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安部公房論ー日常性への宣告、または、時代の壁についてー

安部公房論ー日常性への宣告、または、時代の壁についてー

安部公房全集を購入して以来、随分とマニアックな評論文などに行き着き、さて、どう論評しようか、と思いつつ、評論を論評することの難しさに、慄かされている。勿論、楽しんで読み、楽しんで書くのだから、慄く必要性はないのだが、安部公房が、こんなにも論理的に文章を書くとは思わなかった/つまり、小説的側面しか安部公房を知らなかった、事に驚いているのだ。今回は、『日常性への宣告』と『時代の壁』について、読解しようと思う。

『日常性への宣告』は、『第四間氷期』のあとがき、である。これを、全集に、個体評論として載せていて、妙に気になったので読んでみると、大変深い思考があった。

真の未来は、恐らく、その価値判断をこえた、断絶の向うに、「もの」のように現れるのだと思う。(中略)そして、それがもし、現在よりもはるかに高度に発展し進化した社会であるにしても、日常性という現在の微視的連続感に埋没している眼には、単に苦悩をひきおこすものにしかすぎないだろう。

『日常性への宣告』/安部公房

未来というものを、これ程的確に捉えた文章が、今迄あっただろうか。いや、過去のものだから、今迄というには、些か適当ではないかもしれない。しかし、この『日常性への宣告』発表以降、こういった内容のものが書かれたかを、知らない、ということは、一先ず、現代的最先端を行った現在にも通用する文章だと言えるだろう。述べられているように、未来とは遣って来るものではなく、「もの」の様に現れる、これは、現在=今、というものが、未来に対して停止していることを述べているのであって、現在が未来に対して連続するものではない、という事を意味している。1秒後、というものが、連続しているものだとしたら、例えば地震が来るということを、予期出来るはずだ。しかし我々は、1秒後が未知数なのである。まさに、「真の未来は、恐らく、その価値判断をこえた、断絶の向うに、「もの」のように現れるのだと思う。」とは、そういうことだ。1秒後は、断絶の向うに、在るのである。であるからして、「日常性という現在の微視的連続感に埋没している眼」には、未来とは未知数であるから、「苦悩をひきおこすものにしかすぎない」という訳である。『日常性への宣告』とは、未来に対し、半ば白痴な状態の我々に対して、未来、というものがどういうものかを、宣告しているのである。未来とは、分からないもの、なのである。

次に、『時代の壁』、という文章について。引用が長くなるが、非常に重要な内容となっていると思われる。

事物の中で、もっとも原理的であり、それだけに体系化しつくされないのが、時間と空間という存在であろう。

『時代の壁』/安部公房

一つには、未来も宇宙も、さしあたっての危険を考慮する余地のないほど、はるかに遠いものであるというあつかましさと分別がうまれ、同時に、未来への展望は一生のおわり、すなわち死というあの厚い壁にさえぎられ、また空間のほうも、職業とむすびついた実用的な行動半径の内部にとざされてしまうわけだ。

『時代の壁』/安部公房

この、実用的空間と死という二重の壁は、ほとんど宿命的な厚みをもってえ人間をとりかこんでいるようにみえる。

『時代の壁』/安部公房

この『時代の壁』という評論を、殊更に『壁』という小説に紐づければ、それなりに、安部公房における、壁に対しての、抗いや無効性が看取出来るだろうが、小説『壁』では述べられていないような、もっと深化した表現の文章であると認めざるを得ない。「事物の中で、もっとも原理的であり、それだけに体系化しつくされないのが、時間と空間という存在であろう。」という文章には、時間と空間という、実に難しい問題が提起されている。我々は、そこに、時間においては、「死というあの厚い壁」が、空間においては、「職業とむすびついた実用的な行動半径の内部」が、迫って来ること、それが、何より困難であることを、物語っている。此処においてもまた、『壁』が「死というあの厚い壁」という暗示の元にあることを、理論づけて述べられているが、結句、「実用的空間と死という二重の壁は、ほとんど宿命的な厚みをもってえ人間をとりかこんでいるようにみえる。」という風に、それらの宿命性に論は帰結している。この『時代の壁』という文章は非常に難解であり、だからこそ、安部公房文学を知るのには最適な内容だが、埴谷雄高などは、これらを半ばはぐらかして述べているが、安部公房は、しっかりと論理的に述べている。つまりこの、「実用的空間と死という二重の壁」は、安部公房にとっては、宿命だったのであり、同時に、我々にとっても同じことが言えると思われる。小説『壁』で言いたかったこと、メタファとして封印された『壁』は、この『時代の壁』において、論理的に暴露されている。詰まるところ、安部公房は、評論家としても充分にやっていけるだろう資質を持っていて、小説は何度も言うが、理論のメタファとしての文学になっている構造が読み取れる。

『日常性への宣告』と『時代の壁』という、二つの文章は、こちらが丁寧に読解提示する以前に、もう内容が其の侭、書かれているので、殊更に述べることはなく、引用箇所で、読者に自然と伝わってくるのだ。ただ、『時代の壁』と、小説『壁』の関連においては、安部公房文学の、壁から前に進めない、抗いとそこに現象する無限の有効性、即ち、壁に拘ることによって、壁について述べることが出来るという、安部公房の特権が見て取れる。小説『壁』の読解に躓いたら、この『時代の壁』を読めば、理解領域が広がるだろう。『日常性への宣告』については、未来への未知数性として述べたが、両論ともに、非常に重厚な理論武装が、安部公房を内包しているかの様だ。

安部公房論ー日常性への宣告、または、時代の壁についてー、として論を運んだが、ここまで深く安部公房が、未来や時代について、思考していたことは、正直言って意外/というよりは発見、に近い驚嘆を感じたものだ。両本ともに、読んでいて、新しい知識のインプットが出来て、非常にありがたかった。「もの」としての未来や、「壁」としての宿命、こういった論理には、まだ日本の文壇は追い付いていないかに見える。それ故、安部公房の生誕100年ということで、全集を買い、その現代的可能性に触れられることは、ノーベル賞に近かった日本人としての誇りを、再認識出来る機会が与えられたと思って間違いないだろう。見事に、安部公房は今、現代日本に対して、大きなテーマを投げ掛けて居る。安部公房全集を、もっと読み込もうと思わせられる内容ばかりの、全集である。これにて、安部公房論ー日常性への宣告、または、時代の壁についてー、を終えようと思う。

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