短編小説「無題」vol.5

 5年ぶりに入った祖父の古本屋は、思った以上に本があった。そのほとんどが日に焼けていたり、背表紙の上部がやや綻んだりしていたが、そのおかげで祖父がこの店で過ごした年月が無言のうちに眼前に迫ってきた。父が離婚しこの店に入ったのは15年前だけど、この店はそれよりもずっと前から、祖父とともにこの鎌倉に住み着いている。
 以前来たときは、成人式の前撮りの写真を褒められ気恥ずかしく思っていたため、店の本などには目もくれていなかった。今回は、祖父の病気や死が胸の中に大きくあるため、自然と祖父を感じるもの全てに目が行く。店の通路を通り、奥の住居スペースに入る手前にあったレジカウンターにも、祖父の日常を探してしまう。丸椅子に載っているクッションは、長年祖父の体重が乗っていたからだろう、かなりぺらぺらになっていた。逆に、レジに載っている鉛筆は、最近変えたと想像できるくらい長く綺麗なものだった。祖父が歩んだ年月を感じさせるものと、これから祖父が歩む年月を想像させるもの。
 ふと、祖父はこの鉛筆を最後まで使えるのだろうか、もう一度新しい鉛筆を使い始めるということを経験できるのだろうかと思ってしまった。普段教員として生活しているからか、新しい文房具や部活の道具などを使い始める生徒たちと祖父を意図せず比較し、祖父がこれから歩む時間は決して長くないということを痛感してしまった。
 店の奥のリビングに招かれ、私はそこに座る。畳に直に座る。円卓を囲む、私と祖父と父。父は私がここに来てからほとんど何も話していない。父から手紙をもらったから私は来たというのに、表情で「わるいな」くらい伝えてもいいものだが、そこが不器用な父らしい。

 祖父が冷蔵庫から出してくれた麦茶を中心に、なんともぎこちない三人の世界が作られた。
 「里美、よう来てくれたな。遠かったろ」
 「そういえば、初めて自分の車で来た気がする。だからってわけでもないけど、なんかのんびり運転したからか、全然遠いって感じなかったかな」
 「そうか、里美も運転する歳になったんだな」祖父はしんみりした口調で孫の成長を味わった。
 5年前はまだ私は車の免許を持っていなかったから、群馬から電車を乗り継いで鎌倉まで来たのだ。かかる時間は対して変わらなかった気がするが、自分で運転してきた分、自分の意志で物理的に祖父に近づいている実感が常にあった。「もう少しでおじいさんに会える」と自覚していたわけではないが、思い返すとそういう気持ちがあったのかもしれない。
 「そういえば、お父さんが急に手紙くれてびっくりしちゃった。お母さんに私の住所聞くなら、アドレスやラインアカウント聞いたほうが楽だったんじゃない」
 私がそう言うと、父は急にばつが悪そうな顔をした。
 「あ、まあそうなんだけど。お父さん、昭和の人間だからそういうの疎くて」
 「なんだ、里志。里美に手紙なんて書いたのか」祖父が驚いて尋ねる。
 「あ、おじいさん知らなかったの!?え、お父さん、これ言っちゃダメなやつだった?」二人の視線が父の顔に突き刺さる。
 「いや、別にダメじゃないけど・・・。ああ、親父。実は親父の病気のこと、里美に伝えようと思ってさ。この前手紙で伝えたんだ。ほら、親父は里美のことずっと気にしてただろ。だから、会えるうちに会ってほしいなと思って」
 「なんだおめえ、勝手に伝えやがって。別に内緒じゃねえけど、里美に変な心配かけちゃわりいだろ。なあ里美」
 「いや、そんな悪いなんてことないよ。伝えてくれてよかったし、逆にずっと知らないままのほうが私は嫌だったから」
 祖父に逆に気を遣われてしまった。しどろもどろに弁解し苦笑いをしている父を見て、なんとなく父の味方をしてしまった。
 でも、本当のところ、私はどうだったのだろう。祖父の病気のことを知って心配したし、だったら会える時に会っておかなければと思った。でも、病気でなければ、私は祖父に会いに来なかったのだろうか。そこは、なぜか、自信がない。
 忙しさや疲れを理由に、祖父や父、あるいは同じ県内に住む母とも疎遠であることを肯定していた自分にはたと気づいた。そういうものだと言えばそうなのだろうが、里美はそういう自分にこのときはなぜか納得できなかった。
 私にとって家族はどれくらい大切なものなのだろうか。三人の世界にいながら、私は独りで遠くの世界に行って考えてしまった。と同時に、祖父の顔を見ることがとても申し訳なくなってしまった。 

 祖父はそんな私の申し訳なさを察することもなく、5年ぶりに再会した大切な孫との時間を良いものにしようと、里美に仕事の話を振ってきた。
 「里美は学校の先生になったんだっけ?車を持った里美を見るのが初めてなら、働いている里美も初めてだよ、俺は」
 「ああ、うん、そうだよね。たしかに」里美は我に返り、ぼんやりと自分の現在の日々を思い出す。「そう、今は群馬の中学校で働いているよ。今年度末に異動するんだけど、やっぱり忙しいね」
 「今の時代、先生ってのは本当に忙しいらしいな。保護者もうるせえやつらばっかりだって話じゃねえか。モンスターなんとかって。里美のところは大丈夫か」祖父は渋い顔をして麦茶を飲んだ。
 祖父の指摘は的を射るものだった。私が今仕事をやっていて一番厄介なのは保護者の存在だ。しかも、部活動の保護者。
 「ん~たしかに。いろんな保護者がいるって話よく聞くよね。私のところも大変な人いるかも」と濁したが、そこから話を継いだのは意外なことに父だった。
 「今はいろんな考えの人がいるし、それを大っぴらにしてもいいって社会の雰囲気があるからかもな。俺が群馬で公務員やっていたころは、役所に来る人はみんな腰が低くて穏やかな表情で、だからこっちも丁寧に細かいところまで時間を割いて話ができるし、そういう寛容さが至る所で人を包み込んでいた気がする」父は遠い目をして、そう静かに言った。
 母と離婚する前に市役所で働いていた父。私と一緒に住んでいた父。たしかに、あの頃には家庭内にも寛容さが充満していた。たとえ男女の仲としては冷めきっていた両親だったかもしれないが、娘の私にはそんな素振り一つも見せず、温かく大きな愛情を注いでくれていた。
 父は私の仕事に対して同情してくれただけだろうが、図らずも私と住んでいた時の話になってしまい、私は記憶の奥にある当時の温かさに触れることになった。

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