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安部公房ーカンガルー・ノート、の位置ー

安部公房ーカンガルー・ノート、の位置ー

1991年に発表された、『カンガルー・ノート』、これが安部公房の最後の小説とされてる。この小説を、高校生の時読んで、まさに衝撃を受けたのであるが、とにかく、変わっているのである。例えば、埴谷雄高も最晩年は変人と言われていたようだが、この『カンガルー・ノート』を読む限りにおいて、安部公房も、少し変人と呼ばれてもしかたないくらいの、内容を持っているのである。しかし、文体や構造に乱れはない、ただ、内容が、余りに前衛的過ぎる、と言った感じか。それでも、エンタメとして、とても興味深い、面白い小説である。

まず、脛に、かいわれ大根が自生した、という発想が面白い。そして、病院に入る経緯も奇抜である。その後の内容は、読んで頂ければ、まさに変わっていることが理解されると思うが、この『カンガルー・ノート』という言葉が、どうしても引っ掛かってしまうのである。この、最後に何故この様なタイトルの小説が書かれたのか、それも判然としない。自分は、この言葉が、カンガルー=考える、という風に思った。つまり、この小説は、考えるノートなのではないか、という風に。そうすると、安部公房はやはり、小説に対して前衛的になる様に仕組みを凝らして、常に考えていたのではないか、そのことを言いたかったのではないか、という風に。

『壁』、『砂の女』。『箱男』という代表作に対して、この最後の小説『カンガルー・ノート』は、それほど重要視されていないように思う。所詮、変わった小説だ、くらいの判断しかされていない、という位置に置かれていると考えられる。しかし、安部公房の声が、何処かから聞こえて来そうだ、俺は最後まで考えていたのだ、という風な声が。考えることを止めていたら、恐らく小説家を止めていたであろう。しかし、演劇集団「安部公房スタジオ」を結成したり、ノーベル賞まであと少しだったり、安部公房の周囲は、安部公房二考えることを求めていた。だから、脛に、かいわれ大根が自生した、などという、訳の分からない発想が飛び出たのだろう。考えた証であるだろうし、その意味で、『カンガルー・ノート』が最後の作品で良かったと自分は思う。それは、考える、ということを、最後まで小説の位置において、行なったのだから。

だれも人生のはじまりを憶えていない
だれも人生の終わりに
気付くことは出来ない

『カンガルー・ノート』/安部公房

小説『カンガルー・ノート』で、最後に聴こえてくる歌の歌詞の一部だ。既にこの時、安部公房は、自身の死を悟っていたのではないか。「だれも人生の終わりに 気付くことは出来ない」、その通りなのである。すぐ側にある死というものに、気付かない、そんな風に意匠を保って述べられた時、安部公房は、死について、考えていたはずだ。その予兆がこの歌だったとは言えまいか。安部公房ーカンガルー・ノート、の位置ー、として述べて来たが、死をテーマにした小説として、『カンガルー・ノート』の位置は、最高峰にあると言って良い。ここには、素の安部公房が浮かび上がっている。小説と人生が、瞬く間に交差した時、言葉は予言通り、安部公房を死に追いやった。負けたのは小説のほうである。先に予言を書いていた、安部公房の勝ちである。先に安部公房が死んでいたら、小説は死ぬことすら出来なかったのだから。安部公房ーカンガルー・ノート、の位置ー、はここで終えようと思うが、同時に、安部公房論の作品論も、ここで終わりとする。残りの2論は、安部公房の生涯と、総括に当てたい。以上で、この論も終わりとする。

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