安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅱー
安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅱー
㈠
安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅱー、を書き始める。『壁』論がどこまで続くか分からないが、前進あるのみだろう。引き続き、引用を始める。
理性の問題、それから、「時間はただ壁のようにぼくの行手をふさぐだけです。」という述懐、壁の本性が現れ出た台詞である。この行く手をふさぐ、というのが、時間はただ壁のように、とされていることが、重要だろう。安部公房の『壁』論におぃて、この箇所を適当に放り投げる訳にはいかない。また、安易に思考すべきでもない。どんな形であっても、小説『壁』において、壁という言葉が出た箇所は、安部公房の壁に対する考え方が、充分に含蓄されているのだから。
㈡
次の重要な箇所を、引用する。
ここの表現は、芥川龍之介の『歯車』に出て来る描写に酷似している。
安部公房が意識したかどうかは、分からない。しかし、遺稿である『歯車』のこの箇所は、実に芥川文学にとって重要な役割を果たしている。奇しくも、安部公房はこの表現の入った『壁』で芥川賞を取るのだから、実にそれが無意識であったとしても、芥川龍之介の系譜に入ると、一応は理解して適切だろう。この『壁』の引用箇所は、スクリーンの中に飛び込む内容の箇所なのだが、演繹的になるが、メタファとして歯車から飛び出した、ということではなかろうか。というのも、思考として、芥川は、社会の歯車に入り切れずに自殺した。小林秀雄は、社会化された私、ということで、社会の歯車に入れた。横光利一は、『機械』で、社会化された自分が機械になって回っていると感じ、安部公房の『壁』では、入っていた歯車から飛び出した、とは理解出来まいか。ここに、ポストモダンというものが生じたのである。
㈢
壁への述懐が続く、この箇所からの壁に対する安部公房の思いは、痛切である。安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅲーにおいて、その述懐の具体性は述べるが、ともかく、この壁というもの、実証と懐疑、という言葉が出て来るが、安部公房にとって、どれ程、この壁が、大きな問題であったかを、克明に描いているのは、問題作、『壁』だけである。タイトルが壁なのだから、当たり前だと言えば当たり前だが、しかし、初期短編集に有った、小説内での執筆の飛躍というものは、この『壁』に始まる安部公房の小説家として生きていく姿の中で、見事に断絶されている。『壁』という作品の、安部公房にとっての問題が、ただの通過点ではなく、以前と以降に割り振られてしまうくらいの決定打となっているのだ。果たしてこれは、犯罪であるだろうか。無論、現実ではなく、小説家としてのことを言っているのだ。
㈣
安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅱーも、終りを迎えるが、小説『壁』論が前進する程、まるで安部公房の自由は退化していくかに見える。そこに、壁という困難、という大きなテーマが生じているのを、我々は垣間見るのである。何と劇的なデビューだろう、困難からの出発程、苦しい業はない。まさに、カルマ、なのであるから、我々はその姿勢を、受け入れて、日本文学史に規定して置かなければならないのだ。安部公房の真意は測りかねるが、実験にしても、意図的にしても、この様な日本文学史上、非常に稀有な、芥川賞作品も珍しい。安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅱー、は、ここで終わるが、またの課題は、次の、安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅲー、に、持ち越したいと思う。
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