和訳書を読むことについて、ハイデガーの『存在と時間』を通して

「本来的実存というのも、頽落する日常性の頭上に浮かんでいるものではなく、実存論的には、この日常性の変様的掌握にほかならないのである」(『存在と時間 上』、ちくま学芸文庫、380頁)

「この世間的=自己とは、本来的自己の実存的変様である」(『存在と時間 下』、ちくま学芸文庫、197頁)。

前者に関して、ハイデガーは「孤独化」はあくまでも「世界-内-存在」としての「孤独化」であるとも言っており、まさに「頭上に浮かんでいる」わけではなく、いわば絡み合ってーーフッサールの記号論における表現と指標と関係はあるだろうかーーあると言っている。
上記の引用からから、「非本来性は本来性の実存的変様であり、本来性は非本来性の実存的変様である」とまで言うことが可能であるならば、「孤独化によって非本来性から『脱却』して本来性に至る」みたいな胡散くさい精神修行じみた話と、ハイデガーの不安や先駆はかけ離れていると言えるだろう。
この絡み合いについて日本で最も早く言及しているのは、私が見たかぎりだと、鬼頭英一『ハイデッガーの存在學』(1935)である。本文は旧い漢字で書かれているがとりあえず引用しておく。
「生存は、頽落に於ても、やはり世にあるあり方に関心を懐いて居る、唯非本来性の様相に於て関心を懐いて居るだけである。生存は、世にあるあり方に関心をもつが故にのみ、頽落し得るのである。逆に本来的なあり方とは、頽落的なあり方の変様に外ならぬのである」(上掲書、85頁)

死は「つねにすでにいまだない」ものであり、現存在は「いつか」ではなくいつでも死にうるものであり(なにかに感動して「生きててよかった」と言おうとして言い終わるまえに車に轢かれたりとかだってある)、そしてこの死が気分や関心と関わっている以上、それは「死を思え」みたいな話とは異なる。死はつねにすでに、私の日常的な活動において、その静かな力を発揮している。
このことは今時の流行りの「環境からの影響」といったものに対して、各自にとっての各自の死、つねにすでにいまだないという、「環境」になりえない私の死が、私に「影響」しているとしたらどうだろう、という問いをもたらしうる。もっとも、或るものからの或るものへの「影響」と言うとき、両項はいわば「実体化」されているわけだが、私の死は私にとって「実体化」しえないーーそのとき私は無くなっているわけだからーーので、「影響」というように、留保のために鍵括弧(引用符)をつけざるを得ないが。
それは私の配視(Umsicht)がつねにその周り(um)を引き連れてしまわざるをえないということと関わっているが、それはさておき。

和訳書を読みこむにしてもその程度には高低があるだろう。「和訳書ではなく原著を読んでナンボ」とは言うが、自力で和訳するのでもないなら、原著を読んでもたいしてイミはない。せいぜいネットで原文を引用して「なんかすごそう」と思わせるのに便利なくらいだろう。
そんなしょうもない読み方しかできないなら、なんの気兼ねもなく、和訳書をしっかり読み込んだらいい。少なくともそれだけで下手な解説書の批判、たとえば『存在と時間』の「本来性」への批判が馬鹿げているとわかる。和訳書ではなく原文をというありきたりな話に乗っかるまえに、いったいどれだけ手前は読み込んだのか。まだまだ読み飛ばしてるところあるだろうに、まだまだわからないところあるだろうに。
自分が読まないで済ませるために、レヴィナスがどれだけ雑なハイデガー批判をしているか、「レヴィナスはハイデガーを批判した」の批判の内実を検討することもなく、解説書を読んだりなんなりしている人もいるだろうが、それは空虚なことではないか。話題が高尚っぽいだけで児童や生徒らの噂話と変わらないのではないか。
上記の本来性と非本来性との絡み合いの問題は、原文で読んでようが読み過ごしうるし、和訳書を読んでようが目に留まりうる話だ。
いったいどれだけ読み過ごされた話が和訳書のなかにあるんだろうか。


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