短編小説「無題」 vol.1

 車を降りると、雲の隙間から星が数個見えていた。ここ最近の七夕の夜は、いつも曇っている気がする。去年も曇っていた。去年は記録的な長い梅雨だったから、7月上旬が曇っていたのは全く不思議ではない。むしろ雨が降らなかっただけマシだったのか、と夜空を見上げながら、私は思う。
 連日の残業、心も体も荒んでいくのが手に取るようにわかる。車のドアを閉める手に力が入らない。が、車のほうが私に気遣って、ドアを閉める努力をしてくれたようだ。パタッという音とともにしっかり閉まってくれた。もう7年以上乗っている愛車だ。中古で買ったときはこんなに長く乗るとは思っていなかった。至る所に傷があり、ついこの間はサイドミラーが故障して動かなくなってしまった。雑に扱っている意識はないのだが、いつのまにかボロボロになってしまった。それでも主人への気遣いを欠かさないところが、職場で雑に扱われている私には沁みる。
 重いカバンを手から肩に移し、アパートの角部屋に向かってとぼとぼ歩く。夏になるとアパートの電灯に小さな虫が群がっている。真っ暗闇で輝く光が何なのかわからないけど、それに向かうしか他に手はないのだろう。虫は無知だ。それはただの電灯だよ。希望でも未来でもないよ。そう教えてあげても、この虫たちは脇目も振らずに、毎晩電灯に群がるのだろう。
 部屋の鍵を開けて中に入ると、郵便ボックスに細い茶封筒が入っているのに気がついた。差出人は見なくてもわかるが、念のため封筒を裏返して確認する。「佐伯里志」。やはり、父だ。だが、その封筒を開くことよりも、肩にかかった黒いカバンを下ろさなければ。これ以上疲れをためないことが何よりも優先事項だ。リビングのドアを開けてすぐ、無造作にカバンを下す。ドスッという音とともに、カバンが横に倒れ、中からいくつかの本が流れ出る。「中学国語」という文字が一番上にある。毎日この教科書を持ち帰ってくるが、家で開くことはない。家で仕事をしなければと思いつつも、家で仕事をしたら明日はもう生徒の前で愛想笑いをすることもできなくなってしまうだろう。愛想笑いにはエネルギーを大量に使うのだ。

 教員になって4年目。今年で26歳になる。かつて描いていた26歳は、こんなに萎れてはいなかった。幼稚園生のとき、母に「里美ちゃんは何歳で結婚したい?」と聞かれ、26歳と答えた気がする。あの頃は無邪気だった。いや、無知だった。幼いというのは無知だ。幼いときは、知らないということが許されてしまう。「里美もいろいろなことを経験して大人になっていく」、そのようなことを言われた覚えもある。それを言ったのは、母の隣にいた父だったか。父はどういう表情をしていたか。笑っていた気がする。でもその笑いは、ほほえみか、それとも愛想笑いだったのか。そう言われて、当時の私はキョトンとしていただろう。幼稚園生ながらに、話に何の脈絡もないことがわかっていたからだ。父の言葉の指すところが明らかになったのは、私が小学4年の3月だった。
 小学4年というのは、年齢で言うと10歳だ。小学校では、「二分の一成人式」というものが行われることが多い。私が通っていた小学校でも行われた。これまでの自分の人生を親から教えてもらい、それをまとめていく。そして自分の明るい将来を宣言する。そういう何とも「作られた」温かさが充満する行事だ。
 その行事に向けて、私も家庭でインタビューをした。インタビューする内容は決められており、担任が配ったプリントに沿って質問すればいいだけだった。自分の幼い頃のことを聞くということでかなり気恥ずかしさを抱えていた私は、それだけでもずいぶん救われた。「私が聞きたいんじゃないんだからね、宿題だから仕方なく質問するんだからね」、そんな気持ちでいれば、気恥ずかしさも紛れた。
 質問をしてわかった。私は夜泣きをあまりせず、夜はぐっすり眠っていたこと。父が休みの日に車に乗せてもらうと、キャッキャッと手足をばたばたさせて笑っていたこと。食い意地が張っていて、食事のあとはいつもクマのぬいぐるみの手を口にくわえていたこと。幼稚園の入園式でくしゃみをしたら鼻水が大量に出て母を遠くから呼んだこと。そんな私の記憶にはなかった逸話が次々と出てきた。一人っ子だったため、両親からこれでもかと愛情を注がれてきたことがわかり、10歳の心は嬉しさで満ちた。なんだかむずがゆくなり、プリントにメモすることなんてできなかった。そういうエピソードを自分で書くなんて。一文字書くごとに恥ずかしさが自覚され、余計に恥ずかしくなってしまうことが目に見えていた。「お母さん書いて」とにやにやしながらプリントを差し出すと、母は呆れながらも嬉しそうに書いてくれた。いつも整然としている母の字が、その日は少し丸く見えた。
 その後もいくつかの準備を経て、迎えた二分の一成人式当日。その日は授業参観になっていたということもあり、多くの保護者を迎えるため授業は広い体育館で行われた。私の家庭からは、母が来てくれた。学年で20人ほどしかいないため、全員がマイクの前に立って発表する時間が充分すぎるほどあった。私は「佐伯里美」なので、五十音順だと中間よりやや前になる。参観者も友だちも、少し飽き始めて私の発表なんて聞いていないよね、と思うことで緊張を落ちつけようと努めた。教員になった今ならわかるが、親は自分の子しか眼中にないため、飽きるなんてことはないのだ。むしろ、他の子の発表なんて何一つ耳には入っていないのだ。
 私の順番が来た。マイクの前に立つ。プリントにまとめたことを話すだけ。それだけなのに、プリントを持つ手が震える。声が震える。脚が震える。自分が失敗せずに読んだかなんて覚えていない。とりあえず礼をして、そそくさと自分の席に戻ったことが記憶にあるだけだ。あとで母に「上手に発表で来ていたね」と言われたので、とりあえず話すべきことは話せたようだ。

 そうやって「佐伯里美」としての人生を歩んでいたのだが、終わりは唐突にやってくるものだ。二分の一成人式から約2カ月後。小学4年生の修了式まで残り数日という時だった。その時の私は、習い事のスイミングの昇級テストで合格したことへの安堵や、学校で行われた学年末漢字テストで90点を下回ってしまったことへの焦りといった、いたって平穏無事な感情を抱いていた。勉強も運動も同級生の中でも優れていたほうだったから、5年生になっても「できる子」として頑張っていこう。期待も不安もあるが、基本的に自分が大きくなることが待ち遠しかったのだ。なんとも健気で微笑ましい。

 ある日の夕飯。いつも帰りが遅い父が、その日は一緒に食卓に座っていた。誰の誕生日でもないのに、ケーキを買ってきたらしい。何か両親に良いことがあったのか、と思ったが、あえてそんなことは聞かなかった。いや、大人になって分かる。あれは「聞かなかった」のではない、「聞けなかった」のだ。何かを聞くことはできない、これから言われることを黙って受け入れる、両親はそういう雰囲気を醸し出していた。

 父が努めて明るく言った。「里美に、とっても大切な話がある」と。「里美も4月から5年生になるし、もう大きくなったから、これからお父さんとお母さんが言うこともきっと分かってくれると思って」

 父の言葉を継ぎ、母が口を開く。「お父さんとお母さんは、4月から別々に暮らすことになったの」母の字が思い起こされるような、整然と、でも柔らかい声だった。「私たち、離婚するの」

 離婚。この言葉はすでに聞いたことがあった。なぜなら、私の友だちにも、離婚している家庭がいつくかあったから。「なんで○○ちゃんの家にはお父さんがいないの」と母に聞いたことがあったが、その時母は「離婚」という言葉は使わずに説明してくれた。あの時は幼く無知だった。でもこの日は「離婚」と言った。これが大きくなるということ、大人になるということなのだ。じゃあ、私は大きくなりたくない。この時初めてそう思った。何かを知ることが苦痛なこともあるなんて。この時初めてそう思った。

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