竹田青嗣『超解読! はじめてのフッサール』について2



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フッサール『イデーン 1』(1913)に対して、『存在と時間』(1927)を待つまでもなく、
ゲッティンゲン学派と呼ばれる人たちは「観念論的だ」と見なし、批判的だったらしい。
どうやらゲッティンゲン学派のひとたちは『論研』を「実在論」の書と見なしていたらしい。
たしかに心理主義への批判や知覚の代理表象に対する批判は、そのように受け取られる余地がないではない。
ちなみにダン・ザハヴィによると、レヴィナスやd.w.スミスという人もまた、
初期フッサールの意見を「実在論」てきに捉えていたらしい(『フッサールの遺産』、56頁)。
こういう歴史的な話はそれこそエポケーして、「或るひとはそういっていた」というところに留まるのが吉だろうが、
(フッサールとフレーゲの話もデリダとレヴィナスの話も異論が呈されているように)
少なくとも、『イデーン 1』は「観念論的」なのか、『論研』は「実在論的」なのか、
といったところで、いろいろとあったんだろうなぁとは発行年月日から言えるだろう。


ところで、ダン・ザハヴィ『フッサールの遺産 現象学・形而上学・超越論哲学』(法政大学出版局)にて、
ザハヴィは現象学と形而上学との関係についてその第二章で論じている。
この箇所での「フィリプセ」の考えに対するザハヴィの異見を見てみる。

フィリプセは、「フッサールは内在の原理、すなわち「外部知覚の第一次与件は実際に意識に内在している」という
原理に与している、と言っているらしい(上掲書、63頁)。
この点に関してフィリプセは、『イデーン 1ー1』の第四十一節の或る箇所に重きを置いているらしい。

「知覚される事物は(事物のあらゆる部分、側面、局面、特性もまた)それについての知覚を超越し、
知覚のなかにふくまれていないと論じた後で、フッサールは、「知覚する過程は連続的現出と射映の多様な多重体系」を含むとつづけ、
さらにまたこうした射映は「「感覚与件」に数え入れられる」と書いている(上掲書、64頁)
このあたりをとりあげてフィリプセは第一次与件は実際に意識に内在していると言っているらしい。
みすず書房なら該当箇所は『イデーン 1』の179頁である。
それに対してザハヴィは、フッサールがそのすぐあとに書いている文に注意を促す。
ザハヴィよりも多めに該当箇所を引用しとこう。

「はっきりと、大事な眼目として銘記されるべきことがある。それはすでに『論理学研究』において強調されていたことである。
すなわち、色彩射映、光沢射映、形態射映などの機能を果たす(つまり「呈示」の機能を果たす)感覚与件というものは、
色彩そのもの、光沢そのもの、形態そのものからは、要するに、事物そのものに具わる契機のすべての種類からは、
全く原理的に区別されるべきものであるということ、これである」
「射映は、射映されてくるものとは、たとえ名称上は等しさをもっていても、原理的に同一の類には属さないのである」
(上掲書、180頁)

ザハヴィは、フッサールの立場が「現象学に残されたすべては、内在的内容についての、すなわち、後にヒュレー的分析とノエシス的分析と
呼ばれるだろうものについての分析」であるかのように思える理由を、『論研』からの引用で示す。
同時に、フッサールは分析のなかで志向的対象について論究していることも確認する。
『論研』第二版ではフッサール自身がはっきりと、第五研究に付け加えられた脚注で、
「それ(志向的対象性そのものの記述)もまた現象学的と呼ばねばならない」と書いている。
竹田青嗣は「内在」にこだわり、「内在意識ですべて考えよ」などと書いていることは前に紹介したが、
それはとくに、フッサールの立場ではないということが、ここまででもよくわかると思う。
実際に『イデーン 1ー1』では、自然科学がその主題とする事物は、私が知覚している事物と同じものであるということが論じられていたりもする。
(上掲書225頁からの文章を参照)

竹田はなぜ、家という対象が第二の意味での内在として与えられているということを、そのまま認めることができないのか。
竹田が第二の意味での内在を「構成的内在」と言いかえて、さらにそれを「対象意識」と言い換えて、
「「超越」(客観的存在)とは、じつはわれわれの<内在意識>のうちで構成された「対象意識」(対象確信の意識)のことだった」
(『超解読! はじめてのフッサール』、46頁から47頁)
としてしまうからである。

しかしここまでですらすでに明らかだろうが、
志向的対象は、志向的対象についての思念への反省内容(竹田のいう「構成的内在」)ではない。
フッサールは志向的対象も現象学の主題となると書いている。
ダメ押しにザハヴィによる『現象学の理念』への言及も見ておこう。

「一方でフッサールは、意識に対して実的に内在的であるもの、すなわち、たとえば、ある一定の体験作用の一部であり、
ある一定の体験的作用を作りあげるものを指示するときに、内在について語る。
さらにまた、これが、意識に対して超越的なもの、すなわち、体験的作用に実的に含まれていないもの、たとえば経験の対象と区別される」
「さらにまた、この対概念が内在と超越のもつもう一つのまったく異なる意味と対照される。
その際、対概念は、翻って明証的に与えられる(直観される、直接的に統握される)ものと、
単に措定されたにすぎず、それ自体与えられていないものとを指示する」
(『遺産』、73頁)

上記のザハヴィの引用が正しいことは、竹田が「よくわからない」と放り出した箇所、すなわち、
「家が与えられているということは明証的ではないか」といったフッサールの記述と、
ザハヴィによる記述が整合的であることからも把握できるだろう。
なぜ「構成的内在」や「対象確信」などのおりじなる術語を竹田は弄する必要があったのか。
それは、対象を、『理念』における第一の意味での「内在」のなかで取り扱う(ことができるように見せる)ためである。

竹田と同方向ならフィリプセがいるし、そのフィリプセは竹田よりかはテクストに従ってやっている。
竹田はと言えば、もはやとるにたらない。
なぜ竹田読者は竹田に対する信頼をエポケーしないのか、というような、そういった話はやる余地があるかもしれないが、
フッサール解説者としての竹田はまったく当てにならない。
バンドワゴンじゃないな、負け犬効果だったか、分のわるいほうを応援したくなるとかいう経験則は。
「少数派」アピールが魅力的なんだろうか。多数か少数かは真理とは関係ないとフッサールなら言うだろうが。

今回はこんな感じでザハヴィに言及したが、ザハヴィは、分析哲学界隈でサルトルの『自我の超越』が読まれていること(『自己意識と他性』)や、
エナクティブアプローチという現代の知覚論における現象学の寄与や、現代の現象学の活躍について紹介しているので、
そういった情報を仕入れるにも役立つとは言える。そういうの目当てなら『現象学的な心』がいちばん良いかな。

正気か?