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義なきを義とす

深川倫雄勧学和上(如来をきくより)「なぁ、それで死んだら行く国まで用意をして待って下さると、比叡山では親鸞聖人がバカにした宗教、聖道門や今日の文化人達がバカにする宗教に見えるけれども、ここには仏智のお不思議が重々にご用意があって、有り難いことです。」

 どうもこぐまです。前回の祖母の葬式についての経験を文にしたためたnoteを僧侶の資格をもつ友人に送った所、深川倫雄勧学和上の法話を教えて貰いました。その法話にいたく感動したので、そこから抜粋しつつ自分なりの解釈を交えつつ、最後はマルクスの宗教批判ってちょっと違うよなというところで筆を置きました。三千字超えのミニレポート位にはなりましたが、頑張って書いたのでご笑覧いただければ幸いです。

本noteに於ける黒字は、仏教法話データベースポータルサイトの"http://www.hongwan.net/index.php/義なきを義とす"より引用させて頂きました。著作権等の問題があればすぐ削除しますのでご連絡ください。

深川倫雄勧学和上「こういうの(箱)の中に、こん中に死んだ人が入っちょるぞ。 なぁ、ろくなのが入っちょらんのや。これなぁ、たいてい住職は知っちょるけん、何が入っちょるかちゅうことは。ろくなのが入ってないんだ。ねえ、大酒飲みの爺が入っちょる。ようしゃべる婆が入っちょる。こすい婆が入ってとる。首吊ったのが入っとる。自動車にはねられたんが入ってとる。赤ちゃんが入ってとる。ねえ、いずれ劣らぬ煩悩具足の凡夫が入ってんだ。」

 死ねば人は皆糞袋というのは有名な警句だ。ただ、死んで焼いた骨を入れた骨箱を幾千と見ることになる住職からすれば、それは全て誰かの人生の残骸なのだ。そして、死の碌でもなさをわかってしまう。それでも、それは十人十色の人間なのだ。人間が生が終わって、ただの灰になって、箱に小さく仕舞われている。

 そして、住職や和尚さんの説く説話や法話は難しいこともあるだろう。そりゃ、人生や宗教が全てをそう簡単に分かることはない。じゃあ分からなければ意味がないのだろうか。分からなくとも有難い話はなんだろうか。それについても深川和上は答えられている。

深川倫雄勧学和上「仏様の理論はな、わからん話を聞かせて救いなさるんだよ。(中略)だから毎月常例に来て、テレッとしとって、済んで一杯飲んで帰ったらそれで丁度ええんだ。」

 このわからん話を聞いて救わせる例として、深川和上は赤ちゃんとお母さんの例を説いている。おしめを変えたりミルクをあげるときに、子供が言葉の意味を全てわからなくともよしよしといろんな言葉をかけてあやしている。意味がわからなければ何も言わずに無言でやって良いだろうか?そんな母の赤子に対する慈悲深さを仏様の話に結びつけておられた。

 そして、その様にして人々の心を宥め、安らかにする宗教を続けてきた人々の矜持がある。親鸞聖人の一多証文の末尾の文として以下を挙げられた。

「こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。」

 それでも、やはり死という存在を有限に区切る終止符は誰でも怖いのだ。とくに、現代はその恐怖が何にも増して大きいのではないだろうか。個人の自由や尊厳、人としての権利が保障されつつある社会に於いても、生まれたものが老いて死ぬという区切りだけは未だ遠ざけることができない。自由を何よりも良しとする時代だからこそ、何一つ自由にできない死は、何よりも怖いのではないだろうか。個性や希望を語り、物を消費して創造的に破壊を進める現代の資本主義社会に於いて死という諦めや絶望、停滞はよりタブーに近しい。それでも、その先に燈明があるというのだ。

深川倫雄勧学和上「絶望の、あきらめの、完全否定の向うに、輝く様な感謝の生活があるというんです。そんなものは、やってみにゃわかりませんね。"闇の向うが明るいぞ"なんちゅうのは理屈にあわんじゃありませんか。だけども、そうだと言うんだ。そういうご用意がある、そういうことをねぇ、全部含んで下さってあるのが、如来様の仏智不思議。」

 マルクスが「宗教とはアヘンだ」と『ヘーゲル法哲学批判』にて言ったこのフレーズは、オウム以降に抱いた我が国の過度なまでの宗教アレルギーに見事にマッチして、そのフレーズだけが繰り返されている。(というふうに私は思っている)実際にはどういう文章だろうか?

      以下はWiki参照

"ドイツ語の原文は “Die Religion ist der Seufzer der bedrangten Kreatur, das Gemuth einer herzlosen Welt, wie sie der Geist geistloser Zustande ist. Sie ist das Opium des Volks” であり日本語訳は「宗教は抑圧されし生き物のため息であり、心無き世界での心であり、魂無き状況での魂である。(つまり)宗教は大衆のアヘンである」である。"

(「宗教は大衆のアヘンである」より下部分)"宗教を「幻想の」人々の幸福であるとして廃止する事は彼らに「真の」幸福を求める事である。彼らに彼らの状況についての幻想を諦める様に求める事は「幻想が必要な状況を諦める・無くす」事を求める事と同じである。故に宗教への批判は宗教が「救い (halo)」である「苦しみに満ちた現世への批判の萌芽である」。"

結局、私からすればマルクスの宗教批判は宗教そのものへの批判ではなく現実への批判だ。ただ、その現実(≒宗教)批判はマルクス自身の理想たる「真の幸福」を人々や社会がそうあるべきだと想起していの基準に立脚して記述したという事に注意すべきだろう。

 宗教がマルクスの言うようにアヘンだとしよう。だが、人間に完全な平等はあり得るだろうか。公正公平に、衡平したとして人々は納得するだろうか。「真の幸福」を我々は望んで全員が納得するだろうか。私自身はそういった一種のリアリズム寄りの間主観性を持った観点から物事を考えたい。その上で、"人の誹りを顧みずに、一筋に愚かなる人々の心安からん"為に賢き理想家とは全く違うどぶ板を歩いてきた姿が宗教にあるのではないだろうか。

 日本人はよく無宗教だと自認する人が多い国だろう。ただ、新年のお参り、七五三、寺社仏閣への神頼み、キリスト式の結婚式、ハロウィンやクリスマス、そして葬式と色んな宗教的要素がはからずしも我々の生活に身近にある。そしてトイレの神様というように様々な物事に霊や神が宿ると考える素朴で純朴なアニミズムは先祖代々続いてきている。そしてこの、信仰は何も大衆的な宗教に留まらない人間が持つ力そのものだろう。

 ドイツの社会学者であるウルリッヒ=ベックはその著書である『〈私〉だけの神: 平和と暴力のはざまにある宗教』にて人間の大衆的ではない自らの中にある信仰について描いた。特に最初のエティの話は、『夜と霧』を読んだことのある人間ならば是非とも読んでほしい。我々が持つ無自覚的な信じる力を自覚する事と、現実への色んな視野を増やす事によって賢ければそれで全てが良い訳ではないという泥臭さをもって、宗教はアヘンなんかじゃないというところでこの記事を書く筆を置くこととしたい。


 謝辞
友人Oへ、良い法話をありがとう。あと、エヴァと喪についての論考も楽しみにしています。

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