私的領域にとどまる暴力の地獄ー『ブラック・フォン』

1960年代に興隆した第二波フェミニズム運動における代表的なスローガンの一つに「個人的なことは、政治的なこと(The Personal is political)」がある。これは、女性が私的領域で体験する個人的経験もまた公的領域と同様に重要であると示すスローガンであり、家族や恋愛などの私的人間関係における問題(家庭内暴力、家父長制など)も社会構造の中と密接に関連すると主張する。「個人的なもの」を取るに足らないと線引きすることの恣意性を問題視するスローガンでありながらも、現在では、フェミニズムの内側においても「公」と「私」の間の線引きが恣意的であったとの指摘もなされており(堀江)、アメリカの白人中流女性のみに焦点を当てた限定的かつ時代遅れになったスローガンとみなされることも少なくない。
第二波フェミニズムがアメリカで大きなうねりを見せていた1970年代を舞台にした『ブラック・フォン』(2022)において、スコット・デリクソンはコロラド州デンバーの住宅街を無限の暴力の連鎖が存在する世界として描いた。主人公の中学生達は、学校では凄惨なイジメに遭い、路上の石で反撃すれば相手のこめかみから血飛沫が飛び出し、通学路では同級生が馬乗りの殴り合いをしている様を目撃し、帰宅するとアル中の父親に暴力を振るわれる。ジェンダーやセクシュアリティ、エスニシティに関する描写を丁寧にアップデートし未来に開かれた現代の青春映画に慣れた身からすると、成人男性から子供へ、男から男へといったマスキュリニティに満ちた暴力関係から生じる閉塞感を描く本作の姿勢にいささか衝撃を受ける。『ブラック・フォン』で描かれる世界は、いわば「個人的なことが、個人的なことでしかあり得ない」世界である。大人の庇護に置かれる子供達は、個人的なことをどこまでも個人的に処理(親に隠れてテレビで映画を見たり、ロケットを模したシャープペンシルに外界への希望を託したり)するしかなく、社会からの救済は全く期待できない。
イーサン・ホーク扮する仮面を被った誘拐犯に少年が誘拐されるというメインプロットが始まるまでに、デリクソンは上記の暴力的舞台設定を丁寧(すぎるほど)に描写する。逆に、誘拐犯グラバーの犯行動機や背景は台詞でも描写でもほとんど説明されない。グラバーの最大の特徴は、その受動性にある。彼は子供を誘拐・監禁した後は、能動的にではなく、あくまで子供が家から逃亡を企てる様を見た時にのみ暴力を振るう。彼は、誘拐した子供がいる地下室の扉をわざと開けておき、子供が上階に駆け上がってくる様を今か今かと待ち構えている。この点から、グラバーが殺人や暴力に興奮する快楽犯ではないことは明らかだ。彼は、虐待や暴行が横行する街の暴力の構造の最深部に蠢いている。子供達にとってグラバーは、サイコパスや誘拐殺人犯といった名前のわかるものではなく理由もなく襲い掛かり抵抗すれば暴力を行使してくる巨大な理不尽そのものなのだ。
主人公のフィニーが誘拐されるシーンは、下校中の彼の周囲の人間がディゾルブで次々と消えていくショットで構成されている。『ブラック・フォン』を私的領域に限定された暴力に満ちた世界を描く映画だとするならば、このショットは、単に人気のない道で子供が誘拐されやすいという定説をそのままなぞっただけではなく、社会も、まして政治も消え失せた世界の中で暴力を体現するグラバーとたった一人で対峙しなくてはならないフィニーの疎外を描いたと言えるだろう。フィニーが監禁される場所にある黒電話(=The Black Phone)には、グラバーによって殺された子供達から電話がかかってくるわけだが、外界と繋がる手段であるはずの電話が悲劇に見舞われた子供達の魔界に通じてしまうという設定にも、社会からの隔絶を感じてしまう。自らの名前も思い出せず、断片的な言葉を繰り返すしかできない子供達はもはや怨霊のような存在であり、電話口から話しかける彼らの姿には、社会から切り離された地下室の中に暴力の結果が沈殿しているという本作独特の閉鎖性がある。
最終的にフィニーがグラバーを倒し脱出する展開においても、役に立つ手段は暴力でしかない。悪役を倒した彼と妹の元に、二人を虐待していた父親はひざまづく。この構図には、新約聖書に登場する『放蕩息子の帰還』の逸話を連想した。この逸話は、不真面目で神の教えに逆らう息子が故郷の父親に迎え入れられるという救いを描くことで神の憐れみ深さを示すとの分析がなされているが、『ブラック・フォン』においては、父と子供の構図は完全に逆転している。世界には暴力が満ちており、フィニーは生き残るために暴力を行使するしかなかったという結末の先に、父親は虐待を克服し円満な家庭を取り戻したという救いがあるとは思えない。このラストは、父権の暴力性を暴きそれが失墜したことを示すばかりだ。
結局、フィニーが前半に希望として抱いていた宇宙への夢も映画への愛も彼を救うことはなかった。有害な男性性を見つめ、男性をそこから解放することを主題とする映画も珍しくない昨今において、やはり『ブラック・フォン』は異彩を放っている。しかし、連続誘拐犯に監禁され殺されることと同じくらい恐ろしいものとして、同級生の頭を石でかち割ることを描いている点からも、デリクソンがマッチョイズムを礼賛している訳でも、政治的運動の可能性を否定している訳でも決してない。この世界には暴力を振るう・振るわれるという関係性が確かに存在し、その磁場に巻き込まれた人、特に子供が抜け出すことは容易ではない。政治的なこと、社会的なことに参画できない子供達は、地獄のような暴力の世界を恐怖に耐えてサバイブするしかない。こうした世界の恐ろしい有様を、スコット・デリクソンは、その受け入れ難さごと提示してみせたのだ。

参考文献
堀江有里、2006『「個人的なことは政治的なこと」をめぐる断章』

http://www.ritsumei-arsvi.org/uploads/center_reports/24/center_reports_24_09.pdf

(『〈抵抗〉としてのフェミニズム』,生存学研究センター報告より)

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