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日本語習得しなきゃのノロイ


海外で子育てをしていると、必ず通る「日本語」をどこまで学ばせるのか、身に着けてもらいたいのかという葛藤。御多分にもれず、私もそんな親の一人である。

思い込みはどこから?

息子が日本語学校に通い始めたのは、2歳になってすぐだった。当時まだテレビを見せていなかったこともあり、日本のアニメのキャラクターに無反応だったことを覚えている。

「日本語を覚えるには日本語学校に入れないとダメ」

これは私の海外での日本語教育における最初のノロイだったように思う。ちゃんと正しく読めて、書けて、喋れるようになるためには、私が一人家で接しているだけでは無理だと思っていたのだ。

一体どうしてそう思ったのか、今では不思議に思う。子供が産まれた時から「日本語は話して聞いてができればいい。読み書き、特に書くことは求めない。手で字を書かなくてもいい時代になったし」と言っていたのに。

誰しも持っている「ノロイ」

各個人が持っている価値観というものは、育てられてきた環境に左右される。親が持っている価値観というものは、子供に絶大な影響を与えるのは周知の事実だ。

私が押し付けられた価値観で今でも解せないものもたくさんある。学校はやすんではいけない、ご飯は残してはいけない、1を知って10を知れ(←絶対無理だ、と今は断言できる)などなどなど。

尊敬する環境活動家の谷口たかひささんも藤原ひろのぶさんもおっしゃることだが、「正解の反対はもう一つの正解」なのである。と同様にこのノロイも解くことは別のノロイを作ることだと断言された赤木和重先生。

今回の記事は、「子育てのノロイをほぐしましょう」を出版された赤木先生と、「自由進度学習の始め方」を出版された蓑手省吾先生の対談から、自分の持つノロイと向き合った経過を綴ることとする。

そもそも人は何故学ぶのか

赤木先生のご専門は「発達心理学」である。ご自身の研究から、「特別支援学校」との関わりも深い。一方の蓑手先生も特別支援学校で教鞭をとった経験をお持ちである。

私たちは「できるようにさせたくなる」それがノロイ

赤木先生はきっぱりと断言された。子育てでもよく言われる「べき」という思い込みはノロイである。ただ、そのノロイを解くのでは、また別のノロイを作るだけだともおっしゃった。

特別支援学校のある教室で、自閉症且つADHDの子供が先日できていた問題を解けずに詰まった子供がいた。その時に教員はどうしたのか?

ヒントを出す。それが一般的な考えだ。

「それが”考える”ってことだ」

と興奮したのだ。ADHDの子供はじっと考える、ということができないのが普通なのだ。先日できたことができなくなっても、その問題と向き合い、暴れまわらずに考えることができた、という経過を評価しているのである。

絶対評価で教育を施されてきた私たちの世代は、結果がすべて。答えが出せないこと=ダメ、と思い込んでいるが、それこそノロイである。

私が高校生のころ、週休二日制が始まった。始まったが、結局水曜日に1時間増えて、埋め合わせをしていた記憶がある。私は詰め込まれて教育を受けた世代である。

学ぶことは好きだったし、苦手な分野も克服しようと頑張ってはいたが、「どうしてこうなるのか」という過程を飛ばして答えを導く方法を考えていたことも多い。

効率化するためにだ。そうしないとすべての教科を網羅することができなかった。結局好きな科目は「過程」を認識しながら勉強したのでいまだによく覚えているが、そうでないものは抜けてしまっている。

振りと型を覚える重要性

スポーツなど体を動かすことは特にそうだが、反復練習することで、頭で考えなくても動けるように叩き込み、脳の辺縁系で反射反応のレベルに持っていくことは可能である。

そのために同じことを同じ方法でずっとそれを繰り返す必要がある。

それを楽しんでやれるのであればいい。そういう人もいるし、スポーツや芸術の分野であれば、練習をすることで結果が伴うことが意欲につながることも多いと思う。

文字を覚えることや計算も然りで、何度も何度も繰り返すことで反応は早くなり、ミスも減っていく。それが楽しいと思えるのであれば、勉強の方法として取り入れるのはいいのだろう。

ただ、私の息子には向かなかった。何度も同じ文字を書き、同じ言葉を読み、テーマに沿った作文を書かされる。やりたいことができないことが彼にはストレスにしかならなかった。

「もう日本語学校には行きたくない。」

息子の発した一言は、私にとってはショックだった。学校に入れてさえしまえば、このまま日本語もやってくれるだろうという私の思いは、息子の学びたい方法と違っていたために、打ち砕かれた。

”好き”と”本能”の威力には勝てない

赤木先生と蓑手先生の対談のなかで、支援学校でのユニークな教材を紹介されていた。支援学校の生徒は、体は大きくても、赤ちゃんから乳児くらいの知能レベルである。

彼らを動かすにはどうするのか。それは本能に訴えることだ。穴があったら覗く、そこにボールがあれば入れる、飛び出していたら引っ張る、など、誰しも身に覚えがあるはずである。

成長していくと、そこに知的好奇心が加わっていくが、支援学校に通う子供たちにはそれがないケースも多い。辛抱強く本能に訴え続けていく必要があるのである。

うちの息子は、発達凸凹のいわゆるグレイゾーンの子供じゃないか、と1年前は疑ったくらい、社交性がなくて私は悩んでいた。小児科に連れて行って専門家にかかって診断を受けたほうがいいと思ったくらいである。

それが蓋を開けたら9月から普通に日本でいう年長クラスにあたる、小学校付属幼稚園科のKindergartenのクラスを楽しみ、クラスメイトとも馴染んで、バイリンガルのギャップさえ感じさせないくらい馴染んでいた。

息子が学校に楽しく通えた理由、それは息子の「好き」を先生やクラスメイトが認めて、それがクラスの課題として求められたものでなくても、受け入れてもらえたからである。

誰かに求められたものではなく、純粋に自分がやりたいことを追求する、それこそが知的好奇心なのだが、私の息子は、本能に加えて、その好奇心が必要な年齢に差し掛かったのだ。

日本語学校にそれでも執着していた私は、「じゃぁもうお母さんとは話したくないのね」とぶちキレてしまったりもしたのだが、最終的に私を納得させたのは

好きには勝てない

「恋は盲目」というが、本当に純粋な「好き」という好奇心には勝てない。それに勝るモチベーションがあるなら、教えてほしいくらいである。「好き」を満足させるためなら、息子はなんでもするのだ。

ノロイを”解く”ではなく”解す(ほぐす)”

私が尊敬する環境活動家の谷口たかひささんと藤原ひろのぶさんのお二人がそろって仰る言葉がある。

「正解の反対はもう一つの正解。正義の反対はもう一つの正義」

私はこの言葉を聞いてから、正論であっても、自分の意見を押し付けることはしなくなったし、論破をしようということはかなり減った。

今回の対談で赤木先生がおっしゃっていた言葉の一つも似ていた。

「ノロイを解いてもまた新たなノロイを生むだけ。ノロイは”解く(とく)”のではなく”解す(ほぐす)”ことが大切」

ほんとにその通りで、日本語学校をやめたいと言った息子にぶちキレたところで新たなノロイを生むだけだったのだ。キレちゃったけど、最終的には息子は言った。

「僕、お母さんに宇宙のことで日本語教わりたい」

それがすべてだった。息子は、ただただ自分の知的好奇心を満たしたい、それだけだったのだ。そしてそこに私の母国語である日本語も含まれていたのだ。

私の「日本語学校に行かなきゃ日本語を正しく学べない」というノロイを解してくれたのは、ほかの誰でもない、私が一番日本語を学んでほしかった息子本人だった。

1歳半で話しはじめ、それと同時にお父さんは英語、お母さんは日本語ということをはっきり認識し、日英の絵本の区別がつけられて、4歳過ぎてすぐに、1か月でひらがな、カタカナを読み書きできるようになった息子くん。

彼のその「学びたい」という好奇心は、お父さんともお母さんともその母国語で話したいという愛に溢れていた。それにノロイをかけていたのは、母親の私の方だった。

アイデンティティはカナディアン

母親は日本人、父親はイギリス人、そして私の子供は二人ともカナダで生まれ、カナダで育てていく予定である。二人はカナディアンとして大人になっていくのだ。

日系2世の私の友達がそうであるように、きっと彼らも英語で考え、英語で表現することの方が快適になっていくであろう。そうであっても、私は日本語で子供と接し続けていくつもりである。

彼らは、彼らの生きたい方法で、生きていけばいいのだ。日本語ができることは、おまけでいい。うまくできるようになってほしかったのは、私のエゴ以外の何物でもない。

ただ、様々な文化が絡み合う移民大国のなかで、自分のルーツの一つが日本であることは、嫌が応にも私の子供たちには染みついている。それをノロイではなく、誇りに思ってもらえたらいい、と今は思っている。

日本にいる私の母や姉弟とせめて話ができてほしいとは思っているが、AIという味方もいるし、直接話したいと思えば、それが「学びたい」という意欲につながっていくだろうと思う。

子育てだけではなく、生きていくうちに知らないうちに絡めとられてしまっている「ノロイ」。それは自分を生きにくくするだけではなく、もしかしたら大切な誰かも巻き添えにしているかもしれない。

ノロイは解すことができる。そして、それは新しい力を与えてくれると私は息子の日本語習得への新たな道とともに思い知らされた。息子が教えてくれた大切なことの一つである。

もし、子育てや自分の生き方で苦しんでいるとしたら、それは思い込みという名の「ノロイ」かもしれない。それを解すことで、新しい道が見えてくる可能性がある。

そんな道筋を見せてくださったこの対談だった。赤木先生、蓑手先生、そして何よりも息子に感謝の言葉を辞したいと思う。


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