埴谷雄高、意識的か無意識かの【意識論】

埴谷雄高、意識的か無意識かの【意識論】

埴谷雄高は、自身でも、内容を意図的に分りにくいものに絞って作品を作っているというようなことを、何処かで述べて居たが、それはそれで、方法論として、一先ず理解するとしよう。その分かりにくさ、というものが、

(略)私がこれほど興味をもっていることに、他のひとびとはそれほど切実な関心を懐いておらず、それどころか、私の問題は風変りな興味として遇されることが普通と見なされるべきであるという何度繰り返されても変わらぬ同一の体験であった。

『迷路のなかの継走者ー読者についてー』/埴谷雄高

と言う、述べられた体験からくるものであったと、言って差し支えないだろう。理解されないことが、誰にも理解されないこと、それが埴谷雄高を創ったのであれば、埴谷雄高の文章jは、なるほど、理解しがたいのである。

そうしてみると、こう言った状況で書かれる作品というものは、意識論と言う範疇で言えば、意識的な物か、無意識的なものか、ということになる。後に埴谷雄高は、自分の作品は、分かりにくいこと、そして読者を悩ませるようなことを、自白しているが、これは一体、意識的か無意識か、どちらで執筆を行って居るのだろう、と言う疑問が沸き立つ。とどのつまり、こう解釈すれば、妥当ではないだろうか、無意識に創られた、訳の分からない内容の文章を、それを曲げずに、意識的に使用している、と言う風に。そうであるならば、一定の理解が成り立つ様に思われる。埴谷雄高には救われたので、細かいことは言わず、全肯定したいが、最終的に意識的に投げ売られた、無意識の分かりにくさ、ということ、これは非常に、分かりにくいのである。

しかし、自分は、その分かりにくさ、というものに、云わば世間に靡かず自信を通すその姿勢に、自由と言うものを見たから、埴谷雄高には救われたのであるから、不思議なことだ。埴谷雄高、意識的か無意識かの【意識論】、と言うタイトルで述べて来たが、要は、意識的、無意識、どちらも遂行した上で、埴谷雄高の作品は、成り立っている、と言って良いだろうし、そこに、尊敬の念を持つのである。こう言った形で述べて来た、埴谷雄高、意識的か無意識かの【意識論】、もここで終わるが、前述引用した箇所も、『埴谷雄高 文学論集』に載っているので、やはり、購入して置いて良かったと思って居る。もしも、何かに躓いた時に、自分の様に自由がなかった世界を送っている人がいたら、『埴谷雄高 文学論集』を読めば、文章にはこんな自由があるんだ、と救われる体験がある事を願って、論を終えようと思う次第である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?