見出し画像

ひだまりの唄 27

十二月二日

 

―――それから二ヶ月程が経ったのか、残秋も感じて、露寒の時期に来るであろうと、勘づける程だ。

漫ろ寒さに身を震わせていながら、俺達三人は部室にいた。

『ぶぁっくしょん!』

『でっけーくしゃみだなぁ、マリー。風邪引くなよぉ?』

『でも確かに寒くなってきたよね…』

そう言ったねむちゃんの羽織っている白いカーディガンに目を引かれてしまう。

袖を指つまみ迄伸ばして、そこを握りしめたように持って、椅子の上で体育座りをしている。

そこにYが間を割くように言った。

『…あー。あのさぁ、一つ言ってもいいかな』

『なぁに?』

『人生って、あと何年続くんだろうなぁ…』

俺はそれに呆気に取られたように『なんだよ、それ』と、溜息と混じらせながらに吐いた。

『だってさぁ、やっと十七年だぜ?長ぇよ。時間が過ぎるのが…』

『でも、お母さんが言ってたよ?十代過ぎたらあっという間だって。だから、将来の事、少しは考えておかないと後悔するって』

『将来ねぇ…』

Yが椅子の背凭れに顎を付けて、椅子を浮かせては沈めてを繰返しながら上の空。

考えてる様な言葉を吐きつつも、実際は何も考えていないのが目に見えて分かった。

それが図星なのか直ぐに俺の方へ顔を向けて『なぁ、マリーは何か考えてんの?』と、急に疑問を飛ばしてきた。

『え?俺?俺は…え~と…』

まぁ、俺も考えて無かったんだけど。

『なんだよ、マリーも考えて無いんじゃん』

Yにだけは言われたく無かった。

『ねむちゃんは、何かあるの?』

『え…?私?』

『うん』

『笑わない…?』

『勿論!』

すると、ねむちゃんはそのカーディガンの袖から出ている両手の指を弄りながらに答えた。

『私…はね…やっぱり歌、かな』

『…歌?』

『…うん。声楽を学び…たいな』

『せ…声楽ぅ?!』と、俺とYは声を揃えた。

『…あ、笑わないって、約束した!』

『笑ってなんか無いよ…!いや、かっこよくてさ、ビックリした』

『ほ…本当…?』

『勿論だよ!…って事は、音大に行くの?』

『…行きたい…な』

『うひゃあ、マリア先輩と一緒じゃん…!かっこいいなぁ…!』

『日野くんと岸弥くんは…?』

そこで、俺もYも、何度も目を瞬きさせてお互いを見つめあったが、何も答えは書いていなかったせいか、『さぁ…。まだ決めてないな…』と、肩を落としながらも、また声を揃えた。

『そうだよね。まだ漠然としてるもんね』

『でも、マリア先輩と同じ学校に行けたら嬉しいよな…』

すると、Yはお腹を抱えながら『あはは!ムリムリ!どんだけ偏差値高いと思ってんだよ!ねむちゃんならいざ知らず、俺とマリーは無理だって!』と、足もバタつかせながらにも言った事に、俺はムッともせず、『そりゃそうか』と、思断つ気持ちが勝っていた。

『そう言えば、マリア先輩、受験もうすぐだね』

『あ、そうだ。合格祈願、プレゼントしようかな』

Yが仰ぎながらそう言った事に、俺は頷いた。

すると、Yは照れを隠す様に『な…何見てんだよ…!』と、少し頬を赤らめて言った。

『いや…別に…』

『あー!笑ったな!今、笑ったな!ふん、もう帰るぞ!ったく、馬鹿にしやがって…!』

Yは乱暴に鞄を担ぎながら部室の扉に手を掛ける所に、ねむちゃんが『あれ…?一緒に帰ろう…?』と、声を掛けるもそれをも無下にするように拗ねた口調で『ふん、馬鹿にする奴とは帰らねーよ!べーだ!』と、なんとも子供じみたいい方をしながら、出ていき様に舌を出した。

『岸弥君…』

Y、あんな事言ってるけど、わざわざ遠回りして、合格祈願の御守買って帰るつもりだと、俺には直ぐに察しがついた。

『ねむちゃんは?どうするの?』

『え?私?…帰ろうかな』

『それじゃあ…一緒に、帰ろう?』

そう誘うと、ねむちゃんはゆっくりと頷いてくれた。

外に出ると二人の吐息は白く染まっている。

寒くなったこの時期は、手を出しっぱなしにしていると直ぐに悴んでしまい、自由を失わせる。

それが、紛ごうことない痛みへと変わってしまう。

しかし、ねむちゃんはしっかりと手袋を用意している。

用意周到なねむちゃんとはうって変わって、俺はポケットに手を忍ばせた。

帰り道、特に何を喋るわけでもないが、二人で踏みを揃えていると、ふと、病院が目に入った。

季節も変り目でもあるこの時期、ウタナのじいさんの事が頭を過った。

そう言えば、あれから音沙汰もない。

久闊に叙する思いが募りに募って、ねむちゃんに思わずも言ってしまった。

『あ、ゴメン。ねむちゃん、先に帰ってて?』

『…日野くん…?どうしたの?』

俺は病院を指しながら『…寄って行きたいんだ』と、そう言った。

するとねむちゃんは、『あの…。もし、お邪魔じゃなかったら、私も行きたいな…』と、白い息を吐きながらも、そう言ってくれた。

『邪魔…な訳、無いじゃん。一緒に行こう?』と、俺も笑みを溢してしまった。

『うん!』

すると、ねむちゃんは陽気にも頷いて、病院に行く俺の後を追ったのだった。

病院に入り受付にウタナのじいさんの病室を訊いた。

しかし、まだウタナのじいさんの病室は変わっていなかった。

じいさんの病室は八階。そこまで、二人でまたも喋る事も無く、長い廊下をただただ直向きに歩いていく。

じいさんの病室は『八〇五』、そこの扉をゆっくりとノックしようとした。

だが、その時、ガチャリと扉が開いた。

その扉から出てきた人は、スーツを身に付けて、スラッと背が高く、前髪をきっちりと分けて、四角い黒縁眼鏡を掛けている。

一見若々しくも横風だが、その眼鏡の奥の瞳はどこか輝かしく、それを見ただけで外観が全て払拭されるような、優男だった。

その人が、丁寧に病室の扉を閉めて、俺達に会釈をして、後を去っていった。

俺とねむちゃんは、気を取り直す様に目を合わせて、同時に頷き、ノックをした。

だが、返事は返ってこない。

先の人が見舞いに来たと言うことは中にじいさんはいると確信した俺は、ゆっくりと扉を開ける。

すると、その広い病室の真ん中、ウタナのじいさんはベッドの上に座って窓を眺めていた。

『あー。じいさん、駄目だよ。寝てないと』

俺のそう発した声に、ひょんと顔を向けて、『あー、麻利央君、久しぶりだね』と、なんとも脆弱している様な、か細い声が聞こえた。

『体調、大丈夫ですか?』と、ねむちゃんはじいさんの真ん前まで行った。

『うん、大丈夫だよ。心配させてゴメンね』と、そんなか細い声でも、笑顔を見せてじいさんが言った。

『でも大丈夫って言いながら、中々退院出来ないね』

そう言うと、じいさんはゆっくりと頷いたが、決して臆している様な顔はしていない。

寧ろ弱々しくも、どこか勇ましい顔付きで此方を見て、俺の言葉にじいさんは何も言わなかった。

だからか、そんな顔のじいさんを信じて、じいさんは大丈夫なんだと、強く心に打ち付けた。

するとねむちゃんは、相変わらず沢山乗っている見舞品に目を配って、それに近付いた。

『わぁ!沢山の果物!どうしたの?コレ』

『あぁ、それかい?お見舞いに持ってきてくれたんだ』

以前来た時と変わらない程の見舞品、それがまだ全部は食べきれていない様子だった。

『全部は食べきれないから、悪くなる前に皆に配って欲しいと、看護師さんにお願いしたら、喜んで配ってくれたよ。でも、それでも皆、沢山持ってくるんだよ、全く…』なんて、ウタナのじいさんは嬉しそうな笑い声が、少し溢れていた。

『あはは、おじいさんも大変だね』なんて、ねむちゃんは釣られて笑っていた。

『そう言えば、さっきのスーツの人、誰?』

そう言った俺の質問に、じいさんは少しづつ顔を曇らせた。

『…あぁ、あれは、息子だよ』

『息子?』

『そう、葵のお父さんにあたる人だ』

少し、衝撃だった。

あの凛々しくも高々しい人が、葵ちゃんのお父さんだったとは、思いもよらず、ただただ見上げてしまった。

でも、それはそうか。葵ちゃんに手紙で気遣っていたし、こちらに来ることは当たり前か。

そう自己完結をした俺に、どこから来たのか分からない様な言葉が、ウタナのじいさんから飛んできた。

『麻利央君、少し訊ねたい事があるのだが、聞いてくれるかい?』

俺に?と言わんばかりに、自分自身に指を向けて顔を少し傾けていると、ウタナのじいさんが放って言葉を掛けた。

『…葵と、ずっと友達でいてくれないか…?』

俺は大きく目を捲りあげて、ウタナのじいさんを見ていた。

そこにねむちゃんが、『…あの、おじいさん。何かこの中で食べたい物、ありますか?』と、腰を低くしながら窺うと、ウタナのじいさんは『あー…。悪いね。リンゴを貰おうかな』と、笑顔で言った。

『あ、リンゴ、ですね!分かりました。果物ナイフ、ここに無いので、取ってきますね』

ねむちゃんは扉を開けて病室を出ていくと、ウタナのじいさんは『…変に気を遣わせてしまったかな。ハハ…』と、少し顔を俯かせ、笑った。

『は…。ハハハ、当たり前じゃん!何を急に…』

『そうか…。それは良かった…。安心したよ…』

気を緩ませる返事は出来たけど、それがどういう意図で言ったのか、俺は全く検討がつかなかった。

だが、その意図が続け様に話す、じいさんの口から次いで出てきた。

『…実はね、近々、葵が横浜に帰る事になる…』 

『え…?』

『さっき、息子が葵を連れて帰ると、そう言ったんだ。私はそれを止める事が出来ない。…いや、私にはそんな事を言う資格等、無いのだからね。でも、麻利央君が私の所で働き始めると、葵も、イキイキと働き始めた。今までに見たことの無い葵だったよ。それがなんとも嬉しくてね…。共通の友達が出来た様に思えて、私まで心が踊ったよ。本当に、麻利央君には頭が上がらない…』

そう話すじいさんの顔は、どこか心憂いた表情を隠しきれずにいる。

それに、俺もそれとなく訊いてみた。

『葵ちゃんが横浜に帰るのは…いつ?』

『…一週間後、だ』

『そんな唐突に?!』

ウタナのじいさんは尚も顔を俯かせて顔をあげない。

そこまで近々と迫った中で、俺はどうすれば良いのかと、頭を抱えさせられる。

そこへ、ねむちゃんが扉を開けて戻って来た。

『取ってきました。…二人とも…?』

『あー、悪いね。ありがとう』

どうした事か、俺は慌て様に病室を出ていった。

『…あ、日野くん…?!』

俺は走った。兎に角走って、周りが見えなくなるくらい迄に、わき目も振らずに走り続けた。

回りの看護師から注意をされるも、そんな事などお構い無しに。

葵ちゃんはじいさんの店を存続させようと、一心不乱となってじいさんのレシピを真似ようと努力していたのを知っていたから。

病院から外に出ると、陽は既に落ちて、辺りは真っ暗な中でも、昔から過ごしているこの街、目を瞑っていても道順等、直ぐに分かる。

網目状になってるこの界隈は、どこから行ってもすぐエオン迄辿り着ける。

エオンさえ見えればその裏通り、店の前に息を吐きながら、俺は『ウタナナタウ』の目の前に立った。

俺はその余勢を駆ったように、『CLOSED』の札を大いに震わせた。

『葵ちゃん…!葵ちゃん、いる?!急に来てゴメン!ウタナのじいさんから聞いたんだ…!頼む、開けて!ココを開けてくれないか…!?』

すると、ガチャリと、扉が開いた。

『葵ちゃん、急に来てゴメ…!』

俺がそう言いかけた時、俺は目を広げた。

『どちら様ですか…?』

病院ですれ違った優男が、俺の目の前に立っていた。

その後ろで、葵ちゃんは、涙を拭いながら、此方を見ていた。
どなたですか?と訊ねられて、『あなたこそ、急に来て葵ちゃんを帰らせるとは何事か』と遺憾を込めて言いたかったが、冷静に考えれば相手は葵ちゃんのお父さん。そう訊ねてくる事は当たり前だと、そう感じた。

俺は後ろの葵ちゃんをチラチラと目配せをしながら『…あの、葵ちゃんの友達の日野 麻利央です。俺、葵ちゃんが引っ越すと訊いて、ここまで来ました』と、歪な迄に曲がった感情を、うんと堪えてそう言った。

『あぁ、葵の友達かい?始めまして、私は…』と、そう言いかけた時、俺は思わず『…葵ちゃんのお父さん…!』と、そう言った。

『…そうだけど…。君、そう言えば病室ですれ違った…』

『…あ、はい。そうです…!』

『ゴメンね。折角来てもらったんだけど、今、立て込んでるから…』

『待って…!』と、声を絞らせながら葵ちゃんが此方へと歩み寄った。

『葵…』

『マリー…。ゴメンね、巻き込ませちゃって。折角だから、上がってく…?』

そう言った葵ちゃんに、俺は無言ながらも頷いて、ウタナナタウへと入店した。

店に入ってカウンター席に三人、その場に並んで、葵ちゃん、葵ちゃんのお父さん、俺の順番で横に座った。

そこに座ると、直情で来てしまったが、本当にこれで良いのかと、またも猜疑心に襲われる。

だが、そんな事など考えてはいられない。

だって、もう来てしまったのだから。

だが、お互い口を一向に開けないからか、凄く息苦しい。

そんな息苦しさを紛らわせる様に、葵ちゃんは『水、持ってくるね』と、席を立った。

その葵ちゃんが席を立ったと同時に、葵ちゃんのお父さんが口を開けた。

『…君の事、葵から聞かせて貰っている。父が随分と世話になっているそうだね』

『…え、あ、そんな…いえいえいえいえ!お世話になってるのは僕の方です…!』と、飛べない鳥が血相を変えて羽を扇いでる様に、手を動かす。

すると、『本当、マリーのお陰でお店がなんとかなっていた様な物だよ。ありがとう』と、カウンターテーブルに水が一杯に揺られているコップをトレイで持ってきてコトンと置くも、不思議とテーブルには一滴も溢れてはいない。

『本当にありがたい。有り難いんだが…』

葵ちゃんのお父さんは頭頂部に人さし指を置きながらに言った。

『葵を…返してくれないか』

俺はその言葉の意味がよく分からなかった。

『また…!お父さん、だからマリーは関係ないって…!』

『…葵、ちょっと静かにしてくれないか。…私の父が難病を患ってしまい、誰が父を看るのかと、先まで話を進めていた所だった。…だが、葵の口から出てくるのは君の事ばかりだ』

『…それはマリーがここを手伝ってくれてるって、ただそれを言いたくて…!』

『葵…!』

葵ちゃんは不貞腐りながら、葵ちゃんのお父さんに背を向ける様に、ドスッと座った。

『…だから、葵をこれ以上混乱させる様な事はやめて欲しいんだ』 

『…俺が何したって言うんですか…』

『君には、葵をここに留めている原因の一つになっている事を自覚してもらいたいんだ』

『え…?』

『…それじゃあ、ハッキリと言おう。君のせいで葵は困っている。葵とは縁を切ってくれ』

言葉が、詰まった。

何も言葉が出ないまま、俺は目の前に揺られているコップの水を、ただただ眺めた。

コップに入っている一杯の水が、未だに揺られている。

『…ちょっと、お父さん?!』と、勢いよく立った葵ちゃんに反応も出来ず、ただただそれを見つめる他無かった。

『葵、分かってるよな?今、お前は大事な時期なんだ。ここで留まっている訳にはいかないんだよ』

『それとマリーとは関係ないよ!』

『葵…』

『大体、お父さんだっておかしいよ!お爺ちゃんがこんなに大変な時に、お父さん、一回も顔出してくれなかったじゃない!その間、ずっと一緒に居てくれたの、マリーだったんだから!だから、お礼を言って然るべきなんじゃないの?!』

『だから…。それは何度も謝ってるじゃないか』

俺はその場に居ても立っても、そして座っても居られない。

それを堪えなければいけない所だ。

だが、勢いに憚り任せて、椅子を蹴り上げて店を出た。

『…!マリー?!』と、葵ちゃんが俺を呼び止めようとする声が聞こえるも、それをお構い無しと飛び出した。

縁を断とうなど、考えた事など無かった。

何故そう言われたのかもわからないままにただ盲信してしまう他無かった。

ウタナのじいさんならどう言うのだろう。そればかりを考えて、ひたすら走った。

その走った先に、エオンがあった。

エオンの入り口の前、レンガ歩道の際に並木が植樹されている。

その木に寄りかかっている人影が目に見えた。

よくよく目を凝らすと、それはなんとも小柄でスカートが風で少し靡いてる。

こんな寒い中でその姿は寒そうだと、俺は走るスピードを緩めると、段々と見慣れた人影に姿を変える。

俺はそれをまじまじと見つめた。

よくよく見ると、そこには、ねむちゃんがいた。

ねむちゃんはずっと、この秋風が止まぬ中に、一人ポツリとレンガ歩道の並木に寄り掛かって、立っていた。
『あ…』と、ねむちゃんがフッと身体を持ち上げて、俺を見た。

だが、中々一歩が踏み出せない。

そんな俺の足よりも先に言葉が口走った。

『…もしかして、待っててくれた…の?』

ねむちゃんがそれにスカートをギュッと握りしめながら、コクリと頷いた。

『一緒に…帰ろう?』

それに、またもコクリと頷いた。

そこで、やっと足を上げられた。

ねむちゃんも足を上げて、一緒に歩み始める。

肩を並べて歩みを運ぶこの足並みは、まるで静かに浜を押す小波みたいに、ざざ、ざざ、と、かかとが擦れる音を出して、一歩一歩、踏み締める。

それは静かとも言い難いが、耳障りでは無かった。

すると、ねむちゃんが『ひ、日野くん、え…と、大丈夫…?』と、たどたどしくも、そう訊いた。

『え?だ…大丈夫。うん。大丈夫』

『そ、そっか…。良かった…』

そこでまたも小波が鳴り出した。

『あ…あのさ!』

『…な、何?』

『よく…ここが分かったね…』

『…あ、うん。おじいさんから、そう聞いたから』

そこでまたも小波が鳴り出した。

『あ、おじいさんね…りんご沢山食べてたよ?』

『そっか…食慾が戻って、良かったよ。本当に』

そこでまたも小波が鳴り出した。

鳴って、暫く経った事を忘れてしまう。

すると、急に、その小波の意気が留まった。

『…葵ちゃん、大丈夫だった…?』

『え…?』

『おじいさんから聞いた…。葵ちゃん、お父さんの所に帰っちゃうんでしょ?』

俺はそれにウンともスンとも言うことが出来ない。

『最後まで聞けなくて、途中で走って帰ってきた』など、口を滑らした方が楽なのにも関わらず、それが滑らかには中々出てこない。

尚も沈黙が続くも、ねむちゃんは慌てて口を開き始めた。

『あ、ごめんなさい…!変なこと、訊いちゃったかも…』

俺はその言葉で、やっと重かった唇を開き始めた。

『…こればかりは、なんとも言えないんだ…』

『え?』

『葵ちゃんとお父さんが話し合ってるんだ…。俺も何も言えないまま、走って出てきちゃって…』

『そう…だったんだ…』

俺は地面に転がっている石コロを思いきり蹴飛ばした。

思いの外遠くに蹴ることが出来たが、何もスッキリとする事は無く、海岸で石コロを投げても跳ねなかった事を、今になってふと思い返した。

それと同じ感覚が伝っているのにも関わらず、俺とねむちゃんはまたも小波を鳴らしつづけている。

すると、堪え切れない物が一瞬、頭を過らせたのか、ねむちゃんが徐に口を開けた。

『あ、そうだ。明日、練習休み?』

『明日?うん、休みだよ』

『明日、学校休みだし、葵ちゃんの家に行くのは、どうかな…?』

俺はキョトンとした顔を浮かべていると、ねむちゃんがそれに続け様に言った。

『ねぇ、そうしようよ。もしかしたら止められるかもしれない…そうだよね?』

俺はそれに黙って頷いた。

『私は、行けないけど…』

『大丈夫。ありがとう。葵ちゃんに訊いて、明日行ってみるよ』

ねむちゃんが一つ賭博のサイを振った。

丁と出るか、半と出るかは分からない。だが、何もしていないより一つ賭けに乗った方がこちらとしても遣り甲斐が出てくるってものだ。

俺はそれに乗じてみる事にした。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?