短編小説「無題」 vol.3

 両親が離婚した後、里美は母と一緒に住むようになった。もともと両親と里美は3人でアパートを借りて住んでおり、父がそこから出ていくことになった。父は地元に帰った。神奈川県鎌倉市だ。大学進学を機に地元を離れ、群馬県にやってきた。大学で母と出会い、結婚を視野に入れていたため、鎌倉市には帰らず、群馬県に残った。そんな父にとって約20年ぶりの地元での生活になった。
 地元では両親が自営業を営んでいた。群馬では市役所に勤めていた父は、全く畑違いの仕事に就くことになった。転職に大きな不安は付き物だ。ましてや、利益を求める職に就き、働く土地も大きく変わるなんて。働くことの辛さをこれでもかと感じている今の私は、当時の父の心境を想像するだけで胸が痛んだ。
 でも、離婚についてはおそらくあまり心的負担はなかっただろうと思う。私は父に大切に育ててもらったし、私も父が好きだった。怒られた記憶もあまりなく、一人娘のことをかわいがっていた。だが、何かと不器用な人だったとも思う。それは男女の関係においては特に言えることだと思う。母は父に不満げな態度をとることがあった。まだ小学生だった私でもそれが読み取れた。
 父は母の誕生日や母の日に何かするということは一切なかった。そういう日だと気づいていて敢えてしなかったのか、それとも気づいてすらいなかったのか分からない。対照的に、母は父の誕生日や父の日、結婚記念日をとても大事にしていた。特別な日の夕飯はいつもよりも豪華なものだった。ケーキを手作りしたこともあった。でも、父は特段リアクションもしないし、何も言わない。まるでいつもと変わらない「平日」を過ごしているかのようだった。
 そういうことの積み重ねだろう。離婚を切り出したのは母からだったらしい。私の前で言い争うことは全くなかったが、二人は何度も話し合ったのだと思う。教員として片親の家庭と接することが多いが、家事も育児も仕事も全て一手に担うということは大変だと想像できる。決してその場の勢いで離婚したのではなく、二人が納得し、私のためを思っての決断だったのだと思う。離婚は、父にとっても気楽になるためのものだったはずだ。
 父と離れて暮らすようになって、やはり寂しい気持ちが大きかった。3人だった家庭が2人になる。ただ一人減ったという計算上の話だけではない。今まであった「温かみ」が消えてしまった。でも、心の記憶には、ともに過ごした「温かみ」が残っている。そのギャップに苦しんだ。心にぽっかり穴が開くという言葉があるが、まさか当事者になるとは思わなかった。
 父と会えないという寂しさもあるが、それに加えて、鎌倉にある父の実家に帰ることがなくなったことも、私には残念だった。私は父方の祖父が大好きだった。父方の祖母は私が生まれる前に亡くなっていたので、祖母との記憶がない。母は群馬県出身なので、祖父母に会いに行くことはそんなに手間ではない。アパートから車で30分も走れば会えた。それに比べて、遠方に住む、しかも群馬にはない海の近くに住む祖父ということで、いろいろ付加価値があったのだろう。私は父方の祖父に会うときは、何日も前からわくわくしていた。
 古本屋を細々と営んでいた祖父は、どちらかと言うと寡黙な人だったと思う。でも暗い性格ではなかった。口数は多くなかったが、言葉がたんぽぽの種のように柔らかく発せられていた。私の心にふわふわと向けられ、私のほうから手を伸ばして受け取りたくなるような言葉だった。細身ながら食べることが好きで、いつも近所の人からもらった野菜や海鮮をおかずに白米を大盛食べていた。祖母が早くに亡くなったにも関わらず、一人で仕事をし、生活をしていることを考えると、たくましさを感じる。
 そんな祖父の体調が悪くなっていると知ったのは、父からの一通の手紙によってだった。手紙は突然届いた。もう1年近く前になる。雨が激しく降る梅雨の夜だった。
 仕事で古雑巾のようになった私がアパートのポストに手を入れると、固い長方形のものが当たった。水道代の支払い封筒か何かと思って取り出すと、そこには父の字があった。なぜ父から手紙が。不審に思いながらも、空腹と疲労で覆いつくされていた私は、父からの手紙を机に投げ捨てた。その封筒が開かれたのは、3日後の休日の夜だった。

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