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安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅢー

安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅢー

安部公房全集、最終巻からの、文章の抜粋の後の、考察も、そのⅢにおいて、最終論となる。これにあたり、重要な箇所を探してみたが、そのⅠ、そのⅡ、で、安部公房の方法論の箇所を、ほとんど抜粋し切ったかたちになっている。そのため、この、そのⅢは、些か補完的な役割を成す論になりそうである。安部公房論としては、成り立つが、方法論の考察としては、少し外れてしまうかもしれないが、適切に抜粋したい。全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論も、ここで述べきると、後は今後は、小説論になって行くだろう、運びになると思われるが、飽くまで、適切に30論書くために、慎重に事を運びたいのである。

まずは、『不眠症とテロリスト』から。

考えてみれば、テロリストだって、つまりは一種の不眠症患者なのかもしれない。(中略)現実を、もちこたえられなくなると、想像の世界がはんらんをおこす。

『不眠症とテロリスト』/安部公房

ここでは、テロリストの暴挙の根拠が、不眠症と同列だという指摘がなされている。それは、想像の世界の氾濫の結果だと述べられる。なるほど、夢を見て起きるという、人間のサイクルの入れ違いによって、夢における現実の忘却がなされないと、現実が続き、夢の正体がテロリストを生むという訳である。例えば、安部公房は、『笑う月』というエッセイで、夢について論じていたが、こういった、夢に関する安部公房の考え方には、それが小説などの創造に利用する、夢の立場が明らかになる。結句、安部公房方法異論の一つは、夢の利用だと言えるだろう。不眠症とは、安部公房にとっては大敵であったはずだ。或る意味、この文章は、安部公房方法論の一側面を言い当てては居まいか。そんな風に思われて、仕方がないのである。

また、『ぜんぶ本当の話』、について。

ぼくは、気質として、なかなか集団のなかに融けこめないたちだ。そのせいか、集団的なスポーツは、あまり関心がない。どうしても、個人で技をきそう種類のものに傾きがちである。

『ぜんぶ本当の話』/安部公房

こういった、個体性の原質的文章を読むと、安部公房の気質が、小説家に適していることが、判然とするだろう。というより、小説家などというものは、ひとぇに、個人スポーツの様なものである。自分で題名を決めて、自分でストーリーを考えて、自分で芸術を創り上げるのだから。この『ぜんぶ本当の話』からは、如何に安部公房が小説家に向いていたか、ということが理解できるであろう。「個人で技をきそう種類」の、技、とは、方法論のことを指していないでもない。即ち、安部公房は、気質として、小説家に向いていて、それだから、ここまで大量の文章を執筆出来たのだろうと思う。「傾きがちである」ことは、換言すれば、小説家のアプリオリな特権でもある。ここにも、安部公房方法論が述べられていた、と言って、適切であると思われる。

『不眠症とテロリスト』、『ぜんぶ本当の話』、の2つから、安部公房の潜在的気質が浮かび上がって来た。夢の方法論や、個人の技としての方法論である。重要なのは、これらが、実に丁寧に独白されていることである。我々が、この2つを読んで、小説を読むと、益々、安部公房の実体が表出するだろう。エグいまでに、この様に述べられた方法論は、研究者にとっては、大変、有効で貴重なものであるし、覚えて置かなければならない、芸術理論に他ならない。

安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅢー、と題して述べて来たが、今回も非常に有益であった。ここで一先ず、全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、を終えようと思う。3回に渡って述べて来たが、全部で7つの文章を決め、そこから重要箇所を抜粋して、論じて来た。安部公房全集を購入して本当に良かったし、特にこの、全集最終巻である、十五巻には、沢山の安部公房方法論が見受けられ、半ば、安部公房に陶酔している。全集を買った利点であると言えよう。Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、全てにおいて、全力で取り組めたと思う。今後、㈠で述べた、通り、小説論も増えると思うが、小説論に入る前に、この方法論の解読をしておいたことは、大きな意味が有ったと言えるのではないか。まさしく、小説を多角的に論じるには、その舞台裏で執筆をしている安部公房の動向を意識して置かねば、深い論にはならないと思うからである。これにて、安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、そのⅢー、を終えると同時に、3回に渡った、安部公房論ー全集最終巻、十五巻からの、安部公房方法論、を終幕させようと思う。

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