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【批評】フィクションが課す運命性からの解放について——劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』(『輪るピングドラム』)試論——


はじめに

この論は決して「作品の隠された真実といったものへの接近ではなく、作品がもちうる無数の豊かさのひとつへの接近」[i]を目指すものである。

『輪るピングドラム』とは

テレビアニメ『輪るピングドラム』(以下『テレビ版』なお、テレビ版および劇場版を含めたコンテンツ全体としての呼称を『ピンドラ』とする)は、2011年7月から12月にかけて放送された。「家族」をテーマに、運命に翻弄される子どもたちを描いた作品であり、謎が謎を呼ぶストーリーだけでなく、アヴァンギャルドな演出、『銀河鉄道の夜』や村上春樹作品の引用などが、話題を呼んだらしい。「らしい」というのは、私はその様をリアルタイムで体験していない、いわゆる「後追い」世代であるからだ。個人的な話で恐縮だが、私がテレビ版に触れたのは2015年、その時の感想は、「よく分からないけど面白い」。それから計三回見返し、見る度ごとに新たな気づきを得、今ではかけがえのない作品の一つとなった。

 なぜ私は『ピンドラ』が好きか、『ピンドラ』のどこに価値を認めているか、容易に答えられるものではないが、最も大きな理由として、「家族」というものを問い直し、見る者の規範を揺さぶろうとする、作品全体の志向性を挙げたい。「家族」が与える呪い、「家族」が覆い隠す欺瞞、「家族」の残酷さ……テレビ版は「家族」(また、それを生み出す社会)のネガティブな面を強調し、高倉兄妹や荻野目苹果に代表される「運命のこどもたち」に「呪い」を背負わせる。『ピンドラ』は、その悲劇性に覆われた世界の中で、それでもなお「家族」に価値を認め、その意味を捉えなおそうとする少年少女の物語であり、そのためのソリューションこそが「ピングドラム」である。

 『ピンドラ』が11年ぶりに新作として帰ってくる、それこそが、劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』(以下「劇場版」)だ。

 2021年4月に「前編」、7月に「後編」が上映された『劇場版』。「前編」において初めに映し出されるのは、実写映像の水族館にいる二人の少年、「こども」姿の高倉冠葉(以下「冠葉」)と高倉昌馬(以下「昌馬」)。自分たちが何者であったかを忘れてしまった彼らは不意に現れたプリンチュペンギンに導かれ、「中央図書館そらの孔分室」(以下「そらの孔分室」)へと辿り着く。そこで待ち受けていたのは大人姿の荻野目桃果(以下「桃果」)。彼女は二人の少年に「なすべきこと」をなし、「世界を救う」ように命じる。そして二人は、ある物語の描かれた「本」を読み始める——。

 この「本」に描かれているのが、『テレビ版』の物語である。劇場版はテレビ版を「語り直す」という構造を持っているわけだが、物語自体に大きな改変は加えられていない[i]。だが、当然のように『劇場版』全体と『テレビ版』とを比べた時、それらの間には、様々な差異が横たわっている。

 私たちは、その差異を汲み取っていかなければいけない。少なくとも、私はそうしたい。そこにこそ、『ピンドラ』の新作が2022年という時代に語り直されたことの「価値」が潜んでいるはずだからだ。寧ろ、語弊を恐れず言えば、その差異以外には新しい「価値」は生み出し得ないはずである。本当にただの「総集編」なのだとしたら、『テレビ版』の劇場一挙上映でもやる方が適切なのだから。

 数ある差異の中、私が今回目を向けるのは、荻野目桃果と渡瀬眞悧(以下「眞悧」)が背負う役割についてである。

桃果と眞悧:テレビ版における両義性

 『テレビ版』における桃果と眞悧は、対となる存在として描かれている。二人が担う役割は「メタファー」的であり[i]、この二人のせめぎ合いが、『テレビ版』全編を包括する世界観だと言っていい。

 物語の主となる時間軸において、二人は既に「死ん」でいる。眞悧は「生き」ていた当時と同じ(と思われる)姿のまま「幽霊」として表れるが、桃果の代役を果たすのはペンギン帽子、特にその片割れ=プリンセス・オブ・クリスタル(以下「プリクリ」)である。

 まず、物語の因果律の起点となる「16年前の事件」における二人の表象を見てみる。「ピングフォース」という集団を率いる眞悧は、「世界を壊す」ことを目的に、地下鉄各所に爆弾をしかける。

「ある朝、気が付いたんだ。僕はこの世界が嫌いなんだって。世界はいくつもの箱だよ。人は体を折り曲げて、自分の箱に入るんだ。ずっと一生そのまま。やがて箱の中で忘れちゃうんだ。自分がどんな形をしていたのか。何が好きだったのか。誰を好きだったのか。だからさ。僕は箱から出るんだ。僕は選ばれしもの。だからさ、僕はこれからこの世界を、壊すんだ」

—23RD STATION「運命のいたる場所」

それを止めようとするのが桃果である。「運命の乗り換え」を可能にする「運命日記」を手に、眞悧を「世界から追放」=「永遠の闇に吹き飛ばす」ことを決意する。しかし、「運命の乗り換え」は完了せず、桃果は眞悧の手によって「呪いの中に閉じ込め」られてしまう。結果、サネトシは二匹の黒兎に、桃果は二つのペンギン帽へと分裂、事件は本来予定されていたほどの被害とはならなかったが、多くの犠牲者を出した。
 二人の衝突は、冠葉、昌馬、高倉陽毬、荻野目苹果(以下「苹果」)、更には多蕗桂樹、時籠ゆり、夏芽真砂子ら「こどもたち」を「呪い」の中へと巻き込んでいく。雑に分けるとすれば、眞悧=「加害者側」と桃果=「被害者側」に分類される彼らは、互いの接触・介入・流動を繰り返す。桃果の分身たるプリクリによる高倉家への介入、高倉兄弟の苹果への接触、多蕗の高倉家への復讐。『テレビ版』は、眞悧チームと桃果チームのせめぎ合いが物語を駆動させている。
 もっとも、桃果と眞悧は単なる「二項対立」ではなく、寧ろ、ある性質を持った一つのものの別の表れ方、作中で回転するペンギンマークが表しているように、両義的な存在の表裏であると捉えた方が適切だろう。最も明確にそうした性質を背負わされたのが冠葉であり、物語終盤の彼は愛する者を救おうとする桃果的な「救済者」の役割と、そのためにテロ計画を遂行しようとする眞悧的な「破壊者」の役割を担わされている。
 言わば『テレビ版』は、二人で一つの「呪いのメタファー」たる、桃果と眞悧の対等な関係性をキャラクターたちに背負わせていたのである。

「神様」となった桃果が背負う大いなる「意志」

『劇場版』において、桃果と眞悧の関係性は、『テレビ版』と異なっている。それを確認するために、改めて『劇場版』の構造を確認する。

 『劇場版』は、「こども」姿の冠葉と昌馬を「大人」姿の桃果が「そらの孔分室」へと導く場面から始まる。この「そらの孔分室」の時間軸をA軸、桃果に促され、冠葉と昌馬が読む物語(『テレビ版』と殆ど同様の物語)をB軸とする[i]。A軸において、冠葉と昌馬は桃果が示した「意志」に基づき、B軸の物語を読み進めるわけだが、そこに「邪魔」が入る。「ピングフォース」のロゴシール=眞悧(らしきもの)の乱入である。シールによって桃果は無力化され、プリンチュペンギンには眞悧(らしきもの)がの憑依する(以下、この状態のプリンチュペンギンを「眞悧プリンチュ」とする)。眞悧プリンチュは、「世界」が間違っているという主張を繰り返し、冠葉と昌馬にB軸の続きを読むように促す。その目的は、彼らの絶望を引き出すことである。しかし、冠葉と昌馬は桃果に言われた「なすべきこと」を自分たちで見つけるため、眞悧プリンチュの目論見は果たされない。彼は復活した桃果によってシールを剥がされ、冒頭同様の「こども」らしいキャラクターに戻る。

 このように書くと、桃果と眞悧の果たす役割は『テレビ版』に沿っている(「ピングドラムを手に入れることを促すプリクリ(桃果)→邪魔するサネトシ→冠葉と昌馬がピングドラムを入手→桃果の勝利」または「運命日記によって世界を救おうとした桃果→シールによって邪魔する眞悧→冠葉と昌馬によって再び世界が救われる→桃果の勝利」)ようであるが、その内実は違っているのではないか。

 というのも、「冠葉と昌馬がB軸について書かれた本を読む」という桃果によって敷かれたレールの上を眞悧プリンチュは逸脱していないのである[ii]。つまり、眞悧プリンチュは「邪魔」をできていないのである。作品内において、眞悧プリンチュは一度たりとも「優勢」に立っていない。彼が提示したB軸の「読み方」は動揺を引き起こしこそするが、冠葉と昌馬に受け入れられる素振りはなく、挙句の果てには「それがどうした!」「間違いなんかじゃない」と強い拒絶・否定に合う。冠葉をテロ行為へと唆し、実際に殺人まで起こさせた『テレビ版』の眞悧と比べれば、明らかなパワーダウンである。

 対して、桃果の力は驚異的だ。物語内のパワーレベルだけの話ではない。この作品テクストは、あまりにも桃果の思惑通りに進んでいる、いや、より適切な言い方をすれば、桃果というキャラクターが、作品テクストを覆う大いなる「意志」を背負っているのである。『ピンドラ』の11年ぶりの新作を作る意味、理由、合理性、それらを一手に引き受けて顕現しているのが、桃果なのだ。冠葉と昌馬のピンチを物理的に救うシーンは、桃果の「意志」=テクストの「意志」の力強い表れである。それは、物語内では既に「死」を迎え、後の世代に「願い」(そして「呪い」)を託すしかなかった『テレビ版』の桃果とは、明らかに違う。

 こうして、『テレビ版』にあった桃果と眞悧の対の関係は解体される。二人は最早対等ではない。テクストの「意志」を背負った桃果は、まさしく「神様」である。

「読む」ことから「書く」ことへ——作品が背負わせる「運命」、その解放

桃果が「神様」となったことは、『映画版』に何をもたらしたであろうか。ここで、「神様」桃果が最後に放ったセリフ、「destiny」に着目する。
 「運命」は、『テレビ版』における最重要ワードの一つであった。生まれついての「運命」に翻弄される「こども」たちの悲劇性が物語の「魅力」でもあり、視聴者の多くはそれに心打たれ、涙を流したのではないだろうか。
 しかし、ごく当たり前のことではあるが、キャラクターたちが背負った「運命」とは、フィクションが背負わせた「運命」である。フィクションは、常に定められた運命をキャラクターたちに課している。そのことを思えば、次のような疑問が浮かび上がる。
 冠葉や昌馬というキャラクターたちは、『輪るピングドラム』という作品によって悲劇的な「運命」を背負わされた、犠牲者だったのではないか?
 テクスト全体の「意志」を背負った『劇場版』の桃果は、こうしたフィクションが孕む運命性を背負った存在でもある。そして、『劇場版』が示したソリューションは、キャラクターにとっての運命たるテクストが、キャラクターの「意志」と「行為」を全肯定することである。
 『劇場版』の終盤において、テクスト自体を創出しているのは、冠葉と昌馬の「意志」と「行為」であると言っていい。なぜなら、彼らは終盤、B軸の物語を読んでいないのである。彼らが読んだのは昌馬が冠葉に撃たれた場面までであり、その後の運命の乗り換えシーンは読んでいない。いや、そもそも「本」に書かれていたかどうかも分からない。B軸の物語は、ここにおいて記された過去の物語ではなく、今ここで創出される、A軸と並列の、現在の物語になっている。B軸の運命の乗り換えは、A軸と分離できるものではなく、それは両軸を包括する冠葉と昌馬の「意志」が生み出す物語である。そして、ぬいぐるみを届けるという「行為」は、時間や空間の概念を越えた、両軸の「つながり」に結実する。
 ここでは、「運命に翻弄されたこどもたちの物語」から「運命を受け入れながら自分自身の「意志」と「行為」を発露するこどもたちの物語」へのすりかえ、言い換えれば、「読む」ことから「書く」(行為)ことへの転換が行われているのである。それを全肯定するのが、テクスト全体の「意志」たる桃果だ。寧ろ、テクストの「意志」であり「運命」そのものである桃果は、冠葉と昌馬二人の「意志」がない限り、無力である。彼らが「意志」を示し、それを「行為」に移した時にこそ、彼女はテクストの大いなる「意志」として顕現し、強大な力を発揮できる。
 ここにパラドックスが生じる。フィクションという「運命」に定めづけられていたはずのキャラクターたちは、自分自身の「行為」によって「運命」を創出することができることになった。
 それは、キャラクターたちが「生」を得て、『輪るピングドラム』が背負わせていた「運命」から解放されたということではないだろうか。彼らの「意志」と「行為」が、押し付けられてきた役割を引き剥がさせたのだ。

眞悧とプリンチュペンギン、または呪いのメタファー

 「愛してる」という言葉と共に飛び立っていくキャラクターたち、それは観客に言葉を伝えるという「行為」によってフィクション=運命から飛び立っていく「こどもたち」であるが、運命そのものとなった桃果を除き、唯一取り残されたように思われる人物がいる。眞悧である。

 改めて、映画版の眞悧について考えたい。

 まず、B軸において、眞悧はチャプターが設定されている。つまり、彼は冠葉と昌馬といった他のキャラクターたち=「運命のこどもたち」と並列に置かれている。一方、桃果にはチャプターが設定されていない。やはり、『劇場版』の二人は対等な存在ではないようである。

 B軸における『テレビ版』との違いとして挙げられるのは、眞悧の分身たるシラセとソウヤがほとんど登場していない点である。彼らは「こども」の姿(時折黒うさぎの姿)をしているわけだが、『ピンドラ』において、眞悧は唯一「こども」時代の姿を描かれていないメインキャラクターである。つまり、眞悧は「こども」として「生き」られたことがない。

 次に、A軸の眞悧について考える。そもそも、A軸においては、眞悧というキャラクターは明確に登場していると言えない。一般論で見れば、眞悧は「ピングフォース」のロゴシールとなっており、プリンチュペンギンに憑依していると考えられるだろう。

 ところで、プリンチュペンギンとは一体何者であろうか。「こども」中の「こども」、つまりは赤ん坊を象徴するおしゃぶりとよだれかけを装着した彼は、一体どのような存在なのだろうか。なぜ、眞悧(らしいもの)は彼に憑依したのだろうか(そもそも憑依するという表現は正確だろうか?)。

 こうした疑問を読み解いていくために、『テレビ版』におけるデフォルメ化されたペンギンたちの文脈を確認したい。『テレビ版』において登場したペンギンは四匹。1号、2号、3号、エスメラルダである。ペンギンたちは、それぞれ人間のキャラクターたちに対応する関係にある(順に冠葉、昌馬、陽毬、真砂子)。そして、ペンギンたちの役割については、山田玲司氏による「奪われた子供時代の象徴」[i]という指摘が適切と考える。

 プリンチュペンギンについて考える時に無視できないのは、その名前である。「プリンチュ」=「プリンス」、つまり、彼は「男性性」を名前によって背負わされている。そして、「プリンス」の対となる「プリンセス」を背負うのは、桃果の分身たるプリクリである。

 以上から、プリンチュペンギンは眞悧に対応するペンギンであり、「こども」(彼にとって経験し得なかった時代)としての眞悧を表象していると捉えたい。もちろん、「プリンチュペンギン=サネトシ説」というような陰謀論めいた主張ではなく、一つの読み方の提案として。

 この読み方には私の願望が入っているかもしれない。私には、眞悧というキャラクターがあまりに「かわいそう」に見えてしまうのである。「こども」として生きることができず、世界への復讐を決意し、「死し」てもなおメタファーとしての役割を背負わされる眞悧、まさしく「ひとりぼっち」で「泣いている」のではないか。

 『劇場版』は、眞悧にも救いの手を差し伸べたのではないだろうか。シールをサネトシの本体と考える向きもあろうが、A軸において「眞悧」の名が一度たりとも登場していないことには注意したい。確かに、シールは眞悧を表す記号の一つであるが、『テレビ版』の眞悧を直接指示するものではない。「人間」としての眞悧と「呪いのメタファー」としての眞悧は不可分にされてきたわけだが、「作品からの解放」を志す『劇場版』のテクストは、その切離に近いこと行っている。つまり、眞悧は、「呪いのメタファー」としての役割を文字通り引き剥がされたのである。最早「呪いのメタファー」を背負う「渡瀬眞悧」という名前からも解放された彼は、『ピンドラ』という作品の中で初めてペンギン=「こども」になることができた。「こども」らしい「いたずら」をして、A軸において唯一「大人」としての身体を持つ桃果に説教され、おしおきの後は優しく抱かれるのである。まだ赤ちゃんペンギンではあるが、彼もきっと飛ぶことを覚える、「何者か」になることができる。そういう優しさを読みとることは、私の傲慢だろうか?

「きっと何者かになれる」——言葉にすることの葛藤と決意——

 最後に、幾原邦彦監督の文脈の中で『劇場版』を語る上での読解の可能性をいくつか示して終わりたい。

 私は、『劇場版』を読み解いていくうえで、2019年に放映された同監督のテレビアニメ『さらざんまい』との関係性が重要となると考える。なぜなら、『劇場版』A軸において冠葉が二度も発したセリフ「それがどうした!」は、『さらざんまい』第11皿「つながりたいからさらざんまい」において、久慈悠が発したセリフと同じだからだ。意図的に、『さらざんまい』の文脈にのせているのである。大体にして、「つながり」を象徴するアイテムを届けるという行為で「つながり」を生み出すという終盤の展開が、『さらざんまい』と似通っていることは疑うべくもない。

 また、『劇場版』と『さらざんまい』の共通点として(かつ『テレビ版』とは異なっている点として)、言葉に対する姿勢を挙げたい。この二つの作品は、感情や思いを言葉にすることに大きな意味を見出している。

 例えば、『劇場版』は、冠葉や真砂子に直接的に感情の吐露をさせたり、冠葉と昌馬に「陽毬のお兄ちゃんだ!」と叫ばせたりするなど、『テレビ版』では言葉にされなかったものが言葉になっている。最も印象的なのは、「運命の乗り換え」のシーンにおいて、苹果が昌馬の「愛してる」に対して「私も………!」と返答できたことだ。舞台挨拶ライブビューイング[i]によれば、このセリフは、『テレビ版』当時、苹果役の三宅麻理恵氏が提案したものであった。その際、幾原監督は「映像で表現した方がいい」と判断し、採用しなかったが、その決断について11年モヤモヤを感じ続け、『映画版』でそれを晴らしたということだ。このエピソードは、まさしく『テレビ版』から『劇場版』にかけての大きな変化を象徴している。言葉にするということは、何かを定めるための強力な表現となりうるが、同時に、その行為によって零れ落ちてしまうものがある。何もかもを言葉にすればいいというものではない。

 だが、言葉にするべきものもある。言葉にしなければ生まれないものもある。その線引きは至極曖昧であり、そのことに意識的な人間であればあるほど、葛藤に苛まれるだろう。その葛藤を経た上で言葉にすることには痛みも伴うだろう。それでも言葉にするということ、それが適切かどうかは容易に判断するべくもないが、『さらざんまい』で悠が「つながり」を失いたくないという気持ちを言葉にし、それが危機からの脱却につながったように、『劇場版』のキャラクターたちの「愛してる」の言葉が観客に向けられ、現実を揺さぶったように、言葉にすることは、何かを生み出し得る一つの「行為」ではないだろうか。その行為こそが、「きっと何者かになれる」可能性を与えてくれるのではないだろうか。

 私がこの駄文を書くことも、正しいかどうかは分からない。『ピンドラ』の大事な何かを掬いきれていないかもしれないし、他の観客に悪影響を与える読み方を提示しているかもしれない。その怖さを常に感じている。だが、『ピンドラ』という作品を受け取って、私は言葉にしたいと思った。言葉にしなければ始まらないのだと思った。だから、こうして書く。そして、このエクリチュールが、誰かの行為につながってくれればと願っている。

https://www.youtube.com/watch?v=KkwKT1AGyrQ&t=9s



[i] ピエール・バイヤール著・大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』(筑摩書房2016年)

[ii] 時籠ゆりと夏芽真砂子の戦いがなかったことされているなど、いくつかの差異はある。

[iii] 眞悧に限っては、23RD STATION「運命のいたる場所」において自身は「呪いのメタファー」であると宣言する。

[iv] 「時間軸」という概念を使って分類することは適切ではないかもしれない。終盤においては、時間の捻じれが生じている。

[v] 冠葉が昌馬に弾丸を打ち込んだ場面の後、B軸の物語が書かれた「本」を落としているが、そのことについては後述している。

[vi] 「輪るピングドラム」とは何だったのか!?〜アニメ史を変えた傑作最大の謎に山田玲司が迫る、運命の“君ドラ”完結編スペシャル!!【山田玲司-181】(山田玲司のヤングサンデー)https://www.youtube.com/watch?v=ZueQy6CLfG0

[vii] 2022年7月24日<1回目>

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