埴谷雄高、無限執筆の【方法論】

埴谷雄高、無限執筆の【方法論】

埴谷雄高の文章は、無限執筆だと言って良いだろう。それは、独房に入った時に、構築されたと自分は思って居る。出口のない場所に居る場合、そこに溢れた言葉たちが充満して、脳内で言葉の反芻が止まらないと思われる。そこで、言葉の、それも大量の言葉が、執筆へと向かった時に、無限執筆へと方法論として現象するのである。確かにそれは、安部公房に似ている。埴谷雄高ー安部公房、の系譜は、こういったところからも、理解出来よう。埴谷雄高の場合は箱、安部公房の場合は壁、となる。

しかしどこかで書いたと思うが、埴谷雄高の文章は、長いし無駄も多いが、その文章というものが、パースペクティブを持っているということである。これはすごいことで、要は、箱という独房の中に居たから、文章を最終的にはまとめる技術を体得したのではないかと、推論している。埴谷雄高は、こういった、自己体験から、それを直叙に物語にしてしまう訳ではない。寧ろその反対の、自己体験を、その自己の時々に感じた内面に、つまり自己に対象を向けて、自己の事を語って居るのである。それは、多分に、小説家として稀な方法論だと思う。

この様に、埴谷雄高、無限執筆の【方法論】、と題すれば、読み手としても、無限に批評出来ることはありがたいが、気の抜けない評論文になることは明白で、やはり埴谷雄高は、難解だ、という事実が眼前に揺れ動いているのも、直視するだけだ。自分にとっては、文章を書く時のお手本の様な文章だから、もしも、自分の文章の原初ヲ知りたいという方がいたら、埴谷雄高を読んで貰えば、納得が行くと思う。闇についての文章も果てしない程に、大量に書かれているし、自分は、日本文学史において、この闇が無くならない様に活動したい。それは埴谷雄高のためでもあるし、日本文学の文壇のためでもある。これにて、埴谷雄高、無限執筆の【方法論】を、終えようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?