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フェリーで与論島へ(離島暮らし)

私が離島で暮らし始めたのは30歳の時でした。
その頃はインターネットもそれほど普及していなくて、
雑誌や旅行案内本などで島の情報を知る以外に方法がありませんでした。

鹿児島県の離島にしたわけ

私は個人でノートパソコンを持っていて(Windows98)、仕事ができる島を探していた時に、たまたまヒットしたのが鹿児島県与論島でした。

与論島は沖縄県がまだ日本ではなかった頃、日本の最南端の地(奄美群島)として有名になりました。
(下記からは島の名前をカタカナ表記”ヨロン”と記述します。)

はじめてのフェリー旅

ヨロン島に行くためにはフェリーを使わなくてはなりません。どうやって移動すればいいのか検索していくと、大阪南港からヨロンに行くフェリーが出ていることがわかり、車の持ち込みが出来るかどうか、電話で問い合わせをしました。


・マルエーフェリー
阪神航路(大阪南港発)~琉球エキスプレス(この当時:新造船)
※今では航路や乗船内容が少し変わっているようです。


鹿児島志布志→奄美大島→徳之島→沖永良部島→与論島→沖縄(那覇港)
この航路を3日間かけて移動します。
私は車両持ち込みをしたので、2等客室(2段ベットの8人部屋)で寝ることが出来ました。

・料金:(当時の金額)大阪南港~ヨロン島まで車両込み78000円
私の車が4hm越えだったため料金は高めでした。

何も知らずにフェリーに乗る

当時の私は島に行くことだけを考えていたので、フェリーについて何にも知らず、食べ物も飲み物も持っていきませんでした。
自動販売機で食品は売っていましたが料金が割高だったことと、品数が少なかったということもあり、かなりひもしい思いをしました。

・売店:ありませんでした。
・薬:酔い止めは、船の案内カウンターで売っていました。
・電子レンジが据え置きで設置されていました。
・自動販売機:パン、ジュース、酒類、カップラーメン、軽食
・レストラン:ありませんでした。

船なのに大浴場

船には大浴場とシャワー室がついていて、いつでも入ることが出来ました。
面白そうなので行ってみると、浴槽から外を眺められるような明るく開放的な空間になっていました。
ただしロッカーには鍵がないため、貴重品は必ず身につけなければいけませんでした。

次々と下船していく人たち

大阪から船に乗ったお客さんは私を含めて5人でした。私は嬉しくて船を散策したり、甲板にでて風を感じたり、広い海を眺めたりしているうち乗船した人と仲良くなって話をしたり、お菓子を分けてもらったりして、楽しく過ごすことができました。

志布志港に到着すると、お客さんが次々と乗ってくるようになりました。
そして船旅で仲良くなった一人が下船していきました。
一緒に過ごした船旅が思い出されて、なんだか悲しくなりました。

次に徳之島では、仲良くなったご夫婦が下船していきました。

『がんばれよ~』の一言がとても寂しく感じました。

そして与論島で私が下船することになり、最後に残った若い学生さんと抱き合ってお別れをしました。
(彼女は故郷の沖縄に帰るために船に乗ったそうです。)

船が接岸するたびに荷物と人が移動するのを見て

船の旅はとても楽しかったのですが、船で知り合った人たちとお別れするたびにさびしくなっていきました。

入港するたびに甲板に出て、見送りをしていると、港で働くたくさんの人の姿が見えてきます。朝早くても、夜遅くても、船を入港させるために働く人たち、荷物を降ろして運ぶ人や重機を動かす人たち…。

『大変だなぁ』

『こうやってみんな暮らしているんだな~』

としんみりしていました。

そして出航するときに、手を振る人たちの姿がなぜか心に染みました。

※※※※※

私の船旅は、ヨロン島に着いたときに終わったのですが、私の生活はこれからが始まりでした。

何も知らずにワクワクしながら旅立って、船旅をしている間お客さんが5人だけというのは、滅多にない事だと思います。たった2日ほどですが、同じ空間でずっと過ごしたことで家族のような感じになっていました。

本土にいれば、どこでも移動できますが、船で移動するということは、何時間も何日もかかるということです。

すぐにどこかに行くということはできないのです。
私は島に行くことで、そういった不便さの中で縁を知ることになりました。




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