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戦前少女文学から学ぶ、百合に挟まる方法 ~大正昭和あぶのうまる原理主義のお時間でしてよ~


1 はじめに

 百合というジャンルがある。華やかな女性同士の愛を描いた人気ジャンルだ。それはどこか高貴でまばゆい世界のようにも見えるためか、一部界隈では信仰に近い愛され方をしているジャンルでもある。
 しかし、光あるところに影あり。界隈の闇、つまり「百合に挟まる男」が後を絶たないことが嘆かれて久しい。女性同士の美しい友愛を破壊する異物として、彼らは徹底的に排除される。異端者として扱われているといってもいい。過激派によれば、「百合に挟まる女」すら許されないこともある。

 一種のミームとして冗談めかして語られることが多いが、どんなミームにもガチ勢というものは存在する。ピクシブ辞典にざっと目を通してもらえば分かるだろうが、ガチ勢を超えた在野の研究者がいるだろうレベルである。その熱さには、ドン引かざるを得ない。

 ストレス多き現代社会、麗しい女性が二人(もしくはそれ以上)、幸せそうにしていれば、そこに混じりたくなる気持ちはわからないでもない。どうしてもそうしたいという紳士淑女諸君は一定数いることだろう。そして、それが許せない人種がいるのも分かる。異物なしに眺めてこそ、という主張ももちろんだ。

 ならば立ち止まって考えよう、誰もが納得する「百合に挟まる方法」はないのかを。

 いま手元にある鈍器を掴んだ皆様、どうか落ち着いて話を聞いてほしい。その素敵な花瓶は、そっと棚にもどしていただきたい。あなたがたの界隈を破壊しようというのでない。むしろ、界隈の発展を手助けしたいという提案なのだ。

 まずは百合というジャンルを一旦整理し、皆様の混乱を収める。そこで納得がいかなければ、筆者を花瓶で殴って頂いて結構。納得いただけたなら、続いて百合ジャンルの大元となったであろう戦前の少女文学を語らせていただく。女学校で穢れなき少女が憧れのお姉様とお近づきになり、「日陰者の私にはお姉様とお話するどころか、そのスカートの裾さえ掴む権利はありませんわ!」とハンカチを涙で濡らす類の小説である。
 現在のサブカル化された百合とは一線を画すそんな小説たちを通して、百合に挟まる男女はそれほどまでに悪いものなのか、改めて語っていきたいと思う。

2 そもそも百合ジャンルとはどこから来たのか

 百合という単語が何を意味するのか、いまさっき初めて知ったという方は、ほとんどいないだろう。少なくともネットを利用してこの記事にたどりつけるような皆様の中にはいないはずだ。SNSどころかネット記事などでも普通に見かけるし、もはや日本語の一部になったと言っても過言ではない。わざわざこんなことを大仰にいうのは、女性同士の関係を指す「百合」という単語の歴史が、実はそれほど長くないからだ。
 改めて歴史を語ろう。ネットで調べればいくらでも出てくる情報だが、ご存じの方も今一度復習願いたい。

 始まりは1970年頃、日本文化(含め、西側諸国)が性に対して開放的になった時代のことだ。作家の伊藤文學は性関係の文筆活動を行っていく過程で、同性愛者の男性たちから性に関する相談を受けるようになった。日本社会においてゲイ文化というものが影に隠れ、抑圧されていることに気が付いた彼は、1971年、男性向け同性愛雑誌『薔薇族』を創刊する。ゲイ文化のコミュニティを日本に形成する手助けをするための雑誌であったが、女性の読者も多かったという。今と違い、 町の一般書店にも際どい雑誌が並んでいた時代ゆえ、思わず手に取り、BL的な楽しみを覚えてしまった女性もいたとのことだ。

『仮面の告白』の三島由紀夫が腹を切ったのが1970年。
日本人の価値観が、ある種の境目を迎えた時代である。三島由紀夫 Wikipediaより

 同性愛について語るなら当然、女性同士の同性愛者も見過ごすわけにはいかない。ということで、伊藤文學は雑誌内に「百合族」のコーナーを立ち上げる。さらに同名の専門誌を発行しようと目論むが、これは実現しなかった(実現していたら、女性より男性の読者が買ってそうな気がしないでもない)。
 これで終わってしまえば、ジャンルとしての「百合」という単語は、一雑誌のコーナーで使われるマイナー語でしかなかっただろう。しかし、終わらなかった。

 1983年、日活ロマンポルノが「セーラー服 百合族」を封切ったのだ。ちなみにこの、「百合族」というタイトルは、伊藤文學の許可は得ていない無断使用とのことである。ぶっ飛んだことをやっているようにも聞こえるが、日活ロマンポルノとはそういうものなので、仕方がないといえば仕方がない。
 ロマンポルノとはそもそも、大手映画会社の日活が斜陽に陥った際の暴挙である。当時人気だった成人向けエロ映画界隈に目をつけ、「日活の資金力でもって、低予算エロ映画を量産したら圧勝できんじゃね?」という、中学生をカツアゲするヤンキーのような大人げない発想から生まれているのだ。10分に一度、濡れ場があれば内容には口を出さないという方針のおかげで、映画史に残る尖った名作も作られている。新進気鋭の製作者たちが自分を表現できる場でもあった。ちなみに、この作品の監督を務めた那須博之も後に実写版『デビルマン』を撮り、いろいろな意味で歴史に名を残すことになる。

「セーラー服 百合族」のストーリーはこうだ。

 主人公の女子高生、美和子は親友のなおみと同性愛関係にある。親友一筋の美和子と違い、なおみには遊び人なイケメンの彼氏がいた。なおみが彼の子供を妊娠してしまった(と勘違いする)騒動を経て、嫉妬を燃やした美和子は、イケメン君に迫ったり、団地妻と乱れた関係を築いたりする。なんやかんやで最後には、自分に思いを寄せるガリ勉青年と初体験を済ませ、男のくだらなさを再確認。なおみとよりを戻すというところで幕を閉じる。

 今どきの純な百合ファンが血反吐を吐いて倒れそうなほど、男が間に挟まってくるのがおわかりだろう。厳密にいえば、「男女カップルに挟まるクレイジーサイコレズもの」である。潔癖な百合ファンから見れば百合とは程遠い。

エロ抜きに語っても、正直見るのがつらいタイプのB級映画だ。
とはいえ、そこは80年代の作品。ポップに突き抜けた、洒落たカットが散見される。
「セーラー服 百合族」1983年  日活株式会社

 はっきり言ってこの映画は、男女を交えた青春群像劇であり、女性の同性愛について何かを訴えようという意思は感じられない。女性同士の濡れ場に関しても、「裸の女が二人いたら一人よりお得やんけ!」という昭和のオッサン的発想に支えられているような感じだ。ただ、最後に何かを悟ったガリ勉が、「やっぱり勉強さ、少なくとも女よりよっぽど簡単だよ」とイケメン君に語り、勉強にのめり込んだ男二人が電車を降り損ねるラストシーンは、文学性が感じられなくもない。この作品のテーマはむしろ、そのへんにあると思われる。
 ともかく、この「百合族」はいくつかシリーズを重ね、百合ジャンルを一部に定着させたわけだ。

 最終的に日本のサブカルに百合ジャンルを定着させたのは、『セーラームーン』などの「美少女目的で男が読む」少女漫画を経ての、『マリア様がみてる』ブームであると言われている。1998年に文庫1巻が発売され、百合ジャンルの金字塔となった小説だ。この作品が百合ジャンルにおいて特別な位置にあるのは、後述する戦前女学生百合文化・文学を直接的に受け継いでいるからだ。つまり、閉鎖的な学園社会、経済的・精神的に高貴な生活、男性への不信感などである。百合ジャンルに真っ向勝負を挑んで勝利した、古典になるべくしてなった作品なのだ。

 ざっくり歴史を振り返ってみたが、90年代時点で「百合」という単語がいくつかのジャンルを内包していることが分かる。つまり、
① 成人女性同性愛者のコミュニティ
② 男性が見て楽しむためのポルノ
③ 耽美的な少女小説(から派生した漫画やアニメ)
の3種類を含んでしまっているのだ。ジャンルとして定義の混乱が起きてしまっている。

「百合に挟まる男」が排除されつつも、絶滅しない理由もここにあると言っていいだろう。彼らは悪意を持ってルールを破っているのではない。そもそもルールが整備されていないのだ。エロ=男が混じっても構わないという昭和のロマンポルノ的な世界から垣根を超えて、他ジャンルに踏み込んで来てしまっているだけなのである。
 百合ジャンルに対する「解釈違い」以前の問題。全く異なる嗜好の押しつけあいなのだ。

 つまり、「百合に挟まる男」に関する争いを諌める方法は実に簡単であって、挟まっていい「ロマンポルノ的百合」と挟まってはいけない「少女文学的百合」を異なる名称で定義してジャンル分けすればよい。80年代に混乱してしまった定義をやり直すのだ。そのうえで前者に好き放題挟まってもらえれば、誰も文句は言わない。

 とはいえ、本物の紳士淑女の諸君はそれでは納得しないだろう。「そういう生々しい大人の世界ではなくて、もっと美しい百合に挟まりたいのだ」という高尚な訴えが聞こえてくるようである。もちろん、筆者はその方法を語るためにここにいる。
 ただ一つ気を付けるべきは、ジャンルによって挟まり方が異なるということだ。少女文学的百合には、耽美で美しい挟まり方をしなければならない。そのためにまず、上記③の耽美な少女小説を、「原理主義的百合」と定義する。続いては、この原理主義的百合とはいかようなものか、さらに歴史的に遡って語らせてもらう。

 ここまで聞いて、私を花瓶で殴りたい方は? 結構。では、話を続けよう。

3 百合の元祖、戦前少女文学とは

 繰り返しになるが、原理主義的百合に挟まるためには、戦前少女文学的百合が何なのか理解を深めなくてはならない。現代の百合ジャンルの金字塔、『マリア様がみてる』のご先祖様となった文学の一群である。少女同士の友愛を描いた百合文学は実は、「百合」という言葉が生まれる1970年代よりも遥か前、大正から昭和初期にかけての少女文学が元祖なのである。

 戦前少女文学なぞ読んだことがない方が多数だと思われるので、具体例をあげよう。例えば、代表的作品『乙女の港』のあらすじはこうだ。前提知識として、当時の女学校は5年制である。

 ミッション・スクールの女学校に入学した主人公は、皆が憧れる5年生のお姉様・洋子と姉妹関係を結ぶ。そこに4年生の克子がちょっかいを出し始める。夏休み、主人公は軽井沢での避暑で、克子にマンツーマンでスポーツの手ほどきを受ける。お嬢様タイプの洋子とスポーツマンタイプの克子の間で心が揺れる主人公。さらに洋子は家が没落し、広大な牧場を失うなどの不運に見舞われるが、なんやかんやで主人公は洋子を選ぶ。洋子と克子の仲は険悪になり、なぜかそれが5年生と4年生の学年同士の争いに発展する。その争いが運動会での学年対抗戦に波及し、学年の期待を受けたスポーツ少女の克子は張り切りすぎて大怪我を負う。そんな克子を洋子が真摯に看病したことで二人の仲は氷解する。最年長の洋子は先に卒業してしまうため、卒業後は主人公のことを克子に託すと約束し、3人に友情が芽生える。

 だからなんやねんと言ってしまえばそれだけのストーリーだが、大抵の戦前少女文学は、まあ得てしてこんな感じである。ちなみに作者は、日本が誇るノーベル文学賞作家、川端康成。厳密には、弟子の中里恒子が原案を書き、川端の筆でブラッシュアップしたものである。当時すでに文豪として有名だった川端が、少女雑誌の客寄せパンダとして利用されたらしい。未来のノーベル賞作家になに書かせとんねんと編集者に向かって言いたくもなるが、戦前戦後の少年少女向け雑誌では、有名作家が小遣い稼ぎに小説を掲載することが度々あった。編集者を攻めるべきかは微妙なところだ。

『乙女の港』表紙と中表紙。百合小説開いて、いきなりオッサンの著者近影があったらどうする? 筆者ならキレる。川端康成はこのころ、38〜9歳。
『乙女の港』川端康成 実業之日本社 1938年

 話を戻すが、百合に挟まるという文脈で言えば、スポーツ少女の克子は、「百合に挟まる女」である。しかし、その挟まり方は実に美しい。挟まるにしても下品な力技でもなく、しかも挟まる相手二人を余計に燃え上がらせ、最後には敵方に後を託されるという、超絶技巧を見せている。いままで百合系作品の美少女二人を見ては、「あら^〜、間に挟まって三人でイチャコラしたいですわ〜」などという低俗な妄想にふけっていた淑女の皆さんは、反省していただきたい。これが戦前女学生的な耽美な百合である。

 ではそもそも、この百合的な文脈が少女小説の中で生まれた理由はなにか。最大の理由は、実際に百合的な文化が女学校で行われていたからである。当時の女学生は、年下の少女のなかから自分が気に入った者にメッセージを送り、”エス”と呼ばれるという関係を築いた。エスというのはSisterの頭文字Sであり、義姉妹的関係であるといってもいい。サブカルの世界では、『マリア様がみてる』の影響で、”スール”という呼び名が定着しているので、そちらのほうが分かりやすい方もいるかもしれない。地方によってはエス以外にも様々な呼び方があったようだ。

前後の文脈がなければ、全く理解不能なセリフ。
コミカライズ版『マリア様がみてる』1巻 長沢智(原作 今野緒雪)集英社 2004年

 エスという関係性が生み出された理由には、①実際に一定数の同性愛者が存在した ②異性の代替としての擬似的な恋愛 ③ギルド的な互助会制度 などいくつかの要因があると思われる。

 エスとなった少女たちは、永久に姉妹関係を結ぶということになっていた。”なっていた”というのは実際はそうでなかったからである。これが三国志なら、戦場で死ぬまで義兄弟という男臭い展開にもなろうが、そこは移ろいやすい少女の心である。実際には、裏切ったり裏切られたり、挟まったり挟まられたり、なかなか大変だったらしい。 
 21世紀においては、日本のサブカルから百合がYuriとして輸出され、世界共通語になっている。女学生文化は世界各国にあり、似たような女学生同士の関係性は発生したようだが、文化の一部としては残らなかった。西洋諸国においてはキリスト教の関係で、同性愛が徹底的に排除されたためだとされる。戦前の日本においても大人の同性愛は、忌避されるべきもの、治療されるべきものという扱いであった。しかし、少年少女の疑似恋愛的な同性関係は、「大人たちの指導によって段階的に矯正されていけばよい」とされ、ある程度見逃されていたようだ。


キリスト教文化圏では、女学校と性の問題はどこか暗いテーマを含む。
『ピクニック・アット・ハンギングロック』ジョーン・リンジー 創元推理文庫 2018年

 もう一つは、少女小説の元祖ともいわれる女性作家、吉屋信子が同性愛者であったためである。吉屋信子は、1916年(大正5年)に少女雑誌で連載を始めた『花物語』で大ヒットを飛ばし、一躍、女学生たちの教祖のような存在になった女性だ。

 吉屋信子が斬新だった点は、何より本人が女学校卒業者であったことと、レズビアン的視点で女学生の関係を赤裸々に描きながらも、それを偽古典的な文章で汚れなく耽美に描いた点にある。例として次のような感じだ。

 かつみのそれは、同じ性へのやむことなき祈願に似たる、思慕と燃ゆるがごとき恋情であったので……≪あぶのうまる≫ 科学者達は冷たくこう呼ぶであろう。此の愛の感情よ!

『返らぬ日』吉屋信子 1927年

 それまでにも少女向けの小説というのはあったが、吉屋信子ほど女学生の気持ちを「分かってくれる大人」はいなかったのだろう。そのリアルかつ美化された世界は女学生に熱狂的な支持を受け、後には彼女の作品を模倣した(というかほぼパクったような)作品が少女雑誌上で量産されることになる。川端康成が『乙女の港』を書かされた理由も、元をたどればここにある。現代でもパロディ的に使われる、エセ上品なお嬢様的世界観は彼女のお陰で日本に根付いたと言っても過言ではない。

花物語第三集広告。優しき竪琴の弦の鳴る音に例うべく筆はゆかしき云々。
宣伝文句まで大仰である。1921年の広告。

 彼女がどのような作品を書いたか、あらすじを紹介しよう。『裏切り者』という短編である。

 田舎の女学校に通う章子は、地元っ子の優等生。4年生の新学期に満智子というお嬢様が東京から転校してくる。つんとした態度の満智子は、不良少女だと噂される美人。ある日、章子は満智子から「明日から迎えに来てもいいわよ」と付き添い役に一方的に命じられる。不服に思いながらも、章子は満智子の美しさに惹かれてしまう。無茶な命令を受けても喜んで受けてしまうほど、満智子を女王のように信奉しだす章子。ある日、若い女性教師の左遷事件に対して、生徒たちがサボタージュを起こす。反乱のリーダーは満智子であるから章子も当然付き添いを命じられる。しかし、章子は優等生で地元育ち特有の家庭事情もあるため、サボタージュ決行の日にいつも通り登校してしまう。章子は満智子に捨てられ、顔も合わせてもらえなくなる。後日、狭い道ですれ違った時、満智子は慇懃無礼に「ごめん遊ばせ」とだけ言って去ってしまう。章子は、あの強気な満智子が、プライドを傷つけられたことを必死に隠そうとしているのだと悟ってしまい、あこがれの人を失った寂しさを感じるのだった。

 少女の心を描くという点においては、正直に言って、川端康成よりも一段か二段レベルが上である。「少女を見る男」を描ききったのが川端の『伊豆の踊り子』であれば、少女が見た少女の世界を描ききったのが吉屋信子である。男からのロリコン的視線と、どこか閉鎖的な少女の世界、この二つは明らかに現代の日本サブカルチャーを形成している二大要素である。川端康成が国語の教科書に載るのであれば、吉屋信子も教科書に載せるべきだと筆者は主張したい。

吉屋信子、写真。現代でも作品が文庫化されているが、一般的にはマイナー作家の域を出ない。いいから教科書に載っけろ文科省。『女性10(4)』プラトン社 1926年

 こうした作品を通して、百合文化は現実と想像の両面から強化されていった。女学校の生活が小説に描かれ、それに憧れた少女が少女小説を模倣した生活をおくり、それがさらに小説に反映され極度にまで浮世離れした潔癖的世界が出来上がったわけだ。少女なるものが日本文化に刻まれた時代であるといってもいい。AIなら過学習を起こして崩壊しているところだが、そうならないのが人間の、そして少女たちの強さである。この文化は二次大戦による物質的困窮と、戦後の男女共学化によって失われていった。その後は、一部の小説や少女漫画によって細々と残り、90年代にオタク文化の中で完全復活するのである。

4 少女という新人類

 というわけで、清く美しい百合への挟まり方をするために、皆様にはこういう世界観にどっぷり使っていただきたいわけだ。
 その前にまず、少女とよばれる集団がどういう人種であったかを理解する必要がある。特に女学生文化というものについての理解は必須である。

 少女小説において、少女=女学生と思って頂いて構わない。当時、小学校を卒業して女学校に入れた女子は、時代にもよるが10〜15%程度。それでも少女=女学生である。そんな極端な、と思われるかもしれないが、そもそもこの、「少女」という日本語自体が女学生のために作られたと言っても過言ではないのだ。

 日本語では元来、子供たちのことを男女問わず「少年」と読んでおり、少女という呼び方は一般的ではなかった。というより、少女という単語が必要なかったのだ。さらにいえば、男にも女にも、少年時代・少女時代というものは存在しなかった。
 江戸時代以前(明治に入ってもだが)、子供というのは幼い頃から、容赦なく家事・家業の手伝いをさせられるものだった。15歳で成人という時代であるから、10代の半ばになれば大人と同等の責任を負わされたし、女性であれば子供を産めるようになったら即座に嫁入りということも珍しくなかった。つまり子供は周りの大人に認められた瞬間に大人になるもので、人間には子供か大人の2種類しかなかったのだ。

鈴木春信による『お仙茶屋』(1768年)。茶屋の看板娘、お仙は江戸の三美人と呼ばれた。当時は推しグッズまで作られ江戸の男を魅了したが、年齢は17やそこらである。

 女性においては、子供から即座に人妻になることもあり得るわけで、極端な話、子供か人妻の2種類だったといってもいい。大げさに聞こえるかもしれないが、戦前の女学校は入学要件にわざわざ、「未婚であること」を明記していた。それぐらい、現代人と当時の人では結婚に関する年齢観が大きく異なっていたのだ。

 状況が変わったのは明治に入った後だ。学校制度が整備されて、中等教育、現代で言う中学校〜高校にあたる学校が整備されてからである。この時初めて日本人は、「肉体的に成熟しているのに、労働や結婚をせず学業に集中する若者たち」の集団を目の当たりにした。

 それは、読み書きを達者に行う若者たちの誕生でもあった。そして若者というのは自己表現がしたい、そして同年代の若者たちと繋がりたくてしょうがない人種である。今であればSNSに書き込みまくることでその熱は発散されるが、当時はそういうわけにいかない。そこで発達したのが雑誌という媒体だった。

 若者向けの雑誌は、当初は男女一括りに発行されていたが、次第にそうも行かなくなってくる。男女の学生で雑誌に求められるニーズが違うということが浮き彫りになってきたのだ。
 富国強兵が叫ばれる大日本帝国においては、男子は何より兵隊、そして経済人や学者になって国を支えることが求められた。一方、女子は家を守る良妻賢母となって家を守ることが理想とされた。どう考えても女性を家に閉じ込めることで、人口比的に国力が半減する気がするが、現代の価値観で語ってもしょうがない。とにかくそういう時代だったのである。
 雑誌の内容は、男子向け記事が立身出世を強く意識したものに、女子向け記事が家庭生活のものに偏る。互いにどちらも受け入れ難い内容であるから、分離が必要になる。そこで、1902年に『少女界』が発行、初の少女雑誌が誕生した。男を少年、女を少女と呼び分ける文化はここから定着していくことになる。

男女が仲良く読書をしていた『少年』雑誌の表紙も、このとおり。日本が対外戦争にノリノリになってからは、少女の居場所がなくなっていく。
左 『少年 (12)』時事新報社 1904年  右 『少年 (133)』時事新報社 1914年

 先ほどSNSの例えでも出したが、同世代と繋がりたいのが若者というものである。雑誌という表現の場を得た少女たちは、読書投稿のコーナーを最大限活用し、独自のコミュニティと文化を築いていった。詩や和歌、手紙的な散文などを大量に交換し合ったのだ。妙に文学的な言葉遣いで清廉潔白、感傷的なもの言いの少女文化なるものが醸成されたのもこの場である。純な乙女が秘密の日記帳にポエムを書く、というようなステレオタイプもこのあたりが元祖である。

少女雑誌の読者投稿コーナー。全国各地の少女たちの思いの丈が細かい字でビッシリと5ページ続く。このコーナーの前後も少女たちが作った俳句や作文、果てはクイズまでが10ページ単位で掲載されている。時代によっては、朝鮮や満州からの投書も。
『少女界 8(5)』金港堂書籍 1909年

 彼女らの文章は、吉屋信子をはじめとする作家たちの模倣であったかもしれないが、紛れもなく自己表現であった。作家の模倣をするのにも、偽古典的な文章を駆使して自己表現をするのにも、一定の学が必要になるのはいうまでもない。雑誌を定期購読するにも経済力と自由時間が必要である。必然、少女雑誌の読者層は、学もあって経済的に恵まれた、自由時間が確保できる若い女性がメイン層になる。大多数の女性は小学校卒業後にすぐ就職するか花嫁修業に入るような時代だから、条件を満たす女性は女学校に行っている若者ということになる。雑誌の内容も学校生活が中心となる。
 こうして日本においては、少女=少女文化圏の若者=少女雑誌の購読者=女学生となった。

 日本の少年・少女漫画が学生ばかりをテーマにしすぎると、海外から批判されることがあるが、そりゃあ仕方がない。日本語の少年少女という単語が学生を指しているのだから。
『僕のヒーローアカデミア』4巻 堀越耕平 集英社 2015年

 逆にいえば、女学校に入学できないものは、少女時代を謳歌できないとも言える。現在では、学生がスポーツや学問に打ち込むことを「青春を捧げて」とか、「青春を捨てて」などと表現する。進学率が低い戦前の少年少女は青春を捨てるどころか、まず手に入れることが不可能だったのだ。青春を謳歌できる若者は、一種の特権階級だったのである。本人たちもそれを十分理解していたことだろう。特権意識を噛み締めるように、少女雑誌の中身は、女学校=少女=青春一色になっていくのだった。

 この史上類を見ない、女性としての青春を謳歌した少女たちのコミュニティが少女雑誌だった。そしてその少女雑誌の中で誕生したのが、後の百合ジャンルにつながる少女小説というジャンルである。

 百合ジャンルが男を迫害したのではない。男性社会が少女たちを隔離したのである。

5 女学校に行きたくて

 少女のメイン層が女学生だということは、ご理解いただけただろうと思う。

 さてそろそろ百合に挟まらせて頂けないかしらん、という紳士淑女の皆様もいるだろうが、まだ早い。女学生とは何者か、さらに理解を深めるため、戦前の女学生制度について知る必要がある。歴史の授業がお嫌いな方もいようが、それもこれも百合に挟まるためだ。我慢していただきたい。

 戦前少女小説には女学校という単語が頻出するが、これは基本的に高等女学校といわれるものを指している。『乙女の港』のあらすじにも4年生だの5年生だのと学年が出てきたが、これは高等女学校の学年である。高等女学校は小学校6年を卒業後に入学するので、高等女学校1年が現代の中学1年生である。4年制と5年制があったが、5年制の学校が多く、現代の高校2年生(=17歳)ぐらいで卒業ということになる。裁縫などをメインに教える実科高等女学校などもあったが、年数としては同じである。

 高等という名前が付いているので紛らわしいが、実際は中等教育、今で言う中学校〜高校に当たる。小学校を出ると男子は中学校の入学資格を得るが、女子は入学を許されなかった。代わりに、女子用の中等教育を担っていたのが高等女学校である。”高等”という名前が付けられたのは、この学校が女子の最終学歴だと世間一般で認識されていたからといわれている。
 小学校卒業者で高等女学校に上がるのは、10〜15%程度。さらにその10%程度が、教員資格をもらうための女子高等師範学校や、手に職をつけるための専門学校に入った。大学に進む女子もいなかったわけではないが、男子が定員割れしていないと入学枠すらないという、ほとんど非現実的な狭き門であった。

戦前の進学イメージ。そもそも小学校高学年から男女共学が認められておらず、進学先は明確に別れている。(明治~戦前は時期によって、学校の種類と進学のパターンが無数にあるため単純化している。)

 Xのタイムラインなどを見ていると、現代の絵描きさんが時々、大正時代の女学生を現代の女子高生〜大学生のように描いているのを拝見する。現代語の「学生」が高校から大学生を指すことが多いので、もし勘違いしていらっしゃったのなら一応の知識として覚えていただきたい。4年制学校もあり、中退者もそこそこいたので、現代人の感覚からすると意外に幼い。中学生ぐらいの少女を描いたほうが歴史的に正確である。もちろん、絵は創作表現なので好きに描いていただきたいが、年若い少女もどんどん描こう! ということはアドバイスしておく。いや、別に変な意味ではなく。

 先にもちらりと述べたが、小学校卒業生の女子全員が全員、高等女学校に上がれたわけではない。まず戦前の義務教育は、小学校までである。中学校以降の中等教育は自主選択になるが、義務教育ではないということは授業料を負担する必要がある。
 また、中等学校が設置されているのは一部の都市部だけなので、郊外や農村に住んでいる家庭は、子供を寮に入れるか、親類縁者の家庭に居候させる必要があり、さらに費用が掛かる。

 結果、娘を女学校に送り出せるのは中流以上の家庭に限られる。といっても現代日本のように国民総中流という時代ではなく、まだまだ貧しい時代。中流家庭ですら少数派なので、大多数は小学校卒業後に就職するか花嫁修業に入った。

約100年前、大正15年の名家の御息女たち。当時の雑誌では華族や資産家の令嬢の写真が掲載された。 後ろのセーラー服姿の少女は、仏英和高等女学校(現・白百合学園)に在学、左右の少女は小学生とのこと。現代人からすると年齢が推測しづらい。
『 婦人グラフ 3(2) 』國際情報社 1926年

 では金を払えば入学できるのかというと、そうは問屋がおろさない。入学試験がしっかりと存在したのである。
 倍率はそれほど高くなく、全国平均で1.5〜2倍程度である。大都市の有名校が倍率を上げているので、地方の女学校は1倍に近いところもあった。複数校への志願が可能だったので、選り好みしなければ、入学できる可能性は高くなる。ただし、東京の有名学校ともなると、倍率も3倍近くに達し、浪人生が現れるほどだった。入試対策用の問題集もずいぶんと売れたらしい。昨今の私立中学受験ブームに近いものがある。

 学校によって変わるが、4年制か5年制のカリキュラムを修めると晴れて卒業である。良妻賢母教育の一環として裁縫等の授業が多かったため、男子よりも学科のコマ数が少なかったが、それでも当時の若者としては立派な知的階級であると言えよう。
 ただ、残念ながら彼女らの学歴が、立身出世のために活用されることはほとんどなかった。卒業後の大多数は嫁入り、もしくは花嫁修行に入らされたし、職業婦人になっても数年で結婚して寿退社と相成った。これは本人たちの意思というより、社会がそういう価値観で作られていたためだ。娘を女学校に入れる親たちは、嫁入り時の箔付けとして、よりよい男を捕まえるために学歴を求めていた。企業も若い女性を求めたのは、男性よりも低賃金でこき使えることが許されるうえ、若い男がやりたがらない細かい作業をこなしてくれるためであった。

大正末の電話交換手たち。見事に若い女性ばかりだ。電話交換手は初め、若い男を採用したところ、態度が横柄で苦情が殺到したという歴史がある。
YouTube 国立映画アーカイブ https://www.youtube.com/watch?v=Tivvh1oHzaY
【全篇】『婦人の職業 優しき力』1926年|「フィルムは記録する」より ‘Film IS a Document: NFAJ Historic Film Portal’

 もしくは、店員や受付嬢として採用し、店舗に見た目の華やかさを加えるためであったから、数年経って結婚すれば退社するというのが当然の事だと考えていた。
 学問を収めても、その能力が無為にされるというのは、なんとも切ない話である。だからこそ少女たちは、限られた学校生活を可能な限り華やかに演出しようと努力したのである。

6 あなたの知らない少女小説の世界

 さて、焦れた皆さんがそろそろ、分厚い百合雑誌で殴りかかってきそうなので、前提知識の歴史講義はこれにて終了である。実際に少女文学の内容を見て生きながら、その世界観を学んでいこう。

 まず、見ていただくのは、横山美智子の手による『嵐の小夜曲』から序盤のあらすじである。1929年(昭和4年)連載開始の大ヒット作品であり、この小説が売れまくったおかげで講談社の自社ビルが建ったという伝説があるほどである。最終的には54版を重ねたそうだ。

 女学生の小夜子と陽子は仲良し二人組。家も隣同士で、いつも二人でいることをクラスメイトにからかわれるほど。その日は、学校の遠足。生徒が列をなして公園に向かうときも、二人は手を取り合って歩いていた。道の途中、小夜子は道端で泣いている少女を見つける。曲芸師の格好をした少女が、父親らしき老人に叱られているのだった。少女をかわいそうに思った小夜子は、彼女に駆け寄り、遠足用の菓子類を紙袋ごとあげてしまう。勝手に列を離れるのは規則違反だったが、担任の先生はむしろ心美しい行為を褒める。
 遠足の自由時間に小夜子は、男子小学生から心無いからかいを受ける。小夜子の父は医師だったが車にも乗らず、みすぼらしい身なりでいつも自転車に乗っていたためだ。しかしそれも、経費を浮かせて貧しい人々に還元するためだと陽子が反論する。
 帰りの時間になり生徒たちが帰り支度をするも、集合場所にやってこない小夜子と陽子。担任が彼女らを探しに行くと、二人はクラスメイトが散らかしたゴミを片付けていた。担任は感動し、さらに二人を褒める。
 家に帰り、家族そろって夕食を食べる小夜子。昼間、少年にからかわれたことを父に話すと、父はプライドを持って貧しい人々を助けているので、恥じることはないと小夜子を諭す。すると突然、大きな音を立てて家の表戸が開いた。玄関に向かう一家。そこには、昼間の曲芸師の老人が倒れていた。彼は医師の顔を見るなり叫ぶ。
「旦那、コカインを下さい……コカインを!」

『なかよし』を読んでると思ったら『ヤンマガ』だったぐらいのイカれ方だ。そりゃあ、講談社ビルもぶっ建つわ、という感じである。

そのあと曲芸師のタバコの不始末で二人の家が火事になり、紆余曲折あったあげく二人揃って音楽の才能があったおかげでなんとかなる。挿絵は辰巳まさ江。
(画像は戦後に刊行されたものから) 『嵐の小夜曲』横山美智子 妙義出版社 1948年

 少女雑誌の説明にて、男性社会が少女たちを隔離した、と悪しざまにいったが、逆に言えば隔離する必要があるほど、世の中が荒れていたともいえる。世の中が荒れていなければ、清廉潔白な世界を人工的に作る意味もない。ここでルールその1。

 ルール1 少女たちの心は美しいが、世界は恐ろしい

 ではそんな女学校の世界ばかりが素晴らしいものとされていたかというと、実はそうでもない。続いては、吉屋信子の小説『花物語』から短編「ダーリヤ」を紹介する。女学校に行かずに、小学校卒業後に看護婦になった少女の話である(原作を尊重し、看護師ではなくあえて看護婦と呼ぶ)。

 道子は小学校卒業後、町の慈善病院で看護婦として働いていた。ある日、馬車と人力車の衝突事故により大怪我をした女学生が病院に運び込まれてきた。富豪茂川家の娘、絵に書いたように華やかなお嬢様の春恵である。緊急手術になるが、道子は懸命に医師をサポートし、春恵は一命をとりとめる。道子は手術後も献身的に看護し、春恵は無事退院となる。茂川家は道子の健診にいたく感動し花束を贈る。そればかりか春恵の父は、道子を引き取って娘同然に育てたい、娘の学友となって彼女を支えてほしいと申し出る。突然のシンデレラストーリーに戸惑う道子だが、病院長は彼女を応援してくれる。しかし、病院に入院している貧しい人々のことを思い、お金持ちの家で暮らすよりも、貧しい病人たちに尽くしたいと思った彼女は、病院裏の川に花束を投げ捨て、申し出を断ることを心に誓うのだった。

 少女雑誌に連載されたのだから、素直に美談として受け取るべきなのだろう。
 心が汚らしい現代人の筆者からしたら、「金持ちの家に世話になって女学校に行って、当時の女性が医者になるのは難しいにしても、医学か看護学か社会衛生か何かしらの学問を修めて、家の資産食いつぶしながら効率よく慈善事業したほうが、より多くの人を救えるんじゃない?」という感想が出るが、そういうことを言う大人が現れた瞬間、この世界観は崩壊するのである。
 とにかく、当時の少女たちは狭い世界に生きている。親や周囲の大人の権力が強く、自分の意思で人生設計を決めるという発想にも至れないのである。故に自分の置かれた世界で身を尽くすことは美しい、自由を求めることは美しくないのである。現代では奴隷根性と蔑まれるかもしれないが、彼女たちにそれを言うのは酷だろう。

世間知らずの中学生が自分たちの世界で関係を完結させるという点では、「まどマギ」は至って正統な少女文学である。「ほむほむさぁ、もっと周りを頼って合理的にループを攻略しなよ」とか無粋な指摘はしていけないのである。
「魔法少女まどか☆マギカ」第10話 (C)Magica Quartet/Aniplex・Madoka Partners・MBS

 他人に身を尽くす職業婦人は美しい、と当時の少女たちが思っていたのは嘘ではないだろうが、客観的に見れば身勝手な美化である。女学校に在籍し、労働に身をやつす必要がないことが担保されているからこそ、楽しめる物語だ。
 『嵐の小夜曲』でも主人公が家の火事で身を落とすし、他の小説でも、親の死などによって女学校を辞めさせられることがあり、それはあからさまな悲劇として描かれている。女学校でなくなることが、青春を失うことに即繋がる当時にあっては、実際悲劇だったのであろうが、小説の看護婦を美しいとするなら、退学も美しいものとしなければ理屈が成り立たない。
 少女小説において少女は、美しいもの、高貴なものに迷わず身を尽くす。裏を返せば、己が美しく高貴であれば身を尽くされて当然という発想につながるはずだ。
 恵まれた環境にいるものが、上から目線で語る美しさは果たして美しいのか。清貧は美しい、ならすべてを捨てなさいといわれて、今の生活を投げ出せる現代人はどれほどいるだろうか。そんな奴が山程いたら、お釈迦様の教えはいらねえわな、というのが結論ではないだろうか。そこで、ルール2と3。

 ルール2 少女は大人が理解できないほど狭い世界に生きている。
 ルール3 少女は献身的である、しかし傲慢でもある。

 現代人、特に現代の大人から見れば非論理的な行動をする彼女たちではあるが、周りの大人達を頼るという選択肢は彼女たちにないのだろうか。
 結論からいえば、ない。基本的に大人たちは、少女の心を微塵も分かってくれないからである。これに関しては、若者の世界を描いた作品においての一種の不文律だろう。現代の作品でも、親や先生が何も分かってくれないと苦悩するシーンは一つのベタとなっている。しかし、戦前少女小説の”大人の分かってくれなさ”は、現代とは質が違う。
 あなたが大正の初めに女学校に入学したとすると、生まれ年は1900年ごろである。20歳で子供を産むとして、両親は1880年、祖父母は1860年ごろの生まれである。30歳で計算すると、1870年と1840年だ。江戸時代が終わりを迎えた大政奉還が1867年だから、どちらにせよ祖父母の世代は江戸時代の生まれということになる。大政奉還をした瞬間に、日本全国がパッと西洋風に入れ替わるわけではないので、こと地方においては、江戸時代に毛が生えた程度の社会で育った大人たちも少なくないはずだ。
 当時最新の西洋的学問を修めている少女たちと、江戸の風を受けて育った大人たちの話が噛み合うわけがない。自分を助けてくれるはずの大人には頼れない。そういう意味で、彼女たちは社会的に孤立していたために、自分たちで徒党を組む必要があった。

地域や世代、経済状況による格差が大きい時代。同じ本の挿絵の中でさえ、これほどの違いがある。絵は少女たちにカリスマ的人気を誇った中原淳一。『小さき花々』吉屋信子 實業之日本社 1936年

 理解してくれないだけならまだ良い。それどころか主人公とパートナーの仲を、積極的に引き裂いたりする。
 パターンとしては父親が急に転勤する、事業に失敗して田舎に引っ込む、大陸に渡ることになる、などである。東京の学校(女子寮)で奔放な生活をしていることがバレて、田舎の学校に無理やり転校させられるなんてものもある。この時、父親の代わりに少女のことを養ってくれる優しいお兄様お姉様なんかがいると、少女本人より数倍ひどい目にあって、物語から追放されたりする。とにかく、世の中は地獄なのだ。

 何故やたらと主人公たちを引き裂く大人が登場するのか。もちろん、当時の少女たちが自分の行く先を自分で決められるほど、自由意志が尊重されていなかったということもあるだろう。その描写であるには違いない。
 しかし、重要なのはそこではない。百合関係は、妨害されることで余計に燃え上がるのだ。短編小説なら、引き裂かれたところで耽美的な悲劇として終わるし、長編なら引き裂かれてうんぬんかんした後に再開してハッピーエンドだ。始終、仲良しでした、では作品にならない。
 大人たちは物語の山として存在しなければならない必要悪なのである。

 とはいえ、全ての大人が敵ではない。そもそも少女たちを学校に入れて、生活費を払ってくれてるのは大人たちである(故に、逆らうわけにもいかないのだが)。
 小説において、主人公が窮乏して物語がにっちもさっちもいかなくなると、急に心美しい資産家が現れてお金をくれたりする。学校の先生や音楽・絵画などの芸術の先生、特に女性の先生が主人公の才能を見出し、援助してくれたりするのもよくあるパターンだ。
 若い教師や職業婦人に至っては、小説内で女学生の百合の相手を努めたりする。ただし、立場の違いから最後は離れ離れになってしまうまでがお約束だ。

 男尊女卑甚だしい時代にあっては、自分たちを理解してくれる若い女性の先生は理想の大人に見えたことだろう。近しい時代に少女たちと同じような教育を受けている人間として、理解してもらえるという実感もあったに違いない。作家の吉屋信子が教祖的な人気を誇ったことからも、それは分かる。

 ルール4 大人たちは少女たちの仲を引き裂く、それは百合は燃え上がらせるギミックである
 ルール5 若い先生と職業婦人は優しいし、百合の相手にもなりうる

 では、大人の男が平和的に少女の世界に割り込む方法は無いのか。安心してほしい、方法はあるし、現実にそういう男性もいた。
 その最たる例が、『少女の友』主筆の内山基だ。雑誌イコール少女たちの世界を作り上げている皆のお父様というか、お兄様というか、そういう立場にいた男性である。雑誌上で、少女に向けての文章を発信し続けたし、読者投稿コーナーでは、彼に向けてのお便りも度々送られた。定期的に行われる、読者イベントでも少女たちに取り囲まれるほどの人気だったそうだ。
 また、『乙女の港』を書いた川端康成は、雑誌上で特集が組まれているし、挿絵を担当したイラストレーターの中原淳一も、カリスマ的な人気を誇っていた。少女の世界観を完全に理解している知的なオジサマは、他のオッサンたちとは違う存在として、少女たちに味方と認識されていたのである。

イラストレーターの中原淳一。少女服のデザインも手がける、ファッションリーダーでもあった。 左 中原淳一 Wikipediaより 右 1939年ごろの広告

 余談であるが、日本が日中・太平洋戦争に突入すると少女雑誌の内容に政府からの検閲が入る。詩的で情緒的な内容が、戦時体制に見合わなかったためだ。中原淳一も雑誌の挿絵担当を降ろされている。そこで『少女の友』主筆の内山基は、指示通り雑誌の内容を変更したうえで、全国少女たちから送られた苦情の投書を雑誌に掲載しまくるという方法で政府に逆らった。少女の味方をするには、知的なだけでなくパンクなオジサマでいなくてはならない。

 ルール6 知的、もしくは芸術的なオジサマは、少女の世界に入門できる
 ルール7 オジサマには、いざという時に少女たちを守れるパンクさが必要

7 それでは百合に挟まろう

 少女小説とは、だいたいこのような世界である。一旦まとめてみよう。

 少女たちは知的な女学生であり、新しい人種である。彼女らのコミュニティは美しいが、社会は恐ろしい。狭い世界に生きているが故に、非合理的な判断をしがちだ。周りの大人に頼ろうにも、世代格差によって価値観が違いすぎる。仲の良い少女が現れても大人たちの都合で、無理やり引き離される。ただし、生活の面倒を見てもらってる都合上、逆らうわけにも行かない。自分たちを分かってくれる大人は優しいお兄様や、年の近い先生などだ。芸術的な活動をしている知的階級のオジサマたちも、自分たちを分かってくれるが、近場にはなかなかいない。

 これを踏まえて、いい歳をした大人が百合に挟まる方法を考えていこう。以下の台本に従って、適切な役回りに収まっていただきたい。

① 少女たちの世界の守護者・創造者になる
 作家や芸術家、雑誌編集者などである。真っ当に知的で、かつ少女たちの苦悩を理解し、ともにその世界観を作り上げられる大人になること。こうすることで、少女たちの仲間としてその世界のなかに存在することができる。時には厳しく、時には優しく、彼女らを指導することも必要だろう。いざという時は、国家権力に逆らってまで少女を守る覚悟が必要である。芸術ならジャンルは文学や音楽など問わないが、あまり軟派なものは、心清らかな少女たちに拒絶される可能性があるので注意を要する。
 小説の登場人物なら、不幸な境遇に陥った少女を救う役回りも演じられる。家の都合で貧しくなり、親友とも離れ離れになった少女が気分を紛らわせるために道端で歌っているところに居合わせ、はたと驚けばいい。ただし、すぐさま支援を申し出てはいけない。一旦、彼女のことを心の隅に記憶した上で日常生活に戻る。なんやかんやあったあげく、例の少女が心優しく周囲からの評判も良いこと。それにもかかわらず悲劇的に貧しくなったことを確認したうえで、行動に移さなくてはならない。彼女を貧しい境遇から救い出し、親友と再会させ、そのシーンを満足そうに後方から見つめるのだ。

② 悪人になる
 御自身の才能や知性に自信がない場合は、悪人になるという方法がある。といっても力技で少女たちを手籠めにするような、下品な悪人であってはならない。目的とする少女たちの親を経済的に破産させるとか、あの手この手をつかって家族を離散させるなどをするテクニカルな悪役である。そうして目的の少女二人の仲を引き裂きながら、裏では少女たちが再会できるように手はずを整える。紆余曲折を経て再開したシーンを想像しながらニヤつくのである。悪人といえど、あくまで百合を燃え上がらせるために存在しているのだ。
 少女たちから悪人として蔑まれることに耐えられない、という方もいるだろう。それなら最終的に心を入れ替えて善人ヅラすればよい。少女たちの優しい心に触れて心を入れ替えたとかなんとか適当なことを言えば、美味しい役割を演じることもできる。『走れメロス』の王様方式である。よくよく考えたら、あの王様って、「BLに挟まろうとするオッサン」だよな……。

③ 肉親になる
 肉親になるというのが、最も少女本人に近づける方法だろう。
 父親なら、経済的に失敗して娘を女学校にやれなくなる無能を演じる。母親なら、病弱なふりをして、娘に看病をさせ、女学校から引き離すのだ。これで、パートナーと離れ離れにならざるを得ない娘の姿、悲劇系百合のシーンを間近で見ることができる。
 ただし、少女小説の両親は経済的悲劇や病気、もしくは合わせ技で、二人揃って亡くなってしまうことが割とあるので注意が必要である。かといって不幸な目に合わない場合は物語上、異様に影が薄くなるので苦しいところでもある。
 両親が嫌であれば、兄か姉になることだ。自分はお兄様お姉様という年齢じゃないという方々も嘆くことはない。実か義理かは問わない。戦前のことだから、20歳差ぐらいの兄弟姉妹なら、わりかしあり得る世界である。現代であっても、設定を色々こねくり回せばなんとかなるだろう。
 兄姉になった場合は、妹から引き裂かれて酷い目に遭うとよい。酷いといっても少女小説なので拷問されて殺されたりする必要はない。とんでもない遠くに行くか、ちょっとした肉体労働をするかという程度。戦前の中流家庭の少女が考えうる範囲の酷さで十分だ。借金を負って、主人公のライバルのイジワルな金持ちのお嬢様にこき使われる役回りになるという、一部の紳士淑女には逆にご褒美なパターンを組み合わせることも可能である。最後にはなんやかんやで事態を好転させ、妹とそのパートナーの肩を抱いて、三人で良い感じに空の向こう側を見つめながらエンドクレジットを迎えればいい。
 弟や妹になるのは余りおすすめしない。少女小説における年少者は、少女たちの母性や面倒見の良さを引き立てるため、とんでもないワガママか無能を演じる必要がある。これも悪人形式で、最終的に心を入れ替えて立派になることも可能だが、いうほど物語に絡めないのが難点である。

④ 経済的なパトロンになる
 最後は、資産家になるになる方法である。経済的に落ちぶれて、パートナーと別れざるを得なくなった少女たちを救い、再会させ、後方で腕組をして満足そうに頷くのである。
 もちろん、突然札束を持ってあらわれ、少女を買い取るような下品な金持ちではいけない。あくまで紳士的に、少女への支援を申し出るのだ。突然出てくるとご都合主義的な感じが否めないので、前もって少女の日常生活にちょくちょく顔を出し、伏線を張っておくことが重要である。その上で、実は親戚の叔父さんだったとか、父親の親友だったとか、少女の兄に命を救ってもらった恩があるとか、少女を支援すべき理由をこじつける必要がある。
「君の心優しさに打たれた」とか適当なことを言っても通用する場合があるが、少女たちは心清いので、「そんな理由でお金を受け取れません」と突っぱねられる可能性がある。どうせやるなら、「ずっと探していました! 私は大富豪、〇〇様の資産を管理している弁護士です。あなたは実は〇〇様の唯一の遠い親戚なのです!」とかドラマティックに身分を明かすぐらいで丁度いい。

 以上である。なかなか直接的に百合に挟まる方法はないが、そこが美しい。戦前の少女小説における、耽美な百合文化である。これをしっかりと理解し、皆様には素敵な原理主義的「百合に挟まる大人」になって頂きたいものである。

 なんです? 直接的に百合に挟まる方法が知りたい? なるほど。では、最後に筆者からひと言。

 百合に挟まる男は地獄に落ちろ。

(戦前少女文学から学ぶ、百合に挟まる方法 おわり)


※ 戦前の女学生制度、少女雑誌に関する参考文献
『高等女学校と女性の近代』小山静子 勁草書房
『「少女」の社会史』今田絵里香 勁草書房

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