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写真"表現”について

写真撮影のことではないです。
写真を使った表現について、最近思うことを、またもや雑記的な感じで書き留めておきたいと思います。

写真とは

写真史を紐解いてみれば、写真(というかカメラの歴史)は200年近く昔から存在していたこととなる。
1800年代には肖像写真が流行し、陽の光によって生み出される肖像はロマン溢れる技法としてさまざまな撮影手法が編み出された。
日本に写真が伝来したのは、同じく1800年代の長崎。鎖国中の日本では、オランダからもたらされた銀版写真は、蘭学者らによって研究され、のちに国内に広がることとなる。

この辺までは何となく覚えているが、この先は曖昧なので興味のある方は、是非調べてみていただきたい。写真を撮るという行為は、写真の歴史を知ることでより深みを増していくに違いない、と私は思っている。

写真機の広まり

1900年代に入ると、国産のレンジファインダーカメラも登場し、徐々に一般への広まりを見せる。とはいえ、まだまだカメラは高価な時代、給料3ヶ月分なんて言葉もあった(私はもちろん生まれていないが、父親からそんな話を聞いたことがある)。
1950年代を過ぎると、国内では一眼レフ時代に突入しキヤノン、ニコンをはじめペンタックス、ミノルタなどが、新たな機能(オートフォーカスとか)を搭載した一眼レフを次々に開発し、世の中に送り出していった。

2000年代初頭、フィルムカメラの出荷台数をデジタルカメラが抜き、いよいよ今日につながるデジカメ時代へと突入する。

写真表現の広がり

今日に至り、写真撮影においてはフィルム、一眼レフ、ミラーレス等、とにかく選択肢が多い時代になっている。これに合わせて、写真の表現も大きく広がってきている。暗室で薬液に塗れながらの現像から、PCでのraw現像へ変わっていったように。そして、プリントしてなんぼの時代から、データでのやり取りがごく当たり前の時代に変わった。

写真表現が広がったことで、カメラを手にして間もない人でも、簡単に自分の作品を世の中に発信できる時代。良い反面、何だかなぁと思う反面、二律背反的な思いが私自身の中にもある。(概ね良いことだと思う)
一時期流行った「映える写真」もその一つだ。
この映え写真というのが曲者であり、私の中では最大の敵とも言える。

被写体の綺麗さ、構図の美しさ、色彩の鮮やかさなど。
確かに良い写真、なのかもしれない。多くの人に支持されるというのは、いつの時代でも本流であり、その他が何を言ってもその流れは変わらないだろう。
しかし、一部を除きそれらの多くは、どうも私の中ではしっくりこない。
私はそれらを「だけな写真」と呼んでいる。
「綺麗なだけ」「上手いだけ」「映えているだけ」
こんな事を言うと、偏屈で穿った見方しかしていないように思われそうで大変恐縮なのだが、この「だけな写真」が溢れているなぁと感じるのである。

表現は自由、どんな写真を撮ってどう世の中に発信しようと自由なのだが、これらが本流となってしまう時代は、写真を生み出し今日まで発展させてきた先人たちに対して、個人的にやるせない気持ちが溢れてきてしまう。

自分が思う表現とは

写真は撮り手の哲学やら思想やらが滲みでるもの。先人たちと、自分自身に恥じないような作品を撮り続けていきたいものだと感じた土曜日の夜。
くだらない愚痴にお付き合いいただき、ありがとうございました。


インスタもやっております

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