世界のノイズに開かれること 『カモン・カモン』

 20世紀初頭、リュミエール兄弟による数十秒ほどの映像を見た観客達は歓声を上げたそうだ。それは、スクリーンに映る列車を見て「本当に轢かれてしまう」と恐怖したみたいな単純な話ではない。当時の人々は、「赤ん坊」なり「船」なり「列車」なりわかりやすいモチーフではなく、むしろその背後にある「風に揺れる草」「寄せては返す波」など、他愛もなく画面にとってただのノイズでしかない対象に歓喜したのだ。つまり、自分の身体で知覚した時には、ノイズとして捨象されるような、捉えどころのない草木の動きなどを、カメラ・フィルム・映写機などのテクノロジーが鮮明に捉え、赤ん坊と並列的に提示されているのを見た時に、観客は驚き感動したのである。(この事実については、長谷正人『映画というテクノジー経験』の第一部に詳しい。)
 『カモン・カモン』におけるテクノロジーは、ジョニー達が操る音声マイクである。序盤で、ジェシーが、ジョニーに手渡されて初めて音声マイクを使う場面では、本編の音響自体が劇映画用の音響から無音を経由してマイク越しに聞こえる音響へと変化する。そこでは、もちろん部屋に流れる風の音も鮮明に聞こえている。ジョニーは、音声マイクを用いてアメリカ中のティーンエイジャーへインタビューを行うジャーナリストである。ジャーナリスト達が投げかける質問は「この国の未来はどうなると思う?」などというやや抽象的なものばかりで、対する子供達の言葉は聡明で真摯でありながららも時に葛藤に満ちている。劇中で引用される『撮影者が可能にすることの不完全なリスト』にもあるように、ジャーナリスト達は子供達が手探りで言葉を紡ぐ様を、その「ノイズ」も含めて丸ごと受け止める。本作のエンドロールには、子供達へのインタビュー音源が流れるが、ここでは会話の背景にある雑音も並列されている。つまり、この映画の核にある「ジョニーとジェシーによる不器用なコミュニケーションの繰り返し」という層の一枚外側には、「ジャーナリストとティーン達による音声マイクを用いたコミュニケーションの記録」という層が広がっているのだ。
 さらに、『カモン・カモン』を多層的に読み取るとするならば、そこには「都市」という層が顔を出す。本作に登場する都市は、デトロイト・ロサンゼルス・ニューヨーク・ニューオーリンズ。従来の映画にも度々登場する街ばかりだ。しかし、本作では、それらの街が持つありふれたイメージ(ニューヨークなら自由の女神、ロサンゼルスならゴールデンゲートブリッジなど)がスタイリッシュに切り取られることはない。白黒の画面に映し出されるのは、何の変哲もない街並みの俯瞰ショットや、高速道路に渋滞する車や、裏寂れた路地や野原である。そうしたイメージは、「ニューヨーク」と聞いて誰もが思い浮かべるその街への月並みな印象よりも、遥かに雄弁にそれぞれの街固有の空気を伝えている。冒頭、デトロイトでインタビューを受けている子供はこう語っている。「デトロイトは、終わった街だと語られる。でもここに住んでいない人に何がわかる」と。ここでもまた安易な理解や共感では得ることのできない、街という他者とのコミュニケーションが生まれている。実際、街に出ていくジョニーやジェシーの姿を、ロングショットで捉えることで、まるで二人がノイズの一部として街に溶け込んでいるような画面が頻出している。
 『カモン・カモン』は、目の前にいる他者を、自分たちが暮らす街を、それらの連続体としての巨大な世界を、理解の及ばない領域を捨象することなく知覚することの可能性を提示する。そこで、人間と世界の媒体(メディア)となるのは、音声マイクであり、白黒カメラである。終盤で、ジェシーはレコーダーを手に取りジョニーに向けて録音を開始する。そこで彼が見せる微細な表情の変化には、自らの手で新たなる知覚に踏み出していく瞬間の興奮と驚きが宿っている。安易な理解を超えた世界にメディアを通じて触れる時、原初の映画に人々が感じたものと同じ類いの感動がいつでも立ち現れてくるのだ。


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