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一首評 山崎聡子

舌だしてわらう子供を夕暮れに追いつかれないように隠した
『青い舌』

とんでもなく凄いことをしているなと思った。ので一首評を始めます。

私は、本来ここで作中主体が自身の行為に対して持つべき罪悪感みたいなものが読んだ瞬間読み手の私に受け渡されてどうしようもない気持ちになる。
目の前で隠すという方法を使っている人間がいて私は身動きが取れない。

私と主体が2人いるとして、その2人は今身動きを取らなきゃ死ぬ状況でいて先に主体が動きだす、この時私は身動きを取らなきゃ死ぬ恐怖と先に主体が躊躇いもなく動いてしまった驚きの両方からがんじがらめになってしまい、そのまま死んでしまうような気がした。
取るべき責任や罪悪感が私だけに残された心持ちでもある。

舌だしてわらうこどもとは世界の宝物のような存在で、様々な写真家や映画監督から求められるであろう。世界にとって奇跡のようなものを大人の社会に還元する事の気持ち悪さがある。主体は言わば写真家や映画監督側の人間で本来触れるべきでないものに自身の行為を客観視せずなんの躊躇もなく触れてしまった。禁忌であるはずのものに触れて、あるべき罪悪感が私にだけ残る。

正しい音読について

舌だして/わらう子供を/夕暮れに/追いつかれない(/)ように隠した

これは一般的な読み方で

舌だしてわらう/子供を夕暮れに/追いつかれない/ように隠した

私が提案したいのはこっちの読み方で、短歌は確かに75調であるがその短歌にとって適切な音読は75調ではないかもしれないと思う。

舌だしてわらう、で切ると次の名刺がぽっかり空いて不安になってそれを埋めるように
子供を夕暮れに、と続く。がそれでは何の解決にもなっておらず次の言葉を求めてしまう不安感がこちら側に来る。

コンタクトパッケージには偶数子のコンタクトが入っており、一つコンタクトを床に落としてダメにしてしまうと、一度に消費するコンタクトは2つなので、そのダメにしてしまったコンタクトを埋め合わせるために次のコンタクトを取り出す。よってコンタクトパッケージには奇数個のコンタクトが残り本来ペアになるはずのないふたつのコンタクトどうしがペアになっていくことの気持ち悪さがある。

正しく2個づつ消費すれば綺麗に使い切れるが1つを無駄にすることで歯がゆい気持ちになる。今ここで1つのコンタクトだけを使えば上手く今日からまた今までどうりコンタクトパッケージには偶数個のコンタクトが残るがそういうわけにもいかないからもうひとつのコンタクトを取り上げる。そうした連続で、ぽっかり穴を埋めるために過剰なことをしてその結果またぽっかり穴が生じてしまうことの歯がゆい気持ちが、私の提案した読み方で少しは演出できるのではないだろうか。
それぞれの短歌には適切な韻律(音読)があると思っています。

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