埴谷雄高、自由な感覚の【自由論】

埴谷雄高、自由な感覚の【自由論】

埴谷雄高の書く世界は、自由と言う言葉が相応しい。そして、その世界観を読んでいる読者もまた、自由になれる。この様な文章でも小説なんだという、(これは卑下しているのではなく、誉めているのであるが)、安心感を読者に与えてくれる。自分は、芥川龍之介の細かい削り削った様な文章を繰り返し読み、自分もそれに習って、その様な文章を書いていたから、精魂共に疲れ果てていた大学院時代だったので、そこで埴谷雄高を知って、何度もこれまで述べてきているが、救済されたのである。つまり、この埴谷雄高から与えられる自由な感覚、というものが、殊の外自身の精神に響いて、安らぎを得たのだ。

埴谷雄高は、難しい言葉遣いをあまりしないが、簡単な分かりやすい言葉で、難しい事を言うから、付いて行けるのである。『死霊』などにおいても、観念的で難しい事を言っているが、難しい言葉や言い回しは、避けられている。ここに、埴谷雄高の、読者主体という力学が働いていたかどうかは、定かではないが、例えば芥川龍之介が数行で言ってしまうことを、十数行で言って居るので、読み手としては、その長い文章に付き合わされる訳だが、それが埴谷雄高の方法なので、付いて行けば良いだけのことだ。数行で言わなければならない、という不自由が、無いのである、この点において、自由なのだ。

埴谷雄高、自由な感覚の【自由論】、として述べて来たが、これは人間関係にも言えることで、相手が自由にしていると、こちらも自由で居られるということがある。小説だって同じことだ、と言えるのではないか。これが、自分の言いたい自由論である。行き過ぎた自由は危険だが、余りにも窮屈なものは、小説を読んで居たって、疲れてくるのだ。その点においては、太宰治も、自由な文体だと言えるだろう。読み易い、ということになる。何れにしても、埴谷雄高の自由は、多くの知識人の苦悩を救ったのではなかろうか、まさに、自由と言う名の元において。これにて、埴谷雄高、自由な感覚の【自由論】、を終えようと思う。

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