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ひだまりの唄 40

一月一日

 

『明けましておめでとうございます  今年もよろしくお願いします』『謹賀新年』『A HAPPY NEW YEAR』と、どれもこれも見慣れたフレーズになってしまって、新年になっても新鮮味など微塵も無いが、この一枚だけは、特別だ。

俺はスマートフォンを開いた。

『明日の初日の出、一緒に見たいな。東の岬に七時に集合。どうかな?』というメールと共に確認したのは時刻だ。

今は六時、まだ陽も登っていない。

年々歳々、その年賀状の束は減っている。今となっては、電子機器で送信ボタンを一つ押せば新年の挨拶に変えられるからだ。

中学迄は、目を擦りながらもクラスメイト全員分の年賀状を用意してはいたが、どうも綽然としない。高校になってからはそんな手間も省いてしまう程。

なぜなら、実際に口を利く友人など、五本の指で納まってしまうからだ。

しかし、今年はそれだけでは納まらなく、あまつさえその内の一枚は、俺の右手の中にある。

俺は靴紐をきつく縛り、自宅を出た。近くのバス停に着いたのが、六時五分前。

バスの時刻は六時十二分。もう間もなくだ。

俺と同じ名字のジャズパフォーマーに耳を傾けながら、バスを待つ。

十三分程ある曲だ。その間にはバスが来るだろう。

一定なテンポで流れるリズミカルなバックベース。それに流れ込むようにトランペットが助走を付ける。しなやかに、ゆっくりと。

目を瞑りながらその曲の助走に耳を傾ける。

その内に、バスが俺の目の前に現れて、扉が開かれた。

乗車すると、一番後ろから二列目の右側。俺は窓が見られる席に座った。

すると、トランペットが激しく、そして、クレッシェンドとデクレッシェンドを使い分けて、揚々と鳴らしている。

ねむちゃんに聴かせて貰った時には気が付かなかったが、今になって、成る程と頷いた。

窓で移ろう孤島にも似た氷が、微々に動く波に揺らされているのが目に写った。

次第に音が重くなっていく。

これはカルテットなのか、テナーサックスが重なって聴こえてきた。

が、考えるよりも聴いていたい。その心地のいいモノが、俺の身体を静かに揺らせる。

それは決して、バスのせいでは無い。

二度リピートしながら聴いていると、バスが岬前の停車口で停まった。

イヤホンを外して、そこに降りるも、辺りはまだ真っ暗だ。

手元にあるスマートフォンを開くと、時刻はまだ六時四十分を回った所だ。

辺りを見渡すも、まだねむちゃんは来ていないようだ。

俺は木柵に手を掛けて、目前にも広がった海を一望すると、去年のあった事が、とても小さく思えた。

それがその海を渡って、淘汰されていくような、それほどまでにも澄みきっていた。

『…綺麗だ…』

『…本当だね』

急に隣で声がした。それに応じるように『…ねむちゃん…いつからいたの…?』と訊くと、『さっきだよ?おはよう。…あ、おめでとう、だね』と、その潮風に髪を靡かせて、言った。

『…うん、おめでとう』

二人で暫く海のさざめく音に耳を貸すと、思わず、黙ってしまった。

ざざん、ざざん、とそれだけで、暗いながらに冬の海が煌めいて見えるように感じた。

『…なんかさ…』

そう俺が言うと、ねむちゃんは『…ん?』と、此方を見た。

『去年の俺が、少しだけ小さく見えるよ…』

ねむちゃんは此方を見た顔を、ゆっくりと、海へと向けた。

『…色々悩んでたけど、それが小さく思えてさ。此処に久しぶりに来たんだけど…もっと早く来れば良かったって…そう思ってた所だった…』

俺がそう言った途端にも、ねむちゃんがいつも巻いているマフラーが風に靡いている。

そのマフラーに、すくませた首がねむちゃんの口を隠した。

厚い毛糸の手袋が少し俺の左手に当たった。

その手袋を俺が握ると、ねむちゃんもそれを握り返した。

手袋をしていない俺からすれば、それはそれは温かく、その手をどうしても離す事が出来ない。

すると、ねむちゃんがその隠した口を動かして、『…でも、そんなちっぽけに思えた悩みでも、日野くんを大きくしてるんだよ』と、マフラーの糸の隙間から白い靄が溢れながらに言った。

『…この海だって…こんなに大きくなるのに、小さな雫が集まっているように、日野くんも、その小さな悩みを紐解きながら、大きくなっていくのかなって…』

『…そう…なのかな』

『…うん、きっとそうだよ!』と、俺が握っていた筈なのに、いつの間にか、ねむちゃんに俺の手を握られていた。

『ねむちゃん…』

そんな海面から、光りが徐に昇り、顔を出す。

『…ねぇ、日野くん。アレ、持ってきた…?』

『アレ?』

『アレだよ、アレ。メールで送った…』

『あぁ、これか』

俺はコートの右ポケットに入れておいた年賀状をねむちゃんにみせた。

『ジャジャーン!…ねむちゃんの夢、叶いますように。って、お祈りコメント付きの年賀状だよ』

『…え?』

『…覚えてるよ。Yと俺とねむちゃん、三人の夢を話し合った時に、声楽を学びたいって言ってた事。…ねむちゃんも、マリア先輩と同じく、音大に行きたいって言ってたよね?』

『覚えててくれたんだ…。嬉しい…』

ねむちゃんは俺の年賀状を受け取って、それを暫く眺めて、ずっと見ていた。

『アハハ、なんだか…本当に嬉しいな』

それを眺めた後、ねむちゃんも小さなポシェットから、一枚の年賀状を取り出した。

『それじゃあ、私の』

そこにはねむちゃんの手書きで、鮮やかな年賀状を一枚、取り出した。

それは全て手書きで、いくら時間を費やしたのか分からない程、隅には俺の似顔絵や、ニムオロ戦隊シマレンジャーの絵も施されている。

『うわー…。すげぇ…』と、思わず声に出してしまう程。

『俺…。こんなかなぁ』と、似顔絵を指して笑うと、『あれ?似てなかったかな…?』と、口を尖らせた。

それに俺は、『違う違う、こんなに可愛くないよ』と、笑って見せた。

なんてったって、俺のマッシュルームカットが、とても愛らしく写っていたからだ。

『そんな事無いよ!』とねむちゃんがむきになってそう言うと、俺も満更ではなく、少し赤面になったのが、自分でも分かった。

『え?なんでシマレンジャー?』と、俺が言うと、ねむちゃんは言う。

『日野くんとの思い出が詰まったプレゼントがお面だったから…』

『…え?』

『…去年の私の、一番の思い出だよ…。日野くんとライブもやったし、初めて二人でデートも出来たし…』

それを言われれば、俺の気持ちが波のように揺れだしたのも、夏祭りから始まったような、そんな気がする。

それを思うと、俺の一番の思い出は、夏祭りだったのかもしれないと気付かされ、この年賀状に描かれたニムオロ戦隊シマレンジャーに、万感の思いすら募った。

『ねむちゃん。俺も、これ、大事にするよ。ありがとう』

『…うん、こちらこそ』

するとみるみる内に、その大きな陽が、海面からやっと頭だけを出した。

しかし、その頭分が、神々しい程に海面を照らし、燦然として姿を断々と露にしていく。

それが得も言えない程に綺麗で、惚れ惚れとみとれてしまった。

『…ねぇ、日野くん…』と、その朝焼けを見つめ様に、ねむちゃんが言うと、俺もそれから目を離す事が出来ないながらに、『なに?』と、返した。

『…日野くんから貰ったクリスマスプレゼント、覚えて無いって言ってたよね…?』

『…うん』

『…それのお返し、今、してもいい…かな…』

『…え?』

橙色の大きな太陽が、重なった俺達二人を、影にして、隠してくれた。

もう二度と、これは忘れまいと、俺は胸を熱くさせながら、その太陽に誓った。

そして、もう二度と、迷う事をしないとも。

俺の誓いは、太陽と共に、徐々に徐々にと異様にもゆっくりだが、着実に、昇っていった。

どうした事だろうか、とても心地がいい。

静かな風に揺らされて、俺は今、それに吹かれている気分がする。

目は瞑っている。

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