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読書が教えてくれたこと①

 小学校1年生の時、親に自分からお願いをして買ってもらった本が一冊だけある。それは、有名なバーネット作の『秘密の花園』である。18歳で家を出た時も、この本とは一緒だった。

 職業柄3~4年での転勤が余儀なくされていく中で、仕方がなく手放したのは、3回目の引っ越しの時だったように思う。この本とも卒業かと思ったことを今でも思い出す。

 そんな私と『秘密の花園』だが、読み始めてすぐに小学校1年生ながらに、主人公メアリーのわがまま振りに思わず

「こんな人いるの??」と首をかしげたのは、今でもよく覚えている。

 しかし、主人公メアリーは両親を亡くし、失意の中、自分のことをよく知らない場所へ行き過ごすことになるのだ。メアリーが、当時の自分とそう年が変わらないことを考えると

「かわいそうなメアリー。」と思ったことも嘘ではない。

また、そんなメアリーに対して

「自分がメアリーじゃなくてよかった。」とそっと胸をなでおろしたことも、鮮明に覚えている。

 小学校1年生の想像性と創造性は、馬鹿にならない世界観を作り出す。私は今でも読書が大好きであるが、どうにもこうにもあの頃の、瑞々しい感性には戻れないのである。私は、戻れないのにも関わらず、あの感覚的な記憶として残るその「感性」を取り戻したいから、読書をし続けているのかもしれないと思うことがある。

 お話の中で、メアリーは「花園」との出合いを果たす。当時小学校1年生の私は、そもそも「花園」自体を見たことがなかった。見た事がないのにも関わらず、まるで私はその花園で、メアリーと一緒に歩いているような錯覚さえも起こしていたのである。

 当時の挿絵は、白黒である。今振り返ると、白黒だから良かったともいえるのだ。この花はピンク色で、そして今しがた、もう一度風が吹いて、その風が私の手のひらを通り、かぶっている帽子を撫でるかのように通り過ぎていく。
 ページをめくるたびに、そんな想像(もはや妄想に近いのだが)をし、そのページごとの明かりが灯るかのように、自分だけの花園が作り出されていく。私はあの「感性」を一生忘れないと思うのだ。

 そして今。読書が教えてくれたことを振り返ると、読書は一つ、「没頭すること」を教えてくれたと思う。その世界にのめり込むということである。最近よく使われる言葉でいえば「ハマる」ということである。

 小学校時代の私は、暇さえあれば図書室にいるような子どもで、小学校4年生ですでに『二十四の瞳』に感銘を受けるような、大人臭い子どもであった。それは中学校に入っても変わらず、古臭い、湿気っぽい中学の図書室にもよく通った。(本にしてみたら劣悪な環境である・・・。)お化けでも出そうなその場所で借りた本たちに、私は心を救われた。

 ハリーポッターやロードオブザリング、そしてゲド戦記など映像化されて人気が出たものでも、好きなのは原作だった。文字を通しての作者や主人公たちとの心の交流を何よりも楽しんだ。

 そして読書はもう一つ、私に教えてくれたことがある。それは、勇気である。読書は私に勇気とはどういうものか、教えてくれた。これまで勇気を出さなければならない場面は、たくさんあった。勇気を出したから今、海外で働いているとも言えるし、勇気を出したからこのnoteをリスタートさせているともいえる。

 辛い時、悲しい時、どうにもならない時、私のそばにはいつも本があった。どんなに時代が変化して、私もそれとともに年を取っていったとしても本は、読書は、いつでもどこでも私の味方だと思えるのである。

 就職したてのころ、お金がない私にとっての癒しの場所は図書館であった。その町や市の住人であれば、無料で本を借りることができる図書館は、私にとっての宝箱だった。興味のあるジャンルの棚を端から端まで全部読み切ったこともある。
 できないことが読書を通じて、できるようになり、できていたことも読書によってさらに磨かれ洗練されて、自分を形作っていく。

 小学校1年生の私には、願ってもあがいても戻ることはできない。あの感性も取り戻すことができない。

しかし

 読書が作り出した、新たな私にはこれからも出会えるのだと思うと、これからも読書を続けたいと心から強く思う。

私の感性、ありがとう。そしてこれからも宜しくお願いしますね。

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