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ゲルハルトリヒター展 アートとは何か。
東京国立近代美術館にて開催中の、ゲルハルト・リヒター展に行ってきた。
【いま自分は何を見てるのか、この世界は一体何なのかが分からなくなった】
というのが感想だ。
オイルオンフォト、フォトペインティングといった多様な表現方法によって視覚の不確実性というのを目の当たりにした。
遠目から見ると写真に見えるけれども、近くでよーく見ると、実は絵画だったり。
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その体験は、【芸術とは何か、絵画とは何か、写真とは何か】といった究極的な問いへと昇華する。
絵に描かれた対象、写真に写っている対象を、解釈を通じてそのまま感じることもできるし、絵画や写真という単なる物体として存在しているものだと捉えることもできる。
さらにさまざまな技法によって表現された対象は、ありのままの姿なのかもしれないし、アーティストや鑑賞者が無意識のうちに頭の中で変換した単なるイメージなのかもしれない。
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しかもそのイメージや解釈は、一つとは限らない。鑑賞者によって何通りもあり得る。
アーティストが表現していたものと違うかもしれない。
その感じ方の違いが人間なのであって、世界に一個人として存在している。
何がリアルで何がフェイクで、何が存在していて、それが混ざって何になって、、、
なんだかよくわからなくなってしまった。。
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展覧会の目玉であり、ホロコーストを抽象化したという大作、《ビルケナウ》については今回は触れることは出来ない。
自分の中でも飲み込めていなくて、言葉にすることができないからだ。
何度も美術館に足を運んだら、何か見えてくるかもしれないし、ふとした時にパッと何か思いつくかもしれない。
アートは私たちを魅了すると同時に、強烈な力を持って迫ってくるものでもある。
美しいものだけがアートとは限らない。
アーティストの強烈な体験、記憶、そして社会への強いメッセージを伴い、世界を動かす力さえも持っている。
アートとの対話を通じて、何を感じるのか。
この問いを投げかけてくれた、ゲルハルト・リヒター展、ありがとう。
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