ひだまりの唄 12
七月十八日
次の日の朝、暗雲が空一杯に敷き詰められていた。
準備を終わらせると、Yは玄関の前で仁王立ちをしながら腕を組んで、俺が来るのを待っていた。
『おそーい!』と、少し張らせた声が、俺を出迎えた。
『ゴメンゴメン。あれ?今日はギター無し?』
『勿論!今日はアンケート一辺倒!』と、百近いアンケート用紙をばたつかせてそう言った。
『あ、マジで?』
『当たり前だろ?七月も後二週間切っちゃってるんだ。この一週間でこのアンケート用紙に全てサインしてもらって、社務所の許可が必要だ。許可が下りる迄も時間がかかるから、急を要するんだよ』
『え?それって…厳密に言えば…練習きつくないか?だって、ねむちゃんもドラムやったばかりだし…』
『そうなんだよ!キツいんだよ!…去年はマリア先輩がいたから良かったものの、今年はいないんだぜ?何事も、先手、先手で動かないと、後が支えちゃうだろ?急いでんの!俺達は!』
Yがいつも以上の熱気を俺にぶつけながらそう言うと、俺も『分かった、分かったよ。それじゃあ、エオン行こう。ねむちゃん、待ってるかもしれないから』と自転車に跨がった。
『おう!』と言ったYも自転車に跨がって、ペダルをその勢いに任せてこぎ始めた。
少しじめじめとしたその空気が執拗に、俺達の体の汗を増幅させる。
暑くもなく、涼しくもなく、生暖かい空気を体で感じる様な向い風を浴びながら自転車を漕いでいると、Yが参ったように言った。
『なんだか蒸すよなぁ…。なぁ、マリー!今日の天気って雨だっけ?』
『天気予報、確認してないや』
『嘘だろぉ…。普通確認するだろ』
それはお互い様だと、内心で思った。
エオン前、ブレーキを握り、自転車から下りると、そこから辺りを見回す。
すると、ねむちゃんがエオンの自動ドアすぐの壁に寄りかかりながら、此方を向いて手を振っていた。
『オーイ!』とYが言うと、ねむちゃんも左右に手を振って此方を見た。
『ごめん!待たせた?』
『ううん、来たばっかりだよ?』
『良かった…』
Yがホッと安堵を溢したその時だ。
ポツリポツリと静かに小雨が一粒一粒落ちて来るのを、頬が感じた。
『…雨?』と俺が言うと、『やっぱり雨かよ…』と、肩を落とすYが目の前にいた。
『仕様がない…。入り口の中に入って、アンケート用紙、配ろう』
Yとねむちゃんは落胆を隠しきれずに頷いた。
入り口のすぐ近くに、広々とした踊り場があるのだが、そこで俺とYは二人肩を並べて自動ドアの方に目を向けた。
ねむちゃんはそれに背を向けて、スーパーのレジがズラリと並べられている方向へと目を向ける。
さぁ、準備は出来た。後はお客さんが来たらアンケート用紙を配るだけ…なのだが、中々、来客数が著しくない。
数名ちょこちょこと来店はするのだが、『アンケートにご協力下さい』の言葉に耳を貸そうともしてくれない。
こんな状況に、歯痒い気持ちで一杯になった。
『おい、どうするよ。これ。ヤバイじゃん』と、Yは早くもしゃがみこんでしまった。
『いや、どうすると言っても…。外が雨だから仕様がないんじゃないか?』
『根気よく、今は待つことに徹した方がいいみたい…』
すると、見たことのあるリムジンがエオンの前に停まった。
Yもそんな状況に思わず立ちあがり、『…あれ?ここの近くで、こんなお金持ち、いたっけ?』と、まるで表情を困惑させたように見ていた。
俺は、『…一人、いるんだな…』と、誰にも聞こえない様な声をボソリと溢した。
自動ドアが開く。
カツカツと白いパンプスを響かせて、淡白いロングスカートを小波の様に揺らし、黒いタンクトップをベルトで締めたスカートに入れながら、ストレートに長い髪を左右に静かながら揺らして、ショルダーバックを下げて、此方へと向かってくる。
ゴクリと、Yとねむちゃんはそれを見つめるも、俺は昨日も会っているからか、『またかよ…』なんて言葉を、頭に過らせて、彼女を見た。
『あ、麻利央くん!』
Yとねむちゃんは勢いよく此方を見た。
『あ…歩弓ちゃん…。おはよう。今日、早いね』
『十一時からバイトだからね。あ!昨日はどうもありがとう!サップもとても喜んでたよ!『また遊びにいらして下さるよう、お伝え下さい』なんて、言いながらね!』
『あはは、サップの物真似、やっぱり似てる…。あ』
そう言った時、二人の視線が俺にぶつかっていた
『そう言えば、どうしたの?こんな早い時間に』
『これを見て欲しいんだ』
俺は一枚のアンケート用紙を歩弓ちゃんに渡した。
『なになに?『今年の金刀比羅祭りに、日ノ出学園軽音部、演奏させて頂きます。その為には、皆様のご協力が必要です。アンケート用紙に○を付けて、…』なにこれ?』
『演奏させてもらうには、百人の声が必要で、それを金刀比羅神社の社務所に受理してもらう必要があるんだ…』
『そうなの?勝手に出来ないんだ』
『そう、だから今、ここでお客さん来るのを待って、アンケート用紙の協力を要請している所で…』
『これ、何枚か頂戴?』
俺とYとねむちゃんは目を丸くさせた。
『私も店長に言って、これ、協力してもらうように言ってみるね。お客さん来たら、一人一人に渡せばいいんでしょ?』
『ほ…。本当に…?いいの?』
歩弓ちゃんは優しく頷いた。
『私と麻利央くんの仲じゃん!まっかせてよ!』
そう言って胸を叩いた歩弓ちゃんが、凄く大きく見えた。
俺はそれに『うん、ありがとう』と言うと歩弓ちゃんは『私、バイトあるから、またね』と、小さく俺に手を降った。
俺もそれに小さく手を振り返した。
すると、 Yが『何鼻の下伸ばしてんだよ』と、俺の顔を覗きこんだ。
『いや、別に伸ばしてねぇよ』
『しかも、『私と麻利央くんの仲』って、お前いつの間にそんな仲になってんだよ!』
『お…おい!誤解するなよ!別にそんなんじゃない!』
『俺が血眼になりながらこのアンケート用紙を作ってたのに…!本当に目、充血したんだからな!…そんな中、お前は女の子と遊んでいたなんて…』
『だから、誤解だよ!そんな仲じゃ…!』
『それじゃあ!どんな仲だよ!』
Yがじりじりと俺に詰めよりながらそう聞くと、俺もしどろもどろながら答えた。
『…サップって言ったろ?…サップって言うのは歩弓ちゃんに仕えている人なんだ。…だからサップにお願いするがてら、歩弓ちゃんとも遊ぶ事になったんだよ』
『ふーーーん』と、怪しい目つきでYが見てくるが、ねむちゃんは『ま…まぁまぁ、横室くん。そこまで詰め寄らなくても…』と、Yを宥めた。
『でも、サップ。トラックもチャーターしてくれる事になってさ。現場までドラムだけじゃなくて、俺達も送ってくれるんだって』
そう言うと、Yの態度が先程とは掌を返したように『本当に!?いいの?!』と、喜びを露にした。
『あぁ!いいんだ』
『やったぁー!』
俺もYもねむちゃんも、大いに喜びを露にした。
『よし、そうなったら、アンケート配り終えて、必ずライブ、実現しような!』
『『おう!』』と、俺とねむちゃんは声を高くあげる。
外は雨がしとしとと降り続く中、俺達三人だけは、太陽が差し込んで来たみたいに、俄然やる気を露にして、アンケート配りに精を出した。
―――――それから何時間が経過した事だろう。エオンの自動ドアから外を見ると、雨足が更に強くなり、雨がアスファルトを叩きつける音がエオンの中迄響いて来る。
そうなると当然、お客さんの来店する数はあまりにも少なくなる。
その現状に嫌気がさしたのか、Yはまたも地べたに尻もちを着き、タメ息を混じらせながら『あー、やっぱり今日ダメじゃないか?』と、漏らした。
『…Y、何回座ってるんだよ。その態勢になるの早すぎるぞ』
『だってさぁ、客が来ないんじゃ、もともこもねーじゃん』
すると、ねむちゃんがタメ息をほんの少し混じらせてポツリと溢した。
『…うん…。話をかけても、無視されちゃうし…』
俺はこの現状を打破したい一心で、どうすればいいのか、頭を捻らせた。
『…もう…これだったら部活行ってた方がずっとマシだったんじゃないか?』
『…それを言うなよ…』
『もう明日に懸けるか?…明日の天気、どうだったっけ?』
俺は徐にスマートフォンを取りだし、明日の天気予報を確認した。
『…明日も雨だ…』
『マジかよぉー。二日も潰したようなもんじゃん。最悪だよ…』
そんな投げ槍になっているYを見て、打開策の一つや二つ考えなければ今日がこの惰性で終わってしまうと感じた俺は、尚も頭を捻り、考えた。
そう、歩弓ちゃんがさっきは協力してくれた。それは人が集まりやすい歩弓ちゃんのテナントだからこそ、だ。
他にもそんな場所があれば。俺はそんな場所が他にも無いかと、頭を巡らせた。
他にも…そうだ。一つだけあった。一つだけ、しかもこの近くに。
『…Y、今日も明日も潰してしまうと更に出遅れてしまう。それなら、だ』
『…ん?どこか…有るのかよ』
『うん、こっちだ』と、俺が自動ドアの外へと出向こうとしていた、その時だ。
そんな俺の姿にねむちゃんが慌て様『…あれ?日野くん!傘、差さないの?』と、俺を呼び止めようとした。
するとYが『あいつ、傘を差すの嫌いなんだよ。だから、一度外へと出る』
俺は雨の日はいつも雨足の確認をする。今回も、自動ドアを一度抜けて、雨足が本当に強いか肌身で感じて、いけると判断できればそのまま行く。
…が、今回は流石に雨足が強すぎた。
俺はまたも自動ドアを潜り、Yの元へと歩み寄った。
『満足したか?』
『…うん。今回は、流石に傘を差すよ』
『じゃあまず、傘を買うところからだな』
すると、ねむちゃんが一本の傘を取り出して『私は、持ってるよ?』と、言った。
そんな用意周到なねむちゃんに、『流石だな、ねむちゃん。今度から俺達も天気予報、チェックしような』と俺にだけ聞こえるようにポツリと言ったYの言葉に、俺は静かに頷いた。
無事に安価な傘を二本買い、俺達は外へと出た。
『よし、準備は出来たね!』
『…で、これからどこ行くんだ?』
『私達が知ってる所?』
俺は『ねむちゃんは知らないけど…Yは知ってるよ』と仄めかすと、Yが食いぎみになりながら『え、何処?!何処だよ』と、俺にまたも詰め寄ってきた。
『あーあー。分かったよ。着いて来れば分かるから』
エオンの自動ドアを潜り、外をひたすら歩く。
エオンから歩いて五分程、路地裏を歩けば、古い家々が並んでいる。
その並んでいる奥に、三角屋根の木造建築が一軒だけ離れて建っている。
一見すると、それはまるでバンガローみたいな。そこまで大きくなく、片隅に置かれている様な、そんな印象を受けるのだが、他の家々と比べると、外観はとてもお洒落なせいか、目を引く物が、それにはある。
『あれ、この道って…』
Yが気が付いたように辺りを見回す。
すると、ねむちゃんが『…日野くん、これ、大丈夫?』と、心配そうに俺に訊いてきた
『大丈夫、心配ないよ。さぁ、着いた』
俺が立ち止まってみたその扉には『OPEN』と掛札がぶら下がっている。
カランコロンと扉を開けるとそこにはコップを丁寧に拭いている葵ちゃんが、カウンター越しに立っていた。
『あ!マリー。いらっしゃい!今日はバイトの日じゃないけど…あれ?お友だち?』
『うん、Yにねむちゃん。俺の部活仲間で、同級生』
『ども』と、Yは会釈をした。
『あ、Yってキミかぁ!よろしく!』
『え?俺を知ってる…?』
『よくマリーから話聞くよ?』
『どんな話してんだよ…』と俺を睨むように見たが、そんなYに目を合わそうとはしなかった。
『今日は何しに来たの?』
『お、話が早いね。葵ちゃん、これ』
俺は一枚のアンケート用紙を取り出した。
『これ、出来たらでいいんだけどさ。お客さんに配って欲しいんだ』
『…これ、お祭りのアンケート…?』
『そう。ここに丸を付けて貰うだけでいいんだ。百枚集まるとお祭りで俺達演奏できるかもしれないから』
『そうなの?!やったじゃん』
するとYが身を乗り出して話した。
『だけど、逆に言えばそれが百枚集まらないと出来ないんだ。どうにか、頼む!俺達に力を貸してくれ』
手を合わせてお願いしたYを見て、葵ちゃんはニコッと笑みを浮かべて『いいよ!』と、快諾した。
それに俺達はまたも『ヨッシャ!』と、ガッツポーズを決めた。
『でも、交換条件!』
え?と、不意に来たさの交換条件に俺とYはお互いをみあった。
『家でなんか食べてって!』
『食べるって…。何を?』
『なんでもいいよ!ほら、マリー!エプロン付けて!おもてなしおもてなし!』
そう葵ちゃんに言われてエプロンを急いでつけると、葵ちゃんが『三人とも何食べたい?』と訊いた。
『エスカロップ!』と、俺とYが言うと、ねむちゃんもそれに合わせて、『え…と、それじゃあ…。私も』と、言った。
『エスカロップ三つね!…おじいちゃーん!』と、葵ちゃんがウタナのじいさんを呼ぶと、裏口からじいさんが入って来て、『あら、いらっしゃい』と、俺達に笑顔を向けた。
そんなウタナのじいさんを見て、少し安心した。
そして下拵えが終わっている銀トレイを冷蔵庫から取り出して、じいさんが調理を始めた。
まず、葵ちゃんがバターライスを炒める。
その間に、じいさんが衣をたっぷり付けた豚肉をジュワジュワと丁寧に揚げる。
揚げ終わった豚肉をキッチンペーパーの上に乗せて油分を落とす。
そして、炒め終わったバターライスを平皿の上に盛り付けてサイドのサラダを盛り付けていく。
バターライスの上にトンカツを乗せて、ここからが真骨頂。ウタナのじいさんの秘伝とも言えるデミグラスソースをたらりと丁寧に上にかけると、エスカロップが完成するのだ。
その完成したエスカロップを木製のトレイに乗せて、フォークと一緒に二人の前に置いた。
『はい、エスカロップ』
置いた瞬間、Yが『いっただきまーす!』と、勢いよくフォークを持つ。
『いい香り…。頂きます』と、ねむちゃんは丁寧にフォークを取る。
二人がそれぞれ口に運ぶと、口を押えながら『美味しい…!』と歓喜な声がここまで届いだ。
俺達はそれに嬉しくなった。
『やっぱりウタナのじいさんのエスカロップは最高に美味い!…あれ?そう言えば、これって金は?』
Yがそう言うと、葵ちゃんが『タダじゃないよ?ちゃんとお金貰うから』
俺は思わず『え?』と言う言葉を漏らしながら葵ちゃんを見た。
『それじゃ、マリーの奢りな!』
『え?え?』
『次のお給料から天引きね!』
『え?え?え?』
『日野くん、ごちそうさま』
『え?ねむちゃんまで?!そりゃないよー』
俺達はエスカロップを囲みながら高々と笑い合った。
その時、雨が降る音が突如ながら止まったように、俺は感じた。
ご馳走様とウタナナタウに響かせて、Yとねむちゃんはフォークを置いた。
『いやー、美味しかった』と、Yはいつもは出さない丸々としたお腹を擦りながら息を吐いた。
『当たり前だろ。誰が作ってると思ってるんだよ』
俺は二人の平皿をトレイに乗せてキッチンまで運ぶ。
二人は見事なまでにデミグラスソースをこさげてくれせいか、平皿に綺麗に弧の字が描かれていた。
それに俺は少しニヤついてしまった。
『本当に美味しかった…。ご馳走様です』と、ウタナのじいさんにお辞儀をすると、ウタナのじいさんは被っているニット帽を少し直しながら言った。
『いいんだよ。お腹が空いたり、ゆっくりとしたい時、またここにおいで。落ち着く時間帯は昼や夜の食事時以外だったらゆっくり出来ると思うから』
親切ながらウタナのじいさんがそう言うと、ねむちゃんはにこりと頬を染めながら『ありがとうございます。また、来ます』と、再び、お辞儀をした。
『そう言えば、君も軽音楽部?』
『私…?うん、そうだけど…』
葵ちゃんが『ふぅーん』と言いながらねむちゃんの右手をグッと掴んだ。
そんな唐突にも掴み上げたせいか、俺達は少し驚いて止めに入ろうとした。が、葵ちゃんはその右手首をジッと見つめて、『君、ドラムやってるの?』と訊いた。
『…え?…なんで…ですか?』と、ねむちゃんも恐る恐るにそれを訊き返すと、『…手首、大分痛めてるんじゃない?しかも、始めたばかりでしょ?』と、ねむちゃんの手首をじっと見つめて離さないでいる。
すると、ねむちゃんは『…あ、すいません…』と、手首を引っ込めてしまった。
『なんか心配だなぁ…。ちょっと待ってて』と、葵ちゃんが階段を上っていった。
俺もYもねむちゃんも、その葵ちゃんの姿をキョトンと見た。
暫く経つと、葵ちゃんが階段を降りてきた。すると、葵ちゃんは湿布を一枚持ってきた。
湿布の片側だけカバーを取って、ねむちゃんの座っている椅子の側まで歩み寄ってはその場でしゃがみ、ねむちゃんの手首を優しく持った。
『…冷たいかもしれないけど…』
優しく包み込んだ葵ちゃんの湿布は、それとはうってかわり、温かささえこちらからも見て感じた。
『これで大丈夫』
『…ありがとう』
しゃがんでいた葵ちゃんはすっくと立ち上り様、『もう、なんで二人とも気が付かないのよ』と、俺達二人に言った。
『…なんかあったの?』
『手首、少し赤みが出てきてた。ドラムやり始めの人が手首を酷使すると、腱鞘炎を起こしやすいの』
するとYは『なんか葵ちゃん。ドラムの事詳しいね。やってたの?』と、訊いた。
『うん。こっちに来る前にやってたの。私もその時、よく腱鞘炎起こしてたから、気持ち分かるんだ』
そう言って葵ちゃんがカウンターの奥に入って、食洗を始めた。
すると、Yは俺に何か言いたげな瞳で此方を見ている。
『…葵ちゃん、ドラム出来るって…』
その時のYが何が言いたいか、目を見ればすぐ察する事が出来た俺は、『それは無理だよ』と、Yに率直に言った。
『えー。なんでだよー』
『葵ちゃんが此方に引っ越して来た理由はウタナのじいさんの負担を減らす為。バンドをする為じゃないって、俺が誘った時にそう言われたんだ。でも、そりゃそうだよ。その為に遥々神奈川から来たんだから』
『…そっかぁ。…そりゃそうだよなぁ…』と、Yは少し残念そうに俺を見た。
『それじゃあ、ご馳走様!』と俺がウタナのじいさんに手を上げて挨拶をした。
『もう帰るのかい?』と、じいさんは俺に歩み寄った。
『おじいさん、本当にご馳走様でした。葵ちゃん、手首、ありがとう』
すると、葵ちゃんも丁度食洗を終え、タオルで手を拭きながら、『ううん、酷くなったらまた来て?湿布、いくらでもあげるよ』と、笑顔で言った。
『ありがとう』とねむちゃんは手を振った。
『そうだ。これ』俺に歩み寄ったじいさんが手を差し出しながら言った。
『あ、なつかしい』
オランダせんべいを三枚、俺に渡した。
『ありがとうじいさん、大切に食べるよ』
じいさんはにこりとした表情を俺に向けて言った。
『よし、それじゃあ、Y、ねむちゃん、行こっか』
そう言うと三人は一つ、一斉に頷いた。
カランコロンと外へと出ると雨足が大分弱まっていた。
『あ、雨弱くなってる』
『本当だね』
『折角だ、俺達ももう一踏ん張り、頑張りますかぁー!』
そう言うと、ねむちゃんとYは『オー!』と、一つ拳をかかげた。
雲から晴れ間が、顔を覗かせていたのをその時、見えた気がした。
Yが片手に持ったビラが残り数十となった所で、夕焼けの空が住宅街に潜もうとしていた。
『この位にしておこう。大分配り終えられたし』
Yが片手に持ったビラの半分は丸が既に埋まっている物ばかりだ。
この初日、雨での幸先悪しの中、これだけの成果を上げられたのは上々だと、俺は自分に言い聞かせた。
エオンから出て自転車を押しながら、二人と肩を並べて帰路に着く事にした。
『あ~!良かった。イベント、なんとかなりそうだなぁ』と、Yは想像以上の結果にご満悦としていた。
『うん。最初は声を掛けても聞いてもらえなかったけど、だんだんと聞いて貰える様になって、嬉しかったな』
そう言ったねむちゃんの陽気な声を聞いて、俺までも嬉しくなったのか、『俺も!』と、思わず反応してしまった。
そんな俺を見てYは、『あはは。マリー、ねむちゃんの言った事に、思わずも反応しちゃった。…って所だろ』と俺の心の内を射抜くように言った。
それに俺はオホンと咳ばらいを一つかまして『…でも、最後まで気が抜けないからな。市役所に通して、初めて出来るイベントだ。気を引き締めよう』
そう言うと、Yが悪戯ながらに笑いながら『はいよ。部長』と、おぼろげに言った。
『あ、そう言えば…』
じいさんから貰ったオランダせんべいを三枚取り出して、『これ、食べよう』と、二人に一枚ずつ渡した。
『あ、ウタナのじいさんから貰ったオランダせんべい。懐かしいなぁ』
『あれ?せんべいだけど固くない』
『そう、食感はどちらかと言うとワッフルみたいな。ふわっと、しなっとするんだ。食べてみてよ』
ねむちゃんは上の部分だけを開けて、一つ噛み締めると、こぼさないように優しく吸いながら口へと運んだ。
『どう?美味しい?』
『うん。美味しい』
ねむちゃんは気に入ってくれたのか、何度も何度も口に運んだ。
『うん。凄く美味しい』
そう言ったねむちゃんに、俺は何故か笑顔が溢れた。
そんな自身にハッとした俺も、袋を開けてオランダせんべいを一つ、口に運んだ。
するとどうだろう。とてもしなやかなそれは、俺の脳裏に仕舞っていた懐かしささえも彷彿とさせた。
よく、母さんがおやつといえばこのオランダせんべいを出してくれた。
それはYが家に来れば尚の事、これをおもてなしとして部屋に出してくれていた程だ。
二人で美味しいと言いながら、片手にはおもちゃのギターを抱えて、二人で音楽の話に花を咲かせていた程だ。
暫くそんな思い出に耽っていた俺は、オランダせんべいと過去のその思い出を脳内でしたためていた。
『何ボーッとしてるの?』と、ねむちゃんが俺の顔を覗き込んだ時、我に返った。
『あ、ごめん。何でもないよ』
俺はその食べ掛けのオランダせんべいをまた一つ、また一つと口に運ぶ。
『ねむちゃん、そう言えば葵ちゃんが言っていたその手首…大丈夫?』
Yが心配をするようにねむちゃんの手首に指をさしながら言った。
『ん?これ?大丈夫。でも確かにちょっとだけ痛かった…。でも、違和感程度だったんだ。それをすぐ見抜けるって、葵さんってスゴイなって、そう思った』
『うん、たしかに葵ちゃんはスゴイ…』
それに倣う様に俺は口を滑らせた。
『葵ちゃん、ベースもドラムもギターも…オールラウンドにこなすって言うか…。一度ウタナのじいさんと交えてセッションした事有るんだけど、その時も器用だなって、そう思ったんだ』
するとYは少し惜しそうに『あー…マジかぁ』とタメ息をも混じらせて言った。
それはそうだろう。そんなにオールラウンドにこなせる人物等、何処を探してもそうはいないのだから。
そう、あの時セッションした彼女をポールマッカートニーと言ったが、彼女こそオールラウンドにこなせる分、ポールマッカートニーみたいな存在だったのかもしれない。
そう思うと、尚の事、葵ちゃんにもこの軽音楽部に入部して欲しいと思ってしまう。
…が、今はねむちゃんが手首を痛めながらもドラムを修得しようとしているのだから、そんな事を傍らでも考えているのは失礼に値すると、俺は自分自身に言い聞かせた。
『今はねむちゃんがドラムを修得しようとしているから、大丈夫。…でも、無理しないでね?』
俺がねむちゃんにそう言うと、『うん、大丈夫だよ日野くん。ありがとう』と、ねむちゃんは手首を庇いながらそう言った。
するとYは『よし、マリー、ねむちゃん。明日も雨だけど、三人で頑張ろうぜ!』と、Yの押している自転車を横に向けた。
『おう、それじゃあ。ここで』
『日野くん、横室くん。今日、凄く楽しかった。また、明日ね』
Yとねむちゃんと俺、別れの挨拶をそこで交わすと、それぞれ帰路に着く様に手を振りながら三叉になって歩いていった。
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