「自分で考える」とか哲学と読書についてダラダラ

「哲学と哲学学」とかいう区別をたまに見かける。たいていは「哲学すること」のほうが哲学としては上位で「哲学学」のほうは下位である。「哲学学」は既存の哲学者の書物や発言に関する研究であり、「哲学」は「自分の考え」みたいなもんである。
しかし「自分の考え」、それどころか嗜好や感情も歴史や土地柄や時代と無関係ではないだろう。或る種の虫を食べる部族の人が或る種の虫を見たとき、私とは異なる感情が生じるだろう。あるいは、私に生じる感情が彼らには生じないだろう。
感情や感性をなにか「個性」として、なんなら「自分」の発現として捉える向きもあるだろうが、それらはすでに歴史的なものだ。「自分」をなにか純粋なものとして見なすかぎり、そういった考えは誤りでしかない。
このあたりについては「感情」に知性や習慣が介在していることを思い出すのもいい。私は「暗記」と「自分で考えること・自発性・主体性」とを対置する考えに苛立ちを覚える。どうやったら覚えられるか子どもは考えて苦労して調べてと色々やってるじゃないか、という考えなどが染みついているからだ。そのように考えたことや知識は物事への態度を変えうる。考えるや理論に関連する語彙としてnoeinやtheorein(見る)があるが、見るということは日常のそのつどの場面、実践と不可欠だろう。そしてその見ることから感情は生じる。

つぎに、哲学の論文であれアフォリズムであれ、何かを読むとき人は考えないかと言えば、そんなことはない。この箇所aとこの箇所bの繋がりーー直近の箇所とは限らないーーはどうなっているんだろう、というふうに考えたりもする。
「自分で考える」との違いがあるとすれば、それは、読解は「自分で考えない」ことを、自分の感想や印象を脇に置いてテクストに従う(be subject to)という形での「主体性subjectivity」が求められる、といったところではないか。これはなかなか大変なことだが、それにより著者の考えを私は語りうるようになる。著者が私の世界の共現存在となる。私の世界の歴史が豊かになるわけだ。極論、読解とは私がその著者になろうとすることだ。レクチュールを通してテキストからレクチャーを受ける、事物をどのように見るかを教わる(≠学ぶ)、私は敬虔な機械となる。

そしたら「解釈は人それぞれだ」なんて馬鹿らしいと言える。「その解釈は無いわ」と、テクストに従って、対象に従って言えるようになる。最大の権威は対象に関する「真なる」認識であり、正しさであり、いわゆる「その道の権威」という人も、対象やその領域に通じているからそう呼ばれているわけだ。
そしてそれはすごいことだ。或るものに関する他人の考えについてハッキリと物が言えるんだから。「間違ってるかも」という自信のなさがコンプレックスを、つまり評価基準を自分以外の他に委ねる在り方をもたらし、コンプレックスから、その是非もわからないままブランドじみた解説書に寄りかかる羽目になるんだろうが、しかしテクストはそこに、公共的なものとして開かれている。それに関して正しいこと言えるか否か、拾われていなかったものを拾えているか否か、それが全てだろう。

そして私は結局は著者にはならない。私はピーター・シンガーでもプラトンでもない。私が日常のそのつどの実践で出会うものは、まさに私が出会っているものだ。著作を読むことを通して教わったこと、読み飛ばしていたところがわかった、わかった気になっていたことがよりわかるようになった、そういう読書成果が、自分がなんとはなしに通り過ぎてしまっていたものを再び見ようとするという開始ーー良い熟語だね、開始ーーを、可能にする。
いまどき幼稚園児や小学生も「おとな」である。プリミティビズムではなく、勉強するから、勉強の時間(空間)から日常に帰ってきたとき、子どもなんかよりよっぽど新鮮な形で日常的な事象を見うる、受け入れうるというものだ。私の場合、ちょっと違う話だが、「紙パックのこんなところにこんなこと書いてんのか」なんて感じで、暇つぶしにも苦労しない笑 しかし不思議なことだ、紙パックから液体が漏れないというのは、ペットボトルを逆さまにしても液体がこぼれないというのは。勉強は私を子どもより子どもにするんである。

なんの話だっけ。あぁ「哲学学」か。「自分で考える」ことを重んじるわりに「哲学学」とかよくある話に終始するよりかは変な話は書けたんではないか。「哲学学」という考えを維持することの効用はどれだけのもんなんだろう。

正気か?