芥川龍之介論ー迷宮世界としての小説ー

芥川龍之介論ー迷宮世界としての小説ー

芥川龍之介は、『雑筆』で、この様に書いている。

小説中夢を道具に使う場合は、その目的を果たす必要上、よくよく都合の好い夢でも見ねば、実際見た夢を書く訳に行かぬ。

『雑筆』/芥川龍之介

この様な記述から、芥川の方法論に、夢、というものが、作用している場合がある事が分かる。『歯車』においては、夢と現実の境界が分からない様に書かれている個所があり、そういったことからも、芥川にとって、夢とは一つの対峙しなければならない主題だった。晩年の芥川は、睡眠薬を多量に摂取していたようだし、こういった場合の小説は、何か迷宮世界を思わせる節がある。『藪の中』も、迷宮だと論じられたことがあるし、芥川文芸において、夢とは何か一つの命題にも思われてくる。

夢については、埴谷雄高や安部公房も、創作の方法論として使用しているが、『雑筆』の芥川の独白とは異なり、作り物の要素がほとんどを占めている。つまり、芥川の夢の使用は、埴谷雄高―安部公房の系譜ではない。すると、江戸川乱歩のこの言葉、

「うつし世は夢 夜の夢こそ、まこと」

江戸川乱歩

この言葉などは、夢の扱い方が、何か芥川風だと思わざるを得ない。ここには、迷宮世界としての小説、としての、芥川龍之介ー江戸川乱歩、の系譜が見出せる。まさに、出口無き迷宮が、芥川を圧迫し自死へと追い込んだ様に、江戸川乱歩もまた、夢に魘されて居る様な独白の観を受ける。

芥川龍之介論ー迷宮世界としての小説ー、として書いて来たが、芥川龍之介の全集を読んでいた身からすると、随分と芥川も、夢に魘された一生だったのではないかと思う。虚構、とは一種の夢の様なものだ。現実ではない虚構、その虚構に現実を見る時に、人は、迷宮世界に入りこんでしまう。『羅生門』から、『歯車』に至るまで、芥川は読者を迷宮へと誘い込み、やがて、出口を提示せずに、死んで行った。これこそ、芸術至上主義の、全き方法論だったと、死後の世界で、芥川は笑って居るかもしれない。虚構から虚構へ、芥川はついに、本体を見せることをせずに、煙に巻いた。つまり、言いたかったのは、芥川龍之介論ー迷宮世界としての小説ー、ということなのである。

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