「不確か」な時代に

「多様性」という言葉が叫ばれるようになって久しい。一つの価値観を押し付ける時代はとうに終焉を迎え、「私はこう考える」ということを声高に唱えることができるようになってきた。

それは、すごく良いことだと思う。これまで押し付けられてきた一つの価値観は、必ずしも「正解」ではなかったから。それは、誰かのエゴであることもあったし、多数派の威を借る狐のセリフであることもあった。

私が気に食わなかったことは、価値観を押し付ける人は決まって、「自分が正解を知っていて、お前は正解を知らないから、わざわざ教えてやっているのだ」という態度を醸し出していることだ。

今ならそういうやつらに言える。「お前は『正解』ではない」と。

手垢塗れの言葉を借りると、「みんなちがってみんないい」、もしくは「よそはよそ、うちはうち」だろうか。


そんな「みんなちがってみんないい」に賛成している私だが、そんな悠長なことを言っていられないことがあった。「クーラー問題」だ。

3人で小さな会議室を借りて打合せをしていたときのことだ。その場所では、最近のジメジメムシムシを解消するためにクーラーがつけられていた。そのとき、ある人は「ちょうどいい」と言い、ある人は「まだ暑い」と言う。もう一人は「ちょっと寒くない?」と異を唱える。ちなみにこの暑がっていたのが私だ。

この場合には、「多様性」なんて言っていられない。暑がりの人にとっては熱中症の危険があるし、寒がりの人にとっては風邪をひく危険がある。私は暑がっているのでクーラーの設定温度を下げたかったのだが、独断で実行するわけにはいかない。(かつて寒がりの人から、「あなたとは体感温度が違い過ぎるから、一緒に住めない」と一方的に拒絶されたことを思い出しているのは、ここだけの話・・・)

結局その場では、「ちょうどいい」と言っていた中間に合わせる現状維持で落ち着いた。暑がっていた私は持っていた下敷きで扇いでいたし、寒がっていた人は手のひらを自分の太ももの下に敷き、少しでも体温を保とうとしていたが。

世の中にはいろいろな人がいる。当たり前だが、同じ人など一人もいない。このクーラーの件でもそれを痛感したが、最近はそれがあまりにも多くの場で言われている。


そういうこともあって、最近は特に「自分の価値観でモノを言うことは止めよう」と決意している。

スーパーで現金払いで手間取っている人を見ても「時代遅れ」とは思わず、「古き良き時代だ」と思うようにしている。車を運転していてウインカーを出して間髪入れずに車線変更してきても「危ない」とは思わず、「私は急いでいないから、お先どうぞ」と思うようにしている。自分が喉が渇いていなくても同僚は渇いているかもしれないと思って、共用のジャーに冷たい麦茶を作るようにしている。

「懐が広くなった」と言えば聞こえは良い。だが、私はネガティブな効果を実感している。

それは、「自分に自信がなくなってきた」ということだ。もっと言うと、「自分の感覚が信じられなくなってきた」のだ。

自分が思っていることは他人はきっと思っていない。自分は他人とずれているかもしれない。そう思えば思うほど、「多様性」を意識すればするほど、「自分の考えていることは誰の支持も得ないのではないか」と疑心暗鬼になってしまったのだ。

自分が、「不確か」なものだと感じたのは初めてだった。


そういう悩みを抱いていたある日、私は趣味の筋トレをしにいった。最近仕事が忙しく足が遠のいていた。久々の趣味の時間だった。

その日は脚トレ。脚の筋肉は全身の中でも大きいため、酸素を大量消費する。そのため、少ない回数でもとてつもなく疲れるのだ。筋トレの中でも辛いメニューで有名だ。やる前は嫌で嫌で仕方ない。でも、ジムに来てしまったからやるしかない。

ああ辛い。重い。苦しい。脚がプルプルする。ベタだと言われてしまうが、「産まれたての小鹿」である。アップテンポの音楽と、周りにいるマッチョに刺激を受け、なんとかその日のトレーニングを終えた。

ジムの風呂で湯船につかりながら、ポケーッとする。「ああ、疲れた。けど、来てよかった。最高に気持ちいい」と。

・・・?。・・・あ”!!

ポケーッとしていた頭に閃光が走った。

今・・・めちゃめちゃ「確か」じゃん!!

「確か」に疲れて、「確か」に気持ちよくて、「確か」に達成感に溢れている。

そこには、「多様性」なんて微塵も存在していなかった。

そこには、「私」だけしかいなかった。

そうだ、「不確か」な時代だからこそ、「確か」な何かが必要なんだ・・・!

最近ずっと靄がかかっていたが、それが少しだけ晴れた気がした。いや、「晴れた」とは違う。靄はかかったままだが、靄の先から鮮明な光が一直線に自分のほうに伸びている気がした。


これからもきっと私は「不確か」に惑わされるだろう。そのたびに見失い、戸惑い、情けなくなるだろう。

でもそのときの私を支えてくれるのは、「確か」であるはずだ。これからも、「確か」にもたれてもいいかな。

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