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愛の挨拶 - 篠崎史紀の美学
偶然にFb 上でマロこと篠崎史紀氏の知遇を得て、しばらくジャズを離れて思考を巡らすことになった。音楽とは一瞬に宇宙を、そうして真理を見る行為である。マロの、真実に生きる姿を見てそう思った。
YouTube で確認できる演奏では、マロの演奏は有名な小品の動画が多い。そのことがかえってぼくを音楽の本質に近づけた。
それは何という音楽的な空間だったことだろう。テンポはルバートしているようでいて、実は一拍の幅が広いだけで、基本的にシビアと言っていいほどのきっちりしたインテンポだ。ふっとするルフトパウゼに至る清潔なアゴーギク、そのパウゼは決して音楽の流れを止めない。N響での演奏時は線が細いと思っていた音質が実は透明だったこと、それはこれらの動画でのたっぷりとした弓と楽器全体の鳴りを見聴きすればわかる。その音楽はスケールの大きな説得力を持つ。ピアノ伴奏も、驚くほど、しっかりと深いタッチ、音楽の把握力に、たくさんのドイツ音楽の素養を感じさせる。
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マロの音楽様式と形式のこなし方、捉え方は、優れて現在の問題を掴んだ芸術家のそれである。と、同時に、ひとりの人として、愛が迫ってくるのをぼくは感じた。
だからこの曲でぼくは泣いてしまったのだ。
エルガー 愛の挨拶
マロについて書いた最初の文章だ。このあと何回か、ぼくは少々的外れになるのも恐れずにマロについて書き続けるが、マロの音楽に「現在を感じ」追い続けながら、やみくもに書きたい衝動にかられながら、それがどこから来るのか、今回パーヴォとマロの音楽性に通底するものを感じて思考を始めるまで、ぼくは自分がわからなかった。
「マロ節」を支える根っこにある軽やかで外に開かれ続ける、浅く聞いているうちはよそよそしさともとらえられかねないスポーティブな運動性、そして何よりそのすっきりした、マロ、そしてパーヴォの音楽を特異化させるその誠実さ、清潔さを成す根本にある、ある意味機能的和声から外れるほどに低次の音質を省いたとも感じられるその美音。
まず当然ながら、コンマスの時の、ソロ時には必ずしも有利に働かない、ソリスティックなテクニックに支えられた音楽に対する余裕は強力なリーダーシップにつながる。つまりマロの熱さは、コンサートマスターとしてより強く感じられる。
ある友人に指摘された通り、現在は「室内楽の時代」である。コンサートマスターはもとより、指揮者も透明でなければならない。そんな「現在」を象徴している指揮者とコンサートマスターがほかにいるだろうか?
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