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ひだまりの唄 13

七月十九日

 

次の日、エオンの前、自転車から降りて胸を張りながら自動ドアの前まで足を運ぶと思惑通りにYは来ていなかった。

が、ねむちゃんは壁に背中を預けながらスマートフォンから流れる音楽を聴いていた。

『あ、ねむちゃん、早いね』と、声を掛けたが、気が付かない様子でイヤホンから音楽を耳に流し入れている。

ねむちゃんは目を瞑って暫くそのまま静かに、ゆっくりと上下に体を揺らせながら、音楽を楽しんでいる。

俺はただただ黙って彼女をじっと見つめていた。

ねむちゃんはまだ気づいていない様子だったからか、俺は静かに歩み寄りねむちゃんの隣まで行って壁に凭れかかった。

それにねむちゃんが気が付いたのか俺にハッとした様子で此方を見た。

『ひ…日野くん!』と、驚いたねむちゃんに俺も逆に驚いてしまい、『わ!ごめん。驚かせるつもりじゃなかったんだけど…』と、お互いが驚く異様な状況に、ねむちゃんはフフッと笑った。

『あれ?…なんで日野くんが驚くの?日野くんが脅かしてきたのに』

『あれ?おかしいな…』

俺はまたも壁に背中を預けると、ねむちゃんも俺の隣で壁に背中を預けて、言った。

『日野くん…これ、聞く…?』

俺の体が一瞬、ピクリと浮いた。

『あ、ごめん。…興味無かったよね』

俺は少し恐る恐るながらも、ねむちゃんに訊いた。

『あ…それ、何聴いてるの?』

『…あ、これ?これは…』

『あ、待って!当てたい』と、俺はねむちゃんの真正面に立って言うと、少し楽しそうに笑いながら『…うん!当ててみて!』と言った。

『…ジャンルは?』

『えーっとね…。ジャズ!』

『え?ジャズ?』

『そう。こっちに引っ越して、この街ではジャズが盛んだって言ってたから…』

『え?誰が?』

『先生が。だから少しだけ聴きたくなって、CD迄買ったんだよ?』

あれ。そんな街に長年いる俺でも、ジャズの事は疎かった。

『ごめん。ジャズにはあまり詳しくないんだ』

『私もだよ。でもこの曲、素敵な曲だよ?聴いてみて』

そう言ってねむちゃんは片方のイヤホンを俺に渡した。

それを俺は少し躊躇いながらも、片方のイヤホンを手に取った。

そして静かに片方の耳に付けた。

すると、イヤホンのコードがピンと張り、何処かいずい。

そう思って、少しだけねむちゃんの近くにじりじりと寄った。

するとねむちゃんは尚も下を俯いたまま、動かない。

二人は黙したまま、ねむちゃんのジャズに耳を傾けていた。

トランペットやサックスの心地の良い吹奏に対して、俺とねむちゃんのこの距離感は少しだけ落ち着きを無くしてしまう。

そう思って思いきってねむちゃんに話掛けた。

『あ…凄くお洒落だね。なんだか、今まで聴いていた音楽の概念が覆ってしまう様な、そんな感じがする。うん。ジャズも良いね』

『あ…うん。私も同じ事、思った』

その時だ。ぎこちがない二人の会話に、思い切り割って入るかのようにYが俺達に話掛けた。

『おいおい、朝っぱらから何イチャイチャしてんだよ』

『あ、Y。てか、イチャイチャなんてしてないぞ?!』

『あ、横室くん。おはよう』

『イヤホンお互いにしあってたらカップル以外の何ものでもないだろ。…ったく。ま、良いんだけどさ。それよりも…』

そう言って昨日のアンケート用紙を持ち、またもばたつかせながら『これ、昨日の頑張りで行けば今日中になんとかクリア出来ると思うんだ。後は歩弓ちゃんと葵ちゃんに託したアンケート用紙がどうなってるか、だな』と、Yは今日も俄然やる気を出している。

『俺も同じこと考えてた。今日中でケリをつけようと、そう思ってるよ』

『お、マリーの割にはやる気十分じゃん!今日は昨日より雨が弱いから、来客数は十分期待出来る!このまま、頑張ろうぜ』

そんなYに従って、俺とねむちゃんもアンケート用紙を手に取り、それを来る人来る人に、声を掛けながら、配った。

―――ふー。と、一段落。二人の頑張りに一息付かせたかった為、エオンの中のジュースを買いに行った。

そこから戻ってくるとYとねむちゃんは壁に腰を掛けていた。

『思ったより減らねーなぁ』と、Yはアンケート用紙という要塞に攻めあぐねている事が少し不服そうだった。

『後二十枚ちょっとなのにね…。中々減らない…』と、ねむちゃんも額の汗を少しだけハンカチで拭った。

『お疲れ様』と、エオンで買ったお茶を二人に渡した。

『お、サンキュー。気が利くなぁ…マリーは』

そう言ってYはグビグビと喉を鳴らした。

『昨日も午後からフィーバーしただろ。午前中はこんなもんなんだよ』

『そう言う物なのかなぁ…』と、Yは少し納得していない様に顔を傾げた。

『そうだよ横室くん。これからこれから。皆で頑張ろう』

その時だ。何とも見たことのある背丈の二人組が此方に歩いてくる。

『あれ?三人とも、何してるの?』

『見た事のある顔触れだと思ったら…。軽音楽部の諸君じゃないか』

Yが驚き様声を裏返しながら、『ま…マリア先輩?!…と、山田会長?』と、あまり見られたくない人に見られた様な、そんな顔を二人に向けながら言った。

『おはようございます』

『おはよう!ねむちゃん。…こんな所で何してるの?』

『先輩こそ、何してるんですか』

すると調子のいい山田会長が、満面の笑みで『いやちょっとばかりデートを…』と言うと、手を思い切り横に振りながらマリア先輩が言った。

『違う違う。参考書買いに来たのよ。夏休みの宿題終わったから進学の勉強をね』

宿題なんて物に一向に手をつけていない俺は、そんな物あったな。と、言わんばかりに『随分早いんですね』と、投げ槍ながらも言った。

『夏休みなんて短いんだから、早めに終わらせないと…。後が大変になるもの。…所であんた達は何してるの?』

『あー。今年も金刀比羅祭りでライブやろうとアンケート取ってるんですよ』

『『アンケート?』』と、山田会長とマリア先輩は声を揃えた。

『これです』と、俺はアンケート用紙を取り出した。

『…あー。今年もやるんだ!あんた達頑張ってるじゃない!凄いよ!』

マリア先輩がニコッと笑うと、俺達は何処か安心さえした。

『でもどうやってやってるんだ?』と、山田会長が訊いた。

『いや、普通にお願いしまーす。…って…』

『それじゃあアピールにならないじゃない』

『まぁ、こう言った事は元生徒会役員である僕達が腕をまくらなければいけないな。少し、手を貸そうか?』

そう言った山田会長に俺は目を輝かせた。

『本当ですか?!』

『あぁ、本当だ。どれどれ、少し待っていてくれ』

そう言うと、山田会長は何処かへと走った。

『それじゃあその間、私達は配りましょ?』

『時間…大丈夫ですか?』

『なぁに言ってるのよ。大丈夫に決まってるじゃない。それより、早くやりましょ。後、二十枚ぽっちじゃない。よく頑張ったわね』

俺はそんなマリア先輩の誉め言葉を聞くのが何処か懐かしくもあったのか、少しだけ照れてしまった。

『それじゃあ始めますか』

『よろしくお願いしまーす』と、掛け声を上げる。

やはりマリア先輩は声が通っている。誰よりも大きな声で、エオンの中に響かせていた。

それに俺もYも負けじと大きな声を上げると、それに倣って、ねむちゃんも綺麗ながら大きい声を出して呼び掛けた。

すると、山田会長が走ってきた。

『お待たせ』

『ちょっと何処行って…って、何よそれ』

『メガホン。流石に電子メガホンは近所迷惑かと思って、ハンドメガホンにした。人数分あるよ。ハイ』

俺は山田会長からメガホンを貰ったが、マリア先輩は頑なに『要らないわよ。そんなの無くても、地声でなんとかなるし』と、拒み続けるが、『それを使えば鬼に金棒だよ』と、失礼を気にも留めぬいい方で、マリア先輩に言った。

『誰が鬼よ。誰が』

それに皆、つられて笑った。

一頻りすると、山田会長が『それじゃあ、外に二人、中の踊り場三人の二組に分かれれば、一組目をスルーした客がいても、二組目の誰かのアンケートに協力してくれるかもしれない』と、仕切り直しにそう言った。

流石に生徒会長は機転がきく。俺達もそれに従って、外と踊り場、二手に別れた。

『アンケートご協力お願いしまーす!』

二人のお陰で捗りそうなアンケート配り。

俺達の声がエオンの中にこだまする。

そのこだました声に誘われて、ぞくぞくとお客さんが集まって来た。

『なんとか終わったね』

マリア先輩が手で顔を扇ぎながら言った。

『二十枚なんてあっという間でしたね!いやーお二人の力の賜物、そのものッスね!』

何とも調子の良いYにマリア先輩は少し呆れながら、『…全く、最初から大きな声でやってたらとっくのとうに終わってたんじゃないの?』と、細い目を向けて言った。  

『それは言わないでくださいよー』

Yがからかわれ様にそう言うと、山田会長が時計を見て『あ、もうお昼廻ってる。道理でお腹が空くわけだ』と、腹部を手で当てながら言った。

『もうそんなに時間経ってたんだ。それじゃあ、私達はここでおいとまするね』

そう暇乞いをするマリア先輩を見て、俺達は『本当にありがとうございました。お陰で助かりました』と、思わずもポロリと言った。

そんな俺に『あら、私にまでしっかりお礼を言うなんて、部長らしくなってきてるじゃない。マリー、頑張って!応援してるよ!』と、マリア先輩は俺を称えてくれた。

それに僅かでも自信を身に付けられたのは紛れもない本音だ。

『あれ、マリーは誉めて俺には誉めてくれないんですかぁ?』

『…ハイハイ。頑張って偉いねぇ』

『…嬉しく無い…』

そんなやり取りを挟めて、マリア先輩と山田会長はエオンから去っていった。

『よし、他の二人はどうなっているかだな』

そう言ってエスカレーターをわざわざ走って、エオンの二階へと向かう。

向かった二階の隅のテナントへと足を運ぶと、歩弓ちゃんが勤めている音楽雑貨店へと辿り着く。

『いらっしゃいま…。あ、麻利央くん』

『歩弓ちゃん!ごめんね仕事中に』

そう言うと歩弓ちゃんが『ちょっと待ってて』と、レジ奥の休憩室へと足を運んだ。

俺はそれで察しがついた。歩弓ちゃんもノルマを達成しているのだな、と。

暫く待つと奥から歩弓ちゃんが走ってきた。

『これ、例の物。通りすがるお客さん一人一人に声を掛けたらちゃんと答えてくれて、アンケートにも協力してくれたよ?ハイ』

三十とある紙の束を俺の腕の上にドサッと置いた。

俺はそんな歩弓ちゃんの手腕に尊敬と恭敬を併せ持ち、ひれ伏しながら、『ハハー』と、この山になったアンケート用紙を受け取りたい程だった。

『ありがとう。本当に助かった…』

無意識に出た笑顔でそう言った俺に、歩弓ちゃんが親指を上げた。

俺はそれに親指を上げ返した。

―――その三十ものアンケート用紙を背負い鞄に仕舞い、俺達三人はウタナナタウへと足を運ぶ。

『うーん。ここの裏通りは影になっていて、風の通りが気持ちいいな~。今日みたいな小雨の日でも気持ちがいいよ』

Yが思い切り背を伸ばしてそう言った矢先だった。

『げっ…。マジかよ…』

『ん?どうし…。え。スゲェ…』

長閑なこの辺りの景色とは一変し、ウタナナタウの前は、長蛇の列がなされて有った。

おい。マジかよ。雨の日でもこんなにお客さんが来るなんて。これはじいさんと葵ちゃんだけで回せる訳が無い。

そう思った俺はYとねむちゃんに『これからボランティアだ。アンケート手伝ってくれたから、良いよな』と言うと、『え、それって…もしかして…』とYは呆気に取られた様な顔を此方に向けていた。

『そのもしかして、だ。皆で手伝おう』

そう言って俺がダッシュで裏口へと回ると、『おい!…マジかよ。よーし、いっちょやるかぁ』と、Yが後ろからついてきて、それに倣う様に『うん、私も手伝う』と、ねむちゃんがついてきてくれた。

裏口から扉をバタンと開ける。

『葵ちゃん、大丈夫?!』

『あ、マリー。ごめん、今かなり忙しい…』

『手伝いに来た。エプロン、後二着程ここにあるよね!』

『え…?二着…?』

すると遅れながらも二人がひょっこりと顔を出して、『どーも。手伝いに来たよー』『お邪魔します。微力ながらにお手伝いしますね』と、ねむちゃんは深々と頭を下げる。

俺は後ろからエプロンを取り出して『それじゃあ、これだけ着けて。上着とかはここに置いといて良いから。後は動きやすい格好で…』

『んな説明してる暇ないだろ?早くやろうぜ。俺達はなに?配膳と注文、席の案内って所だろ?任せとけって』

『それじゃあ、レジは俺が入る。あと、葵ちゃんのフォローも俺が入るから、ねむちゃんはYについてやって欲しい』

『…うん。わかった』

『よし、行くぞ!』

Yが一つ号令を掛けると、各々の配置に就いた。

Yがウタナのじいさんが仕上げた料理の配膳につく。

ねむちゃんはご馳走様と立ち上がったお客さんの食器を片付ける。

そして俺はその立ち上がったお客さんのレジを打つ。

そのレジの横に、丁寧にケースに入れてあるアンケート用紙があった。

葵ちゃんはサイドメニューとドリンクの注文を受けた用意で忙しない。

ウタナのじいさんはやっぱり要、メインの料理を受けた注文順に次々と作っていく。

俺はレジを打ちながら然り気無く、『アンケート用紙、よければここに丸をお願いしまーす』と言いながら、次々と流していく。

こんな犇めいている状況下だと、その一言を言えば次々と丸をつけていってくれる。

…と言っても、後数十枚程だった。その間、葵ちゃんが頑張ってくれていた事が、手に取る様に分かった。

『ありがとう、葵ちゃん』と、感謝の念が自然と出た。

次から次へとお客さんがレジに並ぶ。

しかし、そんな間断無く来るこの状況下でも、俺はどこか楽しんでいる自分に気がついたのは、お客さんが全て居なくなった時。

それまで、俺はその忙しない空気を無意識ながらに楽しんでいた―――。

 

『ふぅー…終わったー。しんどかったぁー』と、Yはカウンターの椅子にドサッと腰を置いた。

『すごかったですね…。いつもこんな感じなんですか?』と、ねむちゃんが聞くと、下拵えの手伝いをしながら葵ちゃんが答えた。

『いつもじゃないよ。今日は本当に凄かった。ね、おじいちゃん』

『…あぁ。あんなに混んだのは何年振りだろうかと思う程だった。本当、三人とも、ありがとう』

ウタナのじいさんにそう言われると、俺達三人は満更でも無く、頭を掻きながら、手を後ろに回した。

『でもやっぱエスカロップは一番注文受けた気がするなぁ。やっぱウタナのじいさんのエスカロップは格別だ!』

Yがそう言うと、ねむちゃんもそれに共感したのか、隣で何度も頷いた。

『そう言ってくれると、本当にありがたいよ。そうだ、これ、ほんの気持ちなんだけど…』

そう言ってレジの下の引き出しを開けると、色分けされてある祈願成就の御守りを三つ、用意してくれた。

『金刀比羅神社の御守りだ。お祭りで演奏するって聞いたから、朝買いに行ったんだよ。成功するように、祈ってるよ』

『ウタナのじいさん!ありがと!絶対成功させるよ!な!マリー…マリー?』

『…日野くん…?』

何故か声を震わせながら、『ありがとう…じいさん…。必ず成功させるよ…』と、自然と涙が込み上がった。

今まで応援してくれたウタナのじいさんからの激励に感じて、俺は凄く嬉しく、涙までもが込み上がってしまった。

『…良かったね、マリー』

御守りの色がそれぞれに配られて、俺が青、Yが赤、ねむちゃんが黄色だった。

『良いなぁ。私も欲しいなぁ』と、葵ちゃんが言うと、ウタナのじいさんはフフッと笑い声を溢しながら、『ちゃんと有るよ。葵の分』

『え?』

そう言って出されたのは緑の御守りだった。

『葵、お前も手伝ってくれるのは嬉しいけど、やりたい事に正直になりなさい。私は大丈夫だから』

『おじいちゃん…。ありがとう』

そう言うと葵ちゃんはその緑の御守りを静かにじいさんの掌から受け取った。

『でも、ゆっくりでも、いいかな』

葵ちゃんがじいさんにそう聞くと、じいさんはゆっくり頷いた。

『ありがとう…おじいちゃん』

そう言って葵ちゃんはじいさんに身体を寄せた。

その光景はどこか、外の雨が上がった様にさえも感じる程、俺からすれば眩しかった。

ウタナナタウから外へと出ると、葵ちゃんとウタナのじいさんが見送ってくれた。

『それじゃあ、今日はありがとう』

葵ちゃんにそう言われたのか、『なーんも、またあったら飛んでいくから!』と、Yは両手を交互に振りながら言った。

それに、葵ちゃんは冗談めかしに『それじゃあ、明日も頼もうかな』と、言うとYは『え、それは勘弁』と、手を合わせた。

『飛んでくるって言った癖に』

『時と場合ってもんがあるでしょうがぁー』

俺達はそれに一つ笑った。

『それじゃあ、また』

『応援してるよ。麻利央くん』

そう言って小さく手を振ると、じいさんも笑って手を振り返してくれた。

俺はそれに静かに頷いた。

そして、ウタナナタウから裏通りを抜けて、一旦俺達はエオンの自転車置き場まで、足を運ぶ事にした。

 

エオンの前、自転車に跨がって俺達は金刀比羅神社へと直行する。

雨はもう降っておらず、晴間さえ顔を覗かせている程、自転車を走らせているとそれはもう心地が良くて最高だ。

『なぁ!ちゃんと受理されるかなぁ!』

大きな声でYが聞く。

『あぁ!去年も受け取ってくれたんだ!大丈夫だろう!』

大きな声で俺が返す。

『こんなに早くに集まるなんて、思ってなかった!』

頑張って声を出し、ねむちゃんが言う。

『去年よりも早かった!それも一重に、皆の協力のお陰だ!』

坂道が続いているのにも関わらず、俺達は全速力でその坂道を上る。

U字のターンが有り、その坂道を思い切り漕いで上がると、そこに『金刀比羅神社』と墨字で書かれた白旗が一旒、上げられていた。

『ここだ…』

自転車をその脇に停めて、鳥居が建てられている細い坂道を一歩ずつ上る。

その坂道の両脇には、草木が繁っていてとてもじゃないが夜に一人では上れない。

坂道を上りきり、鳥居を潜れば神社が見える。

そこで空気が一変され、ピリピリと痛む緊張感さえもここには漂っていた

地面にはびっしりと、これでもかと敷き詰められた石畳を踏みしめて、社務所前へと赴いた。

『よし、入ろう』と、三人は固唾を飲む。

ゆっくりと扉を開ける。

『すいませーん』と、寂しくも響き渡る声に誰も反応してくれない。

『いないなぁ…』と、そう呟いた時、一人の所員が奥からぺたぺたとスリッパを擦らせて、現れた。

『どうか、なさいましたか?』

唐突にもそう言われて驚き戸惑ったが、俺は一度小さく深呼吸をして、ゆっくり口を開いた。

『すいません。あの、日ノ出学園軽音楽部、部長を務めてます『日野 麻利央』といいます。今年も市を代表するこの金刀比羅神社の例大祭に参加させて頂きたい所存で、市民の方々からアンケートを実施し、収集させて頂きました』

そう言って俺は鞄からアンケート用紙を取り出した。

『あぁ、去年も出てたよね、確か。そうか、部長は今君がやってるのか』

その所員がにこやかに言うとアンケート用紙を受けとり様、続けて話した。

『懐かしいな。確か去年は女の子が部長やってたよね。この例大祭にどうしても参加したいって…。でもね、私が一度断ったんだよ。音も五月蠅いし、イメージに悪いと、正直思ったよ。…でもね、その子も何度もお願いするもんだから条件を出した。それが市民の声、百人の賛成があったら、という条件を出したんだ。でもねぇ、それを難なく持ってきた君達を見て、もしかしたら、盛り上がるんじゃないかって、そう思い直す事にしたんだ。…そうか、今年も持ってきてくれたか』

俺はその話を聞いて、そう言われればそうだったと、一つ一つ記憶が蘇って来た。

『あぁ、思い出した。その日も丁度雨だったよ。それでも持ってきたのだから大したものだと感心したな。でもね、君達が演奏した後、良かったからまた来年もやってほしいと言う声がある人ある人から頻出してたよ。そのくらい、若い子の活動と言うのは街に活気を与えるんだと、その時、感じたね。…あ、話長くなってしまったね。ちょっと待ってて』

そう言って所員さんは事務所へ、ぺたぺたと戻っていった。

『…凄いね、マリア先輩…。やっぱり尊敬する』と、ねむちゃんが呟いた。

『…なんか、嬉しいな』と、Yもポツリと言った。

『…だね。マリア先輩がやってた一つ一つは無駄じゃ無かったんだ』

そうだ。マリア先輩がやっていた事、一つ一つが街の人に活気を与えていたんだ、と。

それを俺達は引き継いで、再びこの街を活気付かせようと、ある意味、躍起になっている。

そうか。マリア先輩が廃部にしないで存続して欲しいと言っていた意味が、この時漸く分かったのかもしれない。

俺はそれに一つ頷いて、『…必ず、成功させような』と、ねむちゃんとYに静かに呟いたのにも関わらず、二人も静かに、頷いてくれた。

『お待たせ。これ、こことここに学校名に部活名も添えて名前書いて欲しい。提出先は市役所の情報管理課。今年も去年と同じ公園を使用するんだろう?』

そう訊かれて、俺達は黙って頷いた。

『そっか、それなら尚更だ。情報管理課に申請も必要だよ。いいかい?』

親切でにこやかなその所員さんを見ていると、胸の中に何か一つ燃えたぎる物を、その時感じた。

『…僕達もこのお祭りに参加出来る事、心から嬉しく思います。ありがとうございます!』

俺は誠心誠意に頭を下げてそう言うと、Yもねむちゃんも、それに倣って頭を下げた。

面を上げると、ねむちゃんが急に上ずり声を上げた。

『あ!何だろう、これ』

隣の部屋には大きく『お祭り資料館』と銘打ってある木看板が掛かっていた。

『うわー…。大きい御神輿…』

金色に輝いているそれを見て圧倒されたのか、ねむちゃんは小さな口を思わずも開けながら、それをただただ回りながら見ていた。

その神輿自体は約一.一トンもの重さがある。

資料館には壁一帯に写真パネルがズラリと貼られて、二百年近くの歴史が刻まれている。

その様に圧倒される位だ。

他にもお祭りで使うような神輿道具や法被等が飾られている。

『ねむちゃん、そろそろ行こう』

そう言うと、ねむちゃんは大きい瞳で此方を見て、一つ、頷いた。

そして外へと出るとYが『ちょいと挨拶してくか』なんて、らしくもなく言ってきた。

『なんだよ、Y。神様なんて信じてないって言ってた癖に』

『例大祭出させて頂きますって、ほんの挨拶だよ。挨拶』と腕を組みながら頬を赤く染めて言った。

俺はそれに少し笑いながら、『うん、分かった。挨拶しよう』と、言った。

三人の足並は、正神門へと向かわせる。

そこから社殿まで赴く途中、傍らには神馬の像が、今でも駆け抜けて行きそうな迄に勢いを見せて、建てられている。

その社殿の奥、俺の二十五センチの足より少し幅が広い石段を下りていくと、開拓者で商人でもある高田屋嘉兵衛の像が建てられている。

他にも竜の画や石碑が三ヶ所程立っていて、ここを通ると、いつも威儀を正そうという心構えが働き、衣服に着いている埃を払ってしまう。

社殿まで辿り着くと、俺とYとねむちゃんはその場で二度、礼をした。

そして五円玉を賽銭箱に放り、それから本坪鈴を静かにジャラジャラと鳴らし、二拍鳴らした後、手を合わせ、念を胸の内で言わせた。

『去年みたいな感動を、この街に今年も与えられます様に』

そう願って、また一礼をした。

面を上げると、威厳さえ感じる程の社殿が俺達の前に威風堂々と建っている。

俺はそれに、またも一礼をした。

『そろそろ、行こっか』

俺がそう言うと、Yもねむちゃんも一つだけ頷いた。

正神門の外へと出るとねむちゃんが急に声を上げた。

『あ、可愛い』

そう言って静かに歩み寄った先には、弱々しくも小さな青白い紫陽花が、そこに咲いていた。

雨に濡れていたのか、すこし儚げなその紫陽花を見て、涙しながらも、ここで生きぬく活力をたぎらせながら咲いている。

『可愛いけど、大変そうだね』

そう言ったねむちゃんにYは優しく近付いて『生きるって、生を授かっている以上は、大変なんじゃないかな?…わかんねぇけど』と、紫陽花を見つめていた。

『だから、活気が必要なんだよ。きっと』

俺がそう言うと、『おー。そこに繋げてくるか』と、茶々をいれ出した。

『俺達の演奏で、その紫陽花含めて、この街を活気付かせてやろう。それが、俺達がお祭りでやる意義ってヤツ…』

『だろ?』と、俺はねむちゃんとYをチラッと見ると、Yは『いやー。臭い。ホントよく恥ずかしげも無くそんな事が言えるね』と、笑いながら言った。

『でも日野くんの言う通り、そう信じたいな。マリア先輩が、やっていたように…』

境内に静かな風が横切った。

『よし、行こっか』

細い坂道を下って、脇に止めていた自転車に跨がり、今度は下り坂を思い切り下る。

追い風が心地よく、その勢いのまま自転車を走らせた。

『明日から練習、頑張ろうな』

Yがそう言うと、俺達は黙って頷いた。

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