埴谷雄高、繰り返される【言語論】

埴谷雄高、繰り返される【言語論】

埴谷雄高が、作品で使う言葉において、繰り返し使われる言葉がある。それは、

闇、暗い、宇宙、自同律、未知、可能性、狭い、時間

などである。他にも挙げれば切りがないが、とにやくやたらと、上記した言葉が、それは、小説であっても、評論であっても、思想論、政治論であっても、繰り返し使われている。埴谷雄高の世界には、これらの言葉が、相応しいのである。中でも、闇、と言う言葉、これはもう、何度も何度も、使用されているのであって、殊更に、埴谷雄高本人が、暗い人間だとは思わないが、闇、が多用されるのである。光なき闇、そこに、埴谷雄高の作品における命題がある。

とは言え、文章の中で、姿形を変えて、言葉は使用されているのであって、何度も同じ使い方をするなよ、とは決して思わない。多角的に、意味の通りに倣って、言葉はその命題に適した形で、使用されている。或るタイプの人間は、こう言った、云わば暗い作品を遠ざける可能性があり、それは、当たり前だし、止むを得ないと思う。これだけ、暗い言葉が並ぶと、一般的には敬遠されるのが落ちだろう。しかし、埴谷雄高が書きたいのは、こう言ったワードを使う世界観の作品であり、本人も敬遠されるのを認めながらも、自分の意識に沿って、正直に書いているのだから、行ってしまえば、埴谷雄高のスタンスは、読みたくなければ、読まないで良い、ということになる。

埴谷雄高、繰り返される【言語論】、として述べているが、この言語論というのは、埴谷雄高独自の、読みたくなければ、読まなくて良い、と言うスタンスから現出する、言葉の使用方法だと言って良い。埴谷雄高は、殊更に、自分の事を知って貰いたい、とは思っていないのである。興味のある人だけに、届けば良いと思うから、㈠、で羅列した言葉をやたらと使い、作品世界を彩っているのだ。別段、読者に媚びる必要性などないし、埴谷雄高は、狭く深く、のタイプだろうと思う。こう言ったことが、述べたかった、埴谷雄高、繰り返される【言語論】、であるが、言葉の使用における、言語論としては、それが繰り返されるが故、逆説的に、埴谷雄高の世界が独立した稀有な作品を生み出しているのだと言えよう。これにて、埴谷雄高、繰り返される【言語論】、を終えようと思う。

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