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音闇クルフィ 1



prologue

・・・・・・・・・・・・・・

よく滅びなかった、と何度も言われつつも、続いてきた社会は、いつのまにやら地の環境に適応した特異な者が増え続けていた。

しかしその類いについては、あまり表沙汰にはならない。一般市民には、ほとんど、その、存在の噂くらいしか公表されない幻みたいなものだった。

これまでは。


Epsode1.炎と少女

        
「なんっでだよ、ねーちゃん!」
  バスの中にいた少女が、いかにも面倒そうに腕をぶんまわし、バスのガイドさんに文句を言っていた。
金は確かに払ったぞ、とかなんとか。
  この日の暑さを物語るような高々したサイドテールの茶髪は少し汗が滲み、そこそこ整った顔立ちは、いかにも目立った。
特に、高齢の方がほとんどのツアーバスの中と来ちゃ。もちろん、彼女が勝手に紛れ込んだ。

「このお金から、違法な力を感じました。造幣は禁止されていますよ、それにあなた、いつの間に――あっ、待て!」

ガイドさんは華奢ながら、勇ましく、彼女のお金を取り上げようとした。彼女の言う違法な力は、まだ詳しくは公開されない、それだった。
もちろん、なかには独自的に編み出す人もいたのだが。最初にこの町に伝えたのは、一人の異国の魔女だと言われている。ぱちん、とサイドテールの彼女は指をならした。それ自体には、実質的意味などなかったのだが、合わせるように、そのお金は、ただの石に変わる。「ありがとやっしたー!」
そして彼女自身は、非常ドアを開け、早々と退散したのだった。




車が多い。人も多い。自然が、少ない。
 暑い。
熱気がもわもわと影を作っている。
暑い。
 コンクリートが歪んで見える。
暑い。
 灰色の多い、息苦しいビルが互いに存在を競うように並んでいる。いくらかは看板が撤去されたりしていた一方で、そのすぐ横では建設工事をしている。かんかんかん、と何かを打ち付ける音がけたたましく続いている。

(なんか、変な町……)

 少女はぼんやりとそれらを見上げた。
奇妙な光景だった。
まるでビル自体が生き物のように蠢き、変化し続け、月や太陽でも無いのに昼間からしつこいほど光る電飾。
それに大きなモニターが眩しい。
あちらこちらに歩道があり、右へ左へと入り組んでいる。


「で……こっから、どう行くんだろ」
 数分前に道に迷ったとき適当に買った、魚の形をしたお菓子をかじる。
甘い。 喉に張り付くような甘さに、改めて熱気を思い出す。

「あー、あー、あー、だーりいー! なんだよなんだよー、あちーしさ」

少女、17歳(人間としての年齢)は嘆いていた。
 少女と言っても決まった呼び名は特になかった。
実際にはあるのだが、長ったらしいからいいや、という彼女の投げやりによって、ガールとかそこの人とか、無難に呼ばれてきた。

 彼女の、今は亡き母国では、産まれた子が自分で名前を決める。

『自分のことを自分で決める』ことこそ、力そのものなのだというのが、古くからの教え。名前も一番最初の「力」。

 とはいえ、まだ小さくて、言葉もほとんどわからない頃なので、候補のカードを選ばせる、とか、そういったものだ。(中には、最初から言葉を口にする者もいるらしいが)
 彼女も確かに自分で決めたはずなのだが、実はまったく、思い出せなかったので、適当に呼ばれるだけ。

 その国は力を持つものの住むところだったが、ある日不幸にもそれ以外の標的、研究対象になった。早い話、サンプルとして狩られたのだ。
生き永らえたものは、人間として隣国やあちこちの土地に逃げ込んでおり、彼女もその一人。
 

 いろいろあったけれど、この街にはドラゴンがこないし、平和だ。

「力」が、人々の間でどう呼ばれているかは国や村の土地柄で呪いとか、魔術とか様々だったけれど、彼女はそれを生まれもっていた。
 戦後はいづれにしてもあまり公にはされなくなっているそれだが、かといって体から消えるわけでもないのでなんというか、中途半端な感じ。

「ここで言うと、魔法とかってやつなんだっけ? 私魔族? なんでもいいんだけど取り締まり厳しい! なーにがいけないってんだよー! あのねーちゃんも、空港のにーちゃんも、すぐに見分けやがるしさー! あー、もー」

 もともとは小さな隠れ家で、つつましく暮らしていた彼女に、手紙が来たのは、つい最近のこと。
『日本という町に来て、やってもらいたいことがある』

差出人不明。
 なんだこりゃ、と彼女は眉をおもいっきり寄せた。変な態勢で座っていたこともあり、スツールからずり落ちかけながら、文面に目を通して、それから、鼻で笑って捨てようとした。
だが、封筒から漂った、何か嗅いだことのあるにおいに、手が止まった。力のあるやつはわかる。 力のにおいがする。香りというのには細かく分類出来ないだろうが、普通の、誰かとは、何かが違うものを、彼女は感じとれた。

 手紙から、伝わってくるのは、ひたすら、強く、燃えるような、熱い感覚。どこか、懐かしい。
熱くて熱くて、熱くて――燃えている――


「ん――今日は肉だな。焼き肉……」

 炎を想像して腹が減った彼女は、そう締めて、後に行き先を辿った。

 ただの、暇潰し。
いや、少し、手紙の差出人に興味が湧いたのもある。
良い報酬が出ると締めくくってあったのもあり、とにかく、悪くはないと、深くは考えずに、話に乗ってみたのだ。

 彼女は、昔から、それなりの、生きるに足る力だけはあった。
しかし社会での一般常識に興味を持たないため、作れるものを、わざわざ受け取って使う意味を理解してこなかった。
 能力の存在やその対策が、まだゆるそうに見える場所では特に、楽をするために力を使って遊んでいたのだが……

 ほとんどの対策はとられていなくとも、見分けることに関しては、この場所は、彼女が今まで経験した中にはにないほど正確なようで、彼女は少し舐めきっていたと反省し、ひやひやしながら追跡を逃れていた。

「んーで、待ち合わせ、こーこだったかなー」

 赤い郵便ポストの横に立って、彼女は腕を組んだ。
少し錆び付いたそれは、長年、雨風を浴びてきたのだと感じさせる。

「よーぉ、兄さーん、なんとかタワーって、なんだ?これか?」

ポストのそばを、気の弱そうな少年が通りかかったので、捕まえて、深く考えずに聞いてみる。
びく、と彼は肩を小さくし、キョロキョロとあたりをみた。

「あ・な・た・だ・よ、そこの、キョロキョロしてるあなた
「あ……っと、すみません」
「な、タワーってこれか? おーいお茶タワーではないよな」
  ぼやーっとした返答が珍しく、彼女は興味深げに訪ねる。
身内や、同じ学校だったが今は隣国にいる仲間は、気が強くてがさつなのが多い。なかなかお目にかかれないタイプだと、気に入った。中途半端に切られた、だらしない長い前髪に、ぼんやりした目。華奢な肩。ついでに、同じ駄菓子を20個くらい袋に入れている。

「あ、タワー……外国、の方……? ポストか……えっと、確かにそれも赤いけど……」

 彼は、自分に向けられた質問とわかった途端、のんびりと呟きながら考え出した。合間に、んー、とか、そうだな、とか聞こえる。
 あっ、としばらくして閃いた彼は、やたらバッジがついたメッセンジャーバッグから、メモ帳を取り出した。

「あの……地図……描きますか?」

 うつむくと、長い前髪が、ぱさ、と鞄にかかる。
お菓子を別に持ち、鞄にしまわないのはこだわりだろうか? それとも今食べているところだったんだろうか。
「絵! お願いします! 字はちょーっと、読みづらくてさー!」
「……あ、はい……ちょっと待って……」
 メモ帳に挟んでいたサインペンで、通りの数字や目印をところどころ入れ、細かく書かれたそれは、1分ほどで出来上がった。
「おー、すげー、こういう形してんだな! タワーって」

 手渡された紙をみながら興奮気味にしゃべる彼女は、タワーが何であるか自体からよく知らないらしい。
(この人、どっから来たんだ)
 少年は不思議そうにしながら、ふと、何か薄々気付いていた様子で口を開いた。
「あ、あなたって……その、もしかして異能力」
「おい、ちょっと黙れっ!」
 少年のぼそぼそした声より、あきらかに彼女の方が、声がでかかった。
しかしどちらも、町の雑踏で目立たない。


「来い!」
「な、なんで、おれ……」
少女は彼の腕をぐいぐい引っ張って歩く。
もちろん、地図の方向にだ。
早足で進む。早く、早く、早く。

「あ……えっと、タワー、行くなら、向き、反対…………」
「なにっ、これって、全部、紙の内容と反対向きか!」

 ぴく、と反応した彼女がショックで顔をひきつらせた。
 東西南北の記号も読んでないのか、文化が違うのか、そもそもわかってないのかもしれなかった。

「あの……わかりました、案内します、えっと、だからその、腕を……」

少年は仕方なさそうに、言い、痛そうに、細腕を見た。おそらく、赤くなっているだろう。
それに安心した彼女は、腕を離して礼を言い、とたんにぶっきらぼうに変わった。

「ああもう、ちっくしょ……なんで、お前にはばれたんだ? 目眩まし対策は万全なはずなのに」

ショックで苛立った彼女は、あなた、と呼ぶのも、礼儀も忘れて、少年に、敵を見るような扱いをする。

「……おれ、わかるんです、昔から。なんていうか、そういう人が、いるって」

 腕を離してもらった彼も、とことこと小さな歩幅で、後ろからついてくる。彼が身につけているのは、たい焼きのワッペンがついている、奇妙なシャツだった。ここに着て、最初に買った昼飯が、たしかそれだった、と彼女は思う。
道に迷っていたときに屋台を見つけて、「おじょうちゃん、たい焼き買ってかないかい」とのことだったので買うついでに道を聞いてきたばかりだったがやはり迷ったのが先ほどだった。

「――それは、大変だなあ。つらく、ないのか?」

心配そうな瞳を向けられ、少年は戸惑ったように聞き返した。

「どうして」
「だって、自分だけがわかることって、辛いだろ。他の人と、壁が出来たみたいでさ。現代の、この町だと、特に……まるで、存在自体を、否定されてるみたいでさ」
「……みんな、すごいって騒ぐか、白けたような冷たい目で見てくるかだったし……あなたの、その、反応……ちょっと、嬉しい。でも、平気です。普通にしていれば、気にならない」
「そっか」
「あの……こんなことを聞いていいかって、思うんですが……その……あなたは、そうだった、ですか?」
「そーだな……秘密」
「はあ……」

にこ、と笑った彼女に、少年はやっぱり不思議そうな返事をした。

「やっぱりお前良いやつだな! 名前はなんていうの?」

「いつ……見込まれたのか、知りませんが……あの、コトって、言います」

「コトか! 私はな……、んー、名前か……何がいい? まんま名乗ったら、ちょっとマズいんだよ」

「や……えっと……空港とか、名前、どうやって……んと……じゃ、クルフィで」

「菓子か! 好きなのか?」

「……いや、なんとなく」

――彼女の故郷の町は、荒れに荒れていて、当時、魔法の町、として旅行客が描いてくる夢を、完膚無きまでに打ち破る荒れようだった。

誰かのために、わざわざより良いことをしようとするやつは、バカにされ、誰も、誰かのことは考えなかった。

あの国では、みんなが何かしら力を持っていた。とうとう規制も追いつかなくなり、それぞれが好き勝手していたのだ。

不自由はしなかった。
それなりに、楽しかった。悪いことも、良いことも、事実上、存在しなかった。悪いと言われれば、すぐに、何かしらで良い何らかに変えさせれば、それで良かったのだから。

不良も、優等生も存在しない。
誰も、不満を漏らさないし、だいたい、不満を抱える前に、どうにかなっている場合が多くて、平和で、殺伐として────



…何か懐かしい事

「なにか、懐かしいこと、考えてますね……?」

突然ぼやっと声をかけられ、なおかつそれが図星の内容だったので、彼女──クルフィは、うおあああ!
ときゃんきゃん響き渡る声を張り上げた。
「うぉま、お前、居たのかよっ!」
「ぐ、耳が……」
頭を押さえる琴に、彼女は、少し冷静になって謝った。
「……ああ、そーだったな、悪い、案内頼んでたんだっけ」
「目的地なんでしょう……忘れないでくださいよ」
  ふいに、思い付いたことがあると話を聞かない彼女の癖が、ここで出てきた。
注意されたことなど頭に入っていない。

「あっ、そーだ、お前さ! 仲間にならねーか? いーよな、そーだよな! 名案!」
「え……あの、はい? 初対面の人物に、なんで……そんな、ぐいぐい来るんですか……」
 せわしないヒトだなあ、と呟いた琴に、クルフィは全く無関心で、勝手にきゃいきゃい跳ね上がる。
「報酬は山分けすっからさ! ダメか? あ、物騒な話じゃないんだ、って言ったら余計怪しいよな……んー、一緒に、こう……そうだな、今みたいにだな」

「大丈夫、おれ……わかるので……あの」

「え?」

「……あなたが、根は、悪い人じゃないってのは……その、そういうのも、その人の、ステータスというか……変かもしれないんですが、一回、見たらわかるというか……あの」 
驚きで、固まったままぽかんとする彼女は、彼の言葉に、信じられないほどの奇跡を感じていた。一方で、変なことを口走っている気がしてきた琴が、眉を八の字に曲げ、申し訳なさそうにする。
泣きそうな姿は、まるで甘えている子犬のようだ。

「あ、あ、あの……」
見た目は猫っぽいのに。と彼女は勝手に思う。

「それ、本当すげーな! お前、いや……コトさん! 是非ともお友達になってください!」

キリ、と目付きを変えて、右手から握手を求めてくる彼女に、琴は相変わらず不思議そうに、はあ、と呟き、両手で握り返した。
ため息ではなく、なんだコイツ? が凝縮されているみたいだった。

「あ、いいですよ……というか、うん……おれも、あなたみたいな人は、見ていて、飽きない気がします、よろ、しく?」
 ぺこ、と頭を下げると、前髪が垂れてきた。それが、頭を上げると再び分け目の定位置に収まるのに、彼女はなんだか感動してしまう。

「コトっ、よろしくな! 町で会ってもクルフィって呼んでくれ!」
「いや、そもそも本名、知りません……」
「いや、それがさ、んー……なんだっけな、リライトなんとか」
「……えっと……覚えてないんですか?」
琴は、そのとき、初めて笑った。




16:40、晴天

残念ながら、大手を振って中に入るようなことは、出来なさそうだった。

クルフィは、すっかり、一部の方々の間で有名人になっていたようで、すっかり人払い済みの中芯タワーは、異様な静けさで、お出迎えの準備、といったところだ。

入り口のガラス戸には、何やら緊急点検、の札が置かれているが、ほとんど、作業員らしき姿は見えない。中の点検だから、というにしたって、点検というにもなんだか違和感があり、むしろ徹底して警備をしている感が、すごい。きょろきょろと、無線を持ってうろつくスーツ男ばかりが目立つ。



  何より、視線が、数メートル先の歩道の、こちらにやたらと集中している気がするのだ。
「いや、これ確実に待ち伏せされてるって……イカした強面兄ちゃんが、正面に左右4人ずつで8人──と、別にまた、2人が、近くをうろうろしてる気がする」「あの……いったい何を……、やらかしたんですか……」
「ちょうど良く乗り物があったからさ、ちょっと」
「え……ダメですよ、それ。お金、払わなかったんですか」
「いや、その……足りなくて」
「……はあ」

木陰からこそこそする二人だが、琴は至って冷静で、目が泳ぐのはクルフィだけだ。

「な、あの中に、見分けるやつが、いると思うか?」
「んー、正面8人中……一番右と、その隣と……3人、でしょうか……」
「おお、すげー、外の、しかも15メートル先でもわかるんだ」
「きみたち」
ふと、会話に、聞きなれない声が混じった。
背後を見ると、胡散臭そうな風貌の、ひょろひょろした男が立っていた。着ているのは線が入っている紫のスーツだ。襟に、ひらひらしたものがついている。

うわあああ、ということもかなわないクルフィはびっくりし、琴はさっと姿を消した。彼はなかなか生きる知恵に長けていそうだった。

「な、あいつ……」

「ねぇねぇ、こんなところで、何をしてるのかな?」

男をよくよく見てみると、オールバックの髪をしていた。50代ほどだろうか。
優しげだが、どこか、ぎこちない笑みに、裏がありそうに感じられた。

「いや……その、遊びに来てたんすよ、で、なんか、ものものしいっていうか……近くを、通りかかったから……」

適当に喋りつつ、背中で隠しながら、くい、と曲げた彼女の指先が、小さく円を描き、彼女の背中を指す。彼女が小さく何か呟くと、しばらくの間、高い耳鳴りのような音が、彼女だけに聞こえていた。

「──んん? ああ……のら猫か」

少しして、男は、急に、目が覚めたようなことを言い出した。その様子からすると、彼女の使った、一番得意な幻術が、一応成功したようだった。変身ではないので、自分に使うと、自分で確かめられない。彼女は思わずほっとしていたが、ふいに、男の目付きが変わる。

「……ハハハハ、私は、猫が、大っ嫌いだ!」(げげっ、やばい……)

逃げ出そうとしたが、服を摘ままれた。鮭みたいな色の、薄い素材の上着が伸びる。

「きみはもうちょっと……世間を知るべきだね」

バレた、と思ってはならなかった。認めた時点で、術は無効になる。しかし、無意識の感情というのは、鍛練しなければ、そうそう咄嗟に誤魔化せなかった。
男は、ハハハハと笑い、彼女の前に手をかざす。

「おやすみなさい、お嬢さん」

だめだ、と彼女はふと思った。だけど、遠退いていく意識ではどうにもならなかった。

17:42

「ハッハッハッハ!」

 不愉快な声で目が覚めた。クルフィは、咄嗟に、ここが、敵のアジトかなにかだと思った。
そして、敵というのは、もしかしたら、ハンターやそういう類いかもしれない。
ハンター撲滅運動だのの騒ぎも、過去にはどこかしらであったようだが、結局のところ、異能力というのは、多くの世界において、便利な道具か、化け物扱いに近いところを持っていたし事実に、それをものともしないほど根強い。
周囲がどう止めても、結局は、決断するのは本人でしかないという話と、似ている気がする。
言葉の内容よりも、その人が自分を哀れむ事実、の方だけに重きが置かれることは、それなりにあるのだろう。
もっと自分で、気を付けねばならなかったのだ。ここは比較的安全なところだとは聞いていたが、てっきり油断していたらしい。
彼女は後悔が苦手だったので、とりあえず目を見開き、一秒の間に、目付きを変え、けろっとした。
『生きるのなら考え続けろ』
『無益な後悔はしない』
というのが、彼女自身のモットーだ。守れるかは常に微妙なところだが。
「ん……頭、いてぇ」
「おやおやおやおや」
 ぼやいていると、店の前で集まる若者を見たような座り方で、ずっとこちらを見ていたらしい男が笑った。
しかしながら幼稚園の先生になれそうな雰囲気だった。さっきから、笑っていたのはこいつか、とぼんやり思う。
目の前で、ぴょこぴょこと、パペットを動かしていた。
(タヌキ……いや、ヒヨコ?)
男については、ほぼ知らない。オールバックで、エプロン姿の、ひょろ長い男だ。そして……得体がしれない力を持っている。

「お嬢ちゃん、起きたようだね?」

ぼそ、と彼女が数語呟くと、男のパペットが、グシャ、と音を立てて放られた。
「寄るな」
パペットを拾い、指ではたきながら、もう一度、右手にはめ直した男が、不気味に笑む。
「あら、寄るなとは、ごあいさつだね?」
クルフィは、頭のなかで、炎を浮かべた。鮮明に浮かべることができる。脂の匂いも再現できる。腹が減ったらしい。今、炎に関する呪文を言えば、髪の毛に火がつくのかもしれない。ふと、パペットを見た。こいつは食えない。
「ハッ、てめぇに挨拶なんてしたくないね」
「きみには皮肉がわからないのかい?」
「そう、そうそう、そうだよ! ……肉が、食いてぇ」
「良いことを教えよう」
「な・ん・だ・よっ! いちいち。こっちは肉が食いてぇんだよ……」

考える気がないクルフィは、ひどくだるそうにぼやいた。

「私は、きみの雇い主だ。挨拶したまえ」

「あ、ていうか……ここは、どこだ? あいつはどこに消えたんだよ……あーもうわかんねぇ!」

 キョロキョロしはじめたクルフィは、話など聞いていなかった。聞く気がないともいうが、腹が減って、じっと出来ないともいう。見回してはみたが、どこだかさっぱりわからない。ところどころ剥がれたり木の枠が縦横みえたりする白い壁。床は、ツルツルした、廊下にあるようなタイルだった。

物は特にない。学校の、体育館のような広さがあり、窓だけはそれなりにある。なんの為の部屋なのだろう。眉を寄せていると、ふいに目の前の、一見、壁の一部と見紛うドアがスライドして開き、誰かが来た。
「……あ、クルフィ……もう、いいの?」
その姿を見止めるなり、彼女は目を見開き、わめく。
「──って、お前っ、どこにいたんだよどこに! 一人で逃げやがって!」
コトは、ぼやっとしながら、丸い盆に入れた急須と湯飲み類片手に中に入ってきた。緊張感のなさに、クルフィは混乱した。
「……この人は──その、おれを見つけたけど……普通の、おじさん、だった」
「はぁ!? コトはいつからそいつの味方にっ」
「……口を慎め」
拳骨が、彼女の頭上を狙った。彼女が咄嗟に避ける。男は、にこにこしているはずなのに、するどい目付きにしか見えない。
わざとらしい咳払いで、仕切り直した男が語り出す。

「まあ、さっき言った雇い主、というのは、嘘だ。きみの管理は一任されたが、しかし厳密には、違う。……上がね、きみを、こちらで」
「なあ、お茶うけ? は、なんだ、コト」
「……あー、これは……饅頭」
「聞けよ」



18:00 チュートリアル

 男の説明によれば、どうやらここは、中芯タワーの地下にある、避難スペースらしかった。何から避難するのかは、見当がつかなかったが、だからこんなに広いのだろうか。
「無駄に目立たないでくれないか。きみの悪事やなんやらの後処理は、こちらに来て大変だった」
男の靴が、タイルを軽く蹴る。正しくは、茶色い事務用スリッパだ。
 仕事のプラン、という十枚ほど紙を束ねたものを渡された彼女は、仏頂面で目を通しているところ。
 なぜかそのままその場にいる事態になっているコトは、不満も表さず、興味深そうに、近くからそれを覗いていた。
 ノーマルホールド、アクションホールド……
長い名前が並んでいる。魔法の圧縮率、波動……(魔力のサンプリングレートについて?)
モノラルの場合とステレオの場合、それぞれから抽出できる固体が異なっている。こういった本を読むのが好きな彼は、内容についつい興味を持って読み込んでいた。
 力の中にはなんらかの方法で、急速にゼロクロス(マイナスからプラス、プラスからマイナス値に変化する部分のゼロ地点)に戻そうとする時に結晶化するものもあるらしい。
こういう漠然としたのにもいろいろ理論があるんだな、と思う。
 しかし、こんなことばかりつらつらと並んでいるのは、いったいどういう業務なんだろう?
ところどころに、『ラブソング』とか『恋愛感情』という項目があるのがやけに気がかりだが……

「しっかしよー、いきなり後ろから来んのはヒキョーだろ! 手荒な歓迎にも、程がある!」

むすっとしたクルフィがぼやくと、男はハハハハ、と笑った。
「きみみたいな人以外が紛れこんだら、厄介だからね。警備は厳重にしていた。きみが、突っ立って何かに巻き込まれても、また厄介だからね。さっさと回収しないとと」
余裕の態度に苛立つクルフィが、拳を握りしめる。コトは、無表情で首を傾げながら男を見て呟いた。

「何か……調べる人だ…………とても…………うん、強大な力………力自体を否定するような……」
「きみは、いい目を持っているんだね」
「…………」
 これは褒められているのだろうか、それとも、睨まれているのだろうか。
男が全く笑いもしないので少し考えてしまった。もしかすると勝手にそんなことを言ってはいけなかっただろうか、あのときの少女のように――と、少し慌てているうちに、少女のほうははしゃいでいた。
「だろっ、すげーんだぜコイツ! 広範囲で見分けられるやつって、なかなか見ないしさ」
「あ、あの……別にその……おれ」
コトがすまなさそうな顔でうろたえると、クルフィは少し冷静になって言った。
「コイツは、組めると思ったんだ」
「……ふむ」

男がコトを見た。コトは、どうなるの、と言いたげな表情で、肩を小さくしている。
「……彼女には、手紙などで、ざっと説明しておいたが、うちは、世界に散らばる力の源を、回収する業務をしているんだ」
「それは、何……どうして……そんなこと……するんですか」

男が、クルフィに目を向けて、聞いた。

「きみは、薄々気付いていただろう。この国ではね、他者に影響を及ぼす強力な力は、ほとんど使えない。一定を保たれてしまうんだ。国が、ものすごく複雑な、均衡呪文をかけているからね。幻術や暗示系は、ギリギリ。でも、他要素が必要になるような強い力はほとんど出せない」

「出る杭は打つ、ってことか……なるほどな。相手がいつもより強いんじゃなくて、こちらの力を制御されていたのか」
「結果の現象としては、同じだ」
「そうだけど!」
「それを、なぜ……回収……」
「ああ、そうだったな。目的のために必要な力を――集めている、と言っていいかもしれない」
男は淡々と答える。
「でも、やつらにとっても、良いことだろうよ。使うことが出来ないエネルギーは、蓄積していくと、脳や、精神に著しい影響を与えるんだ。
他の者の力と反発しあうと、制御が効かないほど攻撃的になる。それを助けるのが主には『この場所』のお仕事ってわけだ」

「それに、組んでくれってことですか……ほかに、誰かは……」
「極秘につき少数精鋭でな、さらに他の奴らは今は、いない」
「はぁ……今は、ですか」
「痛ぁっ! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
 ふいに、クルフィが悲鳴をあげた。頭を押さえて痛みに呻きだす。尋常ではなかった。コトは病院に連絡しようと、携帯電話を鞄から漁る。男は、それを止め、彼女にゆっくり手をかざした。次第に、彼女の、頭を押さえていた手から、力が抜けていく。
「……あたたかい波動」
 男の、その顔には似合わないな、と琴は密かに、失礼なことを思った。
「あれ、楽になった……?」
 クルフィは少しだけ潤んだ目で、俯いていた顔をあげた。男が、回復系の力を使っていたのがわかり、密かに、そんなに悪いやつではないのかもしれないと感じる。
 先ほどから見ている限り、彼も、彼女も、何らかの力がある……
 それについてもコトは少しだけ前向きな感情を覚えていた。
「今になって反動が来るとは、遅いな」
「反動? なんのだよ」
「力を無理に押さえられているからな。力を使うたびに、反動で力に見合った痛みがくると、覚えておくといい。場合によれば、死ぬぞ」
「筋肉痛……みたい……」
「なんだ、じゃあ……筋トレしろってことか?」
「お前ら、聞いてたか?」

 自身が死ぬ、なんて言われても、クルフィはピンと来なかった。死んだ人は幾度も見てきた。吐き気がするようなおぞましい光景も、いくつも知っている。でも、結局は他人事だった。自分は、他者にはなれないのだ。ただ、気を抜くと、猛烈な痛みになって返ってくることは、理解した。

「――特に、持続性のある、外部に向けた呪文は、一気に使うと、お前が死ぬ。定期的に解除すれば、いい話だが」
「――持続性っていうと、誰かを操るとか、そういう類いのやつか。いや、あれは、暗示系だと思うし、ダメージなんて」
「それは、やったことがないが、例えば、そう――何かの封印、とかな」
「封印……」

黙るクルフィの隣で、琴は、自分がここに連れて来られた理由をまだ聞いていないと思い出した。

初めは、ヤバそうな人が来たから、さっさと姿を眩ませようと思っていたのに、気が付いたら、体が植え込みの影になる場所から動かなくなっていて、戸惑っているところを、倒れたクルフィを担いだ男に、来てくれと言われた。逆らうと、どうなるかわからないと思って、ついてきたのに。

「力の回収……」

想像よりは平和的とはいえ、なぜ、こんな物騒っぽい話になってしまっているのだろうか? クルフィと呼んでいるこの少女も、実は案外──というところまで考えて、自分の感覚を疑わないことにした。
 話しかけようとしていると、天井に雑にかかったスピーカーから、盛大な警報が鳴り響く。
「う、うわ、な、なに!?」
クルフィが相変わらず元気良く跳びはねた。琴は、お?というくらいの反応を示した。男がにやにやしながら、扉を指差す。

「さあ、初出勤だ。プリントは、さっき読んだな? 行って来なさい」「うぇーい」
「そ、そんな、社会見学のしおりみたいな……」
帰るに帰れなくなったコトが、涙目でいるが、誰一人として助け船は出さない。
「んー、振り込みはあの口座だったな?」
「報酬より、まず仕事をしろ。それに、月末に払う。今回のことだが、まあ、要は、外にいるお客さんをもてなせということだな!」 
じゃ、と男が出ていくと、残された二人はきょとんと目を合わせた。
「饅頭、全部食べてしまいました……」
「いや、たぶん、本当にもてなせということじゃ、ないと思うぞ」


18:32

 いつのまに、こんなに暗くなったのだろう。そろそろ、秋に近づいているのかもしれなかった。やや肌寒い夜の町は、相変わらずうるさくて、電気がピカピカと、寂しい足元を照らす。

彼女は、琴と二人で、エレベーターに乗って、まだ地下の範囲から出ていないガラスの向こうを眺めていた。光の中で、辛うじて残り続けるような、狭い闇は、無性に、心の中の弱い部分を、引っ掻き回すみたいで、彼女には、少し不愉快だった。

絶望的な孤独感は、どろどろした、真っ黒な感覚を生み出す。他者を巻き込んで、引きずって、落としていく、飲み込んでいく。

それのせいで、何人の友を失っただろう。寂しい、なんて思ったところで、鬱陶しい感情が止まらなくなるだけだと、知っているのに、なんだか感傷的になってしまう。

すべてが、嫌いで、憎くて、たまらなくなる。
ひたすら寂しくて、すべてがどうでもよくなって。
ときどき、自分では抑えられない。

「……あの町も、ここみたいなだったかな。私も、あんな感じだったかな」

小さく呟いたそれに、意味などなかった。切り替えないとと思うのに、惨めな気分が止まらなくなる。

「いいじゃないですか……おれは、誰とも違いました」

ふいに、隣に立っていた琴が、彼女の胸の内をなぞるように呟いた。

「……だから、町にも……人にも、繋がりみたいなの……感じられなかった」

彼女──クルフィが、意味を聞き返そうとしていると、ちょうど、エレベーターが、緊急停止した。
  狙い済ましたかのようなタイミングに、ますます眉が寄る。首を傾げるコトを引っ張って、フロアに降りた。どうやらここはB2Fで、地上に出るにはあと2フロア足りなかった。
「おいおい、故障か?」
「……あ、おれの、ミニカツ、あのとき落としたのかな」
「ミニカツについて、今、閃かなくていいだろ!」

「でも、おれのミニカツ……」

ミニカツって大体なんだ、とクルフィは言おうとしたが、すぐに切り替えた。
それは、不思議な直感だった。

「最下にいるときは、気付かなかったのに……暴走した力の、においがするぜ。このタワー内」

互いに、無理に歩み寄ったり、噛み合う必要はない。割り切ってみるのも、それはそれで、心地が良い。
納得した気分になっていると、琴が、ぼやっと歩き出す。転ばないか、クルフィは内心で心配した。

「そう、ですね……、電気の、痺れるような痛みが、熱くて、頭が揺れるような、焦げた感じが……する……」

目を閉じる琴に、無防備さを感じつつ、クルフィはそのそばに立った。

ここで、問題だった。
彼女は今さら、気付いた。力の感じはあるが、敵の姿が、目視では全く見えないのだ。

「──で、どうやって、そのミナモトさんを、回収しろっての?」

「……見えない……ですね。てっきり、人が、使ってるのかと、思ってましたが。っていうか、お客さんは外にいるんじゃ……わっ」

頭が揺さぶられるような頭痛に、琴が一瞬、体勢を崩した。なんとか持ちこたえたものの、少しの間、痺れが続くようだ。

「大丈夫か? あのジジイ、なんとか回収して、箱に詰めて、頑張ってねーほし印ーくらいのことしか言わなかったよな。ちくしょ、騙されたかな……」

「ああ、わかった。リスクがあるなら、体から切り離して使うスタンス、と……なるほど……勉強になります……」

「あのさ、勉強になってる場合じゃねーよコト!?」

仕事内容についての説明を聞いた際、実体や、どんな姿で、どんなことが出来て、そもそもそれは何であるのか、という質問に対して「未知だ」で貫かれては、どうしようもなかった。

お前はお前の存在を説明出来るのか、という話になりかけて、退散したのは、少し前のことになる。

帰ろうかなーと文句を言いながら、ひとまずは外に出ないといけないので、エレベーターに乗った辺りで、出ていったはずの男が、にこにこ見送っていたりもした。腹立たしい。

しかも、がんばってねー、害虫駆除みたいなもんだから。と言ってどこかに、早々退散したのだ。

「あー、せめて、位置が特定出来ればいいんだけど……うわっ」
 クルフィが、何かに右足を取られて転んだ。受け身はとったものの、中途半端で、少しアザが出来る。
「いたた……あ」
壁を見た。固そうな素材だった。床も、多分そうだ。薄暗い闇で、周りがどうなっているのか、実はよくわからない。

 しかし、途方にくれていては、帰ることが出来ないのだ。どうにかしなければ。クルフィは、難しいことを考えるときの癖で、親指の腹を噛んだ。少しだけ、落ち着いて、何かがわかったような気がしてくる。
小さく息を吸うと、自分の髪の毛を一本引き抜いた。
「コト」
「なんですか……」
「なんか、個体、持ってない?」
「えっ……そんな、アバウトに言われても……えっと、何でも良いんですか?」
はい、と渡されたのは、やけにリアルな、赤い斑点のイカのストラップだった。金具が壊れたので、ポケットに入れっぱなしだったようだ。

「サンキュー」

イカに髪の毛を巻き付けて、少し念じてから放ると、バチっと音がして、何かがそれに食いついた。
クルフィが、納得した顔をする。

「……ああ、わかった。これ、遠隔操作じゃなくて、システムエラーだ」

「え? え?」

「……波が、一定だった。意思を感じない。誰かが仕向けているなら、力とともにさ、強い意思を感じるんだよ」
「で……なんで、イカ、投げたんですか?」
「あー、そりゃあ、こうするため……」
 クルフィが右手を軽く振ると、イカが右に、浮きながら引きずられるように走りだした。バチバチと、何かを集めている。
「……あ、こっち来た、逃げろ」
「ひぃ!」
  イカが一周するために走ってきたので、何らかも、こちらに向かってくる。二人も避けるために走る。

「な、最上階まで、行けるか?」
ぜえはあと息を切らしながら、クルフィが聞くとコトはさらに辛そうに聞いた。
「え……エレベーター、ですか……」
「階段だ!」
「あ、あの……おれ……持久力が……」
「とりあえず、何かあったら、骨拾うから!」

「死ぬんですか! 嫌な前提です!」

疲れていても何がなんでも、とりあえず、走るしかなかった。

非常階段は、部屋を奥に進んですぐの、分かりやすい場所にあった。

鍵をこじあけて(なぜかすんなり力業で開いた)かけ上る。心臓が絞られて、ひっくり返っているような激痛に、喉が焼ける。琴は、本当に、虚ろな目で走っていることが、よく見えない闇のなかでも感じられた。
明日は、筋肉痛だろうか。
クルフィが、激しい股上げ運動に辟易し始めた頃、ようやく1階に着いた。
最上階までは、案外長い。
「つ、つら……お前、大丈夫か」
肩で息をしながらクルフィが訊ねる。
「……はい、今はまだ……骨格標本になりたくはありませんし……」
「知らなかった、お前、拾った骨を標本にして欲しかったのか?」
「ええ、せっかく拾うなら標本に……って、なりたくない以前に、死ぬ気はありませんよ!」
冗談を言い合いながら、一階を見回してみる。
今さらだが、走るのに必死すぎて、イカの操作を忘れていたことに気がついた。というか、あのイカのストラップは、鞄に付いていたのだろうか。
「──悪い、なにか間違えた。あれ、見失ったわ。イカを呼び戻すから、離れてろ」
空気を変えたクルフィに、琴は、はっとして頷く。それから、少し距離を空けた。
「じゃあ、召喚しまーす」
「なあ……お前は、わざとなのか?」
数秒後、太い声がして、イカのストラップを残酷に握りしめた、あの男が立っていた。



19:13


「ひゃっほう、イカでおっさんが釣れたぜ、コト! さあ煮るか? 焼くか?」
「……即刻リリースします」
 現象については、正しくは、システムエラーとは違っていた。
この場所は、最上階の司令塔から膨大なエネルギーで、タワー内の全コンピューターを一括管理しているため、少しどこかにエラーが起きたら本来エレベーターすらまともに起動していないのだ。男によれば、誰かが放ったままにしていた、人間用に売り出された悪質な追尾系イタズラ用玩具の類いの、中身、が残っていたらしかった。
(しかし、なぜあの階でエレベーターが止まったのかは、謎のままである)
「純血の人間には、しっかり見える物だ。なのに、二人とも、見分けられなかったというのは、また、厄介だな」
「な、おっさんは見えた?」
「コト、この猫に首輪を付けておけ」
男が、クルフィの軽口を、険しい顔で琴へと流したが、琴は取り乱し、聞いていなかった。男がおや、と意外そうな顔をする。
それほどまでにショックなことだとは、クルフィも思っておらず、様子の変化に戸惑う。
「おれ……人間です、そんなはずないです、なのに、そんなはず……」
琴は、震えながら、握りしめた指の先をナイフのように滑らせて、爪で左腕に力を入れた。皮膚がわずかに割け、だんだん血が染み出てくる。それは一瞬の冷たさが、じわじわ、燃えるような熱さへと変わっていくようだった。
 小さな傷痕が、それ以上に大きな彼の葛藤を、痛みに置き換え、必死に押さえ込もうとしている。うつむいた前髪が、涙を隠す。流れる血は、すぐに止まった。
「んー、よくわからないけど、まあ、そんなはずないってなら、信じるぜ。ほらさっさと笑ってくれっ。というか、とりあえず、なんか食いに行こう! 腹へった」

クルフィは下手に気遣うこともしなかった。食欲第一に見える言葉だったが、きっと彼女なりの優しさなのだと琴は思った。

「……はい! 何が食べたいですか」

「肉ーっ!」

<font size="4">20:00</font>

 外に出てみると、すっかり冷え込んでいた。
至るところにある、ギラギラした灯りが眩しい。楽しそうな若い男女が、そばを通り抜けて、どこかに入って行くのを見ながら、苛立ちをこらえる今の彼女は、誰からみても物騒な形相だった。
現にクルフィの頭の中はごちゃごちゃしている。

一見すると、何も考えていないようだが、実のところは、気難しいのが、彼女だ。しかし、本人自身は本気で何も考えていないと信じてきた。

常になにかをすることで、暗い感情を隠し、常に食べたり笑うことでごまかし、嘘をついて生きる。
醜い自分が悟られないように、彼女が身につけてきた処世術だ。
だから自分の本来の感情について、深く考えることもない。

自分と並んで歩く琴は、少し寒そうに身を縮めていた。嫌な気持ちを誤魔化すように、彼に呟いてみる。

「にしても、この町は、平和だな!」

「そう、ですね」

たくさんの笑い声が、今の自分に、手の届かないものの、抽象的表現のように思える。それが、腹立たしい。少しだけ話したあとは、長い沈黙だった。

互いに、話すことが浮かばず、疲れもあり、話す気力も少なくなってきていたのだ。
賑やかな町が、どうしようもなく、心をかき乱す。すべてを壊せたら、と物騒な考えに陥る。

今のクルフィは、ほとんど余裕がなかった。歩くうちに体が上げはじめた悲鳴は、それほど痛いものだったのだ。自業自得とはいえ、軽く遊ぶ程度ならと、侮っていたらしい。

痛みを押し隠そうと、何か提案を出そうとは思った。なんでもいい、何を食べるか、とか、家はどこだ、とかそういえば、お金がないかもしれない。
頭では思うが、しかし、口に出すことが出来ない。指が痺れて、足がじわじわと締め付けられた。
動悸が激しく、息が辛い。何より、激しく頭が痛かった。
黙ったまま、痛みを隠すのに精一杯だった彼女は、琴の様子の変化にも、しばらく気付かない。

「空気……ヒリヒリ、してますね」

どのくらい経った頃だろうか。琴が、震えた声で、そう口にして、わずかに動揺してしまった。

「え?」

なんとか声が出せたことに、内心で安堵しながら、聞き返す。

「戻そうと、打ち消そうとする、強い空気を感じます…………なんて、言うから、変に思われるんですね、おれは」

琴は、寂しそうに言った。先ほどの話を思い出しているのだろう。

「変じゃないやつ、なんて、どこにも、いない」

そう言って、いつの間にか俯いていた顔を上げて、彼の目を見て、事態に気付く。今の琴の表情は、自分と同じ、何かを隠すのに必死な表情なのだ。
彼の顔にはうっすらと汗が滲んでいた。

「おい、お前、頭が痛いのか?」

「それは、あなたでしょう」
「……私は、別に」

またしても沈黙。
それは、心地悪いものではなく、いっそこのまま黙っていられたらと思うようなものだった。痛みが思考を麻痺させる。イライラさせる。背後の壁がいきなり、赤い光に照らされた。 救急車が道を空けるようにと促し始める。

「なにかあったのかな」

「…………そう、ですね……」

「目の前の……焼肉屋でいいか」

「そう、ですね……」

歩いて数メートル先にある木看板の焼肉屋に入ることにして、二人はまた歩き出す。

 まだタワーからそんなに離れてはいなかったが、そこで、気が付いたことがあった。

「──ん、あれ? なにか、おかしくないか」

「ええ、おれも、何度か言おうと思ってましたよ」

鞄の中の、琴の携帯電話が鳴った。曲はどうやら『メリーさんの羊』だ。それも、やけに楽しげなギターアレンジだった。

「はい……」

『場所を伝える』

かけてきた男の、第一声が、それだった。自分が忘れていたのだと思っている彼は、驚いて聞き返す。

「えーっと、つまり」

『すぐそこに見えるだろう。焼肉屋。もうじき、あそこが燃えるんだ。監視して欲しい』

「なっ、なんで、そんな――」

『タワーのシステムが、感知したんだ。さっきのアラームはその知らせで、それから、何かに力が使われることで場所の詳細が探知出来る。それまでは『外』くらいしか場所を絞れなくてな』

「そうならそうと、言ってくれれば……てっきり、さっきのは、既に、中まで上がり込んだのだと勘違いしました……」

『待つのは辛いだろ。不安だけ与えると、何をされるかわからなかったもんでね』

「……さっき、仕掛けたのは、あなたの時間稼ぎですか……」

電話が切れた。伝えたいことだけ伝える、ということだろうか。それとも電池が切れたのか。

「じきに、焼肉屋が、焼けるそうです……」

「はは、笑えない冗談だな……こっちを向け」

電話をそばで聞いていたクルフィが、複雑な表情をした。彼女は目を閉じて、ゆっくり、緑の光を思い浮かべる。それから、コトの頭に、いきなり手で触れた。
「な、なに……」

ひんやりと、体の熱が静まる感覚があった。楽になった、と感じる。痛くないと思っていたはずなのに、体が、軽くなったみたいで、視界が驚くほど開けた。

「ふふ、回復系は、案外、いけそうだな。気力が残ってる序盤のうちなら」
     □

 いっておくが、おれは、就職した覚えがないぞ。と。羽浦琴は、思っていた。

ただ、口を動かすという動作……特に、言葉を発する、という動作が億劫でならないので、切り出せずにいる。

彼には、なんとなく、流されやすい欠点があった。
別に遠慮があるとか、気遣いができるわけではないが、適当に相槌を打ち、適当に空気を読んでいれば、思慮深いとか、優しいとかだいたい言われてきたので、悪いこととは考えていない。

 ただ『余計なことを言わない』それだけで、周りから信頼されたり、相談事をされたりするようになっているし、別に都合も悪くなかった。

それでも。言うときは言う。言わねばならないのだが、この人を放っておくのも、別の事件が起こりそうで、不安になる。
結構、放って置けないのだ、こういうのは。

────と、見上げたのは、モデルみたいに、すらっとした、だけど、あまりいいと言えない目付きの少女だった。
背が高い。自分より年上なのだろうか。詳しいことは聞いていなかったが、なんとなく、いろいろな経験をしてきた風なので、漠然と考えている。

 怪しげな組織に、なんだか関わってしまったのも、この欠点が影響していたといえるだろうし、この綺麗な少女が、歳が近そうだったのもあっただろう。

 人をかぎ分けることは自信があるつもりだが、とはいえもし、変な売買とか始まったら、即座に逃げるつもりだった。

 危ないことなんて、好きじゃない。だけど。若さなのかなんなのか、好奇心に抗うのが、もったいないようで、ずるずると、引きずって……
本当になにを、やってるんだろう。
(幸いにも、そんなことはなかったが)

 放って置けないのには、彼女がなんか不安だ、という以外にも理由がある。彼女が、自分のものと、どこか似たような、暗い闇を抱えていることを、感じ取れてしまったのだ。

もう二度と、そんな人に会えないような気さえした。だから、今もこうして──

「あの、ありがとう、ございます……おれ」

「今日、付き合ってくれて、ありがとな」

 唐突だったので、突き放されたような、そんな気分になった。
慌てて絞り出した言葉を遮って、彼女は言う。

まっすぐに、建物を眺めて、小さく笑って。街の、光が──反射して、きれいだなあ。と、思う。
なんだか、切なかった。

「……危険なことに、引き込みたいって、言いたかったわけじゃない。私に関わると、危ないかもしれないから……だから、みんな」

みんな、私から離れていったから。と、彼女はゆっくりと言う。

「──私、結構、わがままでさ。嬉しいと、つい、ノリであんなこと言っちゃって。もともとおまえを引きとめる権利なんて、ないし。あのジジイには私が、改めて言っておくし……傷、治っただろ? 早く、帰れよ」

優しく、また明日ね、とでも言うように。

「……い、イヤです!」

反射的に、返していた。
遠くでパトカーの音がする。無線らしい雑音が、思考を乱す。琴は自分の意思で、そう答えた。はっきりと、流されずに決断していた。

「え」

 彼女は面食らったといった感じに、きょとんとした。それから、笑う。冗談だろというように。だけどわずかに喜びを込めて。

「いや、帰れって! マジであぶねーし、お前が死んでも、さすがに、焼けちまったら標本作れないし……物質が燃えちまったらどうにも再生出来ないし」

「結構です。自分の意思ですから。おれは……」

 ただ、確かめたいと、琴は思ったのだ。自分を、未来を、そしてこの人を。なんだか、初めて、自由になれたような、そんな気さえしていて、それを手放したくない。
「そっか……」

「はい」

あはははは、とクルフィは豪快に笑った。それから、言った。

「──そういうの、好きだぜ!」

彼女は、笑う。琴は答えない。腕を引かれた。クルフィは、何も言わなかった。二人は、奥へと進み出す。琴に、後悔はなかった。

・・・・・・・・・・・・

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──電話は、好きじゃない。
声だけじゃ、本当の想いは完璧には伝わらないのだと、その男は、思って、考えていた。
周りの者に冷酷と言われる彼に、こんな一面があるとなれば、社員の何人かくらいは、好印象を寄せるだろうか。

電気も付いていない、タワー内の一室で、相手の声の振動波形を想像しながら、彼はいらいらした様子で、赤い印を付けたボタンを押す。
彼が相当に機械音痴であることは、部下にはまだ知られていない。

やあ、と受話器の向こうの者が挨拶をしたと同時に、男は、要件を切り出した。

「体質が変異する子どもが、人間に増えているというのは、確かなのだな。今までは信じたこともなかったが、今日、確かめたよ」

電話越しの男は、それを聞き、やっとわかってくれたかというように、早口で語り始めた。

「──おそらく、魔族たちは人間を惹き付ける特異なフェロモンを持っているだけではなかったのだよ! 私の考えでは、魔族と人間が関わる空間では、今までは普通の人間として育っていた子どもの正常発育におけるなにかが歪み、エネルギーとして引き出してしまうのだっ!」

その男には、今さら、彼のこの奇妙なテンションに突っ込みを入れる気力はなかった。
昔馴染みだが、変わらない性格である。

「何かってなんなんだ。漠然として、関係性への根拠が乏しい」
「焦るな。だから、今研究しているのだろうが。そんなものはない、という態度を取り続ける上にも内密でな」
「すまない。そうか。リミッター破壊の方は」
「まだ、抑制の限界が測れていないだろう? 振りきれるくらいの力があるやつが、そのうち、出てくるはずさ。ちまちました抑制の呪いを解きほぐしていくよりも、力で捩じ伏せた方が早いというのが、私の考えだよ」

「そうだったな――果たして、礎になるかな、彼女は」

「さあ……それにしても、きみは、上司に敬語を使わないねぇ」

「元クラスメイトに、使いたくはない。お前の口調にも腹が立つ」
「おいおい、どうしたんだ、気持ち悪い」
「いまさら翼といわれても、迷惑なだけだ、いっそ死んでくれ」
「翼が嫌いかね?」
会話を成り立たせるのが難しく思えたので、最後まで聞かずに通話を閉じた。
頭が痛い。今日は、どうしてこんなに疲れるのだろう。



Episode2.火と制限

21:00

 この世界で最も力を持つ、《要素系》の呪文に関しての制約は厳しい。特に、《火》は、恐れられているなかで有名なものであり、つい最近も、芸能人の坂下なんとかが、それを使ったと逮捕される報道があったばかりだ。今年から税金を8パーセント下げるというニュースを見ていたとき、同時に飛び込んで来たので琴も覚えている。

「妙だ……」
「……なにが、妙なんだよ?」 
疑問そうに呟く琴に、クルフィが反応する。
ようやく着いたかと思えば、焼肉屋が本当に燃えてしまった。一瞬のことだ。誰かの意思を持ち、動かされているらしい炎は、消化活動で容易に消せるものではなさそうで、消防隊の拡声器かなにかでの、緊迫した声が、しきりに辺りを飛び交っている。どうしたらいいかわからず、現在、二人は影に隠れて立ち尽くしていた。

「いや……魔力制限が、この近辺だけ、弱まってて……店って、特に、そういうの、厳重なはずなのに」

「わかった! あれだな!やり放題だな! ヒャッホー!」
 特に話も聞かず、クルフィははしゃぐ。魔力の制限が、少しであれど、なくなるのなら、それは大暴れしても大丈夫という思考である。
「あ、ちょ、ちょっと!」
 琴が、走り出した彼女を止めようとするが、彼女はすぐに足を止め、姿勢を崩した。先ほどまでの痛みが残っているのを忘れかけていたのだった。
「おおっと。そうだそうだ。魔族によくあるのが、回復し忘れで死ぬってやつだ……あるだけ使っちまうからな!」

「なにを主張したいんですかあなたは……」
「ちくしょー、歩いてもMPが回復しない!」
「……やるんですね、そういうの」


21:15

なんてふざけていると、突然、周囲がざわつきだした。

「なにかあったのか」
クルフィがキョロキョロと首を回す。
「みたいですね……」
 琴も顔を上げて周りをよく見てみた。多くの人の視線の先には、火の中を平然と歩き、屋根にのぼる誰かの姿があった。

「あれ──このひと……」
「ん?」

その人物は、逮捕されたはずの、元国民的美少女アイドル、坂下花菜奈(さかした はなな)だった。
 くるんくるんに巻いた背中くらいまでの銀髪を、ひとつに高々とまとめ、さらにそれを二つに分けてお団子にして、伸ばしている。
……よくわからないスタイルだが、とりあえずそれだけやれるくらい、髪が長い。
アイドルしか着られなさそうな、綺麗な布やスパンコールをあちこちにふんだんに散りばめた、輝くドレス。腰が細い。ぱっちりした目は、意思が強そうだと、琴は思っていた。歩きにくそうなブーツをはきこなしている。彼女は、よく響く甲高い声で挨拶。


『こんにちはああーん!』

 アイドルが、大音響(逮捕されたはずなのだが、今はマイクをつけているらしい)で、焼け続ける焼肉屋のてっぺんから声を上げるのだから、誰もが、唖然としてしまうしかない。リアクション出来ない。クルフィはドン引きしている。

『んー、にゃ!? リルっちのにおいー!』
「あいつ、なんでここに……」

 クルフィが、思わずその《舞台》から目をそらした。知り合いだ。屋根の看板を照らすライトが上向きだったなら、きっと、ますます舞台らしかっただろう。

「知り合いですか……あの、アイドルの坂下なんとかって人」

琴は、アイドルって、実物を見ると印象変わるなあくらいに思いながら、聞いた。名前がよく思い出せない。

「坂下ぁ? あのお気楽娘はそういう名前に変えてアイドルやってたのか……」

少しすると、はにゃにゃーん!!
などと、気の抜けた応援が飛び交い始め、ファンが集まってきた。クルフィは呆れて俯く。琴は、なにこの人、と上を見上げたまま固まる。目が合った。かと思ったら、彼女が見ていたのは、琴の隣にいる人物だった。

『リルっちー! そこにいたんだね!はにゃにゃだよ! 愛して』

 クルフィは最後まで聞かずに、指でねじるような動作をして、マイクを捻り壊す。引き寄せるには、人が多くて出来なかったが、壊すには数メートル先の距離で足りた。

「なあ、なーんも聞こえないよな、コト?」

「あ……えっと……」

 どう言おうかと思って、ちらりとうかがう。すると、彼女の目が、なんというかマジな感じだったので、琴は、必死に頷いた。まだ死にたくはない。

「あう……リルっち! 僕ちゃんと、そいつ、どっちが大事なの!」

 マイクが無くなったが、みんながシーンとしているのもあって、わりかし声が聞きとれた。クルフィが、聞こえない聞こえないーと、彼女が見えない位置に回ろうとするので、琴も聞こえないことにして、その場から離れようとする。

 その間に坂下花菜奈は「僕ちゃんと、リルっちは将来を誓ったよね!?」と叫ぶし、彼女のファンが口々に何か言ってざわついているし、クルフィは聞こえないと呟き続けるし、消防隊が『危ないので下がって!』の放送を、最大音量でしなければならず、現場は混沌を極めようとしていた。
「……なあ、コト」

 顔が見えないので、何を思っているかわからないが、クルフィが、ライトが消された看板を見上げたまま、琴に聞いた。淡々と。
その、今までと違うトーンに、琴は少し戸惑いながら答える。

「え、あ……はい」

「あいつ、どう思う」

看板のそばで、手を振っている少女を見る。
二十歳を過ぎたらしいが、とても、そうは見えない。人間年齢にしてはいけないのか。と琴は考える。
人間として売り出していたアイドルだったが、テレビで見た、最初から、琴は少し違うということを見抜いていた。

「どうって……あれは、えっと……とても、その……今ある炎を使っているようには、見えないっていうか。あの炎からは……違うものを感じるっていうか」

「私も、そう思うよ」

「じゃあ、これは、いったい……」

 とにかく、火を消さなければならないだろう。意思を持つ火は、自然に燃え広がりも、自然に消えもしない。ただそこに有り続け、近づいたもののみを、燃やす。
クルフィが叫ぶと、しっかり聞こえているらしい坂下が反応した。髪がふわ、と揺れる。

「おい、なんとかバナナ」
「昔みたいにー、キャノって呼んでくれなきゃ、やーだー! けど、わかった!」

 坂下花菜奈は、何気なく服の下、というかブーツの下に付けている靴下のガーターの辺りから挟んでいたらしいマイクを取りだした。ホルスターかよ、まだマイク持ってんのかよ、とクルフィが舌打ちする。

「みなさん──おやすみなさい!」

 小さく息を吸い、彼女がそう、マイクに語りかけると、キイイインとハウリングし、周囲に波が響き渡った。琴は一瞬、倒れそうになったが、しかしそんなことはなかった。クルフィは平然と、彼女を見上げる。

 周囲にいた、ざっと数百単位の人間が、それぞれ、眠っていた。立ったまま。近くに寄りかかっている人もいるが、総じて眠っているように見える。

「……これは」

 琴が唖然としていると、ストン、と看板から降り立った彼女が、近づいてくる。あの歩きにくそうなブーツで、よくそんなことが自然に出来るものだと思った。

「にひひ、僕ちゃんが得意なの、催眠だからね! ねー、リルっち」

 彼女は、クルフィに抱き付こうとした。しかし見事にかわされた。琴は、なにか巻き込まれないように、そっと距離を取りはじめる。しかし、『自分だけ逃げんな』とクルフィに睨まれて、やめた。
 
 しかし今は、細かいことは置いておこうと、琴はとりあえず通話ボタンを押す。

「はい……」

『そこにいる、キャノに会ったか』

 その男の声が、出るなりぶっきらぼうに要件を切り出した。予想出来ていた琴は、特に何も思わない。

「まあ……はい」

琴が返事をしながらちらっと、右側を見ると、隣は、なんだかわからないことになっていた。正しくは、クルフィが頬擦りされている。うまく押しやれないのか、もがいている。
(クルフィが、正気を失いかけているなんて、ただ者ではない気がする……)
一瞬、クルフィと目があった。

「わ、わわわ、私は……獅子を撃つのに、全力を用いることができないんだよ!……っ、ぎゃあああ!」

 よくわからないが、加減が苦手で、か弱そうな人には、手が出せないということだろうか。と琴は考える。

「──っていうか、なかなかいませんよ、獅子を全力で狩りにいく人類」

 兎と獅子が逆転している。というか、なぜその例えにしたのだろう。

自分が何しに来ていたのか、忘れそうだ。

 ちょうどそのとき、琴の携帯電話が鳴った。『メリーさんの羊』(ギターアレンジ)だ。やけに、ここでは場違いに陽気だなと、琴は考える。そろそろ変えようか。

 遠くから優しい笑顔だけを向けておこう。おれは関わる余地が無さそうだと、琴はとりあえず笑顔で手を振った。

 そのうち、押し倒されてもおかしくないかもしれない、と思ったが、いや、違う。じゃれているだけだ。緊迫感もないし。そうだそうだ。あんまり目が合わないうちに、通話に戻る。

『今回は彼女に、協力してもらうことになっている。うちに、所属しているんだ、一応』

「……火を、使ったのは……誰ですか?」

『暴走だ』

「発散されないエネルギーのみが、この場に溜まってしまったと……そういうことですか」

答えではなく、指示だけが告げられる。彼もなにやら急いでいるらしい。

『自分を、まだ人間だと思っている、変異者を、見つけて、そいつから──その《意思》の代わりとなっているものを、回収してくれ』

「わかりました」

琴は、少し動揺したが、努めて短く、悟られないように返事をした。

『ああ、それから』

「はい……」

『そこに来ている、彼女のファンの人間が、怪しい』

どういうことかと、聞こうとするころには、既に通話が切れていた。

(一方的だなあ、どうも……)
<font size="5">21:20</font>

 火は、一点ずつで、数ヶ所、集中して燃えていた。煙を吸わないように少し離れた場所で話す。

「なんつーか……キャノは、その」

 珍しく歯切れが悪いクルフィを新鮮に思いながら、琴はどうしたものかと思っていた。彼女に妙になついている(?)キャノは、琴を品定めするように眺めている。

「……視線が痛い」

呟いた言葉を、彼女の説明に頭を悩ませていたクルフィが拾った。

「あ、何か言ったか、コト」

「いえ、その、キャノさん……どうかしましたか……」

「むむ、コトちゃんかー、僕ちゃん、どうして一般人がここにいんのか、わかんないんだけど」

──と、いいながら、琴ではなく、クルフィに肘打ちする。クルフィはそれを頭だけで避けながら、ため息を吐いた。

「あんたこそ罪人としても今をときめいてるんだろ? なんでここに──」

「……そりゃあ、リルっちが来るって聞いたからだよ。僕ちゃんは火の術に関係ないし。いくら僕ちゃんのライブ会場がリアルに熱く燃え盛ったからって、ひどいよね」

「なるほど、リアルに燃え盛ったらそりゃあびっくりだよな……っていうか、そのしゃべり方、もうやめていいぞ」

「うん、わかった。ああ疲れた」

(うわ、突然淡白になったな……)

 琴にはなんの説明にもなっていない気がしたが、それよりも、優先すべきことを聞いた。

「あの……キャノさんのファンの中に、この暴走を起こしている人がいるかもしれません」

 琴が言うと、キャノは頷いて、寝ている人たちを見回す。

「うん。そう思うよ。前から、そんな気がしていたの。少しでも、暗示に抵抗できる力があるなら、寝たフリしてるんじゃないかな」

 突然、ずいぶんと話しやすくなってしまった。これはこれで、どうすればいいんだかわからない。……今まで散々テレビなどで見たあれは、ただのキャラ作りだったのだろうか。と、琴は考える。生きるって大変なんだなあと、少し同情に似た気分だ。
その視線を感じたのか、複雑そうに、彼女が言う。

「愛想をふりまくのに、普段、あのくらいテンションあげてないと、持たないんだ。まあ、もうそんな必要ないけど。リルっちとは地元が同じなの」

「わかりました……」

 説明について問い直す空気じゃなくなってしまったが、とりあえず寝たフリをしていそうな人を探すことにした。クルフィは既に、どこかに走っている。
後を追おうとしたら、キャノに呼び掛けられた。彼女の方に首を向ける。
真剣な目をしていた。

「──あんたさ、一般人って、どういう種族かって意味じゃなくて、職業的な話だったんだけど。もしかして、あのファンシー男に仕えてるの? ここに来たのもそういうこと? そういうことでリルっちが連れてきたなら、信用する」

それは、強く、意思を感じるしゃべり方だった。
なんだか、印象が変わった気がした。
アイドルに興味はないけれど……

「……はい。そういうことです」

 ファンシー男に触れなかったのは、なんとなく、その方が無難な気がしたからだ。

 クルフィを追いかけようとしていたら、待って、と言われた。

彼女が、マイクのスイッチを入れる。琴は、またあれかと耳を塞ぐ。

「──ってことでー、起きてるクズは僕ちゃんのとこまで来なさい!」

 キイイイインと、反響がこだましていくが、誰も、起きない。クズって、ファンじゃないのかと琴は思ったが、こういうのを喜ぶ人間もいるそうだ。ただ、琴には理解できそうになかった。 

一瞬、バチッ、と静電気みたいな音が、マイクにわずかに跳ね返った。しかしそれだけで、誰も起きていない。困惑する琴に、キャノはお構い無しで、どこかを目指して行く。

「方角がわかった。行くよっ、琴ちゃん!」
「あ、待って……」

 どこにだろうと思いつつ、横たわる人の山で埋まる駐車場を走って、最終的には、クルフィが一人の男の首を掴んでいる現場に遭遇した。

「強い反応がある。こいつだ」

……クルフィが、無防備な人に、かつあげかなにかする、犯罪的な図にしか見えないと、琴はつい思った。男は、まだらに禿げた60代くらいで、紺のスーツ姿だった。キョロキョロと、視線を動かして戸惑いを隠せずにいる。

「あの……」

男がおどおどと、喋り出した。クルフィは苛立っている。

「あ? んだよ。まだ息が出来るうちに、早く火を止めろ!」

「……これは、私が──?」

「そうだよ、早くしろ」

チッ、と吐き捨てるクルフィに、琴は、別の意味で、はらはらしていた。この人は一般人だ。そりゃ急に、こんな暴走を起こしてしまったのかもしれないがだけど、普段は善良な市民だろうと、思った。

 男は突然、気味悪く笑い出す。それから、ぶつぶつと呟いた。

「……私にも、使えたんだ……ははっ、私にも、使えたんだ。家内にフラれて……いいとこないと思ってたけど……格好いいじゃないか」

 聞いていたクルフィの拳に、静かに力が入る。だが、ぐっと堪えていた。

「こんなもん──」

 そんな力のせいで、彼女らは迫害されて、恐れられてきた。きっと、それを、格好いいなんて言われるのに、思うところがあるんだろう、と琴は考えた。だが、彼の状況も理解し、堪えているのだ。
人間だった、はずなのに、突然、こんなふうに──

「……制限されて、持つだけでお前でも即刻捕まっちまうような、こんな力が──いいところ?」

誰かが、後ろから、キツいトーンで叫んだ。キャノだった。今までの声とは比べ物にならない、怒りがこもっていた。

「許せない、許せない、許せない、許せないっ! お前みたいなクズ! 武器だよ、人を殺せるような、武器を、いつ、感情が跳んで制御が効かなくなるかわからない武器を、抱えて生きるんだよ! 頼んでもないのに、寿命を代償に、磨り減らして!」

 男が、一瞬、驚いたような顔をしていた。だが、本人になにかを確認することはしなかった。拒絶を感じたからだろうか。

 クルフィが、ふと冷静になる。今は彼女の方が、不安定で、危険なのだろう。うわーん、と泣き出してしまった。クルフィは困ったように頭に手をやりながら、視線を泳がせている。
そんな風に考えたことなかったな、と呟いたのが、琴にだけ聞こえた。

「あの……」

そっと、クルフィのそばまで出てきて琴は彼に声をかけた。男は、気弱そうな少年を見て、態度を変える。

「なんだ、ガキか……お前の連れなら、何とかしてくれないか?」

「……あ……」

 卑しい目。

(あれ……? なんか、どうして、だろう……)

それを見た瞬間に、何かを、思い出した気がする。どうしてか、説得しようとさっきから選んでいた言葉のならびが頭から次々と抜け落ち、冷淡な感情が溢れてきて──

「聞いてるのか? おい、迷惑してるんだ、私は」

「止めろ……さっさと」

 それは、今までにない、感情を排した声。男が怯む。
冷たい空気が、辺りを包んでいた。感じたことのない、嫌な空気。どろどろした波。

「なんだよ、これ……」

クルフィが身震いする。キャノは怯えて、思わず彼女の背中に隠れた。
なにが起こっているのか、誰もわからない。
「なあ、止めろよ。早く。死ぬ気でやれ。……俺はお前なんか、助けない……出来なきゃ殺るだけだ」

それは、その場の誰より冷えきった声だった。ひい、と男が怯え、それに合わせて自信をやや喪失した火が少しずつ小さくなっている。

 ひんやりした空気が、男の表情を固めていく。琴は無意識なのか、意識的になのか、彼女にかわってその首を掴み、男の頬を強く殴った。細身からは想像のつかない力だ。男の口から何かの塊が吐かれた。
琴は手を止めない。

 吐かれたのは気味の悪い、まがまがしい黒色の何かだ。それは、やがて煙になり、空中で消える。火も、同じように徐々に消えて無くなり、さっきまでの現場は、焦げた跡だけが残っていた。

(あれは……)

 クルフィはそれを見て何か考え込む。地面に小さな欠片が降ってきた。それはほとんど輝きのない、透明な玉だった。

 キャノは琴を呆然と見ていたが、やがてまた、変化に怯える。

終わっていない。琴は無表情で男を蹴りあげて──転がったのを見て、笑っていたのだった。

「ねっ、ど、どうしたの、あの子! おかしいよ」

 何度も何度も何度も、重点的に腹を蹴っている。ボコ、とそれに合わせて嫌な音が聞こえた。異様だった。キャノが顔をしかめる。クルフィも戸惑いを隠せずにいた。

「もう、終わっていいぞ、コト。帰ろうぜ、な?」

クルフィがコトの腕を掴み、声をかけたが、届かない。

「……消えろ」

「どうしたんだよ? それ、人間だぜ?」

「──には、価値なんて」

「なあ、おい」

「……え?」

 ふと、我に返った琴が、目の前で倒れている男を認識した。目を見開き、固まる。彼の前で、痣だらけで、シャツの腹の部分に重点的に靴跡や土汚れがつけられた男が、失神していた。

「ひどい怪我、誰が……こんなことしたんですか……!」

言ってから、靴跡と、自分の靴を見比べて、頭を捻る。クルフィが恐る恐る聞く。

「まさか……お前、覚えてないのか」

琴は首を傾げて、気まずそうに、男を見ている。

「ええっと、はい……まあ」

琴はぼんやり立ち、さっきと比べ物にならないほど、穏やかで、頼りなかった。

<font size="5">22:00</font>

 結局なにが源だったのか、よくわからなかった。クルフィは、たぶんそれ、琴が壊しちまったわ、と言ったが、それしか言わなかった。それぞれ、怒られるのを覚悟でタワーの地下に戻ったが、男はご苦労だった、と言った。にこやかに、労っている。

「あの、おれ……」

 琴は、なにかをいいかける。誰も触れない。クルフィは戸惑ってはいたが、そのうちすぐに、琴にこれまで通り接していた。過去に、力を使いすぎた自分が、わけがわからなくなり、拒絶されたことを、思いだしての判断だった。あのまがまがしく、黒い波にも、覚えがあった気がする。

 入り口に立ったままだった三人に、男は思い出したかのように、中に入るように言って、付け足した。

「それよりも、制御装置(リミッター)が外れていた原因が、わからないのが問題だ」

一体なにが、それよりも、なのか、その場に居た者はそれぞれ予想したが、やはり聞かない。クルフィが一歩動いて、上着のポケットから小さな玉を取りだし、男に向けた。

「──たぶん、これ、欠片だぜ。あそこの制御装置の。今日見つけたんだ」

 琴は、複雑そうに俯く。人間として暮らしてきた者は、リミッターの形状など、詳しく知らない。テレビでのニュース報道から想像するに、なにか埋め込まれる装置のようなものらしいが、普通に暮らしていれば関わりのない装置だった。
男が、なにか考える顔で、それを受け取る。手のひらに収まるサイズだ。

「これは……セルの一部分だな、恐らく」

クルフィが怖い顔になる。琴は、それはなんなのかと聞けずに、ひたすら俯いていた。自分が何をしたか、ぼんやりとだが思い出してきていた。

「──理性がほとんどないあのような男が、一定の、安定した炎を扱えるんですか?」

 黙っている二人にかわるように、キャノが深刻そうに、男に聞く。取り乱していた彼女は、今はだいぶん落ち着いていた。

「それが──不思議なんだ。こんなケース、聞いたことがない」

「誰かがリミッターをいじるだけじゃ、あんなことは出来ないですよね?」

「……あの男が……犯人じゃない、とか」

 琴が恐る恐る呟き、それから、はっとしたように口をつぐむ。誰も、答えない。話を戻すようにクルフィが言う。

「リミッターを外したやつと、男が、別……」

「待て。外れていたのは、セルの一個に過ぎない。たったそれだけでは」男が低い声になり答えた。琴は、話がよくわからなくて聞いてみた。

「セル?」

「セルというのは、リミッターの内部にある殻のある玉のようなものだよ。魔力を外気や魔女たちから抽出し、閉じ込めてもいる。
それとは別に滴定器と呼ばれるものがある」

クルフィがやけに冷静な声で解説してくれた。
滴定というのは標準液を中和するときの量を定めるために行う行為のことで、ここでは『魔力』の源となる成分をリミッターが抽出し、無力化、計測すること指す。

「おれ……あれは、押さえ付ける力みたいなの自体が、弱まっていると、思いました……なんていうか──」

 琴がそう呟いた。瞬間、他の三人の表情が、固まった。それから、いやそれは、とか、まさかそんなことが、と口々に言い出す。動揺している。

「……つまり、リミッターは、故障してなくて、正常だからこその、外部からの──制限解除? リミッターは一定量の魔力を制限してるけど……」

「外部から制限を解除するには一定量をある程度越えてしまう魔力か、それとも、リミッター自体、無効にするか、撹乱するような、力か──」

「制限の仕組み。一度、源のサンプル、エネルギーになっている成分の登録が、必要不可欠……そこからの引き算……?」

 キャノとクルフィが口々に言って、考えている。琴は、理解が追い付かない。男は、黙ったまま、彼女らを見守っている。

「……つまり、どういう──」

琴が口を開いて、聞くと、二人は同時に答えた。

「「意味がわからない!」」

「……はあ」

そういわれてしまうと、仕方がない。

「お前──あの男に、何を感じた?」

男が、ふと思い付いたように、琴に聞いた。
どういう意味がと測りかねていると、力の感じとか、印象とかだと言われて安堵する。

「……あれは、炎の感じじゃ、ありません」

「それは、どういう意味だ」

「炎だけど──なんていうか、火の要素、みたいなのじゃなくて──作られた、火っていうか……だから意思っていうより、なんていうのか……気持ちの悪い感じの……」

「作られた火、か」

なにか言い争い始めていたクルフィとキャノが、そのひとことで、ピタリと動きを止める。

「──今日は解散だ。ご苦労だった」

 そう言い残し、男は考える顔をして、出ていった。

00:00

「……リミッターに使われている《もの》が、気になるんだよなあ」

手のひらで、透明な玉を放り投げながら、クルフィが呟いた。空には月が輝いている。
夕飯は、三人とも近くのレストランで適当に済ませ、(こんな夜中に開いているところもあるらしい)あとは少し遊んでからの、帰り道だった。
(ちなみに、夕飯代のクルフィのぶんは、すべてキャノがすごく自然に払っていた。こういうことは、昔からあるのだろうか……と、琴は複雑だった)

「もしそれに仮想魔法が使われているのなら……」

そんなクルフィが言う。真剣な顔をしていた。ちなみにさっきはでかいハンバーグが乗ったチャレンジメニューとかいうのを、易々平らげていた、恐ろしい人物である。

 夏の夜は寒いな、と髪を下ろしており、そうすると、なお小顔に見えて、大人っぽかった。

「なんですか、それ」

琴は問う。キャノが答える。

「仕事中に、ちょっと聞いたことがある。ひとつの魔法から、波を真似て作った力だよ。

リミッターへの本物の要素設定量が足りない場合、代わりに使うことがあるらしいの。偽物の要素を作成することはそれを使えば可能かもね。あくまで機械の話であって、使うような人間は聞いたことないけど」

 セルの内部を数値として計算するには、リミッターの内部にもまた基準になる成分が必要だった。魔法を魔法で押さえつけているのだから皮肉な話だ。

 人間には使役できないが、ちかしい成分が作れることはわかっているらしくそれが、設定を上回る魔力であるかの基準を定めるのに使われるらしい。

「力自体を押さえつけるしくみとして、吸収して無効化するだけの……その……中和する力が必要では」

コトが聞くと、クルフィがそうなんだよなと呟く。なぜかどこか弱々しい声でもあった。
 聞く限り彼女たちも、詳しい構造は知らないようだ。

「術者にダイレクトにかかるんだから、
暗示系統……代々からの呪いに近いものかもしれないな。

依り代が国自体の規模なら出来なくはないだろ」

 そのときふと、コトが思い出したのは、持続系の力はどこかで解除しなければ、いつかは力尽きることだった。

「リミッターには寿命が?」
「ああ、あるよ!」
キャノが楽しそうな声で言う。

「でも、定期的に管理されるから、滅多に、使われなくなったリミッターには出会わないけど」

クルフィは夜風に長い髪を靡かせながら、くすくすと笑った。

「リミッターをこわそうとしたやつも居たらしいぜ」
キャノもふふふ、と笑った。
「あぁ、なんかたまに聞くね。でも……捕まっちゃうから、みんなそんなにやらないみたい、あぁ……あまりおおっぴらにこの手の話をすると、まずいか」

そして少し寂しそうにした。

「以前もそう。民間をスパイと断定しての蹂躙虐殺が行われた。
 一般市民の情報を抜き出しているのは企業側なのに――企業が戦争を仕掛けたの。魔女狩りの頃から、何も変わっていない」

『リミッターに、使われているもの』

『持続的なもの』

『人間が、取り込む場合がある』

国規模の依り代……

 考えれば考えるほど、それの正体が、
教わらない答えが、
不気味なものだろうことが、コトにもなんとなく理解できてきていた。

知っては、戻れない気さえする。

 彼女は、買ってきたアイスを食べながら言っていた。ちなみに、炒飯を食べて、ラーメンを食べて、オムライスを食べていた。わけがわからない。魔力があるほどに、もしかして腹でも減るのだろうかと、琴は不安になる。ちなみに、彼はちまちまと、うどんをすすった。
 今のように難しい顔をしていると、今までテレビで見ていたのよりも、ずっと琴には、好感が持てる気がした。
今日の夜は、蒸し暑い──と思うが、クルフィはどことなく寒そうである。
彼女は風邪でも、ひきかけているのかな……と琴は気になってしまう。

「……そこから着想を得て、試しているやつがいるのかな……それとも、事故か? 人間に取り込まれるような事例は、今までなかった」

観察に気付いたのか、気まずそうにクルフィが付け足す。
「はあ……小麦粉がないから米粉を使ったみたいな感じですね?」
「琴ちゃん、すごいざっくりまとめたねー」
──ちなみに、キャノが変装して泊まっているらしい、市内のホテルに向かって、三人並んで歩いている。あんまり楽しくない会話を、ほのぼのとしながら。異様な感じだった。
 どうやって逃げたのか知らないが現在指名手配中のアイドルと、魔族だった少女と、人間のはずの少年。
「鬼退治は……違うな」
琴は呟く。夜風が心地好くて、なんだか酔っている気分だった。

「今は、魔女じゃなく鬼、鬼狩りって言っているらしいよ」
キャノが小さく呟く。
「え?」
「ううん。何でもないの……憎む相手を、種族で呼ぶだなんて、古いと思う。それだけ」


2:50

ホテルに着くまでの間、二人がしみじみと、こんな話をしていた。
「……キャノ、今日お前の部屋に泊まっていいか」
「いいけど、シングルだから狭いよ」
「構わない。家がない」

 項垂れたクルフィにキャノがため息を吐く。だけど嬉しそうだった。この人どこで寝るつもりだろうと琴は密かに心配していたが、宛があって良かったと思った。さすがに自分の家に連れ帰るのは、いろいろ問題になるかもしれないと思ったし、宿代を貸すほどお金もなかったから、密かに安心する。

「……まったくそそっかしいんだから。宿も取らずに旅してたの? 昔からだよね。肉が足りなくて生き倒れてたのを私が拾って、全部世話してさ───」
「感謝はしてる。世話になったよ、いや、今もか……また世話になるとは思わなかった。まあ、なるべくならなりたくなかったけど」
「なんで!? なんでなんで!」
「うるせーからだよ……頭痛い……」
「それ風邪だよ! 僕ちゃんは悪くないし」
「カメラないんだから、そのしゃべり方やめろ……」

 拾われて飼われてたのか、と琴は衝撃的な気分になったものだが、言えはしなかった。だから言いづらそうだったのだろうか。あまり深く突っ込むと、聞いちゃいけない部分まで聞いてしまいそうなので、気にしないことにした。
人のことなどあまり深くは知りすぎない方がいい。

「お前は帰るのか」

 入り口が見えてきた辺りでクルフィが聞いた。琴は頷いて、反対方向へと歩き出す。少し寂しく思ったが、家に帰らないのはまずいし、なによりもホテルに泊まるわけにはいかない。

 彼女は、歩き出した琴を、名前を呼んで、振り向かせて聞いた。

「大丈夫か?」

 心配そうに投げ掛けられて、琴は首をかしげる。

「あなたこそ、具合悪そうですが……」

「いや、私は大丈夫。──でも、コト。お前、もしかしたら」

 彼女は何かを言った。なんと言ったのか、琴は理解し難かったので、とりあえず聞かないふりをした。

「じゃあ、また──えっと……明日」

キャノが手を振っている。クルフィは何か考えている、難しい顔をして琴を見ていた。歩道を渡りながら、琴は彼女に言われた言葉の意味を考える。

朝が来そうだったが、どうでもいい。

(少し、ふらつこう。コンビニくらいなら、空いてるだろう……)
 琴は、複雑な顔をしながら、近くに見えたコンビニの明かりを目指し、まっすぐに道を歩く。駅の近くの通りは、ホテルや飲み屋、観光関係の施設でこんな時間も賑わっていた。ビルの液晶テレビが、さっきの焼肉屋の不審火についてを、もう取り上げている。

専門家の男が話すのを、ぼんやり聞きながら、あの人は本当にどうやって逃げたのだろうと思った。

 彼女の、叫んでいたところを思い出す。

(力を持つことが、必ずしも素晴らしいわけではないよな……)

 テレビでは、自分は人間で、人間はあらゆる要素を自分の外部のものとして扱ってきて、今では僅かにしかいないらしい魔族種との違いは、内側に組み込むかどうかだと、男が語っていた。

 そして、自分に組み込んだ物があるということは、外部からの影響も、同じように受けやすいらしい。
火を扱える物であっても、油断すれば燃やされて命を落とすことはあるらしく、過去にそういうことが多発していたようだ。

『火を扱えるなら、火では死ぬことがない』という、誤った認識が巻き起こしてきた惨劇の様子が、テレビに流されている。

 でも、誰も信じないような現代で、本気で扱っているわけではないだろう。どうやら、オカルト系の番組らしい。映る専門家も、ゲストの芸能人も、笑っているだけで、誰も本当には信じてなさそうに見えた。信じていようがいまいが、琴には関係なかったが。

 数百年前ほどに、各地であった《その出来事》は、後に再来の魔女狩りと呼ばれていた。彼ら、彼女らを殺してきたのは人間だった。それは、昔なにかの本で読んだことがある。家にあった、古い絵本だろうか。琴は、誰にも言わなかったが、それを密かに、ずっと信じていた。

「おれは、本当に、人間じゃないのかな──おれは」

 よくよく考えてみたが、違ったら、なんだっていうんだろうか。なぜおれは苦しかったのだろう。
びっくりはしたが、そういえば、今の生活が変わるわけではない。隠して生きることを選ぶくらいだろう。

 力がどうあろうがなかろうが、理解されないものは、無いも同じ扱いをされるのだと琴は思うし、自分も完全信じているわけではない。誰にも迷惑をかけないように、人一倍気をつかい、違和感や自己矛盾を抱えても、生きていける、それだけのこと。
そう。なにかのファンタジーみたいに、自分自身で、その力を誇りに生きられる世界でないと、こんなものは、苦しいだけだと、思う。
「だったら、見ないふりをしていたいのに」

 クルフィの言ったことばが、脳内に繰り返される。なんとなく嫌な気分だった。さっきまではいい気分だったのに。そう思うことで、自分自身が、また嫌いになってしまいそうで、考えたくない。

「おれって、なんだったのかな……」

ずっと、人間として生きてきたのに。何度考えても、答えがわからなかった。

8:00
 携帯電話のアラーム(金平糖の精の踊り)で琴が目を覚ますと、見慣れた部屋の中だった。どうやって帰ってきたのかあまり覚えていない。

自分の部屋にいるらしい。壁にかかっている黒に白い文字盤の時計を見てみると、朝の8時だった。
同じく、黒いカバーのかけられたベッドから起き上がり、小さく息を吐く。なんとなく携帯電話を開くと、着信が2件。

いつだったかに、教えてもらった、怪しげな会社の番号だった。日常の現実感が強いほど、非現実を感じるのは確からしい。見慣れた待ち受け画面(牧場にいる羊の写真)に、見慣れない着信アイコンや名前が映っている。複雑な気分だった。
こんな組織と関わって、本当に、おれはおれでいられるだろうか。自分の選択は果たして正しかっただろうか。

ピンポン、と玄関のチャイムが鳴り、またぼんやりしかけた意識が呼び起こされる。

「なんだよ……父さん、帰ったのかな」

布団の柔らかい感触がやや恋しかったが、ひとまず離れ、玄関に向かって歩く。しかし扉を開けてみて、驚いた。そこに居たのは、華奢でスラッとした、髪の長い少女だった。

「ク……っ、なんで、ここ」

「よぉ、兄ちゃん。驚いた面してんな」

「……当たり前、でしょう!」

「へーぇ、結構いいとこ住んでんじゃん。どうも、この辺窮屈な建物ばっかりだけど、その中だったら、なかなかいいランクじゃないか?」

「……変な詮索しないでください。何しに来たんですか」

 彼女、クルフィは、琴の家に突如押し掛けたかと思えば、そのままいろいろと興味深そうに眺めている。琴は焦っていた。寝起きで出てきてしまったのもあるが、彼女はなぜ家を知っているのかと思った。
疑問を感じ取ったのか、クルフィはああ、と言ってから琴に視線を合わせ、あっさりと答えた。

「会社から聞いてきた。調べるくらい、ちょろいんだと」

「こ───個人情報を……!」

「いやー、にしても、急に祖国に売ってたヤツが食べたくなって、慌てて探したら、こっちだとヨーグルトっていうらしいじゃん。買って来たんだけ、ど──」
「……もう、いいです、帰ってください……」

 自分の領域に、予期せぬ形で土足で踏み込んで来られた気分だった。個人情報を抜き取るのも容易で、わけのわからない子どもを働かせていて、どう考えても、まともじゃない。
そんなことは最初からわかっていた。だけれど、そこで会う人間は、むしろ、その辺を歩く人よりも──

(濁りすぎていて、逆に、濁りがわからない……)

 琴は考え始めかけたが、ちょうどそのとき、だん、と彼女のスニーカーが、目の前で威嚇のように音を立てた。びくつく琴に、彼女は優しく笑いかけ、近よる。

「なあ、コト。そうはいかねぇんだ。聞いてくれよ、私がどうしてわざわざここまで来たのか。こんなに厚着なのか」

言われてみると、彼女は、ベージュのムートンコートを着ていた。明らかに、今の季節には噛み合わない。
「……なんですか」

ただならぬ雰囲気に、少し背筋が寒くなるが、琴は声を絞り出す。

 対面する彼女の真っ暗な目は、この場で琴を殺してもおかしくないほどに、淀んでいた。だからこそ琴は、嫌な予感がした。クルフィは、目をそらさなかったし、彼にも目を反らすことを許さなかった。苛立ちがこもる、震えた声で、彼女は言う。
初めて聞く声だ。

「お前のせいで、私の中の火が──凍っちまったんだよ!」

何を言われたのか、最初はわからなかった。

 この世界における魔族に宿る《力》は、生命に直結しており、彼ら、彼女らは、エネルギー源を作り出せなければ簡単に死に至る。その生成が、突如うまくいかなくなったと、クルフィは語った。

 それはあの日、コトがなにかを使った後からではないか、という。彼女は、彼から暴走というものではなく、しっかりと安定した波を感じていた。

彼自身は操られていたわけではない。あれは、コトが自ら施した術で、しかしそれが無意識で、不完全だったために、彼に触れたクルフィも影響を受けてしまったのではないか、とも。

 説明を聞いても、よくわからないことが多かったが、要するに、『彼女』は、生命維持をするのに精一杯であり、《そのエネルギー》を外部に使える余裕がない。生命維持も、持久力が無くなれば危うい。

「つまり力が使えない……人間だ、これじゃ」

「……おれのせいって、おれが、その原因ってこと……ですよね、実は……あのときのこと、あんまり覚えてないのが、正直で──……どうにかしたいのですが」  
 解決出来るとしたら、術を施したコトがなんとかするのが早い。だから彼女はコトを訪ねて来たのだ。
「あー、ちくしょうイライラする……イライラなんてしたくないのに、お前にあたっちまいそうだ……さみいし……体温調整がうまくいってないみたいだ」

 琴はあわてて部屋に戻り、引き出しから使っていない携帯カイロを探し出すと、彼女に渡した。知らないらしく、なんだこれ、と言っていたが、袋を開けて軽く振って手渡し、しばらくすると「おお! あったけー!」 と興奮しして騒いでいた。季節からはずれたその様子を見ているうちに、琴はますます罪悪感が募るように感じる。

「……おれに出来ることは、やります、償います」
「ああ、ありがとう」
 少し元気のない声が返ってきた。怒りを鎮めるためか、寒さで元気がなくなっているのかの区別がつかない。なぜ、礼を言われたかも琴にはわからない。

「私さ」
「はい」
「ずっと人間になりたかったんだよ。──この体は意思が強すぎると、いつ、それがとんでって憎いやつの首を跳ねるか解ったもんじゃないからな。制御出来なきゃ、大抵のわがままが通っちまう。社会的にはダメだろうと、いくらでも隠蔽して殺せる。だから、魔族出身者は闇の人間に買われることが多いんだ」
「闇の人間、ですか」
「政治、宗教関係、呪術、殺し屋──まあ、そんな感じかな。私の友人の半分が『殺人兵器』になって、壊れ、ついてなかったやつは、みんな捕まった。指名手配されてるやつもいるな──どんなに力があっても、その意思を働かない状態にしちまえば、無防備な種族だからな。拘束なんてチョロいのさ」
「人間になりたかったのは、簡単に首を跳ねたりできないからですか?」
「さあな。今になっちゃ……わからねぇ。ただ、私は欲張りらしい。力を失うと失うで、あったものが恋しくて仕方ねぇ」

琴はなにも言えなかった。ただ、どうにかしなければと考える。彼女のことを、もう少し聞いてみたいような気もした。危険な行為だ。あまり人についてを知りすぎるのは良くないと、思っているはずなのに。

「──どうして、あなたはあんなところで仕事をしようと思ったんですか?」気が付けば、そう聞いていた。



9:00 曇天 

 結局、答えてはもらえなかった。
私の過去は……まあ秘密だな、と彼女は言って、曖昧に笑う。あまりいい内容ではなさそうだということだけは、感じられる。
「悪い。言いたくないってよりも、今、さらにシリアスになると、ちょっと私もな」
「違いますおれが悪いんです……」
 嫌なことを好奇心で聞いてしまったのかもしれない。落ち込んだ顔になった琴に、彼女は驚いた表情をしていた。
「なんで私のことなんかでお前が落ち込むんだ? 変わったやつだな」
「……わかりません」

 会話が止まってしまうのが嫌だったのだろうか。クルフィは、カイロを血の気のほとんどない頬に当てて、小さく息を吐いた。
言動のがさつさからは思いもよらず、どこか甘いにおいがする。香水だろうか。コートに寒そうに収まる体躯が案外華奢で、少し見つめてしまう。
「あー寒い。早いとこ、なんとかしなきゃな」
「はい……」
なんだか一瞬変なことを考えた気がして、気まずく目をそらして答える。 彼女は琴から興味がそれたらしく、あのジジィがどうとか、ぶつぶつ言っていた。

 外に出ると、雨が振り出しそうな灰色の空が見えた。傘を持とうか迷って、玄関の靴いれの上にあった折り畳み傘を、彼女に手渡す。彼女がこれ以上寒くなり、風邪を引かれては、ますます悲しい。
自分は、まあどうでもいい。

「──これ、なんだ? 武器か」

折り畳み傘を知らないらしい。首を傾げて、ぺらぺらした防水の布部を引っ張る。
「傘です」
「え、傘? 傘って」
  傘のことも、よく知らないらしかった。ぶんぶんと振り回すので、慌てて止め、ボタンを押して開いてやると、彼女は『やべえ、画期的だ!』と子どものようにはしゃいだ。

 それにしても何をどうすればいいのだろう。琴には見当が付かないし、クルフィは今、まともに考えることをさせると、とんでもないことになりそうだった。

「でも、雨が降ってきたときに開いてくださいね。普段は道行く人の邪魔になりますから」

とりあえず、クルフィにそう言って傘を閉じさせて、畳みかたを見せながら畳む。

 それから、横断歩道を渡るところにある、ガードレールの、袖ビームと呼ばれる部分を、ぼんやり眺めながら信号待ちをしていると、クルフィが小さく肩を叩いた。

「なんですか」

「なあ、私考えたんだけど」

「じゃ、聞くだけ……聞きます」

「お前、私をばかにしているだろう」

「まさか。綺麗なお姉さんとしか思ってませんよ」

「うわ、信じられない台詞だ」

「……で、なんですか」

彼女は、得意気に笑う。
それから、少しもったいぶったように、提案する。

「《あいつ》にお前が命令してもらうのはどうだ?」
にこ、とクルフィは笑顔を向けたが、琴は、なんだか嫌な予感がした。


9:30

「わかった。けど。今、ぼくちゃん、ちょっと厄介なんだよね」
琴たちがキャノに電話をかけてみると、そう返ってきた。これには予測外だったので、二人とも驚く。
キャノは複雑そうに、笑った。

「どうしたんだよ?」
「え……今、追われてて──」
「おい! キャノ!」

 追われてて、までを彼女が答えたまま、通話が強制終了。なにがあったのだろう。彼女は手配されていたし、変装していない間かなにかにでも、見つかってしまったのか? 
琴は考えそうになったが、そうしていても仕方がないと、一旦落ち着く。

「サイトのニュースで見ましたが、キャノさん、まだ手配中らしいですね──」
「そりゃ、あの場に居たには居たし、逃げたし、有名人だからな」

クルフィは黒い折り畳み傘を、しっかり右手に握ったまま答える。深刻な顔つきに、寒さによる血行の悪化で、透き通るように肌が白かった。

「あの……部屋で、なんならどっか店かなにか──風邪を……その……」

「だーいじょうぶだって! 私、図太いからさ。それより、キャノに頼れないとなると、やっぱりコトがなんとかしてくれ」
  クルフィは手をひらひらと揺らして冗談みたいに言う。琴は戸惑ったまま、ぎこちなく、頷いた。そのときだ。琴のポケットから、ちょうど『メリーさんの羊』が聞こえてきた。急いで、さっき使ったばかりの通話ボタンを押し、スピーカーに耳を当てる。
「……はい」
『コトか。今、キャノがな』
男の声が、やや不機嫌そうに、話始めるが、琴が答えた。
「はい、追われているんですよね?」
『そういうことだ』
 わかっているのなら、ということで、用件がすんだらしい。琴は慌てて、質問を入れた。
「クルフィさんの魔力が、危ないって……おれ、どうすれば──」
男は少し考えて、答える。
『そうだな。おまえらは、いいコンビだと思う』

「え……」
『似た者同士──じゃあないが、きっと互いに互いを中和して、うまくやるはずだ。では』
シンプルな謎かけで、ヒントだった。琴は通話をぶち切られたのも忘れて、ありがとうございます、と呟いた。コンビになった覚えはないが。
「あいつ、あんなに電話で喋れたのかよ……」

クルフィが呆れながら受話器を覗き込む。琴は、通話の切れた画面を見て、それからなにやら考えていた。


10:00


 道を歩いていると、琴が突然『炎だ』と呟いた。
クルフィは、理解が追い付かず、聞き返す。現在は、通話を終えて、これからどうするか、と相談していたところだった。キャノにも会えないとわかったし、あの、活動してるのかわからない、男のいるタワーに戻っても、何かあるとは思えない。

「感じないですか? 結構、強いですが」

キョロキョロと、首を回して、気配の元を探している琴に、クルフィは違和感のような、奇妙なものを覚えた。なにも感じられない。同じような力を使う者がいるなら、離れていても、市内くらいの範囲ならわかりそうなものだが。

「全然感じないわ……魔力が、弱まってるからかな」
「あの。おれ、ちょっとそこまで行ってきますね。だから、あなたは戻って──」
「私も行く」
「だめです」

 空は風が吹きはじめ、日が差さなくなってきていた。冷たい。空が本格的に曇りだした。そろそろ雨が降るのだろうか。行き交う人たちの格好は皆、夏らしく、半袖シャツや、タンクトップなどだったが、急に変わり始めた天候に、首をすくめたり、体を震わせているのが、ちらちら映る。

「なんで!」

不安が現れた、強い口調だった。苛立っている。風が強く吹いて、彼女の髪をわずかに乱す。

「危ないですから、タワーまでは、送ります。だから、お願いです」

切実に、琴が訴えたのを見て、クルフィの表情が変わる。落ち着きを取り戻し、気弱に笑った。

「そうだな。わかった。私は、力がないと、何にも出来ねぇもんな……ありがとう。素直に大人しくする」
自分が足手まといになるだけだというふうに、認識したらしい。少し、心配だ。気にかかる。彼女についていた方がいいのかもしれない。

だが、琴は、それでも自分には、今だからこそ、自分がするしかない使命があると思った。そして、急がなければならない。
 心の中で、謝りながら、タワーまで見送った。急がなければ。もしかしたら彼女を、救えるかもしれないのだから。

    

GPS


「……この辺りか──」

琴が来たのは、先ほど携帯のGPSの地図で確認した、キャノがいた辺りだ。
彼女の位置情報があるらしい、と、クルフィと分かれてから道を歩いている途中で、男が送ってくれた。

 それから気付くが、なんと炎のにおいがしているポイントと、彼女がいた場所がほぼ同じだった。

頭上には大きな橋。さらに上は車が走っている。その下にあるこの場所は、「込神川」と呼ばれている。こじんかわ、と読むらしいが、地元の人は皆『こめかみ』と呼んでいる。とにかく、その場所河川敷の一角に、人だかりが出来ている。川辺に向かう階段を降り、そちらに向かってみた。

 遠くからでもわかる、異様なにおいが、近づくにつれて、確信になる。混ざっているのは炎だけではない。これは。まるで──

「人が燃えてる」
「うわー、焼死体……」
「マジで。リアルタイムに起こってんだって!」

発見者らしき、五人ほどの女子高生が、携帯で写真を撮影して騒いでいるのが見えた。一人は電話して誰かに説明している様子だった。

 『人』が燃えていた。誰かが通報したらしく、すぐに消防車とパトカーが向かって来た。琴は姿をよく確かめられなかったが、周りの話からして男性なようだ。やじうまはやがて帰って行った。琴も、ここにはなかった目的を探して再び走る。

「……急がないと」

 琴は、キャノを探している。
または、リミッターに取り込まれたかもしれない魔力そのもの、だ。
 もしかすると同じ条件で『あれ』に会えるかもしれない。
それを見つけるには彼女が必要だと思えた。

 琴がなにかをしたときクルフィもそばに居たのを思い浮かべてみる。
彼に触れた彼女の魔力は徐々に『抑えられ』てしまったし、男は、力を失った。
共通したのは、彼が触れた相手という点だ。

 琴自身が、あのとき、管理局に登録されやすい《要素系》の魔力のみを押さえるリミッターに《なっていた》のだとしたら。

滴定に使われるのが、

魔力がさほどない、

『人間』だとしたら?

 押さえる力がなかったのではなくて、彼自身がそれを取り込んでいたとしたら。
 または、それが彼自身の力なのだったら。

リミッターは、彼らと、魔女たちとの繋ぎ役として機能する仕組みでありそれになんらかのエラーで、琴が干渉してしまった結果、今の自体になるのなら。

 彼女の中にある障壁をなくす。その力は自分が居なくても持続するタイプのようだから、恐らくは、琴自身の体力か何らかと、遠くから連動している仕組みのものだろう。たぶん、まだ暗示系などの制限は少ないはずだし、体力があまり消耗しないのはそのせいか?

 琴自身の力を同じ力で打ち消してしまうか、なにかで自分を制限すれば、彼女の使えなくなっていたぶんの魔力の制限を、もう一度、解除することが出来るのではないかと思った。

彼はそれを伝えたのではないだろうか。結局、術士が《解かれた》と認めることが、術の終了なのならば、だが。
 と、急に、体が引っ張られた。

  「──え?」

正確には引っ張られたわけではなく、琴の脳に、外部から信号が伝わったような感じだった。そちらに向かわなければならない、と、足が動く。体が反応する。
「おれは、どこに行くんだよ……」

わからない。
気が付けば導かれるままに、琴は走っていた。どこをどう走ってきたのかもわからないが、たどり着いたのは、人気の無い、声が響く広い空間だった。

──魔力を人工的に作る技術。

 それがもし成功すれば、魔族に力で対抗することも可能だろう。それとも、表には隠して事件を起こし、責任を魔族に押し付けることも出来るのではないか。

「で、炎がどうしたの?」

「いえ、それは、あとでいいんです。だから──おれが、クルフィさんにかけてしまった術を──」

キャノが、ぽかんと固まった。予想外の反応に、琴は固まる。

「──きみは、何を言ってるの。本気でリルっちが、そう簡単に、封じられるんだと、思うの?」

「え……だって『わかった』って、そういう意味じゃ」

キャノは大きく首を振った。

「まさか。そんな簡単にあの子が封じられるんなら、世界はもっと平和だったよ。あんなことも、起こらなかっただろうし」

暗い目をして、静かに言う。琴は混乱した。だったら、なんだというんだ。おれのせいではないのか。
彼女は、どうして魔力が。

「……それはねー、こっちに来てすぐは、気付かないもんなんだけど、っていうか、リルっちが、来てるなんて思ってなかったから、言えなかったんだけど、多分、単に安全装置が働いたんだよ」

「安全、装置──」

「体に対するブレーカー、みたいなもんかな? 昔、この国では魔力の使われ過ぎで過労死が相次いでね──それを、押さえてるんだよ。こっちは、攻撃系じゃなく、移動、転送みたいな、電力でも賄えるような便利機能から、生活に役立つ防護壁なんかを使うと付いてくるよ」

なんだって! 初めて聞いた。琴はいろんな意味で、力が抜けそうになる。
「ここは……」

どこかの駐車スペースだろうか。

剥がれかけたコンクリートの壁に、何かのマーク、数秒で描いたような似顔絵などの、数々の落書きがあった。隅にある『最強☆』などと掠れた白い文字が、やたらと目につく。カビのような、ほこりっぽいような匂いがする。

「あ、来た来た。琴ちゃん、やっほー」

 声がして、奥の方の壁、やや薄暗く、見にくい所に、少女が寄りかかっているのに気付いた。棒読みのような疲れきった言い方だった。ひらひらと手を振られ、振り返す。

「……やっほー、です。あなたが、呼んだんですか?」

「まあね。転送は、体力ないと、ちょっときっついから、引き寄せるやつにしといたよ」

「そうなんですか……」

「いやあ、追っ手を撒くの、超大変だったよ」

「お疲れ様です……キャノさんは、感じましたか? おれ、さっき込神のあたりで、強い炎の力を感じたんですが」

キャノは、んー? と首を傾げて、少し考えてから否定した。

「そりゃ、ないよ。ここ、そこからそんな離れてないけど、強いならわかるもん」

──だとすれば、あれは、魔力によるものでは無いのではないか。
薄々考えてはいた。
──炎、という感じは伝わるのにどうしてか、個人の意思のようなものが、読み取れなかった。それは距離が離れているからだと思ったが、近くに行っても同じだったのだ。

あの男の人も、それには特に触れなかったが、彼は何か気付いていただのろうか。

「……だったら、そんな、強い力を、いつ使ったんですか?」

「ああ、夜……かな?」

「夜?」

「一緒に泊まったホテルのね、同じ部屋にいるのに、めちゃくちゃ強いバリアを張られたんだ。無理しなくていいのにね……で、その解除を忘れたまま、今朝も、いろいろと防御を──」
なんだかわからないが、何かが大変だったらしい。

「でも、三人で一緒に帰っているときから、寒さを訴えていましたよ」

「あー、あのときはたぶん、食べ過ぎのせいだよ。っていうか、あのときコトちゃんがどうにかなってから、結構たってたじゃん」

 実は食べ過ぎで腹痛かなにかわからないが起こしていたのか。チャレンジメニュー、恐るべし。今度、胃薬を持って行こう、と琴は考える。

「紛らわしいですね……というか、バリアなんか使われるくらいに、何をやったんですかあなたは」

「いや何にもしてないよ。強くて出来なかったし」

キャノは不思議でたまらないと言ったようすで、手を横に振る。琴は唖然とした。

「……どうつっこめばいいかわかりませんが、とりあえず、その安全装置はどうやって──」

「ああ、それなら、休んでしばらく時間が立ったら治るんじゃないかな。でも、まあ、エネルギーの割合の関係に伴って、体調不良になりやすくはなるから……看病はわかった、って」
 いや、看病に来ると余計に悪化しないだろうか……
琴は考えて、考えないことにした。──意外に面倒というか、無理をして体を壊さないための仕組みみたいなのがあるんだなあ、と勉強にはなったが。
「じゃあ、あの人はなんの意味で、あんなことを……?」

謎が余計に深まってしまった。   

  □

「強い、炎か……」

ポケットにある手紙を思い出して、クルフィはため息をついた。

「焼き肉、か──」

 続いて、油の滴る肉を思い出して、クルフィはよだれが出そうになる。
タワー地下の、いつも来ている場所に向かいながら、どうしていいかわからない感情に押し潰されそうになってきそうだ。

 コンクリートの壁に手を付くと、ひんやりしていた。

 下がってきた体温には、あまり嬉しいものではない。ドアになっている壁をスライドさせ、中に入るが、迎えてくれるものはなく、がらんとしている。
特に家具もないので、本当に、引っ越した初日の、荷物を運ぶ前の部屋みたいだ。
「ふっ……久しぶりだなあ、こういうの」
あの町を離れたときも、そうだった。何もない部屋は、少し寂しくて、なんだかまるで、取り残されたみたいな気がする。
「──ばあちゃん、《向こう》で、元気にしてるかな……」
 故郷にいる頃、先にこの世から旅立った祖母は、最後まで、幼かった少女を見捨てないで面倒を見てくれた。

『このどうしようもない、おてんば娘』と、何度も言われたものだが、それでも彼女から感じるのは優しさだったのを、知っている。
 悲しくなるので、写真はすべて処分してしまったが、1枚くらい持っておけば良かったと、今は思う。記憶の中の家族は、どうしても、歳と共に少しずつ薄れていってしまうのだ。 まだ何も知らない小さな頃、会いたくてたまらずに、墓前で何度も試みた蘇生魔法は、そういえば雑誌のデタラメだった。本当は、まだ誰も見付けていないらしい。

「あぁー! にしても、あいつに酷いことを言っちまった気がする……」
酔っていたかのような気分から、今さらのように目が覚めて、猛烈な自己嫌悪に陥る。体は寒い、が徐々にマシになり始めている気もする。

──ふと、背後から何かが跳んだ。クルフィは隅っこで頭を抱えていたので、気付かなかったが、その何かは、跳んできた方向に、一気に跳ね返る。ビタンッ、と強く痛そうな音がして、ようやく彼女は振り向いた。

「……ん?」

手に乗るほど小さな、白い毛並みの恐らくフェネックらしき動物が、床に叩きつけられ、恨みがましく彼女を睨んでいた。どうやらこのフェネックみたいなのを弾いてしまったらしい。

「なんだ……お、まえ、大丈夫か。悪い……」

あわてて近寄ると、やはりこちらを恨みがましく睨む。とりあえず、元気ではあるらしいが、なぜこんなところに、このような生物がいるのだろう、と考えて、ひとつ思い当たった。
(……使い魔?)

 詳しく考える前に、まずはとりあえず、昨日、どうしても理由があってギリギリ限界まで可視レベルを下げて使っていた結界を解除する。

生き物が、不自然にぶつかって倒れたお陰で、それを解除し忘れたのを、思い出したのだ。

 この現代の世界で使用される結界、というものは、エネルギーで作り出された薄い膜で、外敵を排除するように働きかけている。外部の力に極端に弱い魔族たちが生き残るために編み出したもので、通常の人間はもちろん、害のある魔族にも有効な壁だ。

 本人の体力を消費するものと、製品として売り出された使い捨てのものがあるが、彼女は自分自身の力で、結界を何重にも張っていたのだった。身を守るために。

「……あー、これがあったのかー。気が付かなかった。どうりで、疲れると思ったわ」

 この解除は、そうしよう、と自ら思うだけでいいので特に作業はいらない。付けるよりは楽だ。

 いつもは、この結界を、自分にだけには見えるように薄く色を付けていたのだが、この町だと、それをすれば監視カメラにしっかり映るので、そうもいかなかったのだ。人の目を誤魔化せても、機械は少し難しい。

 ちなみに、解除を忘れると警告が出るようなアクセサリーを身に付ける者もいるが、彼女はあまりアクセサリーは好まない。

 付けたり外したりが面倒だし、あんまり金属は好きではない。つまり付けていなくて、結果として、すっかり忘れていた。

 
 解除を終えてからは一気に、体がやや楽になった気がした。少し、自分の体が温まり始めたのがわかる。それに、別の意味でも、顔が熱い。

「……なんだ、私はあいつに、当たっただけかよ。うわ、恥ずかしい」

 制限されていたわけでも、凍結したわけでもなかった。そもそも、本当に魔力が停止すれば、自分の体験したようなものでは済まないのかもしれない。

 魔力が少し足りないだけで、理性は効かなくなる。少し多いだけで、狂ってしまう。本当にどちらかになれば、彼女は、もっと悲惨だったのだろう。

(だから──なんて言い訳にならないかもしれないけれど……)

 それから──理由は、もうひとつある。だからなおさら、わからなかったのだ。首をひねる。

「でも──おかしいな。今までなら《このくらい》使った程度で、こんなことはなかったのに……」

一方で、なんとか立ち上がったフェネックみたいな生き物は、声ではないなにかで唸り、やはり彼女を睨んでいる。痛かったらしい。
「いやあ、悪かったって……」

 生き物は答えない。わずかに足を動かした程度で、固まったように彼女を見ている。白くふわふわした毛が、床に小さく舞う。

「どっかから脱走したのかな……」

 と、どうやら彼女のいるすぐ右側の壁にかかっていたらしい電話が鳴り出した。突然だったので、びくっと肩が震える。

「こ……今度は、なんだぁ?」

彼女は、こんな場所に電話あったのかよ、と思いつつ、恐る恐る受話器を手に取った。よくわからないが、もう泣きたくなってきそうだった。

「……もしもーし」

とはいえ、電話をかけてきた相手が気になる。混乱しかけているのを悟られないように、とりあえず受話器を耳に傾けた。

『あっ、リルっち! 聞いてる? 今コトちゃんと居るんだけど』

 電話の相手はどうやら、キャノだった。どんな仲だとしても、クルフィは積極的に会話を広げるようなタイプではない。求められれば頑張りはするが、基本的に面倒なのだ。なので、最低限の相づちを落ち着いたテンションで打つ。

「あー、そうなんだ」

『うん。それでね、そっちにぼくちゃんのペットが』
キャノは、通話ができて嬉しくてたまらないといった様子で、早口に状況を伝える。いったい、私なんかのどこに、どうやったら惹かれるんだろう、とクルフィには、彼女が不思議で仕方ない。

……そういえば、彼女は女性が好きなのだろうか?
クルフィにはややこしいことはわからない。自分以外の女性や男性になにかアプローチをしていたという話は聞かないし、駅前の売店に売っている週刊誌の表紙にある『アイドルなのに男の影がないランキング』とかいうちょっと偏った名前のランキングに、彼女の芸名があったのを見たことがある。

……いや、もしかしたら、自分が肉をどうしようもなく愛しているように、彼女も──まで考えて、なんだか虚しくてやめた。
肉と同列に語る必要はないかもしれない。

「ペットって……《白くてふわふわしたやつ》か?」

『よくわかったね。異界砂漠フェネック! ──を、独自に再現しました』

「模造品かよ。あっ、ところで、キャノ、前から聞こうと思ってたんだけどさ、この会社さあ──」

『今そっちに居るんだ? 良かったー! ペットがね』

「手紙で話を聞いたとき、もう少し、人数が」

『ここに初めて来たとき、空港の時点で捕まっちゃっててさ、審査厳しいし、もう返ってこないのかなって、半分、諦めかけてたんだけど。最近どうも、自力で逃げてきていたみたいで──《反応》があってさ』

「いるって話だったんだが……、他のやつはどうした?」

『もし、見つけたら、迂闊に手を出しちゃいけないよ』

「……え」

『え?』

 互いに噛み合っていなかった言葉が、ようやくそのとき、噛み合った。
『リルっち、今、なんの話を──』

キャノは、焦ったように真剣なトーンでクルフィに問う。クルフィもそれどころではなく、キャノに問うた。

「迂闊に近づくなって、なんだよ、また小学生の頃みたいに、危険生物を飼ってんのかよ」

『……。えっと。いやいや、手を出すなって言ったんだよー。危険生物って意味じゃ、リルっちがトップクラスだったけどね。実際、何度か死にかけた』

少し考えて、キャノは、結果的に自分の持ち出した話に乗ってもらったのだし、というふうにクルフィの出した話題を諦め、言い出そうとしていた話を再開した。

「……わりい、昔話は後だ。そいつ、今目の前にいるんだけど、とりあえずどうすりゃいい?」

──そのとき、クルフィには、軽口を言っている余裕はなくなっていた。キャノが自分についての話を始める前に遮る。
(……なんだか嫌な予感がする)

 彼女の元同級生だったキャノは、学校の側で飼われている危険指定された魔物の餌付けや、飼い慣らすということをしていた。
クラスでは『生き物係』と呼ばれていたが、実際、魔物を飼い慣らすのは、メダカやうさぎ、おたまじゃくしの観察、といったようなこととは、種類が違っており、『洗脳』『支配』『催眠』などの魔力特性があった生徒、特性がなくても、呪文を扱えた生徒のみがなれた係だ。

 彼女らのいた世界の魔物(魔力を持つ動物みたいなもの)は理性の切れが早く『暴走』を起こしやすい。緊急時には命懸けなので、最悪の場合、暴走した魔物を永遠に眠らせる措置を取らねばならなくなる。

焼くとか、切る、とか物理的な暴力ではないところが重要だ。あくまでも眠らせ、『存命』させる程度であることは、規約となっている。

──話がそれたが、とにかくキャノは、そのような係をしていて、高校を卒業後も『魔物病院で働く!』と言っていた魔物(特に危険なやつ)好きであり(アイドルになっていたが)、そのせいでいろんな目に合った経験があるので、クルフィも警戒せざるを得なかったのだ。

『元気にしてるのかな?』

「元気だよ。っていうか、睨んでるよ。今も背後から殺気がだな……」

『え、なに、何したの?』
「解除、忘れた……」

『ごめん小声でわかんなかった。なんて?』

「解除を、忘れたんだよ!だからそれに跳ね返されちまって……っていうか! あー、私はどんな顔をしてコトに──」

そのとき、僅かにクルフィの持つ受話器から聞こえる音に、ノイズが混じる。
空気の音。たぶん、笑われた。

『……クルフィさんは案外、おっちょこちょいなんですね……! その件なら、おれは別にもう気にしてないです』

「……」

そして、続いたのはコトの声だろう。そういえば、あいつら一緒にいるって言ってたな、とクルフィは思い出す。

へえ、あんな風にも笑うのか、と意外な気分になった後、変に気恥ずかしいまま言葉を返せずにいると、すぐに、通話相手がキャノに交代された。

『……弾いちゃったの!』
キャノが慌てたように言う。クルフィは肯定するしかなく、短く答えた。

「うん」

仕方がない状況だから、という風に、キャノは切り替え、ゆっくりと何かを落ち着いて伝えようとした。

『リルっち、その子ね──、幻、が、あ、界──って……』

「お、おい!?」

 聞こえる音が徐々に飛び始める。次第に、ノイズだらけで会話が聞き取れなくなっていき、通話は切られた。

.to be continued...


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