見出し画像

安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅱー

安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅱー

安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅱー、を書き始める。『壁』論がどこまで続くか分からないが、前進あるのみだろう。引き続き、引用を始める。

やはりおかしなことはなるべくないほうがいいものです。従来ぼくは理性は人間を不自由にするものだと考えてきました。しかしこんな目にあってみればそれも考えなおさねばならないではありませんか。こんな具合に理性が役立たなくなり、自由がなくなると、必然と偶然のけじめがまるでなくなって、時間はただ壁のようにぼくの行手をふさぐだけです。

『壁』/安部公房

理性の問題、それから、「時間はただ壁のようにぼくの行手をふさぐだけです。」という述懐、壁の本性が現れ出た台詞である。この行く手をふさぐ、というのが、時間はただ壁のように、とされていることが、重要だろう。安部公房の『壁』論におぃて、この箇所を適当に放り投げる訳にはいかない。また、安易に思考すべきでもない。どんな形であっても、小説『壁』において、壁という言葉が出た箇所は、安部公房の壁に対する考え方が、充分に含蓄されているのだから。

次の重要な箇所を、引用する。

彼は夢を見ていたのでしょうか? それとも本当に影になってしまったのでしょうか? どこか遠くの工場でサイレンが鳴りかけてやめ、空間が変にゆがみました。おびえた小犬の悲鳴がそのゆがみをさらにねじりました。そのねじれにまきこまれて彼は慌てて起上りました。

『壁』/安部公房

ここの表現は、芥川龍之介の『歯車』に出て来る描写に酷似している。

僕は思わず空を見上げ、松の梢こずえに触れないばかりに舞い上った飛行機を発見した。それは翼を黄いろに塗った。珍らしい単葉の飛行機だった。鶏や犬はこの響きに驚き、それぞれ八方へ逃げまわった。殊に犬は吠え立てながら、尾を捲いて縁の下へはいってしまった。

『歯車』/芥川龍之介

安部公房が意識したかどうかは、分からない。しかし、遺稿である『歯車』のこの箇所は、実に芥川文学にとって重要な役割を果たしている。奇しくも、安部公房はこの表現の入った『壁』で芥川賞を取るのだから、実にそれが無意識であったとしても、芥川龍之介の系譜に入ると、一応は理解して適切だろう。この『壁』の引用箇所は、スクリーンの中に飛び込む内容の箇所なのだが、演繹的になるが、メタファとして歯車から飛び出した、ということではなかろうか。というのも、思考として、芥川は、社会の歯車に入り切れずに自殺した。小林秀雄は、社会化された私、ということで、社会の歯車に入れた。横光利一は、『機械』で、社会化された自分が機械になって回っていると感じ、安部公房の『壁』では、入っていた歯車から飛び出した、とは理解出来まいか。ここに、ポストモダンというものが生じたのである。

壁、それは古い人間のいとなみであると彼は思いました。それから、壁は実証精神と懐疑精神の母胎であると考えました。

『壁』/安部公房

壁への述懐が続く、この箇所からの壁に対する安部公房の思いは、痛切である。安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅲーにおいて、その述懐の具体性は述べるが、ともかく、この壁というもの、実証と懐疑、という言葉が出て来るが、安部公房にとって、どれ程、この壁が、大きな問題であったかを、克明に描いているのは、問題作、『壁』だけである。タイトルが壁なのだから、当たり前だと言えば当たり前だが、しかし、初期短編集に有った、小説内での執筆の飛躍というものは、この『壁』に始まる安部公房の小説家として生きていく姿の中で、見事に断絶されている。『壁』という作品の、安部公房にとっての問題が、ただの通過点ではなく、以前と以降に割り振られてしまうくらいの決定打となっているのだ。果たしてこれは、犯罪であるだろうか。無論、現実ではなく、小説家としてのことを言っているのだ。

安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅱーも、終りを迎えるが、小説『壁』論が前進する程、まるで安部公房の自由は退化していくかに見える。そこに、壁という困難、という大きなテーマが生じているのを、我々は垣間見るのである。何と劇的なデビューだろう、困難からの出発程、苦しい業はない。まさに、カルマ、なのであるから、我々はその姿勢を、受け入れて、日本文学史に規定して置かなければならないのだ。安部公房の真意は測りかねるが、実験にしても、意図的にしても、この様な日本文学史上、非常に稀有な、芥川賞作品も珍しい。安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅱー、は、ここで終わるが、またの課題は、次の、安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅲー、に、持ち越したいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?