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5択の深ーい罪

日本の教育制度に問題があると言われて久しい。受験、画一化、教員の働き方、などなど。。。だが、私も含めて、字面を見て「ああ、大変そうだ」とは感じても、問題の本質は何であるのか、あまり深く一般には理解が共有されていないように思う。

教育の短期的な結果は、全国統一学力テストやPISAなどで定量化できる。が、しかし、最も大切なのは、教育がほぼ不可逆な人の能力形成や人格に大きく影響して、しかもそれはずっと後になってわかることだということなのだ。これが教育の問題の本質への理解が難しい所以なのだと思う。

私が海外から帰国して、最も印象的に感じた違和感の一つが、日本社会では、よく知らない他人に会ったとき、その人の属性でカテゴライズしてどういう人間かをとりあえず判断してしまうことだ。相手に関する情報をいくつかのキーワードとしてまとめ、パパパっと性格診断のA・Bの矢印を辿るが如く「ああ、君ってこういう感じだよね。絶対こんなこと言いそうそういうことを初対面にも関わらず、しかも皆の前で平気で言う人が多い。そういう人はまったく悪びれていない。

たとえば、私は、女、海外帰り、専攻した科目で、「え?帰国子女って結構強めの性格だよね。しかもバリバリで男なんか踏みつけていきそう〜絶対!」だが、私は帰国子女でもない、男というか人間自体を踏みつけたいとも考えたこともない、第一、絶対って何だよー?一体あなたは私の何を知っている、勝手に決めつけないで、とその横暴さに、自分の尊厳が踏みにじられたように随分傷ついたものだ。

そういう経験を数えきれなく経験するうち、これって何かに似ていると思い始めた。そう、試験の選択問題だ!日本の学生が選択問題を解くときはできる限り速くキーワードを見つけ、それらを関連させて瞬時に解答を選ぶ。このプロセスにとても似ている。そこにロジックを丁寧に見つける、とりあえず結論にサッと飛び付かず、一旦放置しておく、という思考法はなくて、まるで脊髄反射のような感覚的な体の使い方で、これだ!と思う選択肢に丸をつけちゃってしまっている。こういう方法を小さい時からさんざんと体得していたら、それは大人になっても抜けないだろうなぁ。

日本で暮らしていると、たとえ本人に言わなくても、大体の人は相手に対して、その属性で結構なジャッジ(相手への値踏み)をしているのではないかという実感を抱いてしまう。見知らぬ他者は自分にとっては意識せずとも脅威で、その脅威を解くべく(訓練されてきた)脊髄反射的判断な動きが出る。それは自分自身を守ったり、相手に対するアプローチを探るべくの自己防御なのだろうが、でも、それって、どの相手も自分の知識や想像を超えない存在にしてしまっている。

人は色々な人がいる。ましてや一個人の中でも複雑である。世の中にはこちらが想像もできないような人生を歩んできた人もいる。それを蔑ろにして、自己制作の樹形図で他者を矮小化してしまう。それが、今多くの人が抱く、生き辛いと感じる要因の一つではないのかな、と感じてしまうのだ。お互いに値踏みし合ってお互いに理解してもらえない、と圧迫感を受けると孤独と不信を漠然とつのらせているのかもしれない。

私が暮らしてきた国々では、東アジアでは少し日本と似ているかもしれないが、基本的に、本人が変えられようのない属性で人を判断することは少ない。むしろ行動を見て「あんなことしている、あいつはレイシストだ」とか「この政党を支持している」などなど言われていることが多い。
よく知らない他者に対し、仮に「移民だ」などの属性で判断しているならば、それは現在では、恥ずべき行いとされている。人間があまりにも雑多で色々いるのでカテゴライズが無理なのと、そこまで他人を分析するほど外界のものに興味がないことも一因だろう。(なので外から来た私は寂しい思いも多かったけれど)

でも、決定的な違いはどこから来るのだろうと思うと、やはりさっきの5択問題ばかりの勉強法が深く関わっているように思うのだ。問題に対して思考プロセスに時間と枠の幅の余裕を持たせ、ロジカルに説明する訓練をしていると、簡単に結論に飛び付かず、判断をするという行程を人間関係にも当てはめることができるように思うのだ。歳を取るにつれて、私自身も他者を振り分けてしまいかくなる傾向を感じる。と、同時に人は本当に様々でわからない、という知識や経験も重ねてきた。後者を信じ、余白にこそたくさんのものが詰まっていると信じて、選択・分類の自動思考をオフにしてまっさらな気持ちで相手と向かい合うとより良い関係が築けると思っている。

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