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江蘇省華西村にも見る諸行無常

地域経営の神「呉仁宝」氏の江蘇省華西村サクセスストーリーは、中国のみならず外国にも知れ渡っていました。

中共政府の生み出した幻想のように言い募る人もいますが、それが正しいならば、中国共産党は国内全域を幻想の華西村で埋め尽くすことが出来たはずです。政府の支援を受けたにしても、初期段階は自力更生であり、鄧小平氏の改革開放路線が懐疑的に見られていた時代に、宣伝用「成功イメージ」として扱えるレベルの成果は出していたと考えられます。

毛沢東氏の主導する経済政策が各地で惨状を呈していた時代、1961年から呉仁宝氏が村長を務める華西村も食うや食わずの日々。貧しい村民達のため、呉村長は党中央の指導とは異なる”本格的な”共産政策を始めます。

村の第一の問題は、広いとはいえない面積の農地。ここで皆が食える生産量を実現するにはどうするか・・・呉村長は、発電所と水路の修復を進め、技術の高いエリート農民30人くらいのチームに40haの耕作を任せます。食料生産効率を最大化して腹を満たす。ただ、これは党中央の生産請負制のルールである「世帯ごとに耕作地を割り当てるべし」には反します。そんなの関係ねぇ!村長は気合で無視したのでした。

でも、他の村民は何をする・・・考えるに、年に1回しか収穫できない農業依存では、”豊か”にはなれない。換金商品を常に生産できるのは「工業」。

呉村長の次の手は、金属加工(小さな金物)工場の建設でした。さらに、繊維工場も建設して、非エリート農民は工場労働者として働くことになります。

生産手段は集団所有とする。効率重視で役割を分担して、得られた富みは皆で分かち合う。呉村長の基本理念です。そして、1992年に鄧小平氏の南巡講話で改革開放路線が広まると、村長は工業拡大を仕掛けます。江陰市銀行から邦貨換算2億5千万円の借り入れを成功させ、建材の原料を大量に買い付けます。そのすぐ後、中国は工業化路線に突入して原材料費は爆謄。華西村は巨額の儲けを得ることになります。

1994年の時点で、華西集団と名乗る企業グループは45社の堂々たる実業団に成長します。この成功を時の政権は宣伝材料に使いました。党の指導を信じて頑張れば、こんなに裕福になれる。

暮らしぶりの豊かさから「天下第一村」と呼ばれ、全国から視察が殺到します。この動きに備えて、村長はホテル業を含む観光産業にも着手。視察兼美しい村を観光する膨大な来訪者におカネを使っていただきました。1次・2次・3次産業の同時展開で6次産業だ!と我が国の農林水産省が一時期騒いでいましたが、農産物直売所で米や野菜に加工品などを売って、体験農業のグリーンツーリズムを進めようといった話とは、規模感が全然違います。

後に、華西集団から資産の一部を切り出した株式会社「江蘇華西村」は1999年に株式公開を果たし、村民には戸建て住宅や高級車が無料で支給され、株式の配当で十分な暮らしができると宣伝されます。
全国の平均的な農民収入の42倍、都市労働者の13倍といわれた富裕村に成長したのですが、改革開放政策により外国資本が次々に流れ込んだ中国にあって、村をけん引してきた鉄鋼業や繊維業は次第に競争力を失い、凋落の道をたどり始めます。ただ、大成功事例に消えてもらって困るのは中共政府です。いろいろとテコ入れをして延命に努めます。

しかし、市場構造の変化が原因で衰退を続ける華西集団を支えることには限界がありました。後継者の能力不足や縁故主義の横行を難じる向きもありますが、時代の風を掴み取った天才の子が親を超える保証はどこにもありません。実際、後継者は不動産投資にド級の大失敗。結果、今年2月には村営企業に払い込んだ資金の返還を求める長い行列ができる騒ぎが発生。伝説はエンディングを迎えます。

華西村のサクセスストーリーの象徴は、村の中心にそびえ立つ高さ300メートル超の高級ホテル(2011年落成)には日立製作所が納めたエレベーターが稼働し、展示室(有料)には重さ1トンの純金製の牛の像。成金趣味全開の施設ですが、この先、どうなるのでしょうか。

現代の神話といってもよさそうな華西村物語に、地域の盛衰も企業の栄枯も人間の集団は同じようなメカニズムが働くのだな、と思った次第です。

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