埴谷雄高、徹底した【遡及論】

埴谷雄高、徹底した【遡及論】

埴谷雄高の作品を読んでいると、太古の昔へと遡及するような、原初への渇望の様なものが感じられる。人類が、科学によって進化しているように見えて、実は科学によって退化しているのだ、という、未来への警鐘の様なことを、言って居る様に思われることが多々ある。結句、宇宙論などにおいても、何、昔から宇宙の神秘は変わっていない、という呟きが、埴谷雄高の作品から聞こえて来そうだ。結局のところ、この埴谷雄高の、徹底した【遡及論】というものが、未来には必要とされるように思われてならない。

例えば、土の道を、人類の都合によって、コンクリートで固めたり、開発と言って、山を削ったり、ようく考えれば、人類は滅茶苦茶なことをやっているのだ。それを、進歩と捉えるのは利便性だけで、退化と呼べるのは人類の腐った脳髄である。無論、物事が便利になったことは、非常に良いことなのではあるが、度を超すな、と言いたい。埴谷雄高は、あの世で怒っているかもしれない。しかし、埴谷雄高に倣えば、そろそろ人類も、科学への妄信を止める時が来たのではないか、と思うのだ。宇宙開発を止め、宇宙は宇宙の侭で、神秘的な侭が良いと思うのは、おかしいだろうか。少なくとも、埴谷雄高なら、おかしい、とは言わないだろう。

埴谷雄高、徹底した【遡及論】、と題して執筆して来たが、例えば、大昔から人間の不思議である夢、というもの。この夢と言う夜に見るものを、殊更に埴谷雄高は、作品において大切にしている。夢にこそ、可能性があるのだ。夢の原理などを解き明かして、眠らない街を創ってしまえば、埴谷雄高は、やはりあの世で、怒るだろう。まさに、夢とは、科学への妄信を、夢という不可思議な原体験によって停止させ、夢の中だけで、科学を超越するのだから。そう言った意味においても、埴谷雄高、徹底した【遡及論】、と言う本論によって、上記した内容に、自分も同意するものだ。人類の未来を大切にしたければ、原始へと遡及せよ、ということなのである。以上で、埴谷雄高、徹底した【遡及論】、を終えようと思う。

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