり喧しい。

『ウタナナタウ、向かおっか』

ねむちゃんが黙って頷いて、俺とねむちゃんの片耳をイヤホンのコードが繋いでくれる。

それが途切れて離れないように、俺とねむちゃんは歩幅をあわせながら、ウタナナタウへと向かった。

 

 

 

ウタナナタウの前に着くと、音楽を停止させて、イヤホンを外してカラコロと扉を開ける。

『…ささ、入って。皆待ってるよ』と、ねむちゃんを手で誘う。

ねむちゃんは笑顔でコクッと頷く。その様が、俺の頬を少し赤らめさせた。

ねむちゃんがその数段の階段を一、二、三と上ってウタナナタウへと入った。

『こんにちは』とねむちゃんが言った後に、俺も入る。

『お!日野くんではないか!待っていたぞ』

『お、日野。どういう事だ。パーティーと言うから来てみたが、準備から手伝わされるなんて訊いてないぞ』

山田会長と山木、サップに歩弓ちゃんが、脚立に上りながら天井にペナントやペーパーフラワーを取り付けている姿が、なんとも新鮮に感じる。

『んだよー、山木。文句ばっかり垂れて無いでさっさと手を動かせってー』と、Yはカウンター席に着きながら、キャンディーボックスに入っているオランダせんべいを貪りつつ、山木に言っていた。

『おい横室、お前も手伝え』

『オランダせんべい食べながらペーパーフラワーを広げる作業、手伝ってんじゃねぇかぁ。これ以上、お前は何を俺に求めてるんだよ』

『脚立登るの、俺と交代しろ』

『ほはんはへんべーほいひー』と、しなやかに曲がったオランダせんべいを頬張りながら、Yが話を逸した。

うん、なんとも仲良くやっていて微笑ましい。

『あ!へふひゃん!』とYが手を振ると、山木も歩弓ちゃんもそれに続いて『お、霧海、久しぶり』『ねむちゃん!』と、声を掛ける。

『皆、久しぶりだね』と、外が寒かったからなのか、頬を赤らめてそう言った。

『霧海、こっちに来て手伝ってくれ。一人、役立たずがいるからな』

Yがゴクッとせんべいを飲んで、『…それ、だれ?』と、辺りを見渡した。

『お前だよ』

歩弓ちゃんはサップに脚立を抑えられながらも叫びながらに『ちょっと!口ばかり動かさないで、手を動かしてよ!』と、なんとも張り切っている。

『コイツだろ!』

『いや、お前だ!』

そんな山木とYの言い争いを尻目にしながら、俺はカウンターの中に再び入った。

『なんとも仲良いな、あいつら』

『いつもの事じゃん』と、葵ちゃんは笑いながらに言いいながら、鉄鍋に油を貯めて、パチパチといい音をたてている。

『…?何を揚げてるの?』

『ん?コレ?はたはただよ?』

『はたはたを揚げるの?』

『そう。サップが魚市場で買ったとき、美味しいって言ってたからね』

そんな尾と頭が離れているはたはたは、黄色い衣を纏って、綺麗に網の上で寝ている。

最後の一尾を鉄鍋から出して、網の上に並べると、塩をつまんで、それをサラサラと散らせている。

そのキラキラと散りばめられてる様が、とても綺麗だ。

『美味しそう…』

『一つ、味見する?』

葵ちゃんがそのはたはたをつまんで俺に渡された。

それを俺が受け取って、口の中へと運んで、一つ一つ、噛み締めた。

サク、サク、と音が出て、これは最高に美味しい。

塩が効いているのか、海の幸、そのものだ。

『めっちゃ旨いよ。コレ。揚げすぎてもいないし、生焼けにもなってない。丁度いいよ』

『本当?!よかったぁ』

その鉄鍋の隣のコンロでは、土鍋がグツグツと煮えたぎらせて、鍋蓋が小さく踊っている。

フルーツバスケットの中には、果物が沢山。

大きな帆立の貝がお皿代りとなるように、帆立の鰓が裸像になって、並べられている。

『凄い…。これ、全部葵ちゃんが…?』

『勿論!』と、葵ちゃんは包丁を手に握って頷いた。

『ハハハ…。危ないよ…』と、冗談交りではなく言ったものの、無邪気な笑顔の葵ちゃんには届いていない

パーティーの準備が淡々と進んでいく。

天井にはペナントやフラッグがブリッジ状に吊るされて、それがなんともクリスマスらしく、クラスマスツリーは無いのだが、店内の観葉植物にオーナメントが飾られている。

赤い三角帽子や髭付き眼鏡等、こんなもの何処で買ってきたのか。バラエティーを醸し出す珍品の数々を、笑いながらに身に付ける。

そして、三つのテーブルを一室の中央に寄せたその上には、コンロがそれぞれ設置され、その火が立つ。

コンロの上に土鍋が添えられて、グツグツと音が立って、それに合わせて、土鍋の蓋が踊っていた。

取り皿と箸をセッティングして、準備は万端。

『皆ぁ!食べて食べて!』

葵ちゃんの号令で土鍋の蓋が開けられた。

一番に目に入ったのは丸いつみれ。それに白菜や人参等の野菜がグツグツと煮えている。

『うわー!うまそー!』

見るからに、口の唾液をゴクリと飲み込んでしまう程、美味しそうだ。

俺とYとねむちゃんで、その土鍋の中に箸をつつく。

丸いつみれを、はふはふと口の中で踊らせながら俺はその身を解すように噛み締める。

『は、は、あっふい、けど、ほいひい』と、髭眼鏡をしたYが言った。

『これ、秋刀魚のつみれだ』

噛み締めた時に鍋の出汁が口一杯に広がって、頬が綻びそうになる程、それは旨い。

しかし、土鍋の中をまさぐると、なんともうねった白い異物が見えたように思えて、それを箸で掬った。

『なによコレ…?』

『あぁ、コレの白子よ』

葵ちゃんはその三卓のテーブルの隙間を、氷下魚のフライとキャベツの千切りが添えられた皿で埋めた。

『氷下魚の…白子…?』

『麻利央様、早く食べた方がよろしいですよ。熱い鍋汁に入っていると小さくなるのが早いですからね』と、黒ではなく、紫色のサングラスを掛けたサップが言った。

『私は大好きだよ?』と、天辺にウサギの耳かと思う程のポンポンがついた赤い三角帽子を被って、歩弓ちゃんは次から次に、その白子やらを食べていた。

白子、余り口にした事が無い俺は、それを恐る恐ると口に運んだ。

『日野、それ沢山食べると、やる気が涌くぞ。俺は大好きだ』と、アフロ頭になった山木が言う。

『た、食べてるよ…』

山木はそう言うが、俺は舌で転がそうとするも、どうだろう。あっという間に溶けて無くなった。

口の中に残ったクリーミーな味わい。嫌いじゃない。

『旨いよ。コレ、旨い!』

『でしょ?』と言いながら、葵ちゃんははたはたの天ぷらをテーブルの上に置きながらに言った。

『やばい。サクサクが止まらん』

『あ、氷下魚のフライ!いっただっきまーす!…あ、マリー、食物繊維たっぷりのキャベツやるよ。旨いゾー!』

『…!あ、Y!俺の氷下魚のフライまで手を付けるんじゃないぞ!』

すると、『…あ!岸弥くん、食べた!罰として、キャベツ一気食べだよ?』と、歩弓ちゃんのお揃いの赤い三角帽子を被りながら、ねむちゃんが言った。

『おー…。ねむちゃんからの罰、結構厳しいなぁ…』

『横室は食い意地だけは一人前だからな』と、鍋をごっそりと無くした山木が言った。

『あー…!僕の大好きな秋刀魚のつみれが無いぞ…!山木君、食べる分量を間違えないで頂きたい!一つのテーブルにある鍋を二等分だぞ、二等分!』と、トナカイの格好をした山田会長が言った。

『…先輩、細かい事は気にしないで』

とても賑やかな店内。すると、タンタンタンと、ゆっくり階段を下りてくる音が聞こえた。

俺はその方向を思わず見てしまった。

『なんだ?なんの騒ぎだ?』

『あ、葵ちゃんのお父さん!お邪魔してます!』と、俺が言うと、他の皆も、『お邪魔してます』と続いて言った。

『あ、お父さん…』

『…葵、コレはどういう事だ』

先程までの盛り上がりが嘘のよう。いきなりしんと、店内は静まり返った。

『…あ、コ…コレは…。お父さんには言ってなかったね。ゴ…ゴメン…!…私ね?今年度一杯で、ここを離れるから、その前に皆で思い出を作りたくて…』

『…それで?』

葵ちゃんのお父さん、結構厳しいな、と、そう思った。

『それで…皆に、唐突なんだけど…クリスマスパーティーを開いて…』

すると、葵ちゃんのお父さんはゆっくりと俺達の前に集まっているご馳走の前に歩み寄って、土鍋の蓋を一度開けて、すぐに閉めた。

『…この食材はどうしたんだ』

『…私のお小遣いだよ?お店のお金は使ってない…。ただ、駄目になりそうな物は消費したくて、ちょっと使わせて貰ってるけど…』

葵ちゃんのお父さんはゆっくりとカウンターの中に足を運ぶ。

俺達はそんな葵ちゃんのお父さんを見ながら、ゴクリとまた一つ、唾を飲み込んだ。

『…ここは父さんの店だ。なんでそんな勝手な事をする』

『…お父さん、でも…!』

『葵…なんで…』

俺はそんな葵ちゃんのお父さんを見て、不意にもカウンターに急ぎ足で向かった。

『葵ちゃんのお父さん…!違うんです…!』と、サンタの髭をこさえた俺は葵ちゃんのお父さんの前に立とうと、それも必死で向かう。

『なんで…!父さんも誘ってくれないんだ…!』

その言葉の瞬く間、賑やかだった店内が急に静まった。

『…え?』と、葵ちゃんは葵ちゃんのお父さんに聞き返すと、『なんで父さんに一言も無いんだ…?先ずは父さんに一言あっても良いんじゃないのか?』と、葵ちゃんの作ったを料理を一口、摘み食いをした。

『…それで…怒ってたの…?』

『当たり前じゃないか…!父さんも混ぜてくれ…!』

しーん…と、静まり返った店内。誰の反応もなく、それが少し寂しい。

しかし、そんな静寂を打破するように、Yは『ははひはへひゃないへふか!』と、氷下魚のフライを頬張りながらに言った。

『何言ってるのかわからんぞ』とそんなYに突っこみを入れたのは、山木だ。

するとYは、ゴクリと飲み込み、その口の中を空にさせて、また『当たり前じゃないですか!』と、言い直した。

『だって、このお父様があっての葵ちゃん…!音楽の才と料理の才、そして、勉学の才を凌駕した才色兼備…!そんな葵ちゃんを生み出したのはお父様あっての物ではないですか!…なぁ、マリー』

唐突にもそう振られて、俺は慌て様にも『あ、あぁ!そうですよ…!だから葵ちゃんのお父さんも、一緒にどうですか??』と、発すると、葵ちゃんはたらりと汗を流して、『ちょっと、言い過ぎ…』と、口を引きつらせた。

山田会長が箸と取り皿をカウンターまで持ってきて、『ささ!お父様!葵さんが作られた一品一品、本当に美味。どうぞ此方のテーブルで』と、山田会長と山木のいるテーブルへと誘った。

『あ…!いいのよ、山田先輩!お父さんには適当になんか食べさせるし…』

しかし、葵ちゃんのお父さんは遠慮無く、『…おー!済まないね。あ、コレが葵の作ったつみれ鍋か。んー…良い香りだ』と、鍋から出た湯気を鼻の中へと吸い込んだ。

『…やっべ。殆ど俺、食べちゃったよ…』と、山木はアフロの頭を掻いた。

『…ささ!これで勢揃い!また仕切り直しだぁー!』

Yがそう言いながらもう一つある髭眼鏡を葵ちゃんのお父さんに付けて、そう言った。

『こ…コレは…?』

『葵ちゃんのクリスマスパーティーに参加するなら、皆コレ付けなきゃダメなんですよ?お父さんとあれど、強制ッスよ!強制!』

仕切り直しの狼煙をYが上げると、皆再び、つみれ鍋やはたはたの天ぷら、氷下魚のフライをつつき始めた。

まだまだ葵ちゃんのおもてなしは終わらない。

 

鍋が空になると、それを全て厨房へと下げて、スタンド付の平編みをコンロの上に乗せて、殻が剥かれた帆立と牡蠣をその上に乗せる。

帆立には微量の正油とバターが添えられて、その香りが嗅覚を擽って、思わず笑みが溢れてしまう。

Yが『おー!直火焼き!…んー…。こう言う海産物は何も手を下さず、そのまま焼いて食べるのがこれまたいいんですよ…』と、口を緩めたのか、涎が垂れる。

『…おい、料理に付けるなよ』

『わーってるよー』と、Yは口元を腕で拭きながらに言った。

『直火焼き風、だけどね。もう少しで焼けるから、いい感じになったら勝手に取って食べてね!』と、言いながら、葵ちゃんは腕に抱え込んだ大きな銀ボールに、生クリームと牛乳を入れて、泡立て機で大きく動かして、攪拌させていた。

すると、ねむちゃんと歩弓ちゃんはお互い見て頷いて、氷下魚のフライと、はたはたの天ぷら、そして、白子と秋刀魚のつみれが入った小分け皿を持ちながら、厨房へと静かに歩いていく。

『葵ちゃんも食べてよ』と、歩弓ちゃん、『折角の葵ちゃんのクリスマスパーティーだもん』と、ねむちゃんが言いながら、葵ちゃんに言うも、『え?私は、皆に食べて美味しいって言ってくれるのが嬉しいから…。それだけで、本当にいいの』と、ボールを掻き回すその手を止めない。

『折角美味しいのに。ハイ!』と歩弓ちゃんはつみれを箸で摘みながら、葵ちゃんの口元へと運ぶと、『いらないよ。皆で食べてよ』と、歩弓ちゃんの反対を振り向く。

しかし、その反対にはねむちゃんがいて、『はたはたの天ぷらも美味しかったよ?ハイ!』と、一口サイズの天ぷらを口元へと運んでいた。

『え?え…?』

『どっちか食べないとダメだよー!』

『ねぇねぇ、葵ちゃん、どっちを選ぶ?』

葵ちゃんは起用に掻き回しながら、『えー…。どうしよう…』と、右往左往と首を回す。

『ねぇねぇ、どっち?私?それともねむちゃん?』

『葵ちゃん、どっちぃ?』

『それじゃあ…』と言って、ねむちゃんと歩弓ちゃんの箸をパク、パク、と、どちらも口の中へと含んで、それを噛み締めていた。

『んー!美味しい!』と、頬を緩ませると、歩弓ちゃんもねむちゃんもアハハと、高い声で笑いながら、『でしょでしょ?』と、葵ちゃんに言った。

なんとも、楽しそうだ。

何故だろう。その光景を目の当たりにして、とても良いものを見れた。と、そんな気がした。

そして、コース料理もそろそろフィナーレ。網焼をした牡蠣も帆立も食べ尽くして、俺達の輪の中央で合わさった三卓のテーブルには、何も置いてはいない。

フルーツたっぷりのホワイトケーキは、とてもカラフルだ。

回りに白いホイップクリームを身に付けたスポンジケーキが大、中、小と三段重なって、その上にはフルーツが添えられている。

円状になったその縁に沿って、ミカン、イチゴが四点の角に置かれて、そしてその真ん中にどんと居座るブルーベリー。

ブルーベリーを囲むように、蝋燭が四本立てられた。

絶対、甘くて、旨い。見ただけで味が分かる気がした。

『出来たよー!』と大きく声を上げながら、そのでかいケーキが三卓が合わさった丁度真ん中に、どんと置いた。

『うわー!すげぇ』

『…コレも、葵が作ったのか…?』と葵ちゃんのお父さんは目を剥いた。

『そうだよ?』と、葵ちゃんは得意気にひとさし指で鼻を擦る。

『ケーキのお城だな…。コレ』と、比喩したYに、俺はシックリと来る程だった。

『それじゃあ…電気、消そっか』と、歩弓ちゃんが言うと、ねむちゃんは頷いて、『葵ちゃん、こっちに来てよ』と言う。

『…え?なんで…?』

『いいから!』

葵ちゃんはねむちゃんに言われるがまま、それに従って、歩弓ちゃんとねむちゃんの間にたたされる。

『何…?』

すると、歩弓ちゃんは電気をパチンと消して、店内は真っ暗。その間にねむちゃんは、蝋燭に一本ずつ、火を着けた。

『…それじゃあ、皆…さん、はい!』

その歩弓ちゃんの合図に、俺達はクリスマスソングを歌う。

『ジングルベール、ジングルベール鈴がーなるー』と、手拍子と共に、皆の意気が揃う。

葵ちゃんにだけは内緒のサプライズ。ここに来て、急に思い付いた。

『今日はー楽しいークリスマスー』と、歌い終わったと同時に、俺は葵ちゃんに蝋燭に息を吹き掛けるよう、煽った。

すると、その三卓のテーブルの中央に胡座をかいたケーキに息をふー、と、吹き掛けた。

『おめでとー!』と、拍手を葵ちゃんに贈ると、葵ちゃんはペコペコと会釈を皆に見せながら、『ありがとう…』と、そう言った。

『向こうに行っても、頑張ってね!』

『今日は葵さんと初めて会った記念日だ。僕たちの事を忘れないで』

『葵様も歩弓様の大事なご友人でございます。どうかご帰宅されても、ご健全に過ごされますよう、お祈りしておりますよ』

『歌名とはあんまり絡めなかったけど、飯は旨かったぞ。…メリークリスマス』

『山木の言う通りだよ、葵ちゃん!メリークリスマス!いやー!マジで旨かった!…後はこのケーキだけだなぁ…』

『岸弥くん…賤しいよぉ…。メリークリスマス!葵ちゃん!…お祭りの時は、本当にありがとう。感謝してるよ!』

それぞれの思いの丈を葵ちゃんに言った。

そして俺が葵ちゃんの前に出る。

『葵ちゃん、メリークリスマス』

『ありがとう、マリー』

そう言って、葵ちゃんは頷いた。

『それじゃあ、ケーキ、分けますか!』と、葵ちゃんのお父さんはそれを人数分に切り分けて、それぞれのお皿に盛り付け、配った。

葵ちゃん、凄く楽しそうで良かったと、俺は胸を撫で下ろした。

ウタナナタウでは、クリスマスの歌が何度も何度も繰り返して歌われていた。

店内はイルミネーションの明かりが漏れて、今尚、賑やかだ。

『ジングルベール、ジングルベール』

 

小さな店から溢れる歌声。

その歌が鳴り止むその頃には、甘く頬がとろけ落ちそうなケーキも、底を尽きた。

食事も落着きを見せて、一時の団欒を過ごすと、カラコロと扉を開けて、山木と山田生徒会長が上着を羽織って、外に出た。

『今日は楽しかった。誘ってくれてありがとうな』

『いやいや、葵ちゃんのお陰だよ。俺は何もしてない』

『君はいつも謙遜するなぁ』

『あはは…山田会長、受験、頑張って下さいね!』

『君も色々と頑張って。それじゃあ』

山田会長と山木は手を振って、お店を後にすると、俺はウタナナタウの扉をカラコロとドアベルを鳴らしながらに閉めた。

『…山木くんと山田先輩、帰ったの?』

『あぁ。楽しかった、ありがとうって言ってたよ』

葵ちゃんが食器を纏めながらにそう言うと、葵ちゃんのお父さんが『俺がやろう』と、隣に立った。

『いいよ。お父さんは座ってて』

『いいから、葵の方こそ座ってなさい』と、無理矢理にもカウンターの椅子に葵ちゃんを座らせて、纏めた食器を厨房へと運ぶ。

予めシンクに貯めた水に食器を入れ、葵ちゃんのお父さんはそれを手洗いしながら、食洗機へと入れる。

『ねぇ、葵ちゃんは三学期までこっちに居るの?』

『んー…。分からないな。お父さんの仕事の都合もあるし。もしかしたら、卒業式前には帰るかも。歩弓ちゃんは?』

『私も分からない…。でも、私は一月中には…』

『早い…ですね…』と、サップは肩を落とした。

『仕様が無いよ。ラウスとお父さんの考えなんて、私には分からないもの』

歩弓ちゃんは靴を脱いで、椅子の上に立って、装飾を外しながらにそう言った。

ねむちゃんもそれを手伝うように、椅子に上りながらに、『今年度一杯迄、どうしてもいられないの?』と、歩弓ちゃんに訊く。

歩弓ちゃんは首を横に振りながら、『それは出来ないと思うな…。また振りだしに戻っちゃった…。私、独り立ち出来るのかなぁ…。したいなぁ…』と、不服を露にしながらに言った。

サップはそれに黙って、何も言わず、紫色のサングラスを外した。

するとYが言った。

『あのラウスのおっさん、強情だからなぁ…。一筋縄には行かないよなぁ…。でもさ、高校卒業したら、親から離れて生活出来るんじゃない?』 

『…そうしたいけど、どうだろう…。私、今の今まで、学校すら行った事が無かったから…』

『…え?学校すら、って、どういう事?』

『私、ここに来るまで、特別枠の訪問教育だったんだ。学校に行かなくても、先生が此方に来てくれるの。…まぁ、今もそうなっちゃったんだけどね?…それが嫌で家を飛び出したんだけど…』

『…え?!そうだったの?!』

『うん。…でもね?こっちに来てから、他の人と同じように学校に行って、初めて友達が出来たの。横室くんや霧海さん、歌名さんや麻利央くん、後はクラスの友達。沢山出来た…。自分でバイトして、自分のお金で遊んだり、生活したり、そう言う事、してみたかった。友達と沢山遊べて、此方にいる間は幸せだったよ?だけど…』

その満開のペーパーフラワーを持って、静かに閉じながら、少しうつ向き、歩弓ちゃんは話続けた。

『でも、私、やっぱり間違ってたんだ…。皆に迷惑を掛けて、サップまでも私の元から居なくなっちゃった…。本当に情けなくて…何も言えないよ…』

歩弓ちゃんが肩を落としながら、屈みこむ。

そんな歩弓ちゃんを見るも、手を貸すどころか、声も出ない。

すると、Yが『そんな風に思うなって!』と、歩弓ちゃんの肩に手を置いた。

『…え?』

『誰一人として迷惑なんて思っちゃいないよ。俺達だって、そんな歩弓ちゃんの手を借りてライブが出来て、本当に嬉しかったし。…こんな事になるなんて思って無かったからなぁ…。あの時は…』

『そ、そうだよ!歩弓ちゃんは悪く無いし、寧ろ俺達からも、ありがとうって言いたいよ』

『皆…』

歩弓ちゃんはそんな肩に手を置いたYを見て、強く頷いた。

『歩弓様…良かったですね』と、サップも歩み寄ると、歩弓ちゃんはサップを見ながら、一つ、頷いた。

『…でもさ、あんな傲慢なラウスの元で一年も面倒見られる位なら、サップに面倒見てもらいたいよなぁ。歩弓ちゃんも、そうだろ?』

『…出来ればそうしたいよ…』

『歩弓ちゃんの力でどうにかならないの?』

『私の我が儘なんて、聞いてくれないよ…』

先が見えない暗澹とした先行きを胸に抱え込んで、歩弓ちゃんはこれから前を見ようとしている。

このままだと歩弓ちゃんが煢然としてしまうと懸念したその時、サップが何処からか分からないが、いつの間にか取り出したサングラスを掛けて、歩弓ちゃんの前に立って、話し掛けた。

『そんな事にはさせません』

そんなサップを、歩弓ちゃんは見上げながら、サップの話に耳を傾けた。

『正直、旦那様の教育方針が正しいかどうかなど、私めには到底わかりません。子孫など、私にはおりませぬ故に。…だけど、此だけは断言出来ます。歩弓様が拒んでいらっしゃると言う事は、歩弓様が望まぬ事だと言う事。…それでしたら、一層の事…』

『さ…サップ…?』

『逃げましょう、歩弓様』

『え…?な、何言ってるのよ、サップ。そんな事がバレたら…』

『今すぐに、とは申せませんが…一年後、歩弓様が卒業したその時、必ず迎えに上がります。その間、暫し耐えて頂く事にはなるのですが、宜しいでしょうか…?』

『…そんな事…出来るわけ…』

『出来ますよ。だって、麻利央様を初め、歩弓様にはこんなにもご友人がいらっしゃいます。ここは、歩弓様にとって、第二の故郷となったと言っても過言では無い。私は、漁業と言う名の生業をこなしながら、待ちます。歩弓様を。それが私自身に課した任でございます』

『…でも、私はワタナベコーポレーションの担い手と手綱を結ばされる身なの。もう私の人生は半分以上、決まってるようなものだよ…』

Yは驚いたように、『え?!そうなの?!』と、声を出すと、歩弓ちゃんは頷きながら『…うん。そうじゃないと、お父さんはここまでやらないと思う』と、悟っていた。

しかし、それに負けじとサップは言った。

『歩弓様…私には貴方の味方にして、最大のお力を持った方が一人、いらっしゃいます。そのお方も私と同意見。歩弓様にもっと沢山の経験を積ませる為にも、もっと自由気ままに、自らの力で、広大な世界を見るべきだと、そう思っております。…そのお方だけは、歩弓様の味方なのですよ…』

『それって…?誰…?』

すると、俺と葵ちゃんは指を差し合いながら声を合せ『…あ!歩弓ちゃんのお母さん!』と言うとサップは小さく頷いた。

『お…お母さん…?』

『左様です。奥様と私は今でも繋がっております。歩弓様が私を呼べば、何処からでも、行く準備を整える次第でございますよ』

そしてサップは笑いながら、歩弓ちゃんに言った。

『…まぁ、それまでの間は、ここで漁業をしながら、ひっそりと暮らさせて頂きますよ。…ここは長閑で、海がある。…静かに住むにはピッタリな場所でございますよ』

しかし歩弓ちゃんは首を何度も振りながらに、言った。

『サップ…。…有り難いけど…でも、そんな事、したくない。もう私に縛られないでよ…。そうじゃないと、私…』

しかし、サップも首を振り返した。

『…いえ、歩弓様。私はもうワタナベコーポレーションとは縁を切った身。貴方の言う事はもう聞く耳を持っておりません。私の好きなようにします。それに…』

サップはその紫色のサングラスを付けて、俺を見ながら、言った。

『麻利央様を見て、友達とは何か。分かったのでございます。歩弓様は、私の親友でございますよ』

『サップ…』

『…歩弓様に縛られず、私のしたい事は只に一つ。それは…』

サップはどんな顔をしているのか、そのサングラスを取らなければ分からないが、でも、多分円らな瞳を大きくしている事は間違い無いだろう。

俺はそんなサップの顔を浮かべながら、サップの言葉に耳を貸した。

『出来うる事なら、いつまでも、歩弓様のお側に付かせて頂きたいのです。その位、歩弓様の事が『大好き』でございますよ』

あんぐりと開いた口が塞がらない。俺達はサップを見て、もう一度そのサップが放った言葉を聞き返したい位だ。

『…サップ…?それって…どういう…』

歩弓ちゃんも疑い眼になって、サップの様子を伺うように、そう言った。

『言葉の意味、そのままでございますよ』

サップは言った事を撤回しようともしていなく、その威風堂々とした態度が、実に清々しい。

なんて、感心している場合ではない。

『え?サップ、頭、大丈夫…?』と、葵ちゃんはサップに歩み寄るも、『何を失礼な…!私は本気にございます!』と、ムキになっている。

『側近、と言う役割りに縛られて、自らの気持ちを圧し殺していたのですが、やはり、私の気持ちに正直になってみると、歩弓様の事が忘れられないのです。これを一重に、『大好き』と言うのでは無いのですか?』

歩弓ちゃんは、サップを宥めるように近づいて、言った。

『ちょ…ちょっと待ってよ。多分、違う気がする。もっとよく考えてみてよ。ずっと私の近くに居て、急に私の側からいられなくなった衝動でそうなってるような…。恋とか愛とか、そんなんじゃない気がするんだよ…』

しかし、サップは首を振りながら『いえ、歩弓様…もう、遅いのです』と呟いた。

『…え?』

『そうかもしれませんが、ずっとお側に居たからこそ、愛が芽生えたのかもしれません。歩弓様の側近ではなく、友達になった今だからこそ、私は歩弓様が『大好き』と言えるのでございます』

『サップ…』

するとサップは歩弓ちゃんの手を優しく包んで、持ち上げた。

『私の気持ちは変わりません。そして歩弓様、こんな私で良ければ、一年後、お迎えに上がらせていただけないでしょうか?』

『…』

歩弓ちゃんは黙って、動かない。

そう、サップは歩弓ちゃんのおしめを変えた頃から一緒にいる間柄、最早親代わりと言っても過言ではない。

つまり、親から告白をされたのと同じ事だと言っても過言では無い、と、言う事になる。

それは頭を悩まされる筈だ。

それに、サップは歩弓ちゃんが小さな頃から側にいるとなれば、年齢差が生じる。

それを鑑みても、絶対にあり得ないだろう。そう、思った。

『…うん、分かった…』

ほら、言わんこっちゃ無い。

って、『え?』

『歩弓ちゃん…!?』

『おいおい!歩弓ちゃん!マジかよ…!』

俺も葵ちゃんもYも、歩弓ちゃんの答えを疑って、もう一度聞き返した。

『…歩弓様…』

『…でも、気持ちが変わらない内に、迎えに来てよね!…ずっと待ってるのも、疲れるんだから…』

その時、気のせいか、俺の胸が引き裂かれる程の激痛が、一瞬、過った気がした。

『…承知いたしました…』

『あ!その代わり!…もう『様』を付けるのは止めて。…だって、友達なんでしょ?』

『…あ、畏まりました』

『そして!その畏まるのも、一切禁止だからね!後…』

そう言って歩弓ちゃんは何やら一枚の白紙のメモ帳を広げた。

『…これに電話番号、書いて欲しいな』

『歩弓さ…さんの電話…無くなったのでは…?』

『うん。今はないけど…。いつか自分でスマートフォンを買ったとき、一番最初にサップに連絡出来るように…。ここに番号書いて欲しいな』

『歩弓様…』

『あ、また!』

サップは嬉しそうにペンを持って、『あ…あはは…。この癖を無くすのは、容易では無いですね…』と、番号を記しながら、そう言った。

『…後、皆にも…お願いしていいかな…』

俺はそれに頷いて、自分の電話番号をなぞった。

他にも、ねむちゃん、Y、葵ちゃんもそこに書くと、歩弓ちゃんはその数字で埋まったメモ帳をギュッと抱き締めた。

『…これで…一人じゃない…』

『歩弓様…』

『皆、ありがとう…。これからも、頑張れるよ…』

するとサップが、歩弓ちゃんの肩に手を添えて、『それでは…そろそろ…』と、言うと、歩弓ちゃんは静かに頷いた。

カラコロと扉が開き、外に出ると、軽トラックのエンジンが鈍くかかった。

『リムジンでは無くて、心苦しいですが…』と、サップは助手席の扉を開けようとするも、それよりも素早く助手席の取っ手に手を掛けて、『自分で開けるよ。…それに今の私には、リムジンよりも、軽トラックの方が居心地がいいの』と、歩弓ちゃんは揚々と飛び乗り、素早く助手席のパワーウィンドウを開けた。

『…皆!今日はありがとう!』と歩弓ちゃんが手を振ると、葵ちゃんとねむちゃんもそれに応えるように手を振り返す。

『今日は来てくれてありがとう。またね!』

『歩弓ちゃん、電話してね!』

『あぁ。それなら電話番号変えないで待ってなきゃ。うっかり変えようもんなら、違う誰かにかかっちゃうかもしれないからな』

そんなYの言葉に、歩弓ちゃんはフフッと笑みを浮かばせながら、『それなら、その誰かと友達になっちゃうかも』と、嬉しそうに言った。

『…あ、麻利央くん…』

『…何?』

『…今まで、本当にありがとう』

『…何言ってるんだよ、今生の別れって訳では無いだろ?』

『…でもこの街を出る時にはもう…連絡出来ないと思うんだ…』

歩弓ちゃんは、下を俯いたまま、見上げずに、話続けた。

『…今日迄の期間…本当に楽しかった…。また、遊んでくれる…?』

『…勿論だよ』

『…麻利央くん、ずっと、親友でいてね』

それに、黙って頷いた。

『それじゃあ、麻利央くん…バイバイ』

それには、黙って首を振った。

『…バイバイじゃなく、またね、歩弓ちゃん。向こうに行っても…頑張って…』

『うん、また…ね』

そう言って、軽トラックは静かに動き出した。

ガタガタと揺れながら離れていく軽トラックの赤く光ったテールランプが、徐々に小さくなっていく。

それが見えなくなるまで、手を思いきり振った。

『…行っちゃったな…』と、Yが言う。

『歩弓ちゃんの本当に望んだ転校じゃないのに…可哀相…』

そう言ったねむちゃんに、葵ちゃんは『…敷かれたレールに沿って歩んで行くのも、本当は辛い事なのかもしれないね…』と、ささやかに言った。

『…俺達も、帰ろっか…』

それに、ねむちゃんもYも、静かに頷いた。

 

 

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