ミネクラヴィーレ 「6話」

 午後、それは1人で街を歩いていた。
先生曰く、「他者との交流は積極的に」ということだが、ただうるさいのを外に追いやっただけだ。彼女は静かな自宅で寝息を立てていることだろう。

 それは、賑わう市場を遠目から眺めながら、先生と座った公園のベンチに腰掛けた。
公園では様々な人間が様々な行動をしている。掲示板を眺める人。噴水のほとりでボーっとしてる人。買ったものをベンチに並べている人。それらを見つめながら、一つ息を吐いた。
少々、整理が必要だったのだ。
 先生と回っただけ。それもたったの数十分。それなのに、異色の目で見てくる輩は居ない。緑の髪だとか、色の違う瞳だとか。あまり受け入れられないと忠告されていたのに、受け入れられないことを恐怖していたはずなのに、今となっては何もない。
 なんなら声までかけられるのだ。

「あら、ミネくんだっけ?」

 ベンチの後ろから声を掛けてきた若い女性。名前を知られてはいたが、相手の名前も顔も初めて見た。

「緑の髪は分かりやすいね。私ヘレン。そこの仕立屋で手伝いをしてるの」
「よ、よろしくね…」
「よろしく」

 差し出された手を握り返すと、彼女は笑顔で隣に座った。驚きながらも、先日の挨拶のことを必死に思い出す。俺はあの人の親戚であること。手伝いとして来ている事。迫害を受けて来たこと。
 先生が説明したことへの齟齬が生じないための言い訳。先生と練習したことを脳内で必死に繰り返す。
 そんなことを露程も知らない彼女は、隣へ腰掛け笑顔を向けてくる。

「先生の親戚なんでしょう。あの人謎が多いから、昔のこととか聞いてみたくて!」

 それにとって、早速の波乱が訪れてしまった。
 親戚なんてただの設定で、先生の故郷がどこであるかなんて知らないのだ。地名くらい言われたような気もしたが、やはり覚えていない。
 かと言って下手なことを言えば、同郷のテューズとの食い違いが生まれてしまうかもしれない。話を逸らそうにもそんな話題性や術はそれに持ち合わせいない。

「先生って謎が多いんだ?」
「そう!すごく物知りで、あの見た目で50歳だって言われてるし、口数少ないのにしっかり気遣い出来るし、祝祭の時は城にお呼ばれしてるだとか!街生まれじゃないみたいで、あの人のこと知ってる人がまずここに居ないのよ~!」

 早口で語られる情報に、それは早速置いて行かれた。
ー先生が、50歳で…?気遣いで城にお呼ばれで…?
 それすら知らないから何も言えない。

「あの、テューズとかは…?」
「テューズ?あ、フレンさん?あの人は駄目ね。先生と浮気疑惑があるから」
「うわきぎわく…」
「フレンさんも街生まれじゃないみたいだから、先生と気が合うんだろねぇ。たまに2人で歩いてるとこ見るけど、何話してるかはさっぱり。聞いても“なんでもないよ”の一点張り!」
「そ、そうなんだ…」

 ふと、彼女と目が合う。話についていけないのを察したようだった。
「なんか、ごめんね。話してばっかりで」
 へにゃりと申し訳なさそうな顔につい「いやそんな」と言葉を濁した。

「もしかして、あんまり先生のこと知らないの?」
「う、うんそう。実はあんまり…」
「そっかぁ…なんかごめんね。あの人のこと知れるって思ったら居ても立っても居られなくて」
「ううん。大丈夫。でも、なんでそんなに知りたいの?」
「えぇ〜?純粋に気にならない?」

 純粋に。という言葉に首を傾げる。

「だって、すごい物知りでみんなに頼られるのに、威張らないし、ひけらかさないし、かっこよくない?私もどこぞの探偵小説みたいに“僕だけの手柄じゃないですよ”とか言いた〜い!」
「な、なんかそれかっこいい…!」
「でっしょ〜」

 ポーズを決めては声色まで変えるヘレンに思わず手を叩いて感動を示した。彼女も嬉しそうに語るが、どこか寂しい顔をする。

「でも、私は女だし、学校なんて行けないから、誰かに読んでもらわなくちゃ小説だってまともに読めないんだよ。だから、先生が羨ましい…」

 学もあって、知識もあって、家業も継がず1人でひっそりと暮らす女性。それが、彼女にとってどれほどの救いなのか、それは知らない。

「学校、行けないの?」
「女に学問なんて要らないもん。必要なのは家業を継ぐ技術だけ。そりゃ縫い物は好きだけど、物語だって愛したい…」
「お願いしてもできないの?」
「でもこの街を出たくはないよ…」
「この街じゃだめなの?」
「え…」

 目を見開いたヘレンに思わず復唱する。

「ミネくん、この街のことも知らないんだね…」
「し、知らないんだってば、本当に色々!まだ起き…んンッ来たばっかりだし…」

ー起きたばっかりって言いかけた…危ない…
 バカにされた言葉ではなかったが、呆れ口を何度も言われればさすがに言い返したくもなる。

「そういうもんなのかなぁ?私もこの街から出たことないから詳しくはないけど、う〜ん…まぁいろいろ大変だったんでしょ、ミネくんも」
「ええと、そう、なのかな」
「でも、この街に来られたミネくんは幸せ者だよ。」

“幸せ者”

その言葉が、どこか喉に引っかかった。
どこか自慢げなヘレンは、誇らしげに語る。

「この街はね、争いには関わりませんって意思表示をしてて、どこにも属さずどことも争わないの。他の国は土地や財産や名誉をかけて侵略しては大量虐殺をして、恨みを買ってはまた争って、なんでもかんでも奪ったり奪われたりなの」
「へぇ…」
「まぁ、先生やフレンさんが居た土地がどこかは教えてくれなかったけど、この街に来たってことはきっとそういうことなんだと思う!」
「そういう…?」

 どこか現実味を感じない話を、知識のないそれはただ聞いていた。
 己が目覚めた平和なこの都市。争わない街。では争いとはなんなのか。彼女が言うには侵略して、殺して奪って、また奪われる。

「この平和な街に来れて、ミネくんは幸せ者だよ!」
「そう、なんだね…」

 熱心に語った彼女を否定するわけにも行かないと、それも察した。

「ふふ、ミネくんて何も知らないんだから、先生も教えないのかな」
「どうだろう。教えてくれるって言ってたから、これからなのかもね」
「いいなぁ〜私も先生に勉強させてもらいたい〜」
「これを勉強って言うなら、俺も勉強したくなっちゃった。だから、もう行くね」

 まだ、言葉を知らないから。
 彼女にかける言葉がわからないから、それはただそこを離れた。
「またねミネくん」と手を振る彼女にそっと振り返して、公園を後にした。

 * * *

「元気な人だったなぁ」

 そっと、市場を歩きながら呟いた。
 並ぶ果物や野菜と、果物の煤汚れを拭う店主。値切る客や世間話に花を咲かせる人々。それらが平和でないとは思わなかった。けれど、己が幸せであると断言するには足りないものがあるのだと自覚していた。

ー俺には記憶がないからなぁ

 何が幸せか。何が喜びか。感情はある。対話が出来て、好きなものがあって、嫌いなものもきっとある。だからきっと、幸せを理解できる。
 でも、幸せ者だと言われるのは何か違った。復唱すら出来ない、歯車に小石が挟まってしまったように、うまく動かなかった。

 人通りを抜けると、ばったりテューズと出会った。

「あ、ミネくん居た。探したよ〜」
「え、探したの?」

 出会い頭、安心した笑みで手を繋がれる。

「ミネくんに紹介したいお店があってね、オルキスの家行ったら居ないんだもの」
「ちょっと、まぁ散歩を」
「オルキスに言われてだろう。あの子一人暮らしに慣れちゃってるからねぇ」

 手を引かれるまま、着いたのは喫茶店。「ここのトーストがすごく美味しいんだ」なんて言いながら入店。

 店内にはピアノの音が静かに響き、広い割に席はがらんと空いていた。窓際に誘われ、向かい合わせでテューズと席に着いた。
「ミネくん、苦いのはいける?」
「えっと、多分…」
「飲んだことない?」
「うん」
「じゃあ飲んでみよう!」

 慣れた手つきで店員を呼び、注文を済ませて向き直る。

「ここは僕のお気に入りでね、休日はよく来るんだ。ただ若い子にはあまり人気がなくて…ぜひミネくんにも好きになってもらって、友達作って来るようになって欲しいんだ」
「すごい先の話になりそう…」
「ところで、さっき元気なさそうだったけど、何かあったのかい?」
「すごい話変わるじゃん」

 なんでも言ってごらん、というような微笑みに圧倒されたそれはぽつりぽつりと話し始めた。

「幸せ者だって言われたんだ」
「ほう」
「他の国は争いばっかりだから、平和なこの街にいる俺は幸せ者なんだって。でも、そう言われたけど、なんか、引っかかるというか…違わないとは思うけど、でもやっぱり違う気がして…うまく、言葉にできないし、理解もできなくて…」
「ほうほう…」

 届いた紅茶を手元に置かれ、テューズはそれを飲み込んだ。

「ミネくんて、何歳?」
「にがっ、え、なんさい?」

 思ったより、苦いのはダメだったらしい。卓にある砂糖をテューズが入れる。

「年齢だよ。生まれて、何年?」
「知らない。何も覚えてないから」
「自己紹介が偽装だったのは知ってるけど、名前は?」
「先生が付けてくれた」
「なるほど。じゃあきっと、ミネくんは幸せ者なんだろう」

 ピリっと、苦くなくなった紅茶が鼻につんと響いた。

「きっと比較ができないんだろうね」

 彼は続けて言った。

「忘れてしまった記憶が、本当に存在したのかはわからないけど、きっと幸せだったんだ。“思い出せない現状が悲しい”と、理解できる程には、大切な記憶があったのかもしれない。大切な記憶があるくらい、幸せな日々を過ごしていたんじゃないかな」

 思ってもみない思想。
 覚えていないから悲しい。思い出せないから悔しい。
 つまり思い出したい記憶が存在している。と言う説。

「どう、だろうね…」

 そうだったらどれほど素敵なお話か。
 ただ、そうではないと確信するものを、それは持っていた。

ー思い出したいとは思うけど、思い出せないから悲しいとは思ってない。ただ、知りたいだけ。自分のことを知らないのが嫌なだけ

「答えは出ないだろう。思い出すために日々を費やすのもいいが、どうせなら新たに学んでしまった方がいい」

 かちゃりと、ソーサーに置かれたカップ。

「見つければいいよ、新しい趣味。好きなものはないの?」
「好きなもの…鍵が好き。」

 裾につけた鍵を見せれば「いいねぇ」と微笑む。
 そんな態度になんでも話したくなってしまう。

「あ、あとっ、鍵以外にも、本が好き!先生の家にはたくさん本があって、なんかこう、うおあっなった」
「感動したのかな?良いねぇ本を読めば知識もつくからねぇ」
「散歩するのも好きだよ。家の形とか、道の石とかばらばらで」
「統一感がないって言うんだよ…」

 トーストを食べながら、道行く人たちに目を向けてはまた服や髪型の話をする。テューズは物知りだった。街の地形の話も聞けば答えた。案内が出来るほど詳しいのだろう。

「テューズは、どれくらいこの街にいるの?」
「えっ、僕? ん〜、3…いや4年かなぁ」
「長い?」
「短いよ。オルキスの方がこの街は長いけど、僕は公職員だから街に詳しくなきゃ行けない。案内も仕事だからね」
「じゃあ、テューズはこの街に来てよかったんだ。幸せ者?」

 彼は一度「いや」と言葉を濁した。そして笑う。

「来てよかったとは、思ってるよ」

 * * *

「あいつがそんなことをねぇ」

 テューズとの団欒を終え、帰宅して、暖炉の前でタバコを吸うオルキスに話すと、大きなため息と一緒に煙を吐いた。

「先生は?この街に来てよかった?幸せ者?」
「まぁ色々修正しなきゃだが、一言で言わせてもらうと」
「うんうん」

「私はこの街に来てよかったと、思ったことは1度しかない」
「・・・それって」
「初めてこの街に来て、幸せを謳歌した。そのあとは、ひたすら後悔しかしてない。以上」
「えっ」
「その話は、二度と、テューズにするな。いいな」
「なんで…」
「いずれ教える。まずは生活の基盤を整えてからな。家事や買い物や仕事について教える。お前は私の助手としているのだから、それなりに手伝ってもらうぞ」

 彼女のそれは企んだ笑顔。
 ヘレンは無邪気な笑顔だった。

 テューズの笑顔はどんなだったか。

 その日は、ミネクラヴィーレが己と街に向き合う為の、きっかけを与えた日だった。

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