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私の躁鬱日記 2023.4.26.8
私は年に何回か天才になる(実は日常的にそうではないか、という疑いを抱いているのであるが(笑)。テキメンなのは、ひとまえでピアノを弾くために一切の向精神薬を断つ時だ。感性さえわたり、天啓閃き、手指等の運動も鮮やかで、まさしく天の才能ここに開花せり、という感じなのだが、いかんせんまったく眠れなくなる。やがて眼も泳ぎがちになり、演奏行為だけはできるのだけれど、自分の天才を信じるあまり、現実認識が怪しくなっていく。そうして、本番のあとは、天才を信じてムダな抵抗をするがゆえに、保護室隔離つきで精神病院に「ごあんなぁい」ということになる。
「患者会」の中心として率先して治療を受け入れ、医療と上手につきあい、「医療を上手に使う」ことを標榜していながら、こと自分の「才能とのつきあい」は、かくうまくいかない。才能がある、という事象にあきらめがつけばどんなに楽かと思うが、それを頼りに病理のサイクルから抜け出てこれた側面もあるから難しい。ただ、天才にはならないほうがよろしい(笑)
ただ、この数年、私は入院をしていない。精神医療に縁のない方は何をヌカすと思われるだろうが、我々、年に一回程度の入院はルーティンなのだ。自慢ではないが、私はこの40年間に180回以上入退院を繰り返している。(イヤイヤ...笑)
何が起きたか?
ここまでは冗談めかしたが、私は根本的、本質的に自分の才能を信じてしまったのである(笑)自分は本物であるから、精神科のあらゆる治療などでその天才が揺らぐはずがない、と。
したらばムダな抵抗が消え、どういう心理機制なのだろう、3か月に一度はあった「入院の危機」をサラッと通り過ぎることができるようになったのだ。二時間も分析だけに時間をかければわかるのだろうが、読み物として面白くもなかろう。ただ私は、ここでもふつうのひととは逆に、才能をあきらめるのではなく、肯定し、飲みこむことで「救われた」のだということ!
ここ強調しときたい。鎮静・抑制系の精神安定だけがひとに許されたものなのでなく、精神を開放することによる安定もまたあるという事実を。既存の精神医療が決して認めないだろうこのひとつの「真理」を!
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